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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
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ガタン……ゴトン

 夕方、また彼女は品川駅のホームに佇んでいた。入って来た外回りには乗らず、俺は人波が過ぎるのを階段脇で待っていた。雑踏の中に、彼女の、久保さんの少し前屈みになった姿が見え隠れしている。

 前回は、会社に帰るのが億劫で、気分をまぎらすために声を掛けた。今日は、会社に帰って仕事を済まし、早く家に帰っても明日香は居ない。息を吐き、足を彼女に向けた。今回は、少しばかりの暇潰し。それと、寂しさをまぎらわせるのもあったかもな。

「お疲れ様です」

 ずれたメガネ越し、えっ、と白い顔が俺を見上げた。

「お疲れ……様」

 久保さんは一瞬俯き、ゆるい笑顔をこぼして向かいのホームを目を向けた。

「早く会社に帰らなくていいの? さっさと仕事済ませて帰ってあげな。新婚さん」

「嫁さん、家に居ないんです」

 怖い、いつもの顔が俺に振り向いた。

「何か怒らせたの?」

 違うって、今度は俺が僅かに笑った。

「嫁さん……ちょっと旅行です。仕事辞めたんで……」

 俺の実家に行きました。何て言えば、説明が長くなりそうだ。ここは適当に理由付けしよ。

「専業主婦にスイッチを入れ換えるための一人旅です」

 睨み付けが、柔らかく解れた。

「へー、女房に気分転換の一人旅行かせてやるなんて。あんた、意外と優しい旦那なんだね」

 笑うと、割に穏やかな顔になるってのは、前々から知ってるけどね。

「いやあ、別に優しくなんてないっすよ。結婚生活、ゴミ出しぐらいは、手伝ってやろうとは思ってますけど」

 俺が小脇に鞄を抱え直すと同時に、久保さんは、ぐふっ、と吹き出した。

 聞いて……みるか。

「久保さんは、何でいつもここに?」

 彼女は少し蹴り出した爪先辺りに寂しげな顔を落とした。

「声掛けたのは、これで二回目ですけど。この時間にここで電車乗るときは、いつも久保さんを見かけてましたよ」

 口を閉じて鼻水を啜り、彼女は向かいのホームに顔を向けた。

「あの子」と言う彼女の視線の先には、紺のブレザーと赤いリボンを襟元につけた白いブラウス、ベージュ地のタータンチェックのスカート、黒いエナメルのカバンを前で揃えた両手に提げた、制服姿の女の子がホームに立っていた。

「あの子って?」

「娘なんだ」

「へ!?」と俺は久保さんに顔を向けた。

「久保さん……」

「どうして見てるだけかって……聞きたいんでしょ?」

 俺は返事をせずに、またずれかけていた鞄を抱え直して俯いた。

「あの子、瑠美っていってね。もう高二になるんだ。別れた亭主との子なんだよ」

 目線を上げた。ホームに入る微風が、その子の肩までの髪を揺らしている。

「別れた亭主は医者で、結構大きい病院の跡取りでね。結婚した頃は、玉の輿って、皆に羨ましがられたけどさあ。あの子が生まれて、しばらくして……他に女作られてね」

 俺の微かな溜息は、久保さんには届いてなかったようだ。

「それで……亭主ともめて。亭主の母親には、あんたに女としての魅力がないから、うちの息子が女作るんだよ、って開き直られてね」

 まあ、魅力がないのは確かか、と笑う彼女が本気で笑っているはずがない。

「その女と一緒になりたいから、これで別れてくれって、結構な慰謝料掴まされたよ。その代わり、瑠美は置いて行けって」

 もう一度吐き出しそうになる溜息を呑み込んだ。

「あの子が私と来ても、幸せになんかなれない。医者の家に生まれて、これから何不自由なく暮らせるほうが、幸せに決まってるって……」

 久保さんに、聞いちゃいけないことを聞いたかな。それとも、聞きたくないことをわざわざ聞いちまったか。

「あの子、まだ小さかったから。寂しい思いさせないために、誰が母親か、分別つかない今しかないと思って、私一人で家を出たの」

 到着音が鳴り、押し寄せる風に、その子の髪が大きく吹かされた。電車が向かいのホームに入って来る。

「でも、すぐに後悔した。どんな形であれ、自分の子供を、娘を捨てたことに……後悔、後悔した」

 鼻水を啜る音がしていた。

「お子さんは……新しいお母さんと幸せになったんですか?」

 押し入れに転がっていた、親父との、あの粘土細工が目に浮かんだ。親に愛され切れなかった、親から捨てられた子供の立場。久保さんには惨いが、俺はその立場でしか考えられなかった。

「最近、風邪ひいてかかった医者が偶然、旦那の学生時代の友達でね。結婚式以来だったから、私はとっくに忘れてたけど、『あなた、もしかして……』って、その人は私のこと覚えたみたい。その人の話じぁあ、その女にも家庭があったみたいでね。亭主は私と別れたけど、女は家庭を捨て切れなかった。それを苦にした亭主は、首吊って自殺したんだよ。純情すぎる男。好きになったらとことん突っ走る男。最初は、私もそんな亭主の性格に惹かれたけど……最後には、その性格が仇になったみたいだね。あの子は今、おじいちゃんとおばあちゃんと暮らしてる」

 それ見たことか。親の勝って気ままな欲望で犠牲になるのは、いつも子供なんだよ、と腹で思っても、口から出せるわけねえか。

 電車が動き出した。その子を乗せて走り去って行く。残った風が、久保さんのほつれ毛を撫でていた。

「あの子に会いたくて仕方なかった。幼稚園の入園式も、小学生になっても中学生になっても、私はあの子をずっと追いかけてた」

 で、辿り着いた先はこのホームってわけか。

「我が子を捨てた母親。その罪の意識が、こことあのホームの距離かもね」

 今後も、見つめるだけにしてやれよ。悪いけど、子供は自分を捨てた親になんか会いたくねえよ。そんな昔に引きずり戻されなくねえよ。遠目だけど、可愛い子だった。母親のことなんて考えず、彼氏や友達と楽しい日々を過ごしたいに決まってる。

 到着音が鳴った。外回りの電車が入って来る。

「帰ります。お疲れ様でした」

 そんな作り笑顔より、いつもの睨み付ける怖い顔のほうが、似合ってますよ。

 プシューン、ドアが開き、振り返れば、まだそこに立っている、久保さんの丸い背中が電車から降りる雑踏に消された。

 吊革に指を引っ掛けて、窓の外を見た。電車が動く。黒や灰色、ホームに流れる人混みの中に、ピンクのカチューシャがチラチラと見えた。駅から電車が電車が離れる。窓の外にまた、あの女が……。俺の冷や汗が滲んだ顔を眺めながらそこで笑ってろ。

 

 着いたよ。明日はお母さんに会いに行くね。


 昨夜、明日香からメールが来て、その画面にも、あんたが現れた。指が震えて、心拍数が上がって、返事すら打てずに布団へ潜り込んだ。俺を、そこで笑ってろ。笑ってりゃあ、いいんだ。




 ガタン……ゴトン、ガタン……ゴトン。

 携帯ナビが教えてくれるとおりに、あたしはホテルから透の実家に向かっていた。東京の下町にもあるけど、路面電車に揺られるのなんて生まれて初めて。この匂いは……。昔々の記憶が甦る、小学校の教室と同じ、板張りの床から懐かしい油拭きの匂いがしている。押し合い圧し合う東京の電車とは違い、朝だというのに、お年寄りや制服姿の学生がゆったりと座っている。深紫の座席から車窓に振り返ると、八百屋、果物屋、パン屋に金物屋、線路沿いに平屋の商店が建ち並び、ビルとビルの間を縫うように日陰の中を走る東京の電車と大違い、連なる瓦葺きの屋根が、きらきら、朝日を反射させていた。

 ガタン……ゴトン、ガタン……ゴトン。

 透もこの電車に揺られてたのかな。

「お母さんの家の電話番号も教えといて」

「あっ、えっと……」

「知らないの?」

「いや、知ってたんだけど……マジ忘れちまってる」

 東京へ出て来て十年以上、一度も電話を掛けてないなら忘れても仕方ないか。あたしも、昔住んでた家の電話番号覚えてる? と聞かれれば……フッ、答えらんないよね。となれば、一泊二日で計画していた挨拶訪問も、もしお母さんが留守なら? 透から「帰りはいつになる?」って聞かれても、「ゆっくりしてくる」と期限なしに変更するしかなかった。予約したホテルを一泊から二泊に変更した。今日、会えなかったら、またもう一泊しよっと。

 携帯が震えた。画面を見ると、次が下車駅。鞄の肩紐を掛け直して、人形焼きと雷おこしでよかったかな、膝の上の、お土産物が入ったビニール袋を今更ながらの溜息で見下ろした。




 こんなときはこれだ。私はいつもの女言葉とにやけた腰使い捨てた。

「あんた、こんなとこで何してるんだあ?」

 ポケットに両手を突っ込んで声色を低くし、腹を突き出してその男に迫った。

「ああ?」

 口を開いて見上げる男。目の下がどす黒く染まっている。それに……この臭い。店の中で嗅ぎ慣れた、ツーンと鼻腔が突かれるような消毒液とは違う薬臭。甘ずっぱい胃酸のような臭い。昔々の、あのいやーな記憶が闇から出て来る。やってやがるな、こいつも。血走った鋭い目も薬の所為だ。私を見上げたまま、男はゆっくりと体を左右に揺らしている。この界隈では、野放しにしておけない殺気と臭気。

「ちょっと来な」

 襟首を掴んで、私は男を暗闇に引きずり込んだ。

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