人が通る
カウンターの中からではなく、左隣にある従業員以外立入禁止と書かれたドアから、小池さんは出て来た。早々に殴られる、と目をつぶったが、頬には固い拳の衝撃ではなく、柔らかく微妙に湿り気のある、何やらチクチクした棘のようなものに擦られる違和感を得た。おまけに、恐ろしく弾力性のある、マシュマロのような異物が俺を身動きできないようにしている。
「おめでとーう」
生暖かい弱音が耳を擽り、息苦しさに我慢できず俺は目を開け、ようやく、オッサンの巨体に抱擁されていることに気付く。
「こ、小池さん……」
肺も圧迫されていたので、声も出しにくかった。
「カカカカカカ!」
俺を解放したオッサンは口に手を被せて不気味に笑ってやがる。唖然として鞄を抱えていると、「こんなとこ突っ立ってないで、中入ってよっ」とオッサンは俺の腕を引いた。
従業員専用のドアから店の事務所に引っ張り込まれた俺は、店の外じゃ、まずいからここでやられんのか、とおどおど、警戒心を捨てきれない。
「座って座って」
オッサンが俺の肩を押してソファーに座らせる。
オッサンとの付き合いは長いほうだが、いつも、商談はカウンターを挟んで。事務所に入ったのは初めてだった。
「ちょっと待っててね」
「あっ、小池さん」
呼んでも、振り返らずにオッサンは事務所から出て行った。
鞄を抱えて謙虚に座る、隅のソファーから眺める事務所は思ったより窮屈。壁は防音処置をいていないようで、BGMの騒音が、どうぞ、と店員に出されたお茶の表面を微かに波打たせていた。
事務所の真ん中には、向かい合わせに並べられた事務机が二脚。うち一脚にノートパソコンが置かれている。壁には、店で働く女の子達の名前が書かれた、出勤表と見られるホワイトボードが吊るされ、今まで雑誌やサイトに掲載された彼女達の写真がべたべた貼られていた。
彼女達の写真を、溜息をつきながら端から順番に見て行く。明日香の写真で目が止まった。世間の亭主なら、派手な化粧をしセーラー服の襟元を見せて微笑む我妻を見れば、ふざけるんじゃねえ、と目を背けるだろう。しかし、俺はここでも世間一般とは真逆。鞄を抱く両手に力が入り、改めて、申し訳ない、オッサン、いや、小池さんの出入り業者としての罪意識に駆られた。
「お待たせっ」
帰って来た小池さんの大きな背中から、身長にして百五十センチもない小さな女の子がピョコンと横に跳ねて姿を見せた。髪は黄色のリボンでツインテールに括り、あの日、ここで会った明日香と同じ、シースルーのセーラー服を着ている。
「うわ! ナナたんの旦那ちゃん。思ったより格好いいね」
体をくの字に曲げ、顔を突き出す彼女に、あっ、あっ、と困って目を左右に揺らし、俺は「どうも」と会釈した。
この子……。前に雑誌かサイトに掲載したことあるような、ないような。この五反田だけじゃない。新宿や池袋、数えきれない店から、今週はこの子、来週はこっちの子、と各媒体に載せる写真を大量に預かる。ルートセールと言えば格好はいいが、実際は、内へ外へ山手線をぐるぐる、殆ど流れ作業のような仕事。いちいち、写真に映る女の子、似たり寄ったりの顔なんて覚えてない。
「こらこら、ルルちゃん。ナナちゃんの旦那さんに失礼よ。ちゃんと挨拶しなさい」
小池さんが彼女の肩を引き寄せた。
「ナナたんと旦那ちゃんの結婚の証人たんになりました。ルルたんです」
やや舌足らず、というか、やや抜けた口調の彼女は「よろちくー、イェイッ!」と俺にピースし、まだ鞄が胸から離れない俺は立ち上がり、彼女に釣られて「どうも」と静かにピースを作った。
「ハハハハハ! ルルちゃんも私も、ナナちゃんから婚姻届見せられた時はびっくりしたよ。夫の欄に透ちゃんの名前見て、更にびっくり」
また視線が左右し、爪先辺りに落ちる。
「小池さん……今日は証人になって下さったお礼と……お詫びに来たんです」
引いた顎はそのまま、恐々、目を上げた。
小池さんとルルたんがお互い、キョトンとした表情で顔を見合わせる。まるで太った妖怪と小さな女の子。昔見たアニメのワンシーンみたいで、思わず笑いそうになったが、必死に奥歯を噛み締めた。
「お礼は分かるけどさあ……何で、透ちゃん、謝るのう?」
目を見開く小池さん。顧客の商品に手を付け、殴られるだけでは済まされない仕置きを覚悟していた俺にとっては意外な言葉だった。
「あっ、あの……明日香、いや、ナナさんは……御店の従業員さんでして……私が……その……」
鞄を握り締め、言葉に詰まっていると、小池さんがルルたんの肩に腕を回し、寄り添った二人がクスクスと笑いだす。
「他の店はどうか知らないけどさあ。うちは自由恋愛なのよう。そりゃ、この子達がワケ分かんない男にかき回されたら、私が体張るけど、相手は透ちゃんじゃない」
オーケイオーケイ、と顔の前で手を払い、小池さんは意に介さない。
表向きは、いい男ぶってますけど、実は俺もそのワケ分からん男の部類なんです、と正直に言える状況じゃない。ここは、「いやあ、そんなあ」と苦笑いで首根を擦りながら、小池さんの過大評価を超えた勘違いに甘えておいたほうが無難。
「そだよ、旦那ちゃんが謝まっちゃたりすることないない。もし、オーナーが反対ちても、ルルたんがナナたんと旦那ちゃんの見方だからね。だって…だって…」
ナナたんは急に顔をくしゃらせた。
「ナナたんと旦那ちゃんはこんな、こんなルルたんを…証人たんにしてくれたんだもん」
そして、ついに、アッハーン! と大声で泣き出した。
「もっ、もうこの子ったら、しょうがない子だねえ。ほらほら、部屋に戻ってお化粧直してらっしゃい。お客さんに泣き顔見せちゃ失礼だからね」
小池さんはルルたんの背中を擦り、よしよし、とあやしながら彼女を事務所から連れ出した。
まだ立っていたほうがよさそうだ。喉が激しく渇いてるのに気付き、テーブルから湯呑みを上げてお茶を啜る。湯呑みをテーブルに戻すと、肩の張りにも気付き、鞄をソファーへ下ろして首を回した。
戻って来た小池さんは打って変わって、真摯な顔付きだった。
「透ちゃん……」
小池さんはソファーに座る。
「はい……」
俺も腰を落とした。
「あの子、ルルは見てのとおり、世間では通用しない子。こういう店でロリータマニアの男にしか通用しない子だよ」
そうですね、と同調していい話といけない話がある。営業マンとしての節度が、ここはいけない方だと判断させた。俺は口を固く閉じてテーブルを見る。
「そんなルルを……ナナちゃんはあえて結婚の証人にしてくれた」
上がった視線。小松さんは天井を見ていた。
「あの子、訳分からずに、『あたちが証人たん、あたちが証人たんなんだよ』って大はしゃぎよ。ナナちゃんはとっても優しい子。透ちゃん、ナナちゃんを守ってやってよ」
テーブル越しに突き出して来た小松さんの顔を気味悪く感じなかった。
「はい。俺……あいつの亭主ですから」
ネズミの尻尾のような目。こんなに愛嬌があったとは。
「でも、いいの? 女房がこんな店で働いて」
もう安心、というか、取り越し苦労とはこのことと笑みがこぼれる。
「あいつの希望ですから。今日は午後からの出勤みたいで……」
宜しくお願いします、と頭を下げて亭主風を吹かしてみたが、まだまだ結婚した実感なんてなかった。
ネオン街を抜けて振り返る。小松さんの店はもう見えない。
帰り際だった。
「これ、お祝いね」
「いやいや、それは」
両手を振って拒んだ。
「いいからっ」
強引に小松さんから内ポケットに入れられた封筒。立ち止まった交差点で、中にふっと息を吹き込んで覗く。万券が…五枚。嬉しくない。とんだ邪推から誤解を生ませ、良い人を悪い人に仕立てた。罪悪感が自己嫌悪を招く。こんな勘違いは二度や三度じゃないかも。その袋で額を打っても、何も知らない群衆は青信号を知らせる誘導音に無数の足音を交差させていた。
人が通る、通る。
純金ではない、景気が悪い中で、どう見ても金色のメッキに覆われた奴ら。甘ったるい、一時的な狂喜を虹色に染められた真夜中に叩きつけている。静かにしろ! 無駄なことを叫びたくない街、新宿歌舞伎町。目的地はすぐそこだ。三百六十度から襲い来る不穏をゆらゆら通り抜け、人混みが穏やかになった劇場前の広場に着く。ベンチにへたった。肩を揺らして呑気にリズムをとる外国人に頭を寄せ合ってラブホ街へ消えて行くカップル。派手な衣装と濃い化粧、キャバクラ嬢風の女は、汚く掻き立てた長い髪と不気味な浅黒い顔、くどく言い寄る客引きのホストをツンと無視してヒールの音を響かせてる。ふふふふふっ。ネクタイなんてもう必要ない、薄汚れたスーツの襟元と袖口、ズボンからはみ出たシャツも気にならない俺の前を、人が通る、通る。
三ヶ月ほど前までは六本木にある高層ビルが俺の仕事場。調子はよかった。営業に出向く先々で、よくテレビに出てる社長さんのとこの会社ね、と俺の名刺を見ながら尋ねてくれる客。なら、とりあえずこれだけ、最後には八桁の数字が並ぶ小切手を預けられるのもざらだった。何がベンチャーファンドの旗手だ。調子に乗ったバカ社長はインサイダー取引で挙げられた。これは間違いないです、までなら俺はセーフだっかも。しかし、俺もそんな社長と同じで……調子こいてた。うちには間違いないと確信できる情報網があります。今から投資しようとしてるこの会社、実はねえ、と行く先々で吹いていた。だから、営業成績ナンバーワンだった俺は社長の片棒担ぎと見なされ、手配された。
「おまえは期待の星だ」
一流と呼ばれる大学を卒業して、あの手この手で稼ぎもあった俺は高級外車をプレゼントしてやった親父からそう言われた。インサイダー並びに詐欺罪で指名手配。そんなレッテルが貼られても、期待の星である俺は捕まりたくなかった。
入れ込んだ女を捨ててまで、東京から離れて逃げ回った。でも、疲れ果てた。どうせ捕まるなら、クソ田舎まで逃げ込んでいた小心者と思われたくない。ここに帰って来た。そんな最後のプライドはあるが、自首します、と出頭する勇気がなく、まだ過去を棄てきれない俺は……どちらにせよ小心者。これで頸動脈をかっ切ってやろう、アーミーショップで買ったナイフはホテルの部屋でぼーっと見つめるだけのもの。そう、俺は、ふふふふふっ、小心者。
誰か通報しろよ。
ビジネスホテルを転々とし、こんな感じでへたばるまで街を歩き続けたが、俺に、指名手配犯の俺に誰も気付きはしない。ほら、そこを通る警ら中の警察官も俺に見向きもしない。この国は何て平和な国なんだ。呆れて一人ニヤニヤしても、俺の前を人が通る、通る。
「もう引っ越されましたよ」
苦し紛れに叩いた女の部屋。隣から出て来た中年女がそうほざきやがった。
また朦朧とするか。あれがなけりゃあ……朦朧は得られない。
「兄さん、困るんだけどなあ。こんな防犯カメラだらけの所に呼び出されちゃ」
ドクロ柄の黒いTシャツの袖口を張り裂くような太い腕には炎の形をした刺青、唇と鼻にピアスをし、迷彩色のキャップを逆さに被る、髭面の男。
闇雲に入った二丁目のバー。この男は項垂れて痛飲する俺の隣に座り、「兄さん、これサンプル品なんだけど……」と真っ黄色のカプセルを俺のグラスの横に置いた。
東京に舞い戻って来て、初めて声を掛けられた。人恋しかったのかも。へらへら、笑いながら俺はそのカプセルを舌に乗せて、グラスの酒と一緒に呷った。瞬時だったと思う。レゲエ調の曲が俺を横ノリにさせ、次第に、ぐるぐる、脳みそを掻き混ぜた。赤と青の安っぽい照明の中に並べられた酒のボトルも歪んで、マーブル模様に回った、回った。
「気に入ったら、連絡くれよ」
どうやってホテルの部屋に帰ったか、覚えてはいない。でも、忘れられた。次の日、激しい頭痛に襲われたが、全てを忘れられた。ドクロが胸ポケットに残した名刺。その番号が全てを闇に葬れる入口になった。
「とにかく……車行こうや」
ドクロと一緒に立ち上がった俺の足元に、ちぎれた雑誌のページが風に吹かされて絡み付いて来た。振り払おうと、上げた足が止まる。
視野も、時間も、行き交う奴らの足音も止まった。
そして、油と靴跡で汚れた、そのページを、俺はポケットに突っ込んだ。
「何、やってんだよ? 一発抜きてえんなら、俺がいい店紹介してやるよ。行くぜ」
肩に手を回すドクロ。ベンチを離れた。
見つけたよ、明日香……。おまえだけは忘れられない。