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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
8/14

現象

 手帳を片手に鞄を方からぶら下げ、周りの音に負けじと顎に挟んだ携帯へ大声で話をしている中年サラリーマン。額に汗を浮かばせて、見えない相手に愛想笑いを送っている彼に、ご苦労さん、と心中で呟き通り過ぎた。悲壮に見えるのは、この人だけじゃない。夕方、品川駅のホーム。老いも若きもくたびた、営業回りの途中と思われる、黒や濃紺、スーツ姿のリーマン達が憂鬱な顔と肩から吹き出す溜息をどす黒い空気に馴染ませている。

 表向きは都心のマンションの一室。中身は、行けば必ず、五、六人の女の子が待機しているデリヘルの事務所。そこから仕事を貰って、もう今日はいいや。俺はあんたらから一抜けさせてもらう。そう思ってみても、まだ、もう一つ、乗り越えなきゃいけないしがらみが、これから帰る所、会社に待ち構えてる。どんよりとした空気から抜けても、どんよりとした気分からはまだまだ抜けられない。今だけ、もうちょっと仲間に入れてもらおう。俺は革靴の先辺りに溜息を落とした。

 顔を上げると、人混みの中に、また、あの人が居た。品川の馴染み客に寄って、この時間にこのホームに着けば、必ずと言っていいほど、あの人が居る。紺の仕事着とは違い、今日は薄紫のプルオーバーにデニムのロングスカート。年甲斐もない派手なピンクのカチューシャと地味な黒渕の度がきつそうなメガネは会社に居るときと変わらない。無愛想な事務員、久保さんは今日もここに突っ立っていた。パートで働く彼女はいつも俺よりも早く仕事を切り上げる。家はどこですか? 何て聞くほど親しくない。すれ違い様になら、お疲れ様でした、と同僚として挨拶ぐらいはしてやるのに、俺が下りて来た階段を上がって、とっととホームから改札に向かおうとしない。品川に住み家はない様子だ。でも、今、ホームに入って来た内回りの電車に乗らない。仕事帰りに、会社がある五反田方面に向かう外回りの電車に乗って、わざわざ引き返すとも思えない。仕事後のクールダウンなら、落ち着いた音楽を聞きながらコーヒーを啜れる、駅前に洒落たカフェがいくらでもある。忙しい足音と電車のブレーキ音、こんな騒音だらけの、落ち着きようがない場所で、今日も彼女は胸元で両手を重ねて向かいのホームを眺めている。

 俺は彼女に気付いているが、彼女は俺に気付いてない、もしくは、気付いてないフリをしているだけかも。こんな所で何してるんですか? 声を掛けるほど親しくない俺にとってみれば……どっちでもいい。だから、今日も何もしないまま、彼女から距離を取って、そっとしておく。

 ホームにベルが鳴り、外回りの電車が入って来た。帰ろ、と黄色い点字ブロックの手前まで運んだ足元に、帰れば……社長、オヤジに結婚の報告、また憂鬱な溜息が落ちた。放っておいても、どうせバレる結婚。帰るにはちょと早いか? まだ明るい。どんな感じで報告するか、考えてから帰っても遅く……ない。重い気分が時間を止め、プシューン、開いた電車の扉に足を進ませない。後ろから前から、棒立ちの俺を、乗る人、降りる人、大勢の人が通り過ぎた。プシューン、扉が閉まった。

 式は? 新居は? と社長の、暇を玩ぶ高齢者特有のお節介からは、「仕事が落ち着いてからでも…」とか何とかごまかして逃げれるが、結婚の相手が客の店で働いている女だと知れば、さすがに「何?」と顔面蒼白になるに違いない。小池さんは何食わぬ顔で許してくれた。でも、社長はルールを破った俺に何て怒鳴りつけるか。クビ? 仕方ないだろう。そこからは、逃げれない。

 これが最後の挨拶になるかもしれない。明日来て、社長から「あの恥晒しはクビにした」と知らされる前に、声ぐらい、最後に掛けてもいい。最悪の直前。会社に帰る躊躇が普段取らない気晴らしに俺を向かわせようとしていた。ホームに溢れ、流れる人波に逆行して、俺は久保のおばちゃんに近付いた。我先にと混雑から脱したい、殺気満ちた群衆の中、俺一人の気配に気付いてない彼女は前を行く人の流れが邪魔なようで、背伸びをし、右へ、左へ、上半身を振って向かいのホームに目を向けていた。

 人波が止んだのを見計らって声を掛けた。

「お疲れ様です」

 仕事後で、口紅が薄くなっている所為だろうか、「あっ」と口をぽかーんと上けた久保さんの顔は朝よりも白く、やつれて見えて、おはようございます、という極めて日常的な挨拶でも、口元を片方だけ吊り上げて、ふっ、と鼻で笑うような非日常的な返事をする、無礼、無愛想な印象はなかった。

「お疲れ……さん」

 目を伏せて言った彼女はまた向かいのホームに顔を向ける。

 声を掛けたのはいいが、それから言葉が出てこない。仕事中、客と携帯電話を相手にするとき以外、久しぶりに愛想笑いを浮かべた。彼女の横顔を見た。眼鏡の隙間から悲しい目を覗かせている。この人もまさか現影を? 自分に時たま起きる現象が頭を過った。まさかね、考えすぎか、と苦笑いした、そのときだった。何かに引き込まれるように、彼女がぐらっと前によろめいた。

「久保さん!」

 ホームの端にはまだ距離があったが、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。

「えっ?」と俺を見上げた彼女。ずれたメガネを隔てた、その表情は明らかに呆気に取られている。

「あっ、いや……」

 慌てて、手を離した。

「何か……立ち眩みされたように見えたんで」

 線路に身投げしようとしてたでしょ? とあくまでも想像の範囲のことは言えない。

 口を押さえ、くくくくくっ、と彼女は声を殺して笑った。この人、笑えるんだ。

「まだ、そんな立ち眩みするような歳じゃないよ」

 途端に、変な想像から過剰反応した自分を恥ずかしく感じた。

「すいません」

 ばつ悪く首を擦って浅く頭を下げる。タイミングよく外回りの電車が入って来た。

「じゃ、俺……会社戻ります」

「今日、奥さん……」

 はあ? 奥さん? 久保さんに振り向いた。

「会社来たよ。社長に挨拶してた。できた奥さんだね。ついでに、結婚届、奥さんに書いてもらったから。本当はあんたが書かなきゃいけないに、ちゃんとしなさいよ!」

 会社に居るときの厳しい口調と目付きになった彼女。呆然とする俺の頬に、電車が吹かす風が当たる。社長の激怒した顔が嫌でも浮かんだ。



 目の前に車が行き交う、まだ赤信号の交差点。あたしはゆらゆら、吸い込まれて……行った。


 まだ完全に荷ほどきでできてない、マンションを引き払うときに送った私の荷物とホームセンターから配送されて来たガスコンロや布団等々の段ボールが、これ片付けに相当時間掛かりそう、玄関横の狭い台所に山積みになってる。

「言ってらっしゃい」

「これ、俺がぼちぼち片付けるから。それと……今日、小池さんに挨拶しに行く。じゃあ」

 そう言い残しただけで、透は急ぎ早に部屋を出て行った。

 全裸で起きて、適当に着けたキャミとパンツ姿のままで居てあげたのに、何? キスはなしなの? まあ、いいや。尖った唇はすぐに和らいだ。昨日は一日中、新婚カップルらしく、部屋に籠もって……。あいつ、疲れてないかな? 遅すぎる気遣いが、まだ体にその余韻を残すあたしを思い出し笑いに誘った。

 旦那はあたしの店に挨拶。なら、女房であるあたしは旦那の職場へ挨拶行く……べき? どうなの? 聞いてみよっか。

 朝ごはんの片付けが終わって、台所からテレビがつきっぱなしになった畳の部屋へ戻る。寝癖が残る髪をいじりながら携帯を鞄から出すついでに、ヘヤバンドも。あたしが腰を下ろした布団のそばに転がる目覚まし時計を見れば、八時を回った所。まだ早いね。壁に背中を付け、両足を重ねると、携帯を畳の上に放り出した。

 透が居なくなった部屋を眺めた。カーテンの隙間から入る光に照され、埃が舞っている。荷ほどきが終われば、もっと汚れそう。毛先が裂けてボロボロになった(ほうき)一本だけじゃどうにもなんない。掃除機要る。テレビや洗濯機はとりあえず、これとあれでいいにしても、ついでにオーブンレンジも欲しい。体を布団に横倒しにして、今日、店行く前に新宿の電気屋さんに寄ろ、と枕を抱き寄せた。夕方からの仕事には、まだまだ時間がある。透より私が疲れてるかも。リモコンでテレビを消すと同時に瞼を閉じた。


「起きてる? ナナちゃん」

 疲れを取って鋭気を養っておこうと爆睡するあたしを、枕元で鳴る携帯が起こした。

 布団からばたつかせた手に引っ掛かった携帯に出ると、あたしが今朝連絡しようと思ってた相手、オーナーの小池さんからだった。

「起きてまーす」

 寝ぼけた声。布団から抜け出し、頼りなく、ふらふら、テーブルへ這って行き、タバコに手を伸ばす。

 透が店に来て、凄く緊張してた。そんなようなことを小池さんが言ってるように聞こえた。

「キャハハハハ!」

 寝起きを襲う、右耳から左耳に貫通するような甲高い笑い声に堪らず、携帯を耳から離す。鎮静剤はこれしかない。タバコに火をつけた。

「それでさあ…」

 まだ続く小池さんの話。胡座をかき、指にタバコを挟んで、もう分かったから、気だるさをテーブルについた頬杖に乗せた。

「最高に可愛かったわよ。透ちゃん。いい旦那さんねえ」

 終わったみたい。あくびが出る。話してもよさげな間を貰えそう。

「オーナー。色々とありがとうございました。それで……ちょっと聞きたいことがあるんですけど……」と私も透の会社に挨拶行くべきか尋ねてみた。

「そりゃそうよう。ナナちゃんも顔出しておかなきゃ」

 やっぱり顔出すのが常識だったみたい。

「じゃあ……すいませんけど……」

 小池さんから教えてもらった、透の会社の住所を携帯ナビに打ち込んだ。ナビの地図で示された会社の場所は店からそんなに離れてなかった。五反田の駅から歩いて行ける距離。目覚まし時計は十二時を回っていた。これなら、今からシャワー浴びて、化粧して、新宿で買い物した後、出勤前に寄れそう。


 黒のスーツに白のインナー。亭主の会社に行くんだから、さすがに派手なジャケットとミニスカ、刺繍入りのパンストでは具合が悪い。店でやり直せばいい、と化粧も薄めにした。菓子折も準備できたし、あとは主婦らしい落ち着いた笑顔で化けよう。

 五反田駅を出て、信号待ちの交差点。ここを越えて……と携帯ナビを見ていた。

「あんたなんて……」

 また、あの声が聞こえた。携帯の画面が黒くなる。あの怖い顔がそこから現れた。何で、まだ付き纏うの? 持つ手が震える。車の行き交う音、周りのざわめきが、あたしの呼吸と心音に消された。透との新婚初夜、夢の中にも、あんたはあのときの、怖い顔で出て来た。何で、あんたは今みたいに優しい顔になれないの? 来ればいいわ。戦ってやるから。もう……一人じゃないんだから。吸い込めるもんなら……。

「ちょっと!」

 気が付けば、見知らぬおばさんに腕を掴まれていた。

「まだ赤よ」

 以前は、踏み切りでこんなことがあって、こうやって知らない人に助けられた。

「すいま、すいません。何か、ぼーっとしちゃって……」

 信号が変わり、誘導音が鳴り始めると、そのおばさんは笑顔を残して横断歩道を渡って行った。

「すいません。何か、ぼーっとしちゃて…」

 あたしは同じこと繰り返し呟き、ぼーっとそこに立っていた。



 もう作戦なんてどうでもいい。あんなに山手線の電車が遅く感じたことはない。計算外が重かった足を速く前に進め、五反田駅の改札を抜ける頃、それは小走りに変わっていた。

 ベージュのビルに着き、階段を二段飛ばしで駆け上がり、その勢いを落とすことなく薄いドアを開けた。

「社長!」

 窓に向いていた社長が振り返った。

「よっ! 早かったな」

 俺は中腰になり息を切らし、顔に汗を垂らす。

 このオヤジ、笑ってる? さっきまでタバコを吸ってたんだろう。天井に煙の膜が薄く張られている。

「何、慌ててんだよ? 透」

 肺から溢れかえる息を無理矢理に呑み込んで体を起こし、乱れて緩んだネクタイを上げながら社長の机に寄った。

「明日香……あっ、いや、家内のこと……すいませんでした」

 深々と頭を下げると、頭上から社長の笑い声が聞こえた。腰を折ったまま、顔だけを社長に上げた。

「何、謝ってんだよ? 結婚だろ。めでてえこっちゃねえか」と社長は顎髭を撫でた。

 確かに、結婚自体はめでたい話。式は? 新居は? この際、お節介焼いてくれても結構。問題なのは、俺が結婚した相手だ。

「あの…」

 ゆっくり頭を上げ、家内のことなんですけど……と事情を説明しだすと、社長は「小池から」とそれを遮った。

「電話あってよ。『パパちゃん。怒んないで、二人を祝福してあげてね』って可愛い声でよ。で、おめえの嫁さんがこっちに挨拶来るから宜しくって。今日来たよ。明るくてはきはきして、美人なカアちゃんじゃねえか」

 小池さんが? 天井に向かって吹き上げた息が煙の膜に穴を空けた。

 でも、ルール破りはルール破り以外の何物でもない。俺は顔を下ろす。

「社長。俺は、この業界の人間として…」

「透」

 また社長に言葉を遮られた。

「俺はこの業界で五十年飯食ってる…」

 社長から笑顔は消えていた。まず、傾聴しよ。下手な言い訳はその後だ。

「五十年……色んなことがあった。俺の死んだカミさんの話、してなかったよな。俺と出会った頃、カミさんは川崎のソープで働いてた。五十年……色んなことがあった」

 顎髭を撫で回す、その皺だらけの笑顔。下手な言い訳なんてできるわけなかった。


 ネオンが一つ、二つ、次々に消えて行く。客足ももう殆ど消え失せて、閑散に近付こうとしている五反田の風俗街に初めて来た。今夜はお土産あるんだよ。奴は、あの猫は姿を見せなかったが、ポケットから出した干物のパックを食い千切り、露路に投げ入れてやった。

 迎えに行くよ。明日香にメールを送った。

 わかった。忙しくしてたんだろう。一言だけ返って来た。

 馴染み客であっても、店の真ん前で女房を待つのさすがにまずい。他の女の子が出て来たらここに隠れよう。少しだけ離れた、この露路の前で待つ。

 肩に鞄を掛けた明日香が店から飛び出して来た。あれ? どこ? みたいに辺りを見回してる。ここはちょっと暗かったようだ。俺に気付かない。タン、タン、と鳴らした舌は思ったより響いた。明日香が俺に気付き、鞄を背中に回して駆け寄って来た。

「待った?」

 相変わらず、しゃがれた声。

「いや」

「嘘。待ってたはず。もう十二時過ぎだよ。会社、何時に終わったの? 」

「十時頃まで残業してた。あとは駅前のカフェで時間潰しさ」

「やっぱり、待ってたんじゃない」

「だな」

 二人とも、俯いて笑った。


 あたしは透を見つめた。

「来てくれて……ありがと」

「俺のほうこそ、会社に来てくれてありがとう。美人で明るくて、はきはきしてていいカアちゃんだなって、うちの社長がおまえのこと褒めてたよ」

 含み笑いで目を左右に散らして、誉められた照れ臭さをごまかしていると、透が暗い所にあたしを引き込んだ。重なる二人の唇。今日、何人もの、男のものをくわえて汚れきった唇を、透は激しく求めてくれる。

 あたしが失いたくないのは、あなただけ。全てを無くしても、あなただけは失いたくない。もう……何も残らない女じゃない。もう……風俗やる必要ない。やりたくない。暗くて深いとこでしか生きる術がなかったあたしを、あなたが救い出してくれた。絶対に泣かないって決めてたのに……。

 夢中で透に、あたしの夫にしがみ付いた。


 奴が、あの猫が今頃になって、足元に絡み付いてきやがった。

 今、露路には、二人で居る。

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