写真
整髪料、化粧、香水、脂汗の入り雑じった臭いが籠り、おたくらも大変だね、と皮肉でも言ってやりたいぐらい、駅員がドアから溢れた人をこれでもかと押し込んで来る満員電車。俺の背中に密着する、柔らかい二つの感触は心地いいとしても、久々の二日酔いを宿す体には結構大変な通勤。
新宿で私鉄から山手線へ乗り換え、会社の最寄り、五反田へ。電車は変わっても混雑は変わらない。変わったのは後ろに居た綺麗なお姉ちゃんが年増のおばちゃんに変わり、背中に感じる弾力が萎びたぐらい。車両のドアが開き、噴出する人波に乗ってホームに降りる。その濁流に飲み込まれながら階段を下りて駅の改札へ向かう。コンクリートの通路を叩く無数の足音が酒でただれた胃に響き、痛い頭を揺さぶる。改札を抜け、駅から脱出し、ようやくありつけた新鮮な空気を吸い込むと、どっかの馬鹿野郎が俺の背中にぶつかり、その衝撃で、込み上がった胃液を吐き出す寸前に飲み込んだ。
緑に濁る川沿い。くすんだベージュの外観で一階はゲームセンター、四階建ての雑居ビルには名も知れない、そして、得体の知れない小さな会社が幾らか入っている。他社の評価なんてできない。世間から見れば、俺が通う会社もその一つ。二階の窓一面に貼られた社名『藤田企画』が、その会社。周りに誰も居ないことを確めて新鮮な空気を吸い込んだ。築三十年を超す小さなビルにはエレベーターなんてあるわけがない。一階のゲームセンターの脇から伸びる、狭くて薄暗い階段でいつも会社へ上がる。朝から、ピコピコ、賑やかな電子音を鳴らす、そのゲームセンターは嫌でも目に付く。階段の上り口で中を覗くと、今日も朝から彼女は来ていた。白髪に黒髪が混じる彼女は周りにいる同年代ぐらいの老人達と楽しそうに一緒にコインゲームをしている。向日葵だったり、朝顔だったり、彼女が着るブラウスの柄と他の老人たちの顔ぶれは変わるが、彼女自身は変わらない。俺が出社する時も、外回りに行く時も、外回りから帰って来る時も、じゃらじゃら、彼女はひたすらコインを玩んでいる。
階段の手すりに掴まりながら二階に上がった。透きガラスがはめ込まれた薄っぺらい木製のドアの前で、俺は鞄を小脇に挟み、シャツの第一ボタンを締めて緩んだネクタイを上げた。ふー、っと息を吐いてノブを回す。
「おはようございます」と一声し、事務所へ入ると、正面奥、黒革の椅子がくるっと窓からドアの方へ向いた。
「よう!」
臙脂のカーディガンを羽織り、くわえタバコをした社長。書類の散乱する机越しに軽く手を上げた。長い一日のはじまりはじまり、俺は会釈して自分の事務机に向かう。
社長と俺、そして、ピンクのカチューシャが浮き、度のきつそうな黒縁メガネがよく似合う四十代の事務員。三人だけの会社しては余裕の有りすぎる事務所。その広さとそれぞれの無神経が災いし、決して綺麗とは言えない。「もう少ししたら、また人入れようと思ってよ」と社長は俺が入社した時分に言っていたが、結局、見捨てられた三脚の事務机の上には古新聞や段ボールが山積みにされている。一日五箱は吸うという社長のタバコのヤニで黄ばむ壁。気が向いた時にしか掃除しない事務員の所為で、床は所々に黒ずみ、机や書類棚に積った埃が咳を撒かせる。「ゴミ出しはあんたの仕事だからね」と俺が事務員から押し付けられた仕事をさぼるから、今日もそれぞれのゴミ箱は溢れ気味。
斜めに入る朝日が窓に貼られた社名の影を縦長に伸ばす。社長が吹かすタバコの煙がその影と影に入る光線に照らされ、渦巻き、旋回する。毎朝の眩しさも匂いも、酒が残る今朝はやけに鬱陶しく、俺の向かいに座る事務員が黙々と叩く電卓の音も耳障りだ。
「二日酔いの目だな。女絡みか? 透」
社長が灰皿でタバコを揉み消すと、事務員がずれた眼鏡から俺を一瞬見て、ぐすっと笑った。はい、そうです、と明るく正直に言える気分でもない。
「ただの飲み過ぎですよ。そんな浮いた話は……ないです」
俺は苦笑いでごまかし、今日は早く外回りに行った方がいい、鞄から手帳を出して今日のスケジュールをチェックした。よかった。朝一番で訪問希望のスポンサー(広告主)が居た。毎週のように新聞広告を更新するスポンサーで、駅近くの店舗型ファッションヘルス。
ゆとり感のあるホテトルやデリヘル等の呼び寄せ型に風俗の主流は移りつつあるが、仕事途中や一杯飲んだ後に気軽に寄れて、しかも写真で好みの子を選べる、より即効性と確実性がある店舗型は未だに根強い人気を持つ。
広告屋としても、一ヶ月以上も広告を放置しておいてもそれなりに客が見込める呼び寄せ型より、今週はこんな可愛い子が入ってますよ、と客を呼ぶ手段として、毎週のように、スポーツ新聞、風俗雑誌、ウェブサイト等の媒体に載せる女の子の写真やプロフィールを更新してくれる店舗型の方が金になる。
「行ってきます」
椅子から立ち上がり、俺は鞄を脇に抱えた。
「おう。今日はあんまり無茶するんじゃねえぞ」
余計な気遣いしてくれる社長はまた軽く手を上げ、タバコに火をつけた。事務員はずれた眼鏡を中指で押し上げ、無愛想な顔を一瞬見せただけ。何にあんたは幸せを感じて生きてんだ? まるで、自分自身に言いたい文句をまだまだムカつきを繰り返す胸に呑み込んで会社を出た。
階段を下りてビルを出ると、ネクタイをずらし、シャツの第一ボタンを外してまた新鮮な空気を吸い込んだ。通りすがりに、一階のゲームセンターへまた視線を流す。彼女は隣の老人と楽しそうに話しながらコインゲームをしている。もう深呼吸はいいや、俺はシャツとネクタイを直した。何にあんたは幸せを感じて生きて行くんだ? このムカつき。今日は一日続きそうだ。
駅近くの風俗街。五年前に比べれば、ピンクを浮かばせるヘルス系は減り、代わって紫の灯りを放つキャバクラ系が目立つ。どの系統でも、俺にとっては大事なお客様。俺の業を知っている、店頭に立つ呼び込み達の中には、向こうから笑顔で頭を下げてくる連中も少なくない。朝からここを通る時は、おはようございます、と口まねだけして、軽く何度も頭を下げながら歩く。男が欲を放出し、女が望を手に入れる、ビルと高架の影に隠れた都会の一画なんて、性にも金にも不自由していない奴らにとってみれば、あろうが、なかろうが、どっちでもいい場所かもしれない。アスファルトの路面と店先に出された空のビール瓶のケースには、まだ昨夜降った雨の湿り気が残っている。
今まで気付かなかったが、ここにも露路があった。
ビールケースの上で日向ぼっこをしていた野良猫。俺を見上げるなり、飛び起き、派手な店に挟まれた露路に駆け入った。立ち止まって目を凝らしても、暗くて奥は見えない。白い尻尾を暗闇に消した野良猫は、このまま行き倒れになるのか? また光の下に戻ってくるのか? 足元を見て、ふっと溢す。またどうでもいいことを考えてしまった。
ネオンは午前中であっても、ぽつぽつと行き交う男達の下半身の為に、寄っといで、抜いてきな、と必死に灯りを振り撒く。
「透ちゃん! あとでうちにも寄ってよ」
得意先のキャバクラの前からオーナーに声を掛けられ、「はい!」と頭の後ろを撫でた。腕時計を見て、まだ時間がある、とそんなに広くない道路を小走りに渡り、立ち話をしに行く俺は、どこからどう見ても真面目な営業マンなのかもしれない。
女の子達の首の上下運動を、じゅぱじゅぱ、より過激にするタテノリの喧しいBGMが鼓膜を揺らし、おしゃぶりの前後、彼女達が、くちゅくちゅ、口の中を綺麗にする消毒液の酸っぱい臭いが鼻腔を突く。騒音と異臭が狂おしく混合されるのはこの店だけじゃない。どのヘルスも一緒。黄色い照明に色付けされた受付カウンターの前、しかめっ面になりそうな表情を無理矢理、笑顔に変え、「こんにちは」と中に居る店員に一礼した。別に名乗らなくても、俺を誰だか知っている店員は「ちょっと待ってくださいね」と言い残し、カウンター内のカーテンの中に入ると、すぐに、馴染みのオーナー店長、坊主頭に顎髭の小池さんが出て来た。この間のバックスバニーのプリントよりまだましだけど、銀のラメが入った白地のシャツに、相変わらず派手好みだ、紫のスラックスを趣味悪く合わすオッサン。歳なんて聞いたことないが、ベルトの上に垂れ下がる腹、もう五十代には乗っているだろう。
「透ちゃん。お世話様」
初めて、このオッサンに会った時は一見怖い業界の人と思わせる形相に、まずい所に来ちまった、と萎縮された。しかし、甲高い声で喋り始めると、細い眉が八の字になり、鋭い眼光がネズミの尻尾のように変わった。
「こちらこそ…お世話になってます」
深々と一礼し、頭を上げると、分厚い金の指輪がはめられた小指を唇に付けて、ふっふふふ、と笑う小池のオッサンは腰が柔いのを通り越して、おネエ系が入っている。改めて、人は見かけじゃない、といい意味で実感した。
「相変わらずう、可愛いんだから。透ちゃん」
でかい腹をカウンターの縁に食い込ませ、小池さんがその妖面を俺に迫らせる。引きたい気持ちを必死で抑え、俺は鞄を両手で握り締め、どうも……、みたいな感じで笑顔を作った。こういう系統の店には色んな客が来る。下手な因縁付けて、女の子に無茶なサービスを強要する客には、この形相と風貌が役に立つ。この地域の風俗連合会会長を買って出ている小池さんは自分の店だけじゃなく、この界隈の守り神。良し悪しで、俺は、その守り神に好かれてるみたいだ。
「小池さん……。今日は新聞広告の更新でよかったですか?」
でも、今日は俺の体調面もある。無駄話はせずに、早速、本題に入った方が良さそうだ。
「そっそ、そうなのよう」と顔と腹を引いた小池さんはカウンターの引き出しから、店舗型ヘルスの必需品、女の子を写真指名する客に見せるアルバムを取り出した。
「あのスポーツ新聞にメインで載せてた子が辞めちゃってねえ。それで…」
アルバムを開いた小池さんはページを捲る。俺は鞄からメモ帳を出し、そのアルバムに目を落とした。どのページの子も、それなりに可愛いけど、殆どの子がポニーテール。小池さん曰く、とりあえずポニーテールの子、とリクエストする客が多いらしい。ロリコンは不滅ってわけだ。小池さんのページを捲る手が止った。
「この子にしようと思ってるの」
メモ帳に走せていたボールペンを止め、はいはい、と濃い毛が生えた太い指が座す写真を見下ろすと、すぐにメモ帳に戻った視線が、え? とまたアルバムに移る。鼓膜を騒がすBGMと鼻から頭に抜ける消毒液の臭いが一瞬消えたが、胸のムカつきは続いていた。
「どう思う? 透ちゃん」
ルーズに髪を纏めた写真の子。
「あっ、えっ」
迂闊にも、ぎこちさなが口から漏れ、慌てて小池さんに顔を上げた。
「か、可愛い子ですね。いいんじゃないですか」
沈着を忘れない。
本音は口に出さない。
仮面は絶対に外さない。
仕事をしている時の俺の本分。パチンコ屋で働いていた時より大人になったはずだろうが。俺が動揺? 違うだろ。瞬きを繰り返し、気を取り直してメモ帳にボールペンを走らせた。
「うふふふ。可愛い子でしょう。ナナちゃんっていうの。今週から入った新人さん」
ナナちゃん? 違うだろ。メモ帳に書き込んだ「明日香」という名をボールペンで掻き消した。