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露路(ろじ)  作者: 時任恭一
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出会い

 またうなされた。


 飛び起きる直前、決まって、あの女が俺の前にしゃがみ、拗ねたように唇を尖らせ、下から睨み付けてあの台詞を吐く。

 悲鳴が轟いたのか知るよしもなかった。ただシーツがべったりと濡れている。枕元の目覚まし時計を掴み取ると、眠りについてからまだ三十分も経っていなかった。

 場末の露路にあるアパート。二階の角部屋。隣の同棲カップルの艶かしい微震も、真下に住む初老の大家が酒に酔って上げるだみ声も、今夜は伝わらない。カーテン越しの雨音が俺の荒い息に入り雑じっている。呼吸が若干落ち着いた。鼓動が正常時になる実感が得られるまで、首をさすりながらじっと項垂れる。もういいだろ。俺はまたカーテンを見上げ、ゆっくりと起き上がった。起こされた直後よりも、雨はおだやかになっているようだ。破れた雨樋あまどいからぽたぽたと、一階の軒に落ちる雨水の音の方が窓や道路を叩く雨音より大きく聞こえる。

 布団のそばに転がるリモコンを拾い上げてテレビをつける。六畳の部屋、明かりはこれで十分。部屋の隅、パイプハンガーからタオルを取り、首に掛けた。深夜のバラエティーだろうか、テレビからケタケタ漏れる笑い声を背に、俺は洗面所へ歩き出す。

 大量の水を蛇口から出し、飛沫を上げて顔を洗い、Tシャツを脱ぎ捨てて、シャワーを浴びるほどでもない、汗で湿った体を乾拭きした。こんな夜は今夜だけじゃない。あの女、あの台詞とあの顔付きには長い間、悩まされてる。 

 昼間は、着心地のよくないスーツに身を包み、聞こえだけいい広告代理店勤務の俺。仕事の内容はキャバクラ、ホストクラブ、ピンサロにヘルスの求人や営業広告の斡旋。その風俗店専門の広告屋の社長は、俺が以前、住み込みで働いていたパチンコ屋の常連客。タバコをくわえながらスロットを回す老人が「兄ちゃん、いい顔してるな。よかったら、うちに来ねえか? ベテランが辞めちまって俺一人じゃどうにもなんねえんだよ」とホールでドル箱を運ぶ俺に声をかけて来た。

 高校を卒業してすぐ東京へ出て来た。パチンコ屋の店員以外にも、道路工事、デパートの警備員、ビル清掃等々、ねぐらも日比谷公園から始まって三谷の簡易旅館を転々。「可愛い顔してんだね。坊や」とボーイとして雇われたスナック。初日の仕事が終わった後、その店のチーママから「住むとこなかったらうち来ない?」と顎を長い指でさぞられながらブランデーの香りがする吐息を吹きかけられた。直立不動の俺はお言葉に甘えて、三十路を踏む彼女のマンションでセックスと金に困らない、半分ヒモのような生活をさせてもらったけど、若いがゆえの飽きと萎えは、いくら楽しくても来るもの。

 住み込みで働けるパチンコ屋の仕事を見つけ、黙って彼女の下から去って三年が経っていた。どうせ長続きはしねえと思うけど、また気分転換でもするか、社長の誘いに乗り、大家と知り合いというこのアパートも社長の世話で入った。

 気持ちのどこかで人恋しかったのか、常に誰かと顔を突き合わせられる営業という仕事が性に合っていたのか、また転職するのが面倒臭いだけなのか、それとも、どぶ板に挟まれ、湿気ったこの露路が俺の行き倒れの場所なのか、もうここへ来て五年になる。

 鉄製のアパートの階段を降りると、ここに移り住んで以来、うなされた夜によく行く場所が同じ露路沿いにある。起こされる時間によっては閉まってるが、今夜はまだ開いている。霧雨の中、赤ちょうちんがぼんやりと浮かんでいた。『あかね』と黒字で書かれた白地の暖簾を捲り、格子戸を開ける。小上がりもない、L字のカウンターに十人も着けない、小さな居酒屋。

「いらっしゃい」

 口紅なんて付けなくても、綺麗な笑顔で迎えてくれる彼女、あかねさん。今夜も白い割烹着と上げた髪に水色のかんざし。それは誰かの贈り物だろうか、初めてここに来た夜からそのかんざしは変わらない。熱燗の湯気の向こうで涼しく微笑み、目を反らし、耳元のほつれ髪を直す彼女には赤よりも水色のかんざしがよく似合う。歳にして彼女は……想像するのはやめとこ。

「また寝られなかったの?」

 俺が何を最初に注文するか、あかねさんはよく分かっている。お通しを出す前に、一升瓶からコップに冷酒を注いで、カウンターに置く。

 喉を鳴らしながら、俺は一気に冷酒を空け、一息吐いて、「おかわり」とコップをカウンターに叩きつけた。

「お兄さん!」

 空いたコップを眺めていた。あかねさんはこんなしゃがれ声じゃない。

「飲みっぷりいいね」

 俺は声の方へ顔を上げた。女? 他の客の気配はしてたが、性別まで分からなかった。ここに来る夜は他の客なんて気にしたことなんてない。他の客も俺なんて気に止めない。あかねさんの色気を抑えた飾らない性格も手伝って、張り上げる笑い話と肩肘を突く愚痴話をしに来る女の客も多いが、俯いたまま一人黙って冷酒をひたすら飲み明かす、目の下に寝起きの隈を残す男になんて誰も興味を持たない。持つ訳がない。

 歳にして……俺より年下だ。二十五前後。少し茶色く染まった髪を無造作に束ね、グレーのチュニックから鎖骨を浮かせ、カウンターの一番隅に座る女。ここで、あかねさん以外の誰かに声を掛けられのは初めてだ。

 俺とその女だけ。他に客はいない。格子戸のすぐそばに座る俺は「どうも……」見ず知らずの女に苦笑いじみた会釈で答える。

「よかったら……こっちきて一緒に飲まない? お兄さん」 

 もっと元気で喋りの上手い奴が来るまで待ったらどうだ? 俺は、そんな類の玉じゃない。

「あ、い、いや……」

 愛想笑いで俯く。仕事で染み付いた営業職の断り方をした俺だけど、「こっちいらっしゃいよ」と熱燗が入るとっくりをその女に運んだあかねさんはついでに俺のお通しを彼女の隣に置いた。仕方ないか。カウンターに両手を突いて重たい腰を椅子から上げた俺は彼女の隣に行く。まだ重たい腰を椅子に下ろすと、二杯目の冷酒が来た。最近は仕事でキャバクラ嬢やヘルス嬢に会釈するぐらい。二十代の女の話相手なんて久しぶり。

 カウンターの上には彼女の熱燗、俺の冷酒とお通しのきんぴらごぼうが盛られた二鉢しか来ていない。カウンターの中、あかねさんは口元をきゅっと上げ、黙々と包丁を磨いでいる。酒以外の何か、注文するか。

「いそべ揚げ……」

 彼女と初めて目が合うが、すぐに逸らせてあかねさんへ向ける。

「二人分。俺の伝票に付けといて」

 こんなもんでいいのか? また苦笑いが浮かんでいたと思う。まだ口を付けていないコップに手が伸びると、「ありがとう、お兄さん」と言った彼女とまた目が合ったが、長くは続かない。

「まだ名前言ってなかったよね」

 名前? 別に言わなくても……。ふっ、と短い笑いがカウンターに落ちた。

「あたしは……あすか」

 こんな字だよ、と熱燗を注いだお猪口に、爪が真っ赤に染まった白くて細い指を浸け、カウンターに文字を書き始める彼女。

「明日が……香るって書いて……『明日香』だよ。初めましてっと」 

 彼女……いや、明日香は俺のコップにお猪口を鳴らした。最近、名刺を使ってしか自分の名前を名乗らなくなった俺。変わった自己紹介。今夜だけでも印象に残りそうだ。真似てみるか、と俺も冷酒に指を浸し、「俺は透明の……」とカウンターに自分の名前を書く。

「透。一字で……とおる」 

 微笑みを上げた明日香。俺は口に付けかけたコップを止め、「宜しく」と俯いた。


 流れ着いた露路の居酒屋。それが、あたしと透との出会いだった。

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