第3話 フィリア
時空間には、大小無数の泡(世界)が流れている。そして、泡の中心には時空エネルギーが集中する。そこには、泉や大木など、その世界を象徴するものが存在した。人々はそれらを監視することで、自らの世界の状態を把握していた。
ルシェの中心には直径10メートル程の泉があった。その湧水は、町の人々に癒しと活力をもたらしていた。
午前8時。
大きなタンクを背負ってメルフィーがやって来た。これも開店前の仕事である。泉の傍に置いてあるひしゃくで水を汲み、タンクへと移していく。
「ふぅ、これくらいでいいかな?」
メルフィーはタンクが一杯になったのを確認すると、蓋を閉めた。そして、ひしゃくの水を一口。冷たい水が喉を流れていく。
「うん、今日も美味しい!」
満足そうに頷くと、タンクを背負った。
「お、重い……」
当たり前だが、タンク一杯に入れられた水はかなり重い。タンクに取り付けたバンドが、ずしりと肩に食い込む。
「おや、メルフィーちゃん、大丈夫かい?」
入れ違いに水汲みに来たのは飯屋の女将だった。
「お、おばちゃん、おはよ……」
挨拶をする声も辛そうだ。
「水汲みくらい、マスターにしてもらったらどうだい? 居候だからって、そんなに気を使わなくてもいいのに」
「こ、これくらい、だ、大丈夫……」
空意地を張るメルフィーに、女将は溜息を吐いた。
「難儀だねぇ。ま、無理はしちゃだめだよ!」
「あ、ありがとう」
そう言うと、メルフィーはふらふらと町の中へと歩いていった。
「さて、私もさっさと戻らないと」
女将は、両手に持っていた大きなタンク -メルフィーが持っていたものを2つ- 一杯に水を注ぐと、軽々と持ち上げて店へと帰っていった。
「よいしょ。あと少し!」
額に汗を浮かべ、メルフィーが街路を曲がろうとしたそのとき、曲がり角の向こうから誰かが飛び出した。
「キャッ!」
避けることもできず、衝突したメルフィーは、その場に転んだ。ぶつかった相手も派手に転がっていく。
「いたたた……」
メルフィーは腰をさすりながら、その方向を見た。衝突した相手は女だった。赤いジャケットにタイトスカート、金髪のロングヘアー。
「いったーい! もう、ちゃんと前を見てよね!」
自分のことを棚に上げて文句を言う女に、メルフィーは見覚えがあった。
「それはお互い様です、フィリアさん!」
フィリアは、メルフィーを指差して言った。
「あー! 出たわね、ほわほわ娘!」
「ほわほわ娘じゃありません! メルフィーです! フィリアさんこそ、ちゃんと前を見てください!」
メルフィーは抗議するが、フィリアはさらりと受け流す。
「ふん、今日のところは許してあげるわ。で、マスターはいるの?」
「うん」
その返事に、フィリアから不機嫌な表情が一気に吹き飛んだ。
「あ、そう。それじゃ、先に行ってるわね!」
そう言うと、軽やかなステップで店の方へと去っていった。
メルフィーはため息を吐くと、タンクを背負い直し、ふらふらとその後を追った。
カラン、カラーン。
「おかえり。ご苦労さま!」
カウンターの向こうから、マスターが笑顔で迎えた。その向かいの席には、既にフィリアが陣取っている。マスターは書類に何やら書き込み、フィリアへ渡した。
「はい、今回の注文書」
「毎度ありがとうございます!」
フィリアは満面笑顔で注文書を受け取ると、大きな胸に抱き締めた。
メルフィーは無言で自分の胸を見る。こればかりは努力しても埋められないものである。無意味に胸が大きくても……。そこまで考えて、止めた。
「マスター、先月の売り上げ、一番になっちゃった!」
「システィリア商会で一番か。それはすごいね」
マスターに褒められ、舞い上がるフィリア。
システィリア商会とは、ミリアム・シティに本店を構える老舗の総合商社である。その品揃えは、子供用品から遺蹟のお宝まで幅広い。取り扱っていない商品を挙げるほうが難しいとまで言われている。
フィリアの年齢は21歳。18歳で入社したらしいので、まだ3年目である。競争の激しい商社で一番とは、確かにすごいことではある。だが、メルフィーは、顧客の半分はあの胸に魅せられたに違いないと思っている。更に、可愛い系の美人とくれば千客万来だろう。天が誤って二物を与えてしまった典型例だ。
しかし、そんなフィリアの猛烈なアタックにも、マスターは全く動じない。いつもの笑顔でさらりとかわしてしまう。毎回繰り返される光景。それでも諦めずにアタックするフィリアの情熱も大したものである。
そのとき、フィリアのバッグの中から電話の呼び出し音が聞こえた。
「フィリアさん、電話鳴ってますよ」
「いいわよ、後で確認するから」
そう言って再び会話に戻るが、呼び出し音は止まる気配が無い。
そして5分後。
「もう、うるさいわね!」
鳴り止まない電話にしびれを切らしたフィリアは、ようやくバッグから電話を取り出した。
この世界では都市間に電話線を敷くことはできない。回廊が不安定であるため、突然、ケーブルが切れてしまうのだ。そのため、ケーブルが不要な無線通信が発達している。とはいえ、携帯用の小型無線電話は高嶺の花だった。この電話も会社の備品であろう。
「もしもし、どなた?」
不機嫌な声で電話に出るフィリア。そして、その表情が一気に固まっていく。
「サ、サリファさん? す、すいません! 朝一で客先と商談だったので……。はい、すぐに戻ります!」
電話を切ったフィリアは大きなため息を吐いた。ちなみに、サリファというのはフィリアの上司だ。しかし、5分も呼び出し続けるとは、上司も見上げた根性である。
「マスター、これから商談らしいので帰ります」
「大変だね。でも、無理をしちゃ駄目だよ」
マスターの言葉に再び笑顔が戻るフィリア。
「私は大丈夫ですよ! ありがとうございます!」
フィリアはバッグを手に、店を飛び出していった。彼女が去った後には1枚の紙が舞っていた。メルフィーはそれを掴んで見た。
「あ、注文書!」
メルフィーは慌てて店を飛び出した。そんな二人を、マスターは変わらぬ笑顔で見送った。
☆★
ミリアム・シティ1番街。
フィリアの乗ったスクーターは、オフィス街の大通りへと入った。街は新たな管理者の誕生に沸き、至る所に歓迎の垂れ幕が飾られていた。
私は前の管理者の方がよかったけど……。フィリアは心の中で思うが、口には出さない。市民から絶大な信任を得ている今、余計なことを言うと、その批判は会社へと跳ね返ってくる。商売人にとって、それは命取りである。
スクーターは、レンガ造りの大きな建物、システィリア商会の前に停まった。脇にあるガレージへスクーターを置くと、フィリアは通用口へと向かった。
通用口には、年配の守衛が立っていた。守衛はフィリアの姿を見つけると、大きな声で言った。
「おはよう、フィリア。今日は珍しくゆっくりだな」
「おはようごさいます。で、何が珍しいんですか?」
「いつもなら、始業時間ぎりぎりに、パンを片手に駆け込んでくるじゃないか」
その会話を聞いて、クスクスと笑いながら社員らしき女達が通り過ぎていく。
「そ、そんなこと、大声で言わないで下さい!」
フィリアは顔を真っ赤にして訴えた。
「でも、事実は事実です」
扉の奥から声がした。思わず硬直するフィリア。
出てきたのは、長身で細身の女、サリファだった。年は30代前半だろうか。黒髪を後ろで束ね、金色の眼鏡の奥から鋭い視線を浴びせている。
「サ、サリファさんまで、そんなことを……」
「毎日、遅刻ぎりぎりで出勤するのは、あなただけよ。言われたくなければ、少しは早起きする努力をしなさい!」
「は、はい……」
先程までの幸せ気分が一気にしぼむ。
「お客さまがお待ちです。早く支度をして行きなさい!」
「はい!」
フィリアは大きな声で答えると、建物の中へと駆けていった。
「いつも思うんだが、フィリアに対して厳しすぎないかい?」
フィリアに哀れみの視線を送りながら守衛が言った。
「あの子は鍛えればもっと伸びるわ。いずれは私を越えるでしょう」
その視線を追いながら、サリファは言った。
「難儀な愛情表現だな」
守衛の言葉に、サリファはうっすらと笑みを浮かべた。
☆★
カラン、カラーン。
「ただいまー」
「渡せたかい?」
マスターの問いにメルフィーは首を横に振った。
「角を曲がるところまではついて行けたのですが……」
メルフィーは苦笑して言った。
「私が角を曲がったときには影も形もありませんでした。フィリアさん、速すぎです!」
「ま、とりあえず、お疲れ様。在庫はあるから、次に来たときに渡すことにするよ」
そう言って、マスターは窓の方を見た。中年の男が、中を覗き込んでいる。
「さて、お客さんのようだ」
「あっ」
メルフィーはドアを開け、準備中と書かれたプレートを裏返した。そして、笑顔で言った。
「おはようございます! ティールームへようこそ!」
ティールーム第3話、何とか1ヶ月で書き上げました。
亀ペースのさんたろーにしては、恐ろしく速いペースの更新!(笑)
きっと次回は数ヶ月後でしょう。(おいおい)
今回は、フィリア登場の巻でした。
これから、いろんな場面でメルフィーと絡むことになりますので、お楽しみに!