夜光灯
格子戸が開き、雨で髪を湿らせた男が店に入って来た。誰かに追われてるの? そう思わせるほど、切らす息と青白い顔。あおったお酒も鎮静剤にならず、肩を上下させ、まだ落ち着ちつかない様子の彼。カウンターに顎杖を突きながら見詰める、あたしの存在に気付いてない。女将は目を細めて口元をきゅっと上げ、大丈夫だから、と言わんばかりの合図を私に送った。
夕陽が照りつけ、カーテンと同じ朱色に染まる部屋。重たい頭をベッドから起こすと、ビールの空き缶、バーボンの空瓶、コンビニのお弁当箱にスナック菓子の袋、深夜から今朝に掛けての残骸が床に散乱していた。
爆発した髪を更に掻き乱してベッドから両足を下ろす。キャミとパンツ姿で、ゆらゆら、力なく床に座り込み、テーブルの上のタバコに手を伸ばす。残っていた最後の一本をくわえ、空箱を捻りつぶしてゴミ箱へ投げた。上手く入らなかったけど、気にせずタバコに火をつける。吹き上げた煙が天井に漂い、その薄い膜も朱色に染まった。不味い。一服しただけで、タバコを灰皿で揉み消した。
駅と繁華街に近くて便利だけど、車と電車の音が少しうるさい所。半年前、最後の男が出ていってから片付けても、すぐに散らかる。特に、深酒した次の日は悲惨。よくこれだけ飲んで食べたもの。一人薄ら笑いを浮かべ、ベッドの縁に片手を突いて体を起こし、シャワーへ向かう。仕事が休みの日はこんなもん。
シャワーの後、部屋着か普段着か分からないチュニックのトレーナーを被る。ドライヤーで乾かした髪を適当に束ね、薄く化粧をした。もう部屋は薄暗くなってる。わざと色落ちさせたジーンズを履き、携帯とミネラルウォーターのペットボトルを投げ入れたバッグを肩に掛けた。映画? 買い物? 一人きりで行く当ては別にないけど、部屋にこもりたくない気分だった。
特別、見たい映画はなかったけど、適当に映画を見て、欲しいものはなかったけど、形だけの買い物もした。ビルの谷間に、交差点に、駅前に、無数の人がひしめき、忙しく、騒がしく、又、虚しく足音を響かせる都会の夜。少しでも避難しようと、潜った地下街にも、ぶつかる肩同士、振り返って先に謝ろうとしても、もうその人はいない、冷たく乾いた空間が凍みていた。ここも駄目。すぐに地上に出た。
人気が無さそうに見える場所に、ふらふら、ぶらぶら、入り込むけど、決まって何もない。溜息をついて、また雑踏へ戻る。あたしは何を探してるんだろ? 答えが見つからないまま、自問は誰かがあたしの肩にぶつかり、消し飛ばされて行く。
ファーストフードで食欲不振のままに晩御飯を済ます。時計を見ると、もう十一時近い。帰るつもりが、JRではなく、今夜……開いてるかな、爪先を回し、私鉄の乗り場へ、歩く方向を変えた。
夜空に突き刺さる真っ黒な高層ビルが急行電車の窓から見える。てっぺんに灯る赤い夜光灯を窓からぼんやりと眺めているうちに、一つ目の駅に着く。改札を出て、駅の階段を下りると、ぽつっと鼻先に冷たいものが落ちた。鞄を頭に乗せる人や鞄から折り畳み傘を出す人、それぞれ散って行く人達の中で、あたしは駅前のコンビニへ駆け込み、ビニール傘を買った。
雨の中、所々に、飲み屋、小さな雑貨屋、本屋、食堂の灯りが滲んでいる。ギラギラ下品な色を発するネオンの列と列の間に、人波が押し寄せる新宿。そこから電車で五分もかからない所。ここは、混雑さにつられて胸に溜めた息をほっと吐き出せる、そんな都会の休憩場所。
水溜まりを避けながら、とことこ、しばらく歩くと、ぽつぽつ灯る店の明かりもなくなり、街灯だけの夜道に。そして、あの露路が見えてきた。開いてるかな、もう一度、心の中で呟く。ビニール傘に弾く雨の音が激しくなる。一番最初ここへ来た時に吠えられた番犬も今夜は小屋に入ったまま出てこない。小屋からあたしを見上げて、くんん、と寂しい声を出している。ここを過ぎると、あの店がある露路の角。開いてるかな、今夜、三度目の呟きと一緒に角を曲がると、今日、部屋を出てから初めて笑ったかも。雨に濡れる赤いちょうちんが薄く灯っていた。
二回だけ私と目を合わせ、コップのお酒を半分ほど飲んだ透。黒いTシャツの袖を捲り、肩を掻きながら、何を話そうか、目玉を左右させながら口をカクカク動かし、困っている様子。
女の一人酒に目を付け、呼んでもいないのに寄ってきて、聞いてもいないのに、俺は……俺が……と自慢話を並べる今時の男どもとは違うと第一印象で感じた。どんより不器用そうな透は逆に新鮮に映る。
ぴちぴちと油が弾く音がカウンターの向こうから聞こえる。いそべ揚げの香ばしさと合う熱燗を一口飲んで、まだ肩を掻き止まない透に質問をする。
「仕事、何してる人?」
きっかけはあたしが作ったんだ。その後もあたしが責任とらなきゃ。肩を掻く手を止め、チラッと私を見て、透はまた目を逸らす。
「普通の会社員」 自己紹介の次は職業を聞く。ごく普通の会話の流れ。
「君は?」
初めて、透から話してくれた。うっすら笑い、カウンターに肩肘を突いて、お猪口に残った熱燗を口の中へ流し込む。
「普通のフリーターだよ」
気は利くんだね。とっくりを取り、透はあたしにお酌してくれた。
「ありがと」と軽い感じで言っても、「ああ」と返事するだけで、目は合わせてくれない。あたしは手の甲で口元を拭った。次の質問にいこう。
「何処に住んでるの?」
「ここのすぐ近く」
俺は格子戸に顎を向け「隣の……隣」と一つ間を入れてアパートの方へ差した。
「君はどこ住んでるの?」 少し熱燗が残ったお猪口を置き、カウンターの上で両腕を重ねた明日香。合った視線を、今度は離さないように堪える。油の弾く音が止むと、浮かんだその笑顔は初対面の相手に送る、取り繕いの愛想を感じさせる笑顔ではない。細く手入れされた眉を和らげ、色落ちした口紅が残る唇の強ばりがなくなった。
「ちょっと、遠い」
視線を合わせたまま、明日香がお猪口に手を伸ばした。
「おまちどうさま」
カウンター越しから、あかねさんが二人分のいそべ揚げを盛った皿を運んできてくれた。
「食えよ。ここのいそべ揚げ美味いんだ。いつも、つまみはこれだよ」
コックが家で料理を作らないのと一緒。普段、喋って笑ってお客の機嫌を取る営業マンも仕事を離れれば喋らないもの、笑わないもの、と堅物になっていたかもしれない。手を合わせて「いただきまーす」と言って、まだころもに油の小粒が弾くいそべ揚げを割り箸で摘まんで、上向きにした口の中に、熱いだろそれ、入れた明日香。
「あふ、あふ、お、ひしい、おひしい」
ここは熱燗より……。冷酒が入った自分のコップを明日香に差し出した。明日香は一気にその冷酒を口に流し込んだ。しゃがれ声は酒にやられたせいか? 結構な酒豪だ。
「いそべ揚げも、お酒も最高! 女将さん、冷酒もう一杯。あたしの伝票につけといて」と明日香はあかねさんはコップを振った。
あかねさんは、こっちに座ってよかったでしょ、と言わんばかりの笑顔を送ってくれた。確かに、あの悪夢は俺から消された。この夜はずっと。
やかましく鳴り響く目覚まし時計。その連続音が鼓膜と痛い頭を震わす。布団から手を伸ばし、叩いて止めた。ここで二度寝は遅刻を招く。やけくそに、布団を捲ると同時に上半身を起こす。カーテンを透かす朝日が吐き気を誘う二日酔いの朝。
あれから、明日香とよく飲んだ。俺は冷酒のみだったけど、明日香は、確か、熱燗からバーボンのロックに切り替えた。
「彼女いるの?」
「あたしも彼氏なんていたらここで一人酒なんてしてないよ」
「寂しいもん同士、今夜はとことんだからね。透」
明日香の勢いに負けじと、大人気ない、本当に久しぶりに俺も調子づいた。かなり酔ってからの会話はあまり覚えていない。おぼろげな時間だった。けど、明日香が「約束だよ。透」と小指を絡めた事柄。そして、生暖かい呼吸と体温の中で、俺の下や上でしゃがれた喘ぎ声が響いていたのは……よく覚えている。
もう明日香はこの部屋には居ない。酔った女を持ち帰ったのは初めてじゃない。でも、本当に久しぶりにやっちまった、と後頭部を撫でた。まだ石鹸の匂いと湿気が籠っている部屋の真ん中には普段、壁に立て掛けてある小さなテーブルが置かれ、まだ薄い湯気を浮かすコーヒーカップには小さなメモが挟まれていた。布団から抜け出た全裸の俺はそのメモを拾い上げる。
冷蔵庫の中に、ビールしか入ってないんだもん。可愛らしく朝ごはんも作ってあげられないじゃない。シャワー借りたよ。じゃあね。
一夜だけ。そう思うのが無難。ごく普通の男の発想しか持たないでおこう、と思ったけど……。苦いね。このコーヒー。
一夜だけ。それでいい。まだラッシュ前の電車に揺られながら、ごく普通の女の発想を持とうとしたけど……。あれ? あのビルの夜光灯、まだ灯ってる。