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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
5/14

二人

「サインして、俺が住んでる渋谷の区役所に出しておいて」

 鞄を放ったベッドへ、彼は上着のポケットに両手を突っ込んで腰を掛けた。

 あたしと目を合わさず、やや猫背の彼を見て、あたしは、「まさか、こんなとこで」と吹き出す以外なかった。

「とりあえず…約束だもんね」

 畳み直した二枚の紙を指でトントンと叩いて封筒の中に戻した。

「嬉しいよ。形だけでも約束守ってくれて」

 その封筒をラックの一番上の引き出しに入れた。

 一度寝た男に「あたし、風俗やってんだ」とあっけらかんとしたら、「じゃ、また遊びに行くよ」とベッドの上なら、大概は軽く応えてくれる。本当に遊びに来てくれる男も居るなら、それっきりの男も居る。それと一緒。この人は約束を守るタイプの方だと思った。たとえ、それがどんな約束であっても。冗談を纏ったどんな形であっても。でも、どんな男も一度きり。一度、店に来たら、あとは音沙汰なしになる。そこは彼も、他の男と一緒かもね。

 ま、どっちでもいいや。あっけらかんと笑って、振り向くと、彼は俯いて震えてた。何で?


 何の前触れもなく、機械的に主旨だけを伝えてしまったことへの後悔かも……。それとも、返事を待つ緊張かな? 震えが止まらなかった。ネクタイを緩めて、一番上のボタンを外しても息苦しさは続いた。

 狭い部屋を見渡す。剥き出しのシャワー正面と狭いベッドの脇には女の子からの濃密で丹精込められたサービスを眺め易いように、全身を映す鏡が貼られてる。パチンコ屋で働いていたとき、店長と飲んだ帰りに悪のりで連れていかれた店の部屋もこんな感じだったかな。しかし、出て来たのは、今夜、彼女が着てるようなスケスケのセーラー服を着た中年女だったけど。小さな思い出し笑いに「どうしちゃったの?」と彼女が擦り寄り、俺の膝に手を置いた。

「いやあ、何でもない」

 俺はその手を握った。

「約束守ってくれたのは嬉しいんだけどさあ。ちょっと気前いいプロポーズの言葉でも添えてよね」

 相変わらずのしゃがれ声。つんと尖らせた顎を近付ける。この前の香りじゃい。

「あっ、ごめん。その……婚姻届に気を取られすぎて、大事なこと忘れてた」

 くすくす笑って、彼女はもう片方の手を俺の手に被せた。

 一度肌を晒し合ったけど、あの夜は酔ってて部屋も暗く、失礼な話だけど、よく覚えてない。胸を透かす、こんなシースルーの服。金を払ったと開き直れる客なら別だが、目的違いの変わった客の俺は目のやり場に困った。


 どうあっても、今夜の彼は私のお客。

 ベッドから腰を上げたあたしは、目を合わせない彼の正面にしゃがむ。

「じゃ、しよっか」

 上目遣いでベルトに手を掛けた。

「あっ、いいんだ」

 慌てて彼はあたしの手を払いのけた。

「今日は……そんなつもりで来たんじゃないから」

 こんなお客は初めて。彼の膝に両手を付き、クッフフフフと笑いを絞り出した。

 あの婚姻届はもしかして真面目な話? 

「ねえ?」と顔を上げたあたしにようやく目を合わせた彼。

「何で……あたしなんかと結婚したいわけ? 他、居るでしょ? お酒の席での約束は洒落ですました方がいいんじゃない? その後、寝たからって…それはお互い様で終わればいいんじゃない?」


「冗談だと思って断られるかも」とグラスを口に付けた俺に、あかねさんが「そのときは、素直にこう言ったら」と教えてくれた言葉を彼女に、明日香に伝えた。とてもプロポーズの言葉じゃない。

「大丈夫、あの子なら分かってくれるよ」

 ほのかな紅色が付くグラスの底には褐色のバーボンが揺れていた。遠くへ瞳を届かせるあかねさんはほつれ毛も直さない。まるで染めていない爪。白く細い指で包んだそのグラスを口元へ運ぶ。彼女の横顔が寂しげに映り、俺は彼女の言うとおりにしようと思った。

 その言葉を聞き、明日香は、少しの間、俺の手を握っていた。何も答えず立ち上がり、プラスチック製のラックから携帯を出した。

「メアドと番号教えてよ」


 彼と連絡先を交換した後は婚姻届の話はしなかった。ただ、透が言ってくれたことが気持ちに、胸に入り込んでいた。

「小池さんとは…前から知り合いなんだ。てか、お客さん」

「へえー、そうなんだ」

 それからは、二人、ベッドに座り込んでオーナーの小池さんの話題。

「いい人だよ。今までのオーナーで一番いい人だよ」

 話の流れで、ここが初めての店じゃないってことをばらしてしまったけど、「そうなんだ。でもちょっとこっちぽいけどな」と右手の甲を左頬に付ける彼は全く気にしていない様子。

「それがまた最高なんだって……」

 尽きそうにない話はインターホンからの、時間ですよ、と告げるブザーで止められた。

「じゃ、帰るよ。仕事がんばってな」

 鞄を抱えて立ち上がった彼。

「待って」

 軽いキスだった。



 眠っているときだけでもない。

 一息つき、ふと立ち止まったときにもあの女。唇を尖らせた、下から上へと睨み付ける醜悪な顔が浮かぶ。

 この駅のホームでもそうだ。

「あんたは…」

 また来た、あの台詞、あの京都弁。すれ違う人全てが俺を睨み、それを囁いているようだった。一度上がった心拍数は下がらない。黒く淀んだホームが歪み、また映り出す、あの顔。

 足音が、場内アナウンスが、周りに居る人達の話し声が鼓動に消された。苦しい。

「あんたは…」

 今度は線路の方から聞こえる、あの声。恐々と振り向く。線路沿いに貼られた看板が白く抜かれ、あの女の、あの拗ねた顔が浮き出る。消えろ、ふざけるな、我慢できない俺は一歩一歩、線路に歩み出していた。

 目前を通過する電車の突風が俺のあと一歩を止めた。

 足音、場内アナウンス、話し声がその電車の残響と共に棒立ちの俺に戻る。ホームへ振り返りると、ベンチで化粧を直す女、携帯を耳に当ててお辞儀するオヤジ、ホームを見回る駅員、真横には次の電車を待つ列があった。誰も俺を見ていなかった。見て見ぬふりなのだろうか? 度々起こること。死のうとしているか? 殺されようとしているのか? どちらにしても、俺は一人だ。



 あれから、今日で二週間。彼女から、明日香から連絡は来ないまま。冗談で済まされたのならそれでいい、と俺も連絡をせずじまい。

 冷酒を流し込む俺に、あかねさんは何も聞かない。今夜も湯気の向こうで微かな笑顔をまな板に落としていた。

 (とばり)が仕舞われるまで飲んで店を出ると、格子戸から漏れる明かりが消えた。突き当たりが見えないぐらい暗い露路に唾を吐く。黒く染まった水溜まりを蹴散らしてやった。

 明かりがつけっぱなしの部屋に戻り、ビールが六缶入りったパックを冷蔵庫から引っ張り出す。引きっぱなしの布団の上に砕け落ち、そのパックを剥いて、一缶開けた。リモコンを拾い上げ、付けたテレビから突出した、気狂いじみた叫び声と画像は眠気ざましに丁度いいかも。どうせ嫌でも眠くなる。だから、無駄な抵抗だと分かっていた。また起こされれば飲んでやる。ビールを一気に空けてやった。


 ドンドンドンドンドン…。

 何だ、これ?


 目覚まし時計をセットしていない土曜日の朝は、そばの道路沿いを走る電車が窓ガラスを震わす、小刻みな音を何度か鼓膜に感じて観念するか、隣の部屋から伝わる、おはよう、のついでに二人で仲良く作り出す揺れが薄い壁を震わせるのに我慢できなくなるか、どちらかが俺の瞼をこじ開け、どちらともが「ああっ!」と髪を掻き毟りながら俺の上半身を布団から起こさせる。

 今朝は違った。起こされて飲んで、うとうとして眠りにつけば、また起こされて飲む。どれだけ飲んだか、頭では覚えていなくても、膨大なアルコール分を残す体は覚えてる。そんな覚えがわるい頭と覚えがいい体を、今朝、叩き起こすのは震える窓ガラスでも揺らぐ壁でもない。ドンドンドンドン……と連打される木製のドアだった。

「ああっ!」

 布団を捲り上げながら上半身を起こす。髪を掻き毟るろうとしたが、その前に杭で刺されたような激痛が脳天を直撃し、両手で頭を挟み込んだ。  

 この前の『持ち越し』と違うのは、今日が平日でなく土曜日だってこと。この状態で満員電車に揺られなくて済むと思えば、少しだけ幸せだったが、全く気遣いがない無情な連打に、はーい、と明るく応じられるほど機嫌はよくなかった。

 男の一人暮らし。ラーメン作ったり、レトルト温めるだけなら必要ない、とガスコンロは買わずじまい。カセットコンロ一台しか備えてない陳腐な台所の真横にあるドアに向かう。

 開けてみれば、鋭利な朝の光線が肉眼に食い込み、顔をしかめさせた。霞んだ視界に浮き出たのは赤いスカジャン。下を見れば、オレンジのウエストポーチ、スリムのジーンズと素足に履いたピンクのハイヒール。

「おはよ!」

 明日香がそこに立っていた。


 くわっ、酒臭い! 土曜日の朝、一人暮らしの男はどいつもこいつもこんな臭いをさせているんだろう。

「何だあ。鍵掛かってなかったんだあ」

 肩に大きなスポーツバックを掛け、キャスターを階段にガタガタぶつけながら重たいキャリーバックを両手で引き上げた。やっとだよ、と部屋の前で荷物を放り出し、残った力でドアを叩いた。

 あたしは呆然とする透を押し退けて部屋に入った。 皺が寄って細くなった目。無精ひげにくしゃくしゃの髪。白いTシャツの裾から手を突っ込んで胸辺りをボリボリ掻き、それが終わると、欠伸しながら、下がりすぎていたモスグリーンのトランスクを腰まで上げた。その風貌とこの臭いを足して二で割れば、二日酔いって答えが嫌でも出て来る。

 荷物と彼を玄関に置き去りに、狭い台所を通り抜け、あたしは布団が敷かれた部屋へ向かった。一度来てるんだから、どんな部屋だったか、大体は覚えてる。テーブルは確か……そうそう、折り畳み式だった。壁に掛けられた、そのテーブルの脚を、パン、パン、パン、パン、と四本立てて部屋の真ん中へ運ぶ。まだ玄関に立ち竦む彼に背を向け、「ああ、疲れたあ」と斜めになった体をテーブルに突いた頬杖で支える。あたしは朝日を微かに通すカーキ色のカーテンを見上げた。

「とりあえず、運べるだけの荷物は運んだけど、運べなかったのは午後イチで届くから」


 ということは? その疑問に押され、俺はゆっくり玄関から奥の部屋に向かった。台所の床がぎこぎこと軋む音に気付いた彼女が俺に振り返る。

 テーブルを挟んで彼女と対面。俺が座りたい位置に、丁度、脱ぎっぱなしに転がっていたズボンを部屋の隅に放り投げた。頭痛と胸焼がこびりつき、よれた下着姿で格好付かない俺は、せめて態度だけでもと正座した。俺がきっと滑稽に見えたのだろう。彼女は顔をテーブルに近付けて笑いだした。俺は苦笑いするしかない。

 笑い声を呑み込むように収め、「ねえねえ」と顔を上げ、「タバコ吸っていい?」とウエストポーチに手を掛けた彼女の目は若干涙で潤んでいた。

「お、おう」

 布団の周りに散乱したビールの空き缶。握り潰していないものを取ってテーブルに置いた。

「あっ、タバコ吸わなかったんだ。いいの?」

「どうぞどうぞ」と笑顔で答える。

「人前で吸うのは控えてるんだけどねえ……」

 ポーチの中から紫と白のビーズでデコされたタバコケースとライターを出す彼女。

 振り出した一本をくわえて火を付け、片肘をテーブルに付きながら吸い込む。ラメ入りのライトブルーに染まった爪。長く細い指に挟んだタバコを唇から解き、天井へ煙を撒いた。

「タバコ吸う女。嫌がる男多いのにね」

 空き缶の縁を叩くタバコには淡い口紅が残っている。

「今までに寝た女。殆どタバコ吸ってたから」

 それぐらいの真実、言い切っても、別に支障はないと思ったから。

 フフッ。彼女の口から煙が弾け飛んだ。

「私も……その大勢の一人だね」

 どこからが大勢で、どこまでが少数か分からない。でも「まあな」と三十手前の男が開き直っても、それも、支障ないと思った。

「正直でいいね」

 斜めに顎を上げて、彼女はタバコをくわえた。

 朱色の火種が明るくなる。

「軽いノリで男についてく。それに、あんな店で働いてる。私も、数え切れない男知ってる」

 数えきれない。そうか、数えきれないレベルまでいくと大勢になるのか。なら俺も一緒だ。

「君も…正直だな。婚姻届、どうしたんだよ?」


 そろそろ痺れを感じて来た足を解き、胡座をかいた。

「あたしも戸籍抄本取り寄せなきゃいけないって区役所で言われちゃってさあ。それで、出すのに時間掛かったよ」

 両手をテーブルにつき、顔を明日香に近付けた。

「おまえ……じゃあ?」

 タバコを揉み消し、明日香は俺からそっぽを向き、「出したよう。マンションも引き払ったしね」と唇を尖らし拗ねた顔を見せる明日香。

 俺が、出しとけ、と言って、今更、その俺に驚嘆されるのは確かに心外だと思う。でも、連絡の一本でも欲しかった。

「それなら、買い揃えなきゃいけな物だってあるしさ。それに、ここに来るんなら、あんなカセットコンロ。こんな汚い布団。部屋も掃除しとくんだったよ」

 ようやく髪を掻き毟れた。

「連絡しようと思ったよ。でも……あれ冗談って言われそうだったからさあ」

「言うわけねえだろ」

 悪びれない笑顔が俺の隣に来た。

 婚姻届は受理されている。もう夫婦かよ。結婚ってあっけない。


 中途半端は距離を置いて話したくなかった。だから、隣に来た。

「透……。私のタバコ許してくれたお礼にさ。透の浮気は許したげる」

「はい?」

「あたし……結婚しても店続けたいんだ。あたし……店で色んなお客相手にするから、透は、透で……」

 透が最後の男と、決心して婚姻届を出したけど。もし、別れが来たら、何の取り柄もないあたしには何もなくなる。その部分だけは怖かった。

 店に出てる間は、あたしは女じゃない。単なる道具。その間は、あたしが道具の間は、透にはけ口を見つけて欲しかった。


 結果、俺は明日香を犠牲にした。悪夢や幻覚に苛まれ、最後の一歩を踏み出す自分が怖いから誰かに頼った。それが、たまたま酒場で出会って、酔った弾み、をぶつけた女だった。俺から何を感じたのか分からない。でも明日香は来てくれた。この辺ぴな部屋を見て、俺には何もないって分かるはずなのに、一緒に住んでくれる。孤独を止める俺が何をどうしていいか分からない。明日香を幸せにできるかなんて、それこそ予測も何もできない。

 そんな昔のこと、と人から言われそうなことに、いつまでも首を締め付けられ、胸を押さえ込まれ続けてる。

「俺と一緒に苦しんでくれ」

 こんなふざけなプロポーズの言葉を哀れみで受けてくれたかもしれないが、感謝せずにはいられない。

 明日香は俺より怖いはず。もし俺のことが嫌になれば、そのとき、明日香には何もなくなる。そんな女から、仕事まで奪えない。

「いいよ。俺に構うことない。」

 正確には、俺に言う筋合いはない、だった。

「浮気は…」

 しないよ、と言おうとすると、明日香は俺の口を掌で塞いだ。

「いいの。嫁にとってモテる男が旦那なんて誇りなんだから」

 しゃがれ声に低温が混じっていた。

 浮気なんてするつもりないんだから、あえて言う必要もないか。それで明日香の気が済むんなら。

 手を離した明日香は立ち上がり、「ちょっと待っててねえ」と台所に駆け出した。

「ここに来る前に、駅前のスーパーで色々食材買ったんだよね。この前来たとき、冷蔵庫にビールしか入ってなかったから」

 大きく膨らんだスーパーの袋を慌ただしくスポーツバックから出す明日香を口を開け、四つん這いになって眺めていた。

「これも覚えてるよ…」

 カセットコンロをいじっている。

「お味噌も買ってきて良かった。コーヒー入れられたんだから、味噌汁は作れるよね。二日酔いの朝には味噌汁が一番効くんだよ」


 こうして、あたしと透は暮らし始めた。

「一緒に苦しんでくれ」

 なんてプロポーズの言葉? でも、苦しんであげられると思った。あたしも、苦しんでいたから。

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