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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
12/14

決意

 会社に帰ると『明日はゴミ出し』というメモと一緒に指輪のパンプレットが俺の机の上に置かれていた。

 はいはい分かってますよ、とメモはゴミ箱へ、ありがとうございます、とパンフは鞄へ。

「新婚で昨日は遅くまで残業だったんだ。今日は早く帰ってやれよ」

 くわえタバコの社長は革の回転椅子を机から窓に向けた。社長も早く帰って、誘ってみりゃどうですか? 社長の背中に言ってやりたいけど、言えないな。


「原稿、媒体に回したら帰ります」

 明日香と約束もある。元々、今日は早く帰る予定だ。

「なあ、透」

「は、はい」

 走らせるペンをと止めて、社長の背中に目をやる。

「カアチャン、大事にしてやれよ」

 一階と二階の距離がこんなにもあるなんて……。

「はい。幸せにします」

 社長の椅子は窓を向いたまま動かない。

 机に目を落としても、暫くペンは進まなかった。



 仕事が終わった透から携帯に連絡が入った。待ち合わせ場所は渋谷の定番、仕事帰りの人達が群がるハチ公前。

 どんな人混みでも、あたしはあなたをすぐに見つけられる。息を切らせて、透が駆け寄って来た。

「思ってたより早かったね」

「そう?」

 じゃ行こ、と透は丁度、青になったスクランブル交差点を渡らずに、あたしの手を引いて駅の方に戻って行く。

「どこ、行くの?」

「ちょっとな」


 帰宅ラッシュの人波に逆らって行き着いたは、駅に隣接するデパート。

 デパートの一階を歩き周り、透は何かを探している様子だった。あたしの手を握り締めて、ひたすら前に進む透の無口は、何買うの? と質問する余裕も与えないほど、静かな迫力があった。

「よし、ここだ」

 透がやっと笑顔になって立ち止まったのはアクセサリー売り場。

 店の中に入ると、透は一つ息を吐いて、指輪やネックレスが陳列されたガラスのショーケースの前にあたしを引いて行った。

「どおだ?」

「どおってえ……」とあたしはショーケースを唖然と眺めた。

「何かお探しでしょうか?」

 ショーケース越しに、胸元で両手を結んだ女性店員さんがいこやかにやって来た。

「結婚……指輪です」

 唖然は消えない。

 あたしは透の腕にしがみついた。


 もっと高い店で晩飯食ってもよかったのに、ここでいいよ、と明日香が言うから、ビルの二階にあるピザ屋に入った。

 窓から見えるのは、センター街に連なる目映い電飾の列と、行く当てがあるのかないのか、その下をぞろぞろときゃっきゃっと流される人、人、人。やたらと瞳孔に飛び込んで来て、脳みそを掻き回される、ただ眩しいだけの人工灯に照らされて賑わっている人間界の光景は、とても夜景というもの静かな代物ではない。 

 明日香が窓に伸ばした左手。また指輪を眺めてる。薬指に小さく光る指輪が、そんな外の様子を静かに、そして、綺麗にしてくれるような気がした。

 パンフに載っていたような、それなりの値段がする指輪はサイズがなく、店員が言うには取り寄せになるとのこと。サイズがあるのは安いものばかりだった。俺からのプレゼント。二、三日ぐらい待ってもよかったのに、明日香が、今夜どうしても着けて帰りたいと……。一応はプラチナだけど、何の装飾もないシンプルなもの。二人で、それに決めた。明日香のには俺の名前、俺のには明日香の名前、そして、結婚した日付を裏に掘ってもらった。

「似合う?」

 デパートを出てから何度も同じことを聞かれる。でも、悪い気はしない。

「似合うよ」

 明日香は指輪を撫でた。

「憧れてたんだあ。ずっと」 

 

 。口を半分開けてショーケースを眺めていた明日香の潤んだ瞳を見て、冷静に見えるのは、驚きのあまり言葉が出ないだけだけと思った。


 結婚したら結婚指輪。ごく普通かもしれないけど、あたしは、ごく普通に着けられるのが、嬉しくて堪らなかった。

 こんなタイプの男もありかな。昔、ちょっと付き合ったお金持ちの男から高価な指輪やネックレスを貰ったことあるけど、これに比べたら……いや、比べたくなんかない。過去の普通じゃない飾り付けは、みんな捨てて来た。この指輪は一生外さない。

「透……ありがとね」

「普通だろ? 夫婦なんだから」

 その普通が嬉しいんだって。




 ピンク……黄色……赤、いや? 赤紫? どっちでもいいか、目の前で歪んでうねる安っぽい色彩なんて。

 ここは、女の方から媚びを売られる銀座じゃない。女日照りのスケベ面が誰にも相手されない性欲をふらつかせている街。そんな連中に吸い付き、たっぷりしっとり欲求を抜き取ってやる女どもの一人に、過去、俺は逆上せ上がっていた。ずるずる、鼻水を吸い上げ、迫って来たその店を見上げ、ふらついて来やがった足を止めた。込み上がるゲップを堪えて腕時計を見ると、天辺へ近付く短針に長針が追い付きそうな深夜。ポケットから新聞の切れ端を出し、ナナちゃん? 昔はジュンちゃんだったじゃねえか、丸めて口に入れ、おまえはいつも俺の中に居る、呑み込んでやった。

 うちの社長、ああ、違った、社長だった男が主宰した、クライアント向けのパーティーだった。

 ネオンに滲む涙に、おまえと初めてあった夜が映る。

 俺は……おまえを選んでやったんだ。



 薄いブルーの光線を夜空に向かって放つ、豪華ホテルの最上階。下界が一望できるスカイラウンジを借り切っての豪華な立食パーティー。気持ち悪い金歯をはめたオヤジ、でかい真珠のネックレスをしたおばちゃん、趣味の悪いカラースーツを着た実業家気取りの若い奴ら等々、金の亡者どもが、奇っ怪な高笑いを上げていた。誰のお陰で温かい懐と一緒に愉快に酒なんか飲んでられんだよ? 内心とは真逆の演技力が試される談笑をクライアントである成金どもに振り撒かなくてはいけない時間は、俺にとっちゃ鬱陶しく、退屈極まりなかった。グラス片手、迂闊に出そうになった欠伸を必死に堪え、涙が滲んで来た目を押さえたハンカチを離した。これは目の保養が必要、と俺はまた彼女を見た。彼女は二つ前のテーブルで客どもの相手をしていた。上げた髪からのほつれ毛が白いうなじに伝う、赤いチャイナドレス女。

 彼女は同僚の女じゃない。会社が客どもの為に雇ったコンパニオンの一人だ。ここに来てからずっと目を付けている。オンザロックのスコッチが入った俺のグラス。片目を瞑って顔の前に掲げ、氷の上に、その細い曲線をなびかせた。

「金の次は……女だよな」

 会議の後、社長がこっそり俺に耳打ちした言葉が、客どもの笑い声の中から染み出たような。しかし、仮にも仕事で来ている場所で客どもや同僚どもの手前、いくらコンパニオンとて、声は掛けづらい。見てるだけしかなかった俺に、ここしかないな、その機会が来た。彼女がさりげなくテーブルから離れたのを見て、一口酒を含んだ。

 黒のポーチを持って、会場から出た彼女は、きっとトイレで化粧直しだろう。トイレから出て来た所でばったり出会し、あれ? 中に居た子だよね、あくまでも偶然を装って声を掛ける。合コンで離れた席に座っているタイプの女にやる、見え透いたガキの手口。場所が場所なだけに、どう考えてもそれしかきっかけを掴めない。

 グラスをテーブルに置いて、コースターを被せた。

「ちょっと失礼します」

 こっちもさりげなく客に会釈してその場を抜け出す。

 ワインレッドの絨毯が敷かれた長い廊下に出ると、幸いにも俺以外誰も居なかった。右側の角を曲がればエレベーター、トイレは左側の角を曲がった所。トイレの方に振り向いたときだった。

「やっぱり、追っ掛けて来ると思った」

 背中からの声に驚いて振り返れば、右側の角から姿を現した彼女が俺を見ていた。

 え!? やっぱりって何だよ?

 唖然と立ち竦む俺に、微笑んでるのか? 上目遣いに睨んでるのか? 微妙な顔付きを送りながら、彼女は廊下の壁に背中を付けた。斜めに伸びる、チャイナドレスのスリットから覗かせる、白くて長い脚。見惚れたね。

「仕事柄、男の視線には気付くほうなんだけど……」

 背中を壁から離した彼女は俺に上目遣いと甘い香りを近付けた。

「あなたの目付きは、ちょっと露骨」

 そんなに? 苦笑いで俯き、眉間を摘まんだ。にしても、男の関心を察知して誘き寄せるなんて、相当な女だ。

「まっ、いいや」と彼女はポーチのジッパーを開けた。

「コンパニオンは副業。本業はこっち」

 ポーチから名刺を渡された。それは、新宿にあるファッションヘルス店の名刺。

「副業の方は……今日で辞めるの。元々、知り合いのヘルプで入ってただけだから。あたしに会いたくなったらここに来てよ」

 ジュン、名刺の名前。絶対、本名じゃねえよな。呆れた笑いが漏れる。

「あなた達のお客さんには配らないから安心してよ」

 じゃ、と彼女は喧騒なドアの中へ消えて行った。

 俺は彼女の名刺を、相当な女だ、内ポケットに入れた。

「金の次は……女だよな」 社長の言葉が閑散とした廊下に染みた。

 女だよな。最初、そう言われたときは腹の中で、女なんかに不自由してねえよ、と鼻で笑ってやった。実際、俺が働く会社の看板に魅了され、食べて食べて、と言わんばかりに、ケツとオッパイを振ってやって来る女はいくらでも居た。無論、寄り付いて来た淫乱どもは、丁度いいや、と仕事で溜まったストレスを下半身から噴出させる、一晩限りの道具にしてやってたけど……。

 社長の言う、次は女、と言う意味が、猫なで声を出して擦り寄って来やがる淫乱女を指していないことをやっと理解して一人で笑った。

「いいか、寄って来る者を相手にするな。選ばれることに優越感を得るなよ。選ばれることに満足する奴は、自分で何も探そうとしなくなる。与えられることに慣れてしまえば、脱落者になる」

 以前、社長が会議の席で俺達に言ってた。

 選んで、攻略して、手玉にとって、最後には感謝される。仕事も女も一緒。上唇を、そうだよな、舐めた。俺は自分で客を選んで金を得た。社長の言うとおり、次に自分で選ぶのは女だ。下唇を、やってやる、舐めた。

 いい女だ。俺をここまで引き寄せた見映えだけでなく、追って来た男に自分の正体を当たり前のように明かす根性も、あんな喧しい人混みの中で俺の興味を見抜く洞察力も、大したもんだ。彼女はファッションヘルスの風俗嬢。関係ないどころか大歓迎だね。あんな香りきで迫られて宣伝されたら、一般的な男は、ほいほいと店に行って、はいはいと金払って、じゅぱじゅぱと流れ作業のようなリップサービスを受けて、バイバイと帰り際に見せてくれる笑顔に騙されて、末路は足繁く通うカモにされる。悪いが、俺は、おまえのサービスに金を払うような一般的な馬鹿男じゃない。言い換えれば、金を払ってでないと受けられないおまえのサービスを、俺はタダで受けてやる。相手に不足はない。俺の自信は絶対だ。

 選んで、攻略して、手玉に取って、最後には感謝させてやる。

 金の次は…女、なんだよ。



 体が、揺れてるのか? いやあ、そうでもない。

 見上げる店がぼやけて来やがった。手のひらで目を擦る。最近、息切れが激しくなったような。あの黄色いカプセルの所為か? そんなことは、どうでもいいや。

 俺が迎えに来てやったぞ、明日香。おまえから逃げたのは、逃げなきゃいけなかったからだ。捕まっちまったら、おめえとの未来がなくなっちまうだろうが。諦めなくて……よかった。

 何度も店に通ってやったけど、俺はおめえにしゃぶってもらって一瞬の悦楽に満足するような、その他大勢の、普通の男じゃないんだよ。俺は特別な男だ。ポリシー通り、おまえと付き合うまで、店では指一本触れなかった。

「いいよ、店から給料もらってるからさ」

 俺の帰り際、おめえが拒否っても、「店は店。これは、俺から」と胸の谷間に挟んでやった一万円札は、おめえが俺に落ちる頃には十枚になってたっけな。

 俺は金の使い方を知っているんだよ。一瞬で終わるものにはビタ一文も払わねえが、永遠なものには……惜し気ない。俺の金銭感覚のお陰で、遠慮がちな顔をしていながらも、おめえは幸せだったに違いない。普通じゃない、金にまみれた贅沢な暮らしを忘れられるわけがない。

 おまえから逃げたんじゃない。逃げなきゃいけなかったんだ。もう一度言い聞かせた。

 ん? 出てきた涎を拭ったときだった。何だ? 客か? ハゲ頭のデブなオヤジが俺の方に歩いて来た。




 ビヤグラスを持つ度にカチカチ鳴る指輪。何かが挟まっているような、締め付けられるような。生まれて初めて着ける指輪への違和感を拭うには時間が掛かりそうだ。

「大丈夫?」

 明日香が、テーブルの上で神経質に動く俺の薬指に気付いた。

 顔の横で「平気さ」と薬指を動かした。

「あ、透。後で、透の分の指輪代はあたしが払うからね?」

「はあ? 何で?」

 サプライズもしたかった。だから、指輪の分は、俺が全部払った。結婚指輪ってのは、男が用意するもんだろ。違う? あれ? もうしかして……結婚指輪と婚約指輪って種類が違う?

「あたしの分は透が。透の分はあたしが。お互いに贈り合わないと、結婚指輪の意味がないでしょ」

 なるほどね。言われてみれば、そうかもな。

「でも、もういいじゃん。お互い、もう夫婦になったんだ。金の出所なんて一緒だろ」

「一緒でも。あたしが透に贈りたいの」

 つんと顎を突き出して明日香は摘まんだワイングラスを口に含んだ。

「分かったよ。明日香から贈ってもらうよ」

 俺はもう一度、指輪が付いた薬指を顔の横で動かした。

「透…」

 明日香が静かにワイングラスをテーブルに戻した。


 昨日からずっと考えていたことを透に打ち明けたかった。

「お願いがあるんだ」

「何?」

 透がピザをお皿から浮かせた手を止めた。

「あたしを……あたしを京都に行かせて。透のお母さんに会わせて」

 透のピザは宙に浮いたまま動かない。

 握った両手を膝に乗せ、あたしは真っ直ぐ透を見た。

 ここは、引けない。

 透の……あたしの旦那の悪夢は、あたしが追い払ってやる。

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