ぱたぱた
天井の照明に貼られた、部屋をピンクに色付けするためのセロハン。一部分、テープが外れている所為で換気扇の吸い込みに向かってぱたぱたとなびいている。密着度を高める為にわざと狭くさせている、暇な時間帯、腰掛けて携帯いじったり、うたた寝するには丁度いい大きさのベッド。する前とした後に使う、部屋の隅にある簡易シャワーには囲いなんてない。どうせ見せ合うんだから囲いがなくてもどうってことないけど、このカビ臭さの原因になっているのは確か。そんな小さな箱が、あたしの仕事場。
部屋のインターホンが鳴り、携帯を閉じて受話器を取ると「ナナさん、ご指名です」と元気な店員の声。ついでに「セロハン、直しといてよ」とあたしは受話器を強めに戻した。インターホンの真下に置かれたプラスチック製のラック。一番上の引き出しに携帯を投げ入れ、ドアに掛けられた鏡の前で、透けたセーラー服のネッカチーフとポニーテールを直し、唇から微かにはみ出ていた口紅を小指で拭う。茶色のローファーに足を通して紺のソックスを膝元まで引っ張り上げた。「さあ、お仕事」と小声が鏡を曇らせる。ドアを開けると、大音量のBGMが部屋よりも薄明かるい廊下に響く。「もういいって」と溜息が溶けた。
あれから明日香の姿は見ていない。うなされれば、逃げ込む、あかねさんの居酒屋にも彼女は来ないまま。俺はいそべ揚げを肴に冷酒を煽る。あかねさんはカウンター越しに微笑みを浮かばせ、包丁で軽やかな音をまな板に立てるだけで何も言わない。
冷酒を一口飲み、コップをカウンターに置いた。
「あの約束……あかねさん、覚えてる?」
あかねさんは包丁の音を止めて俺に、へっ? と見開いた目を向けた。俺が注文した大根サラダがもうそろそろ仕上がる頃だろう、手を休めそうな彼女を見計らっての質問だった。
彼女は包丁の刃に付いた大根を指ですり落とした。
「私に何か約束した?」
俺の前を通り過ぎた彼女は水屋から小鉢を取りながら言った。
聞き方が可笑しかった、と俺は照れ隠しに、いそべ揚げを口に放り込んで苦笑いする。
「いや、あかねさんにした約束じゃなくて……彼女、あの、明日香って子にした約束。あかねさん……聞いてなかった」
ここは、小さな店だもん。お客さんの会話は全て耳に入る。でも、聞いても聞かぬふり。
「さあ。聞いてなかったね」
首を傾げ、知らぬ存ぜぬを通すのが飲み屋やってるものの常識。まして、あの後、どうしたの? と馴染みのお客さんへも馴れ馴れしく分かりきっていることは聞かない。
私は千切りにした大根を小鉢に盛り付け、柚子を絞り、正油と鰹節をかけた。
「そう」
透ちゃんが冷酒を飲み干すのを見計らって、私は大根サラダを出した。
「おかわりちょうだい」
目の下に隈を作った彼の寂しげな笑顔に、私はそっと薄笑いを合わせてカウンター台から瓶を取り、彼のコップへ冷酒を注ぐ。
「約束の果たし方が分からんのや。あかねさん…教えてくれへんかな?」
関西弁? でもテレビから弾ける轟轟しい関西弁ではなく、もの静かで遠慮がち、どことなく気品がある発音だった。どんなに酔っても標準語を乱さなかった透の関西弁を初めて聞いた。
擦りきりいっぱいまで注がれた冷酒。お客の相談ごとに乗るのも飲み屋やってるものの常識。
「どうしたの?」
私は口元に力を込めた。
仕事が終わり、駅を通り越してあの風俗街へ向かっている最中、店であかねさんと話していたことを思い返していた。
朝や昼間と違い、色とりどりのネオンが、まだ西のビル街に紫色の輪郭が残る宵の口に目立ち、何を期待してか、鼻の下を伸ばしたオヤジや若い奴らの軽快な足音を引きずり込んでいる。あの猫、どうやら住み着いているんだろう。路肩からネオンが反射する目を俺に合わせるなり、また尻尾を露路に隠して行きやがった。帰り掛け、一升瓶の酒を湯呑み茶碗に注ぐ社長から「透も、たまにはどうだ」と誘われたが、「これから約束あるんで。これだけ頂いときますよ」と社長が摘まむ干物のパックをポケットに入れた。そのパックを食いちぎり、干物を真っ暗な露路に、お近づきの印だよ、投げ込んでやった。
小池さんの店に着いた。受付の中で俺の顔を見た店員は、今夜はあんたでいいんだけどなあ、とそんな空気を発する無言の願いは通じそうにない。あっ、ちょっと、と呼び止める数秒も与えてくれないほどの速さで「ちょっと待って下さいね」とカーテンの中へ引っ込んだ。出て来るぜ、と俯けば、「透ちゃーん!」とまた顔に似合わない甲高い声が俺の顔を上げさせた。
「お世話になってます」
今夜は苦笑い混じりの会釈でも仕方ない。
「どうしちゃったの? いつも朝か昼間なのにい」
また怖い形相が俺に近付く。今夜は仕事の話じゃないが、一応、仕事向きの笑顔を保った。
「いやあ…」と一呼吸置くが、言い辛いさが、唾を飲み込ませる。
「今夜は…その仕事じゃなくって…あの…客として」
別に緩んでいないネクタイの結び目を上げて恐々と見た小池さんは一瞬見開いたような目をすぐに細めた。
「なーんだあ!」
毛むくじゃらのでかい手で俺の腕を叩いた。
「透ちゃんも男なんだからあ。大歓迎大歓迎。どのこにするう」
指名用のアルバムを開く小池さん。
「あの…」
両手にぶら下げていた鞄を小脇に抱え、俺はアルバムから目を逸らした。
「あっ! フリーでよかった? 今、丁度、暇だからどの子でもいけるよ。透ちゃんから指名料なんて取らないって。サービス料金も昼間料金にしてあげるから、安心してよ」
お客さんに甘えるわけにはいかない。「いやいやいや」と首を振る。
「あっ! 透ちゃん、あの子どう?」
顔を上げた俺に、また怖い形相が迫る。
「ナナちゃん」
小松さんが言ってくれた、その名に営業用でない本物の笑顔で応えられた。
廊下のカーテンが、「ナナちゃんです。ごゆっくりどうぞ」と店員の声と同時に開くと、耳障りなBGMが頭の中で鳴り止んだ。そして、透、と胸の中で呟くと、再び鳴り出した。見開いてしまった目を元に戻して、あたしはプロなんだから、と意識を立て直せば、仕事用の笑顔を浮かばせられた。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
あたしは透の手を取り、部屋まで連れて行く。
部屋に入ると、こんなことも、まあ有り得る話、あたしは透に背中を向けたまま、口に手をつけて笑う……笑うしかない。
透はまだ声を掛けてこない。あたしは思いきって透に振り返った。透も笑っていた。あたしはくすくすを続けて、鞄をぶら下げ、まだドアの前から動かない透に歩み寄る。
「ビックリだよ。携帯……アドレスと番号教えとくんだったね」
しゃがれ声は変わらないけど。あの写真と同じ厚化粧には似合わないシースルーのセーラー服に透ける、あの夜は酔ってたからここまでよく見ていない、その乳首と、この卑猥な色の照明で変色しているのか、あの夜、見た色とは別の色に見える口紅が俺に迫ってきた。
「直接、連絡くれたら指名料ぐらいサービスしてあげたのに」と明日香の指が俺のネクタイを緩めそうになった瞬間、俺は目前の彼女を通りすぎ、ベッドの上に鞄を置いて腰を掛けた。
されるがままになってネクタイを解かせない客を物珍しげに、明日香は少しだけ唇を尖らせ、広く開いた目で俺を見下ろしていた。
「君がどういう仕事してのかって聞かなかったし。それに割引サービスは……」
俺はドアの方へ首を振り、「小池さんから直接、気遣ってもらったよ」と言った。
「オーナーが?」
明日香は短いスカートの裾を太股の下に入れ込み、俺の隣に腰を落とした。
「俺の仕事。広告屋だってことしか言ってなかったろ?」
マスカラがべったり付いた睫毛をぱちぱちさせ、「う、うん…」と明日香は頷いた。
「広告屋にも色々あってな。俺がやってるのは風俗専門さ」
明日香の忙しい瞬きはまだ止まらない。
「だから、ここのオーナーも…」
俺は、どうやって、ここに辿り着いたかを説明し始めた。
透が話してくれている間、ぱたぱた、はためく、耳障りなセロハンの音が気にならなくっていた。
透の、どうやって、を分かった私は手を一回叩いた。
「なーんだ!」
笑い飛ばせる話に足を組み、前のめりになって素直に笑い声を上げた。
「そうなんだあ!」
笑い終わったあたしは体を上げ、ベッドの上、僅かに空いていた透との隙間をお尻を横滑りにして埋めた。
「でだな……」
透は慌てたようにネクタイを直しながらまた隙間を作る。
どうやって、が分かれば、こういう業界で働いてる女は十分。でも、透のその目は、なぜ、を話そうとする目だった。
明日香に話そうとした瞬間、また思い返した。
「透ちゃん。あんた……死のうとしたことあるでしょ?」
あの夜の、あかねさんの言葉がBGMを聞こえなくしていた。
「助けてもらいなよ。あの子にさ。ねっ、ねっ」
いつの間にか、カウンターから出て、隣に座って俺の肩を揺すってくれた彼女の寂しく、優しい笑顔が、明日香の小部屋に浮かんだ。
この湿気だらけの部屋も俺の住んでる露路と似たような所。似たような場所で燻られる似たもの同士、とあかねさんは湯気の向こうから感じ取ったのだろうか。きっとそうだろう。だから、俺に教えてくれたんだ。断られたら、「気の利いた笑い話が思いつかなくて」と頭でも撫でて悪い冗談にすればいい。あかねさんからそのやり方を詳しく聞いて、色々と手間ひま掛けたことだし。もう俺もそんな歳だ。一度、経験してもおかしくはない。やってみたいから、小池のオッサンにそこいらのスケベと同じと思われても、ここに来たんだ。
上着の内ポケットから出した茶封筒。俺は肺に溜まった空気を抜きながら明日香に差し出した。
「約束……果たすよ」
透の瞳を見ながら受け取った、厚くもなく、薄くもない封筒。あたしは中の紙を抜いた。
紙は二枚。一枚目は戸籍抄本。二枚目は……。
「透さあ。あんた、あたしと結婚してよ」
あの居酒屋で、透の肩にもたれた。
「いいよ」
どういう成り行きで、そうなったかは覚えてない。ただ、そう答えた透とあたしは指切りをした。それはちゃんと覚えている。カウンターの中で、彼女がうっすらと微笑んでいた。
二枚目は……婚姻届。
ぱたぱたがまた止まった。