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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
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しがらみ

 通勤電車が吐き出す人波に乗り、ホームを降りる。騒然とした駅は今日も灰色。緑に濁る川に沿い、頭より足が覚えている会社にたらたらと近付くにつれて見えて来る、くすんだベージュ色の雑居ビル。一階にはいつもの老婆がコインゲームを楽しんでいる。いつもと変わらない会社までの風景と過程。ただ、会社へ上がる階段がいつもより長く、そして、一段一段、上げる足が重く感じた。

 三十になる前に一度は経験しておいても別に害はない。失敗すれば、また一人に戻ればいいこと。今日び、バツイチなんて珍しくない。それには、『相性より金』とごく一般的な打算を結婚に対して抱いている女ではダメだ。あんな女がいい、と悪くなる前提を考えて明日香を選んだのかもしれない。しれないと、いうかあ、きっとそうだ、と言い切っていいかも、しれない。でも、少しだけ、長生きしてみたかったのも事実。最近の俺は、死に誘われている。自分でも分かる。色んな人間をカウンター越しに見て来た、あかねさんは俺のそんな死相を見抜いた。そして、明日香の軽快さも、きっと見抜いた。俺が酔った弾みで言った「結婚してくれ」を真に受ける軽率な女であることを、同じ女として、あかねさんは分かってた。しかし、分からない。明日香が、なぜ俺を助けてくれる女なんだ?

 俺がそう疑問を投げ掛けても、あかねさんは「すれば…」とグラスのバーボンを飲み干して、乱れ髪を耳に掛け、「分かるよ」と立ち上がり、俺の疑問を振り払うかのようにカウンターに戻った。

 ことこと煮立つ関東煮の湯気が左右から巻き込む、その後ろ姿が妙に哀しく映ったから、俺は彼女を信じたのかもしれない。

 でも、長生きねえ? それは違うかも。長生き、というのは、幸せに溢れ、未来に希望を持っている人が一日でも長く生きたいとの願いを込めて使う言葉。俺の場合は、殺されなくない、と言った方がいい。あんな女に……殺されたくない。

 しかし、もっと静かに生きたかったなあ、と会社のドアの前で押し上げるネクタイはゆっくり。

 俺がその辺に寝転がってる奴にでも金払って頼み込んでもよかった。そこまで役所が調べなければ、適当に偽名を書けた。結局、やらかした。できれば、内密な結婚にしたかったが、逃げられそうにない。


「証人の記入忘れてたよ」と味噌汁を椀から啜る前に、明日香は言った。

「証人?」

 味噌汁を箸で掻き混ぜながら白々しく語尾と視線を上げた。

 婚姻届に証人欄なるものがあり、役所に提出の際は、証人二人分の署名、捺印が必要と書かれていた。生まれて初めて見る婚姻届を隅々まで読み、途端に困った。あかねさんには頼めそうだが、あと一人は? 社長? もし、あのお節介好きの社長に頼めば、必ず、「結婚式はどうすんだ?」と来る。

「明日香……結婚式は?」

 椀から口を外し、箸を持った手の甲を口に付けて、くくくくっ、と明日香は細い肩を揺らし、吹き出すのを我慢してる様子。苦しそうに味噌汁を飲み込むと、ごほごほ、咳込んで自分の胸を拳で叩いた。

「いいよ、そんなのさあ。気遣ってくれんのは嬉しいけどさあ。あたし、そういうのが似合う女じゃないんだよね」

 俺も、そういうのが似合う男じゃない。式に来てくれる友達もいないから。

 次に社長は「新居どうすんだよ?」と言うだろう。

「新生活は……どうする? ここじゃあ……」

「ここで何が悪いのう?」と明日香は箸を浸けた椀から味噌汁を啜る。

 陽当たりは至って悪く、薄い壁はプライベートも薄くさせる、電車の騒音が朝早く揺らす部屋でも、敷金、礼金、引っ越し代に掛かる大金を考えれば我慢できる。

 一番怖いのは、社長の「で……どんな女なんだよ?」という言葉だった。

 結婚率が低下し、少子高齢化の時代に結婚して子供作って、この国の人口増加に協力してやるのに、なぜ証人がいるんだ? 俺みたいに放って置かれるのが好きで、証人みないな役目を果たしてくれるような人間が周りに居ない奴は結婚できないのか? 疑問を超えた憤りを感じ、もし明日香がこれを出して、役所から突き返されたら、「そんな、一人ぼっちが好きな人が何で結婚するんですか?」と言われそうだが、俺が文句付けに乗り込んでやる、と一人で意気込み、このテーブルの上で三文判を婚姻届に押した。

「区役所に出す前に、あたしの方で、頼んで書いてもらったから。証人二人」と細い眉を上げ、どおってことない話と言わんばかりの鼻歌を交えて味噌汁を啜る明日香。一個人の事情で、国がルールを変えてくれるはずがない。役所なんかに逆らっても時間の無駄だと、彼女はよく分かっていたに違いない。そんな柔軟な女だから、この結婚話に乗ったのだろう。

 俺には証人を頼めるような友達がいないが明日香にはいる。それでいい。友情ではない、俺が唯一持つ、しがらみ、という、頼みづらい義理を利用しなくて済んだのだから。

「我ながら、美味しかった」

 明日香は空になった椀をテーブルに置いたが、箸で椀の中をくるくると回し、時々、ちらちらと明日香へ目線をやる俺はまだ半分も味噌汁を飲んでない。

「それで……誰に頼んだの? 証人」

「小池さんと店の女の子」

 うわ、来たよ。

 俺達の業界にも暗黙の御法度がある。客が経営する店の女に手を付けることが、どれだけの罪になるか。店に客として、さくら的な応援、売上協力という名目で行くなら大歓迎されるが、成り行きはどうであれ、店外はまずい。それも、そっとしてほしかった、強いて言えば、内密にしておきたかった一番の理由だった。しかも、明日香は売り出し中の子。今はどうでも、先々、結婚を理由に店を辞められる可能性があることは誰にでも察しがつく。その相手は決して安くない宣伝料を払っている男。俺がオーナーなら、ふざけるな、だけでは済まさない。さすがにあのオッサンも……ただでは済ましてくれない。

 面子潰された社長も怒り狂う。だから、式は? 新居は? 挙げ句、今度、アカチャン紹介しろ、とほざくだろう社長に、自分の会社が出す広告に載る明日香との結婚は秘密にしておいた方がこの上ないと思った。でも、こうなれば、小池のオッサンから社長に話が行く。俺が会社をクビになる前に、オッサンと店の従業員達からボコボコだ。殺されるかも、でも、いいよ。あの女に殺されるんじゃないから。俺は味噌汁を飲み干し、カーテンを透かす、昼に近くなった日差しに顔を上げ、逆に諦めがついて気分が晴れた。

「布団は……もう一組あるんだけど…」

「なら、それでいいんじゃない?」

 寝癖だらけの頭を更に掻き乱す。正直に話しても、差し支えない。

「去年の中頃……別の女が寝てたからな」

 雰囲気と匂いを察知する女の鋭敏さを舐めちゃいけない。長年の経験から分かってた。後々、バレたときの、目を細めて鼻先で相手を威嚇する、女の手に負えない陰湿も分かっている。先手必勝。それが、その経験から生まれた知恵だった。


 思ったとおり、正直な奴。不自然に、ひた隠しにするより、さっぱり言ってくれた方がいい。

 大体、一人暮らしの男がお味噌汁用のお椀なんて揃える? 今は寂しいキッチンだけど、カセットコンロが置かれているコンロ台にガスコンロが置かれていた油の跡がびっしり残っている。その彼女は大きいものは取り去っていって、わざと痕跡を残しておく、嫌らしく、執念深いタイプだったんでしょうねえ。ペアのお茶碗、お椀やマグカップはそのまま。透は証人探すのも面倒臭がる性格。残骸を捨てるのも面倒臭かったんだろうねえ。あの朝、透のともう一本、洗面所のカップにいれっぱなしなっていたピンクの歯ブラシ。女用みたいだから、これ借りよう。鏡に向かって歯磨きする、すっかり化粧が落ちた素っぴんのあたしも同棲ぐらい経験あった。

「そうだねえ。わたしも昔、男と使ってたベッドなんか処分して来たし。この際、一層しゃおうか?」

 透に腕を組んで見上げる。

「そうだな。そうしよ」

 笑顔のさっぱりに、透は同じような笑顔のさっぱりで応えてくれる。同じだ。ここに来てよかった。少しずつだと思うけど、あたしのことも話せそう。


 嫌というほど、溢れ返える人口密度地帯で、惨たらしいく掻き回される平日からひっそりと逃れる週末。起きればすぐに冷蔵庫から缶ビールを引っ張り出し、何気につけるテレビにぼんやりと目をやる。途中に昼寝を挟みながら飲み明かし、カーテンを透す日が無くなれば、起き上がり、部屋を出て、欠伸やげっぷを吐きながら階段を下りて近所のスーパーへ酒と食料を買いに行く。平凡だが、一人でのんびりと充電できる休日が、今、一緒に電車に乗っている明日香に奪われるとなると、少し寂しい気がする。私鉄を乗り継いで行く先は郊外のホームセンター。二人で初めてのお出かけだ。

 電車のカタコト響く振動か、微かに頭を揺らすいびきの所為か、居眠りする年寄りが落とした帽子を向かいの席に座っていた俺は立ち上がり、拾って膝に置いてやった。帰り際に、目が合った明日香と小さく笑い合った。寄り添って、ひそひそと額を合わせるカップル。お父さんとお母さんの間で両膝をシートにつき、後ろ向きに座って窓から景色を眺める小さな子供。

 朝、呼吸困難になるほど圧迫されて仕事に向かい、又、勤務中は周りなんて気にせず、先にある仕事をひたすら追い求める。電車というものが、そんな護送船でしかなかった俺にとって、休日の車内が周りに居る人達の表情を観察できるほど余裕を持たせてくれるなんて、知るよしがなかった。

 隣に座る明日香とは、まだ会話がない。でも、それでいい。いつまで一緒に居られるかだけど、それで、いい。斜め前で、後ろ向きに座る子供がガタンと電車の振動でバランスを崩す。慌てて、席を立って駆け寄る。お父さんが俺より先に、子供の背中に手を添えた。「すいません」と俺を見て、お父さんが頭を下げ、「ちゃんと座ってなさい!」とお母さんが子供を前に向かせた。また小さく笑って席に戻ろうとすると、車内の通路が歪んだ。窓の外が黒く濁り、また、上目遣いで唇を尖らす、あの女が現れ、どくどく、と俺の心拍数を上げる。立ち竦む俺を電車の振動が揺らす。吊革に捕まり、沈む体をぶら下げた。


 見上げる透がおかしい。

 青白い顔色、起伏の激しい胸。あたしは笑って彼を迎えられない。

「大丈夫?」

「ああ…」と透は指先を吊革から離し、どかっとシートに腰を下ろした。

「ちょっとめまいがしただけさ」

 昨日の深酒の所為ね。そう思って、その時は、肩をすぼめて笑った。 

 

 歩く姿が床に映るほど、白く透き通り、目を細めるほど眩しいホームセンター。

「これ小さいかな?」

「これ使いやすいんじゃない?」

「でも、こっちのが可愛いかな?」

 適当に、「うんうん」や「そうだね」と答えていれば、女が選んでくれる。男はワゴンを押すだけでいい。色々と文句言って退屈な時間を長引かせる必要はない。

 ガスコンロ、布団、食器、包丁、鍋やフライパン。溢れそうなワゴンをレジに運んだ。

「嫁入り道具代わりに、あたしに買わせてよ」と明日香はバックから財布を取り出そうとする。

「しょっぱら、亭主に恥かかすなよ」

 レジで格好よく開いた財布には三万四千円。レジが示す金額は七万六千五百五十八円。

 俺の財布の中身とレジの金額を交互に見た明日香は、フフフフッと鼻で笑いながらバックから、よく見るモノトーン調のブランドものの長財布を取り出し、「今日はこういうのも予定に入れておいたからね。朝、コンビニで下ろして来た。すいません、全部、配達にして下さい」と金を払った。

 早々に、俺より稼ぎがいいに違いない彼女に格好わるく甘えてしまった。


 筋をとおす順番ぐらいはわきまえている。社長より先に小池のオッサンだ。

 相変わらず、煙たい会社。何も知らずに朝から愛想のいい社長と相対して無愛想な事務員に「おはようございます」と挨拶をすれば、自分の机に向かう。椅子に腰を落とすことなく、システム手帳をパラパラと捲って、うんうん、と頷き、急いでいる、そんな演技をした。

「いってきます」

 鞄を小脇に、会社を出て目指すはオッサンの店。

 チカチカと鬱陶しく廊下を照らす、切れ掛けの蛍光灯に今頃気付き、階段を下りる前に、帰ってこれるかなあ、会社に振り返った。

 にゃああ、いつもの猫が路肩から俺の顔を物欲しげに眺めた。悪いな、今日は何もないんだ。露路の前で足を止める。真っ暗な闇から、あの女が怪しく微笑んでやがる。白い尻尾が闇に消えていくのを眺めながら、悪いが、あんたには殺されないよ、俺も微笑み返してやった。

「オーナーなんかすっごい喜んじゃってさあ。『ナナちゃんおめでとう!』って抱き付かれちゃったよ。女の子の方は『私、こんなのはじめてっ!』ってノリノリだった」とホームセンターからの帰りの電車で明日香は言った。その店の子はどうでも、オッサンは違う。他の女の子や従業員の手前もある。明日香に対しては表面上、そう明るく装っても、腹の中は、あのクソガキがあ、煮えくり返ってるはず。分かってる。

 店の前に着いて、見上げるピンクのネオンがやたら眩しく、うるさいはずの音楽は俺の鼓動で掻き消されているかのように、静かに聞こえる。棒立ちになっていても始まらない。店に入ったところで、さあ、これからだ、「こんにちは、お世話になってます!」といつもより声を張り上げ、深々と頭を下げた。

「ちょっと、待って下さい」

 そう店員が反応してくれても、まだ頭を上げられない。上がらない。

「透ちゃーん!」

 頭を上げると同時に、生唾が咽を鳴らした。


 汗まみれになって飛び起きた。

 枕元の時計は二時を回ったところ。とりあえず新婚初夜、隣から聞こえる喘ぎ声と伝わる振動に負けないぐらいだった。カーテンの隙間から入り込む外灯の光が、見下ろす裸体に白い線を這わしている。息を整える為に深呼吸。うぉんんん、あの犬の遠吠えが聞こえた。

 その胸を撫でると、透がうっすらと目を開けた。

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