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9/13

満汐引力 09

「どういう、こと、ですか……?」


夕食中に鳴った大波からの電話をリビングで受けた陽河は、絞り出すような声で問いかけた。


『ですから、寺岡汐さんは、差し入れも断られました』


「そんな、どうして?」


『理由はわかり兼ねますが、差し入れは『いらない』とおっしゃいました』


「僕からだと、伝えてくださいましたか」


言った直後、陽河は思い至る。仮に大波が陽河の名前を言わなくても、「差し入れの申し出」の主が自分だと、汐が気付かないはずはない。昨日、大波は「陽河の依頼で」と明言して、汐と接見しているのだ。


『お名前は、お伝えしておりません』


そう言った大波の言葉の続きが、聞こえる気がした。「でも、わかってらっしゃると思いますよ」と。


(汐さん、どうして……)


『何か動きがあれば、またご連絡いたします。失礼いたします』


事務的に耳に響いた大波の声に、返事をする余裕はなかった。差し入れすらも汐に拒まれて、陽河は身動きを封じられた自分を感じていた。


(まさか汐さん、僕を、頼らない気ですか……)


今日の昼に、大波に伝えられた汐からの伝言が現実味を帯びてくる。「今まで、ありがとう」と、汐は言ったと……。


「陽くん、大丈夫?」


食卓の母が気遣わしげに声をかけてきた。普段の自分なら、笑顔を作って振り返り「大丈夫」と言えていたはずだ。そしてなんでもない顔をして、食卓に戻れていただろう。


(でも、今は無理だ……)


汐が自分を拒絶している。その現実を認めたくない。認めたくないと思えば思うほど、その現実が陽河の体を震わせてくる。


「ごめんなさい……。今日は、もう、寝るね」


辛うじてそう呟いて、陽河は急いでリビングを出た。


(どうして、汐さん……)


「どうして」ばかりが頭の中をグルグルと回って、何の答えも弾き出そうとはしない。


逃げ込んだ自室で、陽河は灯りも付けずにベッドに倒れ込む。枕をグッと掴んで、顔を押し当てた。


「汐さん、どうして……」


汐が自分の申し出を拒絶する理由も「今まで、ありがとう」の意味もわからない。逮捕という大ごとになってしまって、もう、陽河にできることはないと見限られてしまったのか。それとも、陽河よりも頼れる相手が、実は誰かいたのか……。


(そんな人がいたら、汐さんは、あんな暮らしを送ったりしてない!)


汐と密に関わっていたのは、飯田と陽河だけだ。その飯田も逮捕されている今、汐が頼れるのは、自分だけのはずなのだ。


(それとも、まだ、僕を信じられなくて……?)


陽河が飯田のために、汐を構っているとでも思っているのだろうか。弁護士をつけることで、汐から飯田に有利な証言を得ようとしているとでも?


(そんなはず、ない……。汐さんは……)


逮捕の直前、「逃げよう」と言った陽河を、抱きしめ返してくれた。今だって、背中に回った汐の腕の感触を思い出せる。汐は自分を信頼してくれていたはずだ。


「どうしてですか、汐さん……」


汐がそばにいないから、問い詰めることもできない。


部屋のドアが軽くノックされて「ちょっといいか」と、父の声がした。動揺している自分を自覚しているから、顔を見られたくはなかったけれど、陽河はノロノロとベッドから立ち上がり、部屋のドアを少しだけ開けた。


「悪いな、気分がすぐれない時に」


父は、それ以上ドアを開けようとも、部屋に入ってこようともしない。


「ううん。僕の方こそ、食事中だったのに、ごめんなさい」


「それは構わん。ただ、言っておきたい事がある。陽河、自分の分を弁えなさい。平静も装えないような状態になるまで、一点に集中するのはやめなさい。その一点に、自分の金も時間も費やすのは構わんが、周りのことも自分のことも見えなくなるようでは、お前の手には余るということだ」


父の言葉に、陽河は俯きがちだった顔を、さらに俯かせてしまう。「お前の手に余る」。父の言う通りだ。


それでも汐を助けたい。汐のためならなんでもしたい。その思いが募って、でも何もさせてもらえなくて、気持ちばかりが空回りすることに焦ってしまう。


「毎日を滞りなく過ごし、自分の責務を全うして、その上で、やれることをやる。それが大人だ。そうでなければ、お前の日常の方が先に破綻する。家族、仕事、友人たち。それらを放り出さなきゃ達成できないことなら、お前の分ではない。日常を破綻させてしまったら、お前がしたいと願っていることもできなくなる。その基盤を維持することに、心を尽くしなさい。それで余力が足りないようなら、他人の力を借りる。そのバランスをとって、自分が崩れないようにコントロールすることを心がけなさい」


そう言うと、父は「おやすみ」と言って、また階下に降りていく。


(毎日を滞りなく過ごし、自分の責務を全する)


陽河は、父の言葉を心の中で反芻した。汐の逮捕から2日。業務自体から距離を置いているとはいえ、たった2日の間にも、陽河は自分が生活のコントロールを失っている自覚がある。


(日常を破綻させてしまったら、したいこともできなくなる……か)


陽河はまた、ベッドに倒れ込んだ。だけど、先ほどまで、あんなに苦しかった気持ちが、少し落ち着いているのを感じた。


(汐さんには、何もさせてもらえない……。でも、僕にはやるべきことがある……)


気持ち的には、そんな物も全て放り出して、汐のために奔走したい。だけど、そうして汐に何かできたとしても、陽河自身の足元が崩れていたら、汐を支え続けることは難しくなる。


(僕が僕の日常を守ることも、きっと、汐さんのためになる)


汐がどうして陽河を頼らないか。その理由はわからないけれど……。


(いつか、汐さんの気持ちが変わった時のために、僕は、僕の生活を維持していかなきゃ)


陽河はそう、心に決めた。







「寺岡さん、取り調べです」


呼ばれて、汐は壁にもたれていた体を起こした。開かれた鉄格子の扉から、廊下に出る。先を歩く係の後ろを、汐はただ、追いかけた。


逮捕されて数日は忙しいぐらいだった取り調べは、いつの間にか1日に1回になり、さらに短時間になり、呼ばれない日も増えた。呼ばれない日は1日が長すぎるから、取り調べがあった方がありがたいとさえ思える。


取り調べ室に入ると、いつもの人がいつもの位置に座っていた。汐が座る正面に1人、入り口近くの机に1人。


「寒くないですか?」


尋ねられて、汐は「はい」と答える。


「今日は、そんなに長くならないと思います」


そんな予告で、調書の確認が始まった。


取り調べが始まってから、汐は知っていることは知っているままに答えたし、知らないことは「知らない」と答えた。警察からされる質問で、初めて知ったことさえある。


汐が知っていたのは、汐名義の通帳が飯田の手元にあったこと。月末の夕方にコンビニのATMに行くと、10万円が入っていたこと。家賃分とスマホ代や細々した引き落とし分は残して、光熱費をコンビニで支払う。その残りが、いわゆる1ヶ月の生活費で、それを乗り切ると月末にまた10万円がもらえること。


「ひと月に、飯田さんの会社から、あなたの通帳にいくらぐらい振り込まれていたか、ご存知ですか?」


汐は知らなかったので、首を振るしかなかった。


そうした取り調べで汐が答えたことや知らなかったことが、調書というものになるようだ。それを読み上げる男の声を、汐はぼんやりと聞いていた。輪郭はわかるけれど、具体的にはよくわからない。そんな感覚だった。


時々、「ここまでで、認識と違うところはありますか?」とか「今のところ、意味はわかりますか?」など聞かれる。汐はそれにも、素直に対応した。


飯田と出逢って拾われて、散々な扱いをされたことは「私的な関係」と表現され、飯田に逆らうことさえ思いつかなかったことは「拒否した場合に起こり得る不利益を意識していた」と、読み上げられる。難しい言葉になっただけで、全て事実だった。


だから、飯田が汐の通帳を使っていることを「違法である可能性があると感じていた」のも事実だし、「その状況を止めるべきであったと思う」というのも、本当だ。


最後に名前を書くように言われて、親指でハンコを押させられた。ドラマで見たことがあるなと、思った。


「今日はここまでです」


そう言われて、汐はまた、同じ房の同じ場所に戻る。壁にもたれて空間を見つめていたら、不意に、陽河のことを思い出した。


(陽河、怒るかな……。俺が勝手に、サインしたこと……)


今日した調書へのサインが何を意味するか、汐にも漠然とわかっている。わかっていないのは、サインした中身がどれぐらいの重さかどうかだ。法律なんて知らないことばかりだから、ただ、自分が思うように答えてしまった。


その結果、自がどんなことになっていくのかすら、わからない……。


国選弁護人はすぐについたけれど、特に汐を守ろうという風には見えない人だし、汐も何を聞いていいのかわからず、接見も短時間で終わってばかりだ。


そんな中でも得た情報によると、次はまた検察の取り調べがあって、起訴されるかどうかが決まるらしい。


だから、今日、サインした調書の中身は、汐にとってすごく重要なもののはずなのだ。


『まったく、汐さんは!勝手なことをして!ちゃんと、僕の言うことを聞いてください』


陽河が傍に居てくれたら、そう言って、強引にでも、汐を守ってくれただろう。でも今、陽河は汐の傍にいない。いたいと思っていてくれていても、実際問題、無理なのだ。


だから陽河は、汐が逮捕された翌日には、もう、弁護士を手配して汐を守ろうとしてくれた。弁護士を通じて、汐に寄り添おうとしてくれた。


でも、陽河をもう、巻き込まない……。


決めたのは汐自身だから、断った。その翌日には、また同じ弁護士さんが来て、差し入れの申し出をしてくれたけれど、それも断った。


(陽河……、怒ってる?俺が全部、断ったこと)


あの陽河が怒るなんて想像もつかない。陽河はいつも笑っているか真面目な顔で仕事をしているか、汐を心配そうに見ているかばかりで。


『かなり、心配されています』


陽河の弁護士さんが教えてくれた時、メイセア化粧品の撮影現場で汐を見ていた陽河の表情が、すぐに浮かんだ。陽河の方が泣き出すんじゃないかと、逆に汐が心配になるぐらい、陽河は悲しそうに汐を見ていた。


あんな顔を陽河がしているかと思うと、胸が痛む。


(早く、何かが決まればいいのに)


起訴されることでも、刑務所に入ることでも、入らないことでもいい。何かが決まれば、後は時間が流れるだけだ。時間が流れると、いつの間にか苦しいことも悲しいことも痛かったことも、「そうだったかもな」というぐらいの軽さになっていく。


これは汐の経験則だ。時間が経つにつれて、飯田にされた嫌なことや怖いことを「そうだったかもな」と、やり過ごせるようになった。飯田の顔を見なければ、思い出すこともなくなっていたかもしれない。


だから、時間が経てば、陽河の心配も、もしかしたら怒りも、「そうだったかもな」になって、思い出すレベルの軽さになっていくはずだ。


そうすれば陽河は、汐と会う前の陽河に戻っていける。


汐を思い出すような出来事がなくなれば、陽河は、陽河らしい毎日を送れるようになるはずだ。







『寺岡汐さんが、起訴されました』


執務室を出た廊下で大波からの電話を受けた陽河は、思わず天井を仰いだ。スマホを持つ手が震える。ゴクリと喉が鳴った。


大波からも元々聞かされていたし、自分でもかなり調べた結果、不起訴は難しそうだと覚悟は決めていたが、これから汐が裁判にかけられるということが、よりリアルになる報告だった。


「そうなると、拘置所へ移送ですね」


『はい』


「拘置所へ移ったら、一度、接見に行っていただけますか」


『……』


大波の返事が沈黙になった理由は、陽河にもわかる。拘置所の接見は、弁護士であっても本人の意思で断れる。汐はきっと大波との接見を断るだろうと、大波は思っているのだ。


「今、お願いしている依頼と、別料金であることはわかっています。その分は、お支払いしますので」


『承知しました』


「よろしくお願いします」


陽河は電話にもかかわらず頭を下げる。そして通話を終えた。


(汐さん……)


廊下に立ち尽くし、陽河は目を閉じて深呼吸をする。大波との電話の後は、必ず汐の面影が鮮明になる。面影というには、あまりにも顔の造作も表情もわかりにくい姿なのだけど……。


六畳一間の安アパートが生活のほぼ全てだった汐が、警察や検察の取り調べをどんな気持ちで受け続けたのか。怖くはなかったかと考えると、また、自分の感情がざわついてくる。それをすぐに脇に避ける技量のない自分を、情けなく感じた。


陽河はもう一度、大きく息を吸うと、意識して表情を整える。社内ではもう、飯田の逮捕すら話題に上がらなくなった。汐のことを気にしている人など、陽河ひとりだけだ。いつの間にか別の案件にアサインされ、陽河の業務も通常の量に戻っている。


(毎日を滞りなく過ごし、自分の責務を全する)


今、陽河にできることは、それだけだった。



それでも陽河は、4日後の夜に大波の事務所を訪れていた。大波からはすでに、汐が大波の接見を断ったことは聞いていたが、相談したいことがあったからだ。


「お電話でもお伝えした通り、寺岡さんから接見は断られました」


「はい」


勧められた椅子に座って、陽河は頷く。


「起訴内容について、国選の先生に問い合わせいただけましたか?」


陽河の質問に、大波は頷いた。


「罪名は、業務上横領の共犯です。期間は6年近く、金額は5000万円前後とのこと。裁判は短期で終わる見込みです」


大波が発した言葉に含まれる数字の大きさに、陽河は吐息を漏らす。汐が飯田に奪われたものがどれほど大きかったかが、実感できた気がした。


(いや、それだけじゃない。汐さんは、それ以前に、もっと酷い目に遭わされて……)


仕事納めの日に、汐の部屋を訪れた飯田に抱いた感情とは違う種類の感情が、陽河の中に湧き起こる。あの時の気持ちが怒りなら、今、陽河が感じているのはきっと、憎悪だ。


(殴り倒すとか、蹴り飛ばすだけじゃ、足りない……)


飯田が、あの日の汐のように、体を丸めて悲鳴をあげ続けたくなるぐらいのことをやり返したい。そんな思いに駆られた。


「……汐さんは、どうなるんでしょうか?」


「一般論になりますが、被害総額や期間、主導ではなく共犯という点を鑑みて……。さらに、認め裁判、かつ弁済が十分でないことを考慮しますと、懲役3年から5年のレンジではないかと思います。執行猶予もつかず、実刑は避けられないでしょう。あくまで予測で、裁判官次第ですが」


「3年、から5、年……」


陽河は呆然と呟いた。想像以上の長さに、あまりにも理不尽だと思ってしまう。


法律の観点から言えば、汐は飯田の共犯ということになるかもしれない。だけど陽河から見れば、汐は飯田に搾取され続けた被害者だ。その汐が、飯田の手を離れてなお、そんなに長い時間を奪われてしまうなんて……。


(それじゃあ、局長に囚われているのと変わらないじゃないか!)


まるで飯田が、自分が行くべき地獄に、汐を道連れにしようとしているかのようだ。


(そんなことは、させない……。汐さんは連れていかせない……)


「……証人として、僕が、出廷することは、可能ですか」


その質問が陽河の口から出ることを、大波は想定済みだった。


「国選の先生の判断で、今回は証人は立てないそうです。情状は、書面でと伺っています」


「だけど、このままじゃ汐さんが!!」


思わず激昂した陽河に、大波は変わらず淡々とした口調で続ける。


「嘆願書を出すことは可能です。ですが、あなたは被害会社の社員です。会社に知られた場合、懲戒や配置転換、最悪、退職を迫られる可能性もあります。それに、正直に言いますと、今回の量刑であなたの書面が決定的に効く段階ではありません。国選の先生も、必要な情状は出しています」


大波の言葉に、自分の無力さを痛感した。今、会社を敵に回すことはできない。陽河自身の日常は、会社があって保たれている。そんな中で、すぐに転職することも現実的ではない。収入がない状況では、汐はおろか自分自身さえ破綻してしまう。


「旭さん、支えることと、人生を賭けることは違います。今は、何もしないことが、一番の支援になります。そういうタイミングなんです。ですから、あなたを止めるのが、今日の私の仕事です」


陽河はぐったりと椅子にもたれた。汐のためにできることが何一つない。汐に頼ってももらえない。自分ひとりだけが熱くなって、それでも突破できない壁にぶつかって、傷つき続けている。


それでも汐に関わりたいと思ってしまう。汐を孤独にしたくなくて、汐に苦しい思いも悲しい思いもしてほしくなくて……。


(汐さん……)


汐の名前を呼んでいたい。そして、顔も表情も見えにくい汐が見せる、幸福そうな感情の揺れを感じていたい。


「……せめて、裁判を傍聴できますか?」


陽河の呟きに、大波は、ようやく落とし所に到達したのを感じた。陽河にできるのは、そんな小さなことでしかないことを、一番理解しているのは大波だ。


「傍聴は、リスクが大きいです。が、どうしてもという場合は、絶対に目立たないようにしてください。行くのは1回、初公判のみ。会社関係者がいた場合も、接触はしないこと。とにかく、目立たないことだけ、守ってください」


陽河は、大波を見ないまま、小さく頷いた。







(汐さん?)


小さな法廷の扉を開けた瞬間、陽河はモジャモジャ髪の後ろ姿に釘付けになった。


(先に入廷してるなんて思わなかった、汐さん……)


大波の指示に従って、開廷直前に来たことを後悔した。もっと前に来ていれば、入ってくる汐を見ることができたのに……。そうすれば、横顔ぐらい、見られたはずだ。


汐の肩は、心細げにすぼまっている。あの肩に腕を回して、隣に座ってやりたいと思う。そうできないなら、せめて声をかけたい。自分がここにいることを、汐に伝えたいたい。


『目立たないことだけ、守ってください』


大波の言葉と、自分が汐にしてやりたいことの間で、陽河は揺れた。そして、大波の指示を選択する。自分がしてやりたいことが、必ずしも汐のためになるわけではない。


(ドラマとは違うんだ)


個人の気持ちの熱さとか、秩序を無視した行動は物語を盛り上げるけれど、陽河がそうしようとするたびに、大波には退けられてきた。それは陽河を守るためであり、陽河を守ることは汐を守ることでもあると、大波は教えてくれた気がする。


陽河は、座る人もまばらな傍聴席の最後尾、一番端の席に静かに座った。ここからなら、斜め後ろから汐の様子を伺うことができる。


裁判官が入ってきて、その場の全員が立ち上がり、そして座る。儀式めいた一連が終わると、汐は裁判官に起立を促された。


「氏名を教えてください」


「……寺岡、汐です」


およそ1ヶ月ぶりに聞く汐の声だ。小さいけれど、はっきりした回答だった。


「生年月日を教えてください」


汐が答えた日付を、陽河は胸の内で反芻する。汐の誕生日も年齢も知らなかったことに気づいた。普通の人間関係なら、早々に話題に上がりそうなものだけど、そんな日付けを知ることよりも、陽河には、やるべきことが多すぎたのだ。


部屋の掃除から始まって、夕食ぐらいはまともな物を食べさせたいとか、ちゃんと眠れる環境を作らなきゃとか。そして汐のためになりそうな仕事を形にすることや、飯田から汐を自由にするための算段をすること。


(5月生まれだったんですね、汐さん。それに、一個とは言え、年下とは思わなかったな)


無機質で冷たい空間に座っているにもかかわらず、陽河は場違いにも(これから毎年、ちゃんとお祝いをしよう)なんて、考えてしまった。毎年、汐と一緒に誕生日を迎えて、それを祝う。汐のことだから「嬉しくねーし」と言うかもしれないけれど、それでも、必ず、祝ってやりたい。


初めて2人で迎える汐の誕生日が、何年先になるかはわからない。陽河の目の前で、汐は起訴内容を認めてしまった。検察や弁護士の質問にも、淡々と事実を答えていく。誤魔化そうとか印象を操作しようとか、そうした素振りは一切、見られない。


立って、答えて、座る。立って、答えて、座る。その単調なことを、汐はただ、こなしている。陽河はそれをただ、見ていることしかできない。


検察は、懲役3年8ヶ月を求刑した。それに対して弁護人が情状を訴える。


裁判官に「最後に言いたいことはありますか?」と問われた汐は、それにも短く「ありません」と答えただけだった。


汐は悪くないのだという陽河の感情も、これからだって汐の傍には自分がいるのだという思いも、汐を必ず守ってみせるという気持ちも、何ひとつ引っかからないまま、汐の審議は終了する。柵からこちら側にいる自分が、この裁判にとってどれほど他人であるかを痛感させられた。


裁判官が出ていくと、汐の傍に制服の男が近づいた。促された汐が立ち上がる。扉に体を向けた時、汐の横顔が見えた。ヒゲも前髪も、陽河の傍にいた時と変わらないままだ。顔も表情も視線も、わかりはしない。


(汐さん!)


少しでいいから振り返ってくれることを願ったけれど、汐は俯いた視線を上げないまま、陽河の前を通り過ぎた。陽河が来ているなんてことを思いつきもしなかったのか、それとももう、陽河の存在を忘れてしまっているのかと、気落ちさせられる。


それでも陽河は、汐が法廷を出る瞬間まで、その姿を見つめた。汐が出ていった扉が閉められても、その扉から、視線を外せなかった。


何ひとつ、汐の役に立てていない。それは陽河にとって、ひどく苦しいことだったけれど、それでも、傍聴に来て、汐が考えていることを理解できた気がする。


汐は、自分自身を守ることなんて考えていない。少しでも罪を軽くしようなんてことは願っていない。汐自身が、それを自分の罪だと実感しているかは別として、降りかかった災難だと思っていたとしても、世の中がそう思うなら、そうなんだろうと、受け入れている。


ある意味、それは汐らしい素直さだ。


陽河からすれば、理不尽としか思えなくても、それはもう、柵のあちら側の人たち通じはしないのだと、実感できた。


(だったら、僕は、柵のこちら側でできることをする)


汐はいずれ、こちら側に帰ってくる。判決で、どれぐらいの刑期になるかはわからないけれど、必ず、帰ってくる。


考えてみれば、これまで汐のために動いてきたことだって、全部、陽河が勝手にやってきたことだ。確かに汐の意向は聞いてきたけれど、汐自身が強く願ったことを実現してきたわけではない。


それに……。


(汐さん、だった……)


離れて座るしかなかった席で、汐の後ろ姿を見守るしかなくても、そう感じられたことが、一番大きい。逮捕以来、一度も会えていないし、声も聞けなかった。度重なる拒絶に、自分は誰のために頑張ろうとしているのか、わからなくなっていた気がする。


法廷を出ていく時にようやくうかがえた、あのモジャモジャの頭の、顔も表情もわからない男の横顔は、間違いなく汐だった。その顔を一瞬見られただけで、陽河の隣に、汐の体温が蘇った気がする。


どうしてかわからないけれど、陽河は汐のために、何かしたくて仕方がないのだ。汐に喜んで欲しくて、わかりにくいけれど笑って欲しくて、楽しいとか嬉しいとか、そういう感情に満たされていてほしいと、願ってしまう。汐がそう感じてくれる何かを、自分が差し出したいと思ってしまう。


陽河の意思とは関係なく、思ってしまうんだから仕方がない……。


退廷を促す係員の声に、陽河は静かに、立ち上がった。







消灯前、廊下を歩いてきた刑務官に、汐は番号を呼ばれた。


「郵便」


その言葉の意味もわからず、汐は「はい」と返事をすると、立ち上がって刑務官の前に立つ。


「手紙だ。受け取るか」


反射的に受け取ってから、「はい」と返事をした。すでに開封されている封筒の表に、間違いなく汐の名前が書いてあった。


刑務官はそのまま去っていく。汐は手の中に残った封筒をじっと見つめる。


差出人は、陽河のような気がした。


刑務所に連れて来られてすぐに、刑務官との面談があった。面会や差し入れについての「受け入れ」「拒否」を聞かれた際に、手紙についても同じことを聞かれたのを思い出す。


面会や差し入れは、絶対に陽河が申し入れてくる気がして、拒否した。手紙は迷った末に、受け入れにしたと思う。


汐はこれまでの人生の中で、手紙をもらったことがない。だから、もらってみたかったのかもしれない。いや、いくら陽河でも、手紙は書かないだろうと思っていたのかもしれない。


陽河からスマホに送られてくるメッセージは短かった。前の担当者が、意味のわからない指示をダラダラ文字で送ってくるのに比べて、陽河は「遅れます!」「今出ました!」「何時につきます」と、用件だけを伝えてきた。その分、指示は言葉で、汐の隣で伝えてくれた。


(陽河?)


差出人が陽河であることを知るのも、陽河でないことを知るのも怖い。汐は手紙を持ったまま、宛名に書かれた自分の名前を見つめた。


自分の名前を、綺麗だと思った。丁寧に書かれた3文字が、自分を表す文字だなんて信じられないぐらいに。


その手紙を持って、陽河は定位置に座り込む。畳の上に、そのまま手紙を置いて、汐は膝を抱えた。


(陽河から?)


どうやって汐の所在を知ったのかわからないけれど、陽河なら、どんな方法を使ってでも、見つけてくれる気がしていた。そして何か、汐にとって嬉しい事を差し出してくれる。


(陽河をもう、巻き込まない)


そう決めたから、面会も差し入れも、陽河が手配した弁護人も拒否したのだ。裁判にも来ている気がしたから、後ろは振り返らなかった。


これを読んだら、陽河を巻き込むことになるだろうか?


そう思った時には、もう、汐は封書を裏返して差出人を確認していた。思った通り、陽河の名前があった。もらった名刺に書かれていた陽河の名前。最初の一文字が「あさひ」で、太陽の「よう」に大河の「が」。「大河」の意味がわからなくて調べたら、川のことだった。


住所も見覚えがある。汐のアパートの住所だ。


自分が住んでいた部屋がどうなったのか、汐は知らない。


(もしかしたら、部屋をどうするとか、そういうことかも)


家賃が引き落とされていた汐の通帳にはもう、お金は入ってこない。そうなると、部屋を借り続けることはできないはずだ。


汐は封筒を手にすると、中から便箋を取り出した。3枚か4枚か。この中に、陽河が自分に伝えたいことが書かれているのだと思ったら、それを知りたい気持ちに逆らえなかった。


『汐さん』


最初に書かれた文字を見た瞬間、陽河の声で呼ばれた気がした。たったそれだけで、汐の目頭が熱くなる。陽河が隣にいて、一緒に手紙を覗き込んでいるような錯覚を覚えた。


『今日は、汐さんの誕生日です。おめでとうございます。

 今年は会えそうもなかったから、手紙で伝えようと思いました。

 主役がいないのでパーティーはできないけれど、汐さんが戻ってきたら、からなず、盛大にお祝いしますね』


手紙に書かれた言葉を口にする、陽河の表情まで浮かんでくる。陽河はいつも笑顔で、楽しそうで、優しい。


そして陽河は、いつも未来の話をしていた。汐が楽しくて嬉しくなれる未来の話をしてくれていた。


(手紙になっても、変わらねぇのかよ……)


汐が陽河のそばに戻ることを前提として、未来を綴る文面が、本当に陽河らしい。


『5月はゴールデンウィークがあるけど、汐さんの誕生日には少し早いから、来年からはゴールデンウィークに仕事をして、汐さんの誕生日あたりで代休を取るようにします。そうしたら、誕生日のお祝いに、約束していた温泉にも行けるし、ちょっと足を伸ばして旅行も行けると思うんです。旅先は、色々調べて、一緒に考えましょう。と、言いつつ、僕は先に、調べ始めてるんですけどね。


 梅雨前だったら、沖縄に行けそうかな……なんて、考えています。前にロケで行ったことがあるんですが、びっくりするぐらい海がきれいです。その時は、あまり時間がなくて観光らしい観光ができなかったんですけど、2人で行く時は、ゆっくり見て回りたいですよね。僕はあまりスケジュールを詰め込むのが好きではないので、たくさんの場所は回れないかもしれません。でも、毎年、沖縄に行って、全部の観光地をクリアしていくのも、楽しそうじゃありませんか。


 そう思ったら、沖縄にどれぐらい観光地があるのか気になって、調べてみています。小さな島のはずなのに、行ってみたいところがたくさんあって、最初にどこに行くのがいいか、迷ってしまっています』


いつだったか、陽河が自分のことを「優柔不断だ」と言ったのを思い出した。確か、ピザを選んでくれていた時だ。陽河が迷う姿なんて初めて見たから、笑ってしまった覚えがある。


だけど何故か、今は想像がつく。PCやスマホを眺めながら、「ここがいいか」「あそこも捨てがたい」と、旅先に迷っている陽河の姿が目に浮かぶ。だけど最後の最後に、陽河はきっと「ここだ!」という所を見つけ出す。


それはけして陽河にとって良いところではなくて、絶対に汐が喜ぶ場所だと、陽河が確信できる場所なのだ。


『汐さんが戻ってくるまでに、ベストなプランを考えておきます。だから汐さんも、楽しみにしていてください。 陽河』


そんな言葉で締められた手紙を手にしたまま、汐は両膝に目を押し付けた。


汐は少しずつ、刑務所での暮らしに慣れつつある。変な話、ここでずっと暮らして来たんじゃないかと錯覚することさえあった。自分みたいな人間には、こんな場所がしっくりくる。結局、生まれも育ちも、生き方も、こういうのがお似合いな人間なんだと感じていた。


だから、陽河の事を思い出すと、前世の幸せな記憶ぐらい、遠い昔の事ように感じたりもする。


だけど陽河は、まだ、汐の事を忘れていないのだ。汐の事を思い出して、その先の未来の事まで考えている。こうして手紙に書くことで、汐を励ましてくれているのかもしれないけれど……。


(優しいにも、程がある……、陽河……)


汐の担当として、担当以上の事をたくさんしてくれたのだから、もう、汐に構ったりしなくていいのに……。


(陽河は、いつまで、俺のことを覚えている気なんだろう……)


あの底抜けに優しい男は、「僕だけでも、汐さんを覚えておくんだ」と、使命感にすら燃えている気がして……。


汐はギュッと、唇を噛み締めた。

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