第2話 木を伐る重さを、身体で知る
4章 山へ続く道
翌週の休日。
まだ夜がうっすら青い時間、俺は最寄り駅から電車を乗り継ぎ、
さらにバスで山のふもとまで向かった。
林業の繁忙期は秋から冬──。
乾いた空気が木の水分を減らし、伐採と搬出に向いている。
山の斜面に影が長く伸びているのを見ると、
「ああ、今は確かに“山が動く季節”なんだな」
と実感した。
バス停から歩いて30分。
舗装の途切れた細い山道を登るほど、空気がひんやりしてくる。
胸の奥に冷たさが入り、
俺は少し身震いした。
木々の間から、白い息がふわりと上がって見える。
鳥の声も風の音もない瞬間があり、
何も起こっていないのに、
なぜか「誰かに見られている」ような気配がある──
そんな森独特の静けさ。
やがて、遠くにオレンジ色のショベルカーが見えた。
軽トラが横に止まっている。
「あった……」
胸の鼓動が早くなる。
本当に“あのNPCの風景”だ。
そこへ近づくと、斧の鋭い音が響いた。
早瀬圭介──
例の動画主であり、
俺が“NPCだと思い込んでいた男”が、薪を割っていた。
振り上げた腕はしなやかで、
着地した刃はまっすぐ。
冬の冷気と労働の熱が混ざった空気が、
ここだけ別世界のようだった。
俺は足を止めた瞬間、
「何も連絡してないじゃん……!」
ということに突然気づいた。
どうする!?
帰るか!?
名乗るか!?
早瀬が気づいて振り向いた。
「……あれ? 誰か来た?」
完全に逃げ遅れた。
「あっ、その……!」
俺は訳のわからないまま口を開いた。
「ゆ、YouTube……見てまして!
ずっと、ファンで……
あの、手伝えることがあればって……!」
噛んだし順番もおかしいし、
何言ってんだ俺。
しかし早瀬は一瞬驚いたあと、
ぱっと笑顔になった。
「えっ、見てくれてる人いたんですか!?」
「はい!
あの……すごいなって……!」
「うわ、めっちゃ嬉しいっす。
どうぞどうぞ、遠いでしょここ。
寒かったでしょう?」
ぐいっと距離を縮められ、
俺は戸惑いながらも握手を交わした。
早瀬は32歳。
元は木工家具のデザイナーで、
数年前にIターン制度を使って、
家族でこの町へ越してきたらしい。
「家もらえるって聞いて、
勢いで来たんですよ。
でもまあ、古民家はタダより高いんで……
風呂周りだけ行政がリフォームしてくれて、
助かりましたけどね」
明るく笑う早瀬。
その横顔に、
山の冷気で白く光る息が重なる。
「じゃ、まずは服ですね。
今日は動きますし」
俺は作業用の上着と防寒手袋、
長靴まで借りた。
袖を通しただけで、
“これから本物の仕事をする”
という実感が湧いてくる。
──そして、軽トラの助手席に乗り、山の奥へ。
林道は、
まるで“森が息をしている”かのように静かで、
ところどころ霧が漂っていた。
木を伐り、
太い丸太を地盤の弱い部分に敷き詰めて補強していく。
一本一本が、
覚悟の重さを持っているんじゃないかと思うほど、重い。
俺は丸太を少し動かすだけで息が切れた。
汗が背中を伝い、
吐く息は白く、
呼吸が浅くなる。
作業の音は、
「ゴトン」
「ザクッ」
「ガラガラ……」
静寂と騒音が交互にくる、不思議な世界だ。
けれど、木を動かせるたび、
早瀬が自然に声をかけてくれる。
「お! いい感じっすよ!」
「これできれば十分っす。
初めてとは思えない!」
褒められるたび、胸が少し温かくなる。
こんなに素直に喜ぶ自分が、
なんだか恥ずかしい。
「じゃ、お茶にしましょう」
早瀬が渡してくれた、
湯気の立つカップ。
森の中で飲むあったかいものは、
どうしてこんなに沁みるんだろう。
夕方前、
駅まで送ってもらう前に、
古民家の庭先へ案内された。
「これ、妻が育ててるんですよ。
よかったら持ってってください」
差し出された袋には、
新鮮な大根、にんじん、白菜。
土の匂いがして、
手触りが温かい。
「え、いいんですか?
こんなに……!」
「来てくれたお礼です。
こんな山奥まで、
本当にありがとうございました」
俺は胸がいっぱいになった。
「こちらこそ……
今日は突然の訪問、
失礼しました」
深く頭を下げた瞬間、
胸の奥で、
長い間固まっていた何かが、
ふっとほどけた。
言葉が、自然に出てきた。
「あの……本当に。
なんというか……
林道作ってくれて、
ありがとうございます」
早瀬は一瞬だけ驚いた後、
ゆっくりとうなずいた。
「……そう言われるの、初めてです。
嬉しいです」
帰りの電車。
膝の上の野菜の袋が、じんわり温かい。
俺は、ふと思った。
——俺、なんで“林道”に感謝したんだろう?
自分には関係のない道だ。
生活に必要なわけでもない。
でも、
感謝を伝えた瞬間、
心の奥のほうで、
何かが確かに救われた気がした。
「……なんだこれ」
窓に映った自分が、
少しだけ笑っている。
今日の疲れは重いのに、
心は驚くほど軽かった。
まるで、
“誰かと一緒に働いた”
という記憶そのものが、
ご褒美になったみたいで。
袋から、
野菜の匂いがふわりと立ちのぼる。
俺は、またこの山に行こうと思った。
自然に。
本当に自然に、
そう思った。




