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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
13/14

バーボン

 二人の周りで上がる笑い声も、店の中に流れるラテン調の音楽も耳に入らなくなり、ピザ屋独特の、オリーブオイルの芳しさも何処かに飛ばされた。感覚にあるものが全て蹴散らされるぐらいの動揺だった。

 あの女、お袋に、何で会いたいんだ?

 言おうとしたとき、こいつだけは俺の感覚に残っている、薬指で光る結婚指輪が目に映った。そう尋ねれば、次は、やめとけよ、と言うに決まっている。俺が反対すれば、何でよ? と明日香は来る。

 何でって、おまえよう。

 いいじゃない、会うぐらいさあ。

 指輪を買った日に初めての夫婦喧嘩? 嫌だね。こんな幸せな一時が、あの女が原因で険悪になるのも(しゃく)に触る。

「耐えるってのも、男の仕事だよ。結婚すりゃ、おめえにも分かるよ。透」

 いつか、社長が言ってたことが頭に過る。あの女、お袋だけには、二度と幸せをぶち壊されたくない。冷静になればいいんだ。俺はビールを空けた。

「いい?」

 不安げな上目遣いで俺の様子を伺う明日香に、不自然にならないような、精一杯の笑顔で応える。

 俺自身は、一生離れていようと決めた、いまだに湿気った露路の中で、駄々っ子のように唇を尖らせて俺を睨み付けるお袋という存在だが、律儀? 健気? 強気? 古風と言ってもいい、明日香には嫁さんとしてのけじめをちゃんと付けさせてやらないと。過去、俺があの女から受けていた仕打ちなんて明日香には関係ない。俺と結婚した明日香にとってみれば義理の母親だ。それで満足するならそれでいい。いいじゃねえか、別に。見栄はこんな具合に張ってやる。それに……。

「いいよ」

 震えを殺して、俺は足元の鞄を拾い上げた。中から取り出した手帳を開けてペンを走らせる。

「住所だけで分かるか?」

「あ、住所、分かる」

 明日香の言葉にペンが止まった。

「ほらあ、透の戸籍に住所書いてあったから。念のために……。てか、入籍したら、あたしの本籍地になるんだから、婚姻届出す前にメモっといた。携帯ナビで行き方は検索するからお母さんの住所、本籍地の住所でいいんだよね?」

 しっかりしてる、と言ってもいい。苦笑いをテーブルに落とした。

「いつ……」

 行くんだ? と明日香に顔を上げた。

「できれば、この週末にでも……」

 急だよな。




「変な男がうろついてるって、オーナーに伝えといてって……」

 電話を切った店員が振り返った。

 私はノートパソコンのキーボードを叩く指を止めて下唇を摘まんだ。電話の相手は近所の同業者。ここが風俗街という、商売で相手してくれてる女の子を自分の女だと勘違いしてストーカーみたいな男を生ませやすい、一種異様な場所だけあって、変な男がうろついている、こんなときは、神経質になったご近所さんが自治会長を買って出てる私に頼って来る。

 時計を見れば、もうすぐ十二時。私の店も、ご近所の店も、風営法に従って健全に十二時で閉店。となれば、女の子達がそれぞれの店から帰る時間になる。危ない時間か……。

「ちょっと、見て来る」

 私はノートパソコンを閉じて立ち上がった。




 洗濯と掃除なんて俺がやるのに、家を離れる前は隈無くしておかないと気が済なないらしい。冷蔵庫が一杯になるほどの買い物は、俺が飢えないようにするためだって。そんなの飢え死にする訳ねえだろ。

「やっぱり、手ぶらはちょっとね」

 やっと新幹線に乗り替える品川駅に着けば、明日香は構内にあるデパートに土産を買いに寄る。朝から出ようと思えば出られたのに、もうすっかり日が沈んでいた。見送りも楽じゃない。

 慌ただしい中、俺は昨夜、寝る前に明日香と話したことを思い出していた。

「帰りは?」

「うん……」

 口元を微笑ませて、明日香は下を向いた。

「透の故郷だもん。ゆっくり見たいし」

「そっか。じゃ、ゆっくりして来いよ」

 俺が不安になってどうするんだ。

 平日の日中は、黒、グレーや濃紺など地味なスーツを着た大量の労働者達が、黙々とした殺気を立たせて先を急いでいる忙しい駅だが、週末の夜は、色とりどり。賑わう人々が様々な声を交えて、緩やかな自然風を吹かせて行き来している。人の多さはさほど変わらないが、曜日と時間が違えば、同じ場所でも雰囲気が変わるもんだ。休みの日には、殆ど部屋の中でビールの缶を片手に酔っぱらい、人が集う所に行かなかった俺には知るよしもなかった。

 俺の左手には明日香の右手、右手は赤いキャリーバックを引いていた。ガラガラガラガラ、キャリーバックのキャスターの音が無数の足音の中に際立っている。暫くは明日香とお別れだ。キャスターの音が俺の寂しい溜息を消してくれた。

 新幹線の券売機で明日香は京都までのチケット、俺は入場券だけを買って改札を通った。


「喉渇いてないか?」

「大丈夫」

 強がっていても、いざとなればやって来た、透と離れる不安と寂しさを紛らす笑顔を上げた。

「あと……五分だな」

 透が到着時刻板と腕時計を交互に見た。

「行こ」

 手を引かれて、私はエスカレーターに乗った。

 今更、やっぱやめよ、何て言えないよね。透の手を握り締めた。

「京都は、修学旅行で行ったことあるんじゃないのか?」

「行くはずだった」

 ホームに着き、透が不思議そうな顔をしてあたしを見た。

「はずだった?」

「中三で行くはずだったけどね。学校に殆ど行ってなかったから。久しぶりに学校に行ったら、修学旅行終わってた」

 透が笑いを込み上げた。あたしも釣られて吹き出した。

 あたしが透の忌まわしい過去へ旅すること。きっと反対されると思ってたけど、透は意外というほど簡単に許してくれた。

 自分の幸せのためなら、人はそこまで残酷になれるのだろうか?

 これは、透だけではなく、あたしの過去への旅でもある。透もあたしと同じことに悩み、苦しみ続けている。二人の未来は、この過去を乗り越えないと、この疑問に答えを見いださないとやって来ない。

「行きそびれた京都。存分に楽しんで来いよ」

「うん」と頷くと、新幹線の到着ベルが鳴った。

 到着ベルの中、透の声が大きくなる。

「気を付けて、行って来いよ!」

「うん!」

 新幹線がホームに入って来た。

 ドアが開き、透が運んでくれたキャリーバックの取っ手に指先が掛かった瞬間、あたしは背伸びして、透の唇に自分の唇をぶつけた。

「行ってきます」

 敬礼して車内に入った。

 ドアが閉まっても、新幹線が走りだしても、あたしは透から目を離さなかった。

 お母さんに(ことづけ)は?

 透に、最後まで聞けなかった。




 少し前に降りだした雨で、俺の肩は濡れていた。

 高校を卒業して、家を出てから十年以上経つ。おばあちゃん、生きてるのかな? 親父は、幸せなんだろうか? 故郷に残して来た思いは、そんなことぐらいで、そこには、お袋の存在はない。存在自体を消し去りたい。

 ほら、また出て来やがった。この女……。

「あんたはもうお父さんのとこいっといない!」

 またほざいてやがる。拗ねた子供みたいな顔をしやがって……。畜生、汗が滲んで来やがった。堪えろ、堪えろっ。グラスを握り締めた。

「透ちゃん」

 あかねさんの声に気付くと、すうっと新鮮な酸素が胸に入って来た。

「顔色……良くないよ」

 カウンター越しから、彼女は心配そうにおしぼりを差し出してくれた。

「あっ、ありがとう」

 広げたおしぼりで眉間を摘まんだ。湿ったおしぼりの匂いが、朽ちかけていた神経を癒してくれる。

 目からおしぼりを離すと、ぱっと店の蛍光灯の光が視界を射す。グラスに残った冷酒を一気に呷った。


 明日香を見送ったあと、遅くなったが、結婚の報告をしにあかねさんの店に来た。

「おめでとう!」

 あかねさんは満面の笑み、そして、エプロンで目尻を拭った。

 そんな喜んでくれているに、花嫁が同伴じゃなくて申し訳ない。

「奥さんは?」

 当然に聞かれたから、一緒に来れない訳を話した。「そっかあ…」

 寂しげな微笑みが、ぐつぐつ煮えるおでんの湯気に撫でられていた。


「おかわり」と空いたグラスをカウンターにぶつける俺を、あかねさんの柔らかい笑顔が迎えてくれた。

「何で行かせちまったんだろ?」

 カウンターの上で注がれる酒を眺めがら呟いた。

「帰りはいつになるか分からない。ゆっくり俺の生まれた所を見たいんだって」

 二杯目の冷酒に手を伸ばした。

 よく考えれば、本当に、何故なんだろう。存在自体を消し去りたいあの女の元へ明日香を行かせたのは、過ぎたことになんて一々気にしちゃいられないよ、と安っぽい男の見栄を晒すだけが理由か? 違う、か。

 俺の結婚を、あのお袋がどう受け入れ、どう反応するのか、興味があったかも。年月が経ち、お袋の、あの残忍な性格が改善されている可能性があるか? そんな期待……ふっ、鼻で笑ってやるよ。自分の幸せのためなら、自分の子供も容赦なく邪魔者にしていまう、あの性悪が変わってなければ、俺の結婚を知っても、何となく結果は分かる。それならそれで、諦めが付いて、これからの人生、この悪夢とも、仕方ねえか、と仲良く共存できる。それが、本当の理由のような、気がする。

 冷酒が、そんなもんだ、それでいいんだ、喉を通った。

「理由はどうであれ、奥さんに一人旅行かせてあげるなんて、優しい旦那さんだね」

 あかねさんは、まな板に目を落とし、軽快な包丁の音を立て始めた。

「そう……かな」

 明日香に、お袋を目の当たりにして、お袋がどんな女か、理解してほしいとも、うっすらと思ってる俺が、優しい、そんな部類に入るのか?

 大根サラダが一皿、カウンターに乗せられた。

「今夜は雨だから、お客さん、もう来ないでしょ」

 バーボンのボトルと、からんからーん、氷の入ったグラスもカウンターに乗せられた。

「新婚旅行もまだ行ってねえのに、女房に一人旅行かせる。呑気な旦那だよ、俺は」

 カウンターから出て来たあかねさんが隣に座った。俺はボトルの栓を開け、彼女が傾けるグラスにバーボンを注いだ。

「透ちゃん……気付いてた?」

 とくとく、注がれるバーボンの音が止まった。

 あなたの横顔見れば……分かるよ。




 駅に着いたら、今夜は、予約したこのホテルに泊まって、明日は、地下鉄へ乗って……この駅で乗り換えて……。

 新幹線の中、手持ち無沙汰が呼ぶ、緊張と苛立ちを紛らすために、あたしは携帯ナビを開いて、透の実家への道順を再確認していた。透と結婚して、あたしの本籍地になった場所。ナビが映してくれるのは地図と道順だけ。どんな所なんだろう? どうせなら、そこの雰囲気も映してくれないかな。不安になってももう遅い。溜息で、窓の外に流れる景色を曇らせても、あたしは、その場所へ押し流されて行く。

 名古屋を出たら、次は京都に着く。

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