卒業
横たえた透の体から震えが消えて、寝息が漏れ始めた。雨音も消えて、雨樋から漏れる雫の音も……なくなった。消えた街灯の代わりに、薄い朝日がカーテンを透かす。ちゅんちゅんちゅん、と雀の囀りが聞こえて来る。眠気はない。怒りが染み込んだあたしの体は震え続けた。震えは嫌でもあたしを、あんたなんか、過去に運んだ。
「何見てんのさあ!?」
朝、台所のシンクに嘔吐し、コップに注いだ水を一気に飲んだ女は、低い声であたしに振り向いた。
乱れた茶色い髪を分けて、黒ずんだ目元と赤く滲んだ唇が見えた。昨夜、出掛けたときと一緒の服。ヒクッ、ヒクッ、としゃっくりを繰り返す。金色の輪が連なったネックレスを胸元で揺らしながら、まだ小さいあたしに近寄る女。
「何見てんだって聞いてんだよ!?」
酸っぱい臭いがした。
首を振って、薄明かるくなった天井に映る忌まわしさを払った。
やっぱり透と一緒だった。私の腕枕で眠る透。髪に唇を付けた。あたしが弱くなってどうすんの。あたしの透だから、あたしが守んなきゃ。枕元の目覚まし時計はまだ五時前。少し、寝なきゃね。透の髪を撫で、目を閉じた。
昨夜に降った雨が残る線路沿いの道。濡れた路面から照り返す朝日が眩しい。雨上がり独特の、湿ったアスファルトの匂いがする。車が水溜まりを跳ね、飛沫を避けて、明日香が俺の腕にしがみ付いた。
朝から腕組んで歩く? 周りをキョロキョロ見る俺の態度に、明日香が気付いた。
「新婚なんだから、別にいいじゃん」と唇を尖らせる明日香に、照れ笑いのような、苦笑いのような、ぎこちない顔付きを返した。
初めてする話だなんて、明日香に嘘を付いてしまった。あの昔話をしたのは明日香だけじゃない。
一緒に暮らしていたら、嫌でもばれる。明日香の前に一緒に住んでいた、デパートの店員だった女が言ったことをよく覚えている。
「昔、親にいじめられたあ!? 勘弁してよ。そんな、ありきたりのことで、うなされて。夜な夜な叩き起こされちゃたまんないわよ!」
普段から短気だったような。止めようもなく、一ヶ月も経たずに出て行った。
その点、スナックのチーママは楽だった。
「へえー、お母さんとお母さんの彼氏にねえ。可愛そうにね。まっ、いいわ。君がしたいときと私がしたいときだけ、こっちの部屋に入って来て。あとは……そっちで寝て」
そう流してくれたが、次第に性欲が失せていった。
確かに、よく遊んでくれた、優しい親父や種違いの妹の話まで、こと細かく語ったのは、俺の嫁である明日香が最初だったが、路上で突然息苦しくなる俺にも気味悪がってたし、俺の呻き声に叩き起こされ、何なの? とすっぴん顔で目を萎ませる女が気の毒で、昔ちょっとさ、とお袋とその彼氏にやられたことを話した。でも、嘘は嘘だ。
何故、明日香にそんな嘘を付いたのか?
昔の女達に仕方なく語った話と同じ話を明日香に、俺の女房になった女に語るのを申し訳なく感じた所為だろうか?
明日香には、ありきたり、と面倒臭く流され、可愛そうにね、とその場しのぎの同情を浴びせられたくないから、反射的に、初めて話すんだ、と話に重みを付けて、親身に聞いてもらいたかっただけかも?
いずれにしても、言ってしまったことを悔やんでもしかない。一緒に暮らしているんだから、いずればれる。他人から見れば、気味が悪い癖の原因は、早いうちに話しておいたほうがいい。逆に、さっぱり、した。姑息に、明日香の様子を見ながら、何日かに分けてゆっくり話そうと思ったりもしたが、よく一晩だけで話せたもんだ。たとえ、面倒臭く流されようが、形だけの同情を買おうが、明日香になら、どっちでもいい。俺自身、どうあっても、どうにもならないのが結論だ。忘れられない。逃げられない。そして、他人には理解されない。どうあっても、どうにも、だ。
今朝は、普段の朝と同じように、布団から伸ばした手をバタバタと振って、鳴り響く目覚ましのスイッチを切った。隣に寝ていたはずの明日香は? 既に開けられていたカーテンから入る、貫くような、痛い朝日がきつく目を塞がせた。
「おはよ!」
台所から明るい声。目を擦って、何だ、そこか。目覚ましが鳴る前に起きて、明日香は朝飯を作っていた。
「できた奥さんだねえ…」
お互いの胸を圧し合う満員電車に閉じ込められながら、事務の久保さんが品川駅のホームで俺に言ったことを思い出して吹き出した。
「何?」
今度は明日香が怪訝な顔で俺を見上げた。
「何でもない」
「変なのう」と明日香は身動き取るのも難しい所で、歪んだ俺のネクタイを直してくれた。
後ろからのオッパイより前からのおまえのオッパイのほうが気持ちいいに決まってる。
最初で最後。二人で通勤するのは。
「じゃあな」
「うん、じゃね」
五反田の駅を出て、軽く手を振り合った。
透は右で、あたしは左。少し進んで立ち止まり、振り向いたあたしを避けて大勢のひとが通り過ぎて行く。透の背中が雑踏に消されそうになる。
「透!」
立ち止まり、振り返った透にも、大勢の人が通り過ぎて行く。
「どうした?」
「夜……ごはん作って待ってる」
何だよ、そんなこと、と言いたそうな笑顔。照れた笑顔かも。
「楽しみにしてる」
じゃあ、と背中を向ける透に、まだ言わなきゃいけないことがある。
「透!」
なんだよ? みたいな呆れた顔をされても仕方ない。
あたし達を通り過ぎて行く人混みは止まらない。
「あたし……透を守ってくから! 安心してよ」
あたしはあんたを通り過ぎてやんない。
しゃがれた声の後は、必死に涙を堪える笑顔。
ごめん、明日香。夫婦って、他人じゃなかったよな。
「馬鹿、それは亭主が嫁に言うことだ! 俺が……おまえを守ってくよ。一生」
会社に着いて、「おはようございます」と発する声は、普段、目やにを取りながら出す声とは違ってやや張りがあった。
「よっ!」
窓際のデスクから返って来た社長の声は、煙が立ち上がるスポーツ新聞越しだった。
明日香と駅前で別れた後、幾分かは晴れた気分が外回りの準備をする俺の動きを軽快にしている。俺のニヤケ面がそんなに珍しいか? 咳払いはどういう意味だ? 分厚い眼鏡を押し上げて久保さんが俺に顰蹙を投げた。
「まだまだ若いもんに任せてられねえからよ」が口癖で、朝から馴染み客の店を回るのが日課だった社長は最近、出不精になっている。自分の客を俺に引き継いで、仕事を任せてくれるようになったのは、まだまだ若いもん、の部類から俺が脱したからじゃない。確かに、俺自身としては、仕事においては成長して、社長が言う、まだまだ、を越してるとは思うが、理由は他にある。
「お兄ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど……」
外で声を掛けられたのは、かれこれ半年前。
何とかしてやろうかと一時は考えてやったが、触らぬ神に何とやら。そんな難しい話は、お宅らでなんとかしてくれよ、と知らない、見えない、聞かなかった振りをすることに決めた。
そんなんだったら、仕事を若いもんに任せて出不精になるよなあ。
「行ってきます」とドアノブに手を掛けると、「ちょっと!」
久保さんに呼び止められた。
「あんた、何か忘れてない?」
ずれた眼鏡から睨む、四十路の女が燻らせる重厚な威圧感に、ごみ出しは明日のはずだろ? と反抗なんてしない。
「何を……」
ですか? と心の底から愛想笑いを送った。
触らなくても怖い神に、俺は常々下手に出る。平和を保つ賢いやり方だと思う。
久保さんは顔のそばに左手を掲げ、これ、と薬指を動かした。
「結婚したら結婚指輪。営業マンは、『私は家庭を持つ、しっかりした男です。信用してください』って言わずとも、結婚指輪で、お客さんにアピールしなきゃね。買ってないんなら、できた奥さんと一緒に買っておいで。女を喜ばすのも男の勤めだよ」
社長が読むスポーツ新聞。小刻みに震えて、微かな笑い声を漏らしている。
俺は営業マンとしても、男としても、まだまだ、の部類だった。
「やっぱり、それがいいよ」
オーナーは、「今日で……辞めます」と深々と頭を下げる私を快く許してくれた。
理由は聞かなくてもわかってる。やっぱり、という言葉の中に、それが含まれてるような気がした。
店を出たのは夕方五時過ぎ。風俗店が両脇に並ぶ通りの出口で振り返った。縞模様になったビルの影を映す通り。陰になった店のネオンだけが派手に目立っている。他の店のネオンは夕陽に染まりながらも、必死に目立とうとしていた。
日陰がいいんだか? 日向がいいんだか?
鞄を肩に掛け直して、卒業します、あたしは通りに背を向けた。
え? 一歩踏み出した足が止また。周りの……音も…。
「あんたなんか……」
黒ずんだ目元。赤く滲んだ唇。茶色い髪の中から……。
鼓動に叩かれる。息が詰まる。
「明日香!」
パチン、と消えた。
路面に視界を張り付ける私に、駆け寄る足音が聞こえる。
「もう終わったのか?」
透がそばに来ていた。
「うっ、うん。さっきね」
鼓動が落ち着き始めた。背中に伝う汗を感じていた。
透が私の顔を覗き込む。
「どうした? 気分、悪いのか?」
透の手を、何でもないって、と取ってごまかした。
「透、こんなとこで何してるの?」
「会社に帰る前に、小池さんとこに寄ろうと思って。小池さん……どんな感じだった?」
顎を引いて、萎縮しながら尋ねる透。どうやら、あたしを辞めさせたのは、自分の所為だと思ってるみたい。
「うん、『辞めて正解』って言われた。女の子いっぱい居るから。オーナー、気にしてないよ」
「そっか」
目を伏せた、薄い微笑み。ちょっとは安心したのかな?
「私の代わりに、透ちゃんを幸せにしてあげてね」
店を出るときに、涙ぐんで手を握ってくれたオーナーからそう言われた。
透はオーナーに気に入られてるみたいだから、何も心配することないよ。
「おまえ……これからどうすんの?」
「これから帰って……」
ご飯の支度、と言おうとしたら、透から「飯は、外で食わないか?」と誘われた。
卒業した日に、お祝いの外食ね。なかなか、いい感じ。
「うん、いいよ」
「小池さんとこ寄った後、会社戻って……。今日はそんなに持ち帰った仕事ないからすぐ終わる」
「じゃ、渋谷で降りて買い物してる」
カップルらしい会話になってる。
「仕事終わったら携帯入れる。渋谷で待ち合わせしよ」
「分かった」
朝と一緒。あたしは透のネクタイを直した。
「買いたいもんもあるんだ。渋谷、丁度いい」
ネクタイの結び目に触れていた明日香が俺を見上げた。
「何、買うの?」
妖しい上目遣い。
女を喜ばすのも男の勤め。だろ? 久保さん。
「内緒」
だから、サプライズぐらいさせろよ。
「まっ、いいや」
明日香は俺のスーツの肩口から埃を払った。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
明日から、この触れ合いと会話は玄関でするのか? 楽しみかもな。
風俗街に入り、少し歩いて振り返ると、明日香の姿はもう無かった。
青白く血色がない顔、震える、半開きの唇と眼球。あの顔付き、まさか、あいつは俺と一緒? だから、あいつは俺の話を……。
突然襲って来る現象が、どれだけ苦痛で死ぬ思いか、経験あるものでしか分からない。ありきたり、と面倒臭く返すような奴等や可愛そうにね、とその場だけの同情を差し出す連中には、それがどういうものなのか、想像がつくわけない。明日香が、もし、それに襲われているのなら、原因が何であろうと、俺も明日香と一緒に苦しむ。苦しんでほしい、というのは、一緒に苦しもう、という意味だ。蹴散らすためなら何でもする。
夕陽を帯びる空間が、次第に黒く濁って来た。
「行こうと思うんだ。あたし」
見つめる、その横顔は微動だもしない。
「逃げない。もう……逃げない。透と一緒に苦しめるんだから。もう、逃げる必要ない」
何も感じていない。そんな無表情に虫酸が走り、顔が震え出す。
「いいわ! 何も言わなくても」
飛び出した後、小雨が頬を濡らしていた。