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満汐引力 08

その日、陽河は汐の部屋のちゃぶ台で、汐のポートフォリオをまとめていた。


コンペ案件で、花江がクリエイティブディレクターとして汐を提案するための材料になるのだ。


これまでの汐の実績は、ほぼ全てが飯田の実績となっているのが痛い。


花江からは「チームのみんなも、事情はほぼわかってるから。寺岡の力を見れるものを準備してくれればいい」とは言われているけれど……。大手を振って出せるのは、先日のメイセア化粧品の案件ぐらいだ。


「くっそー!」


あれもこれも載せたいのに、飯田の名前が表立っているものは、気分的に載せたくない。だけど、載せないと数が少ない。


ジレンマに陥っていた陽河の手元で、スマホが鳴った。木島だ。


「もしもしー」


『もしもし、旭?今、会社でとんでもないことが起きてる』


気軽な気持ちで電話に出た陽河は、ひそめられた木島の声に眉を顰めた。


「何?」


『飯田局長が逮捕されたっぽい』


「はっ?」


陽河は咄嗟に汐を見る。陽河の声が大きすぎたのか、汐も驚いた表情でモニターの上から陽河を見ていた。陽河は慌てて、汐に背を向ける。


「『ぽい』って、どういうこと?」


『まだ、噂でしかないんだ。ただ、15:00ぐらいに警察が来て、飯田局長が会議室に呼ばれて、さっき連れていかれたらしい』


「……容疑は?」


『これも多分でしかないけど、横領と背任じゃないかって。それで、その、汐さんにも容疑がかかるんじゃないかって、俺、思って……』


「……なんで?」


『横領の共犯になるだろ、見方によっては……』


「まさか……」


どう考えたって、共犯はあり得ないと陽河は思う。汐は、一方的に飯田に搾取されていたのだ。それを共犯などと言われたら……。


『俺も、社内でもうちょっと情報を集めるから。とにかくお前は、汐さんの傍にいてやって。何かわかったら、また、連絡する』


そういうと、木島の電話は切れた。


(そんな、馬鹿なことがあってたまるか!!)


下ろしたスマホを、陽河は握りしめる。


(体も才能も金も搾取され続けて、今度は、横領の共犯……?冗談じゃない)


そんなことになったら、汐は刑務所に入れられてしまう。前科者になってしまう。


取られて、取られて、取られて、取られた挙句に、汐をそんな目に遭わせるなんて……。


「陽河、何か、あった?」


汐の不安そうな声に、陽河は表情を整えようとした。笑って「大丈夫」と言ってあげなきゃ……。だけど、衝撃が大きすぎて、陽河は体の震えすら止められない。


「陽河、言えよ。何があった?」


キシッと椅子が鳴って、汐が近付いてくる音がした。陽河の腕に、汐の手がかかる。その手を逆に引っ張って、陽河は汐を抱きしめた。


「逃げましょう、汐さん……」


「……陽河?」


「とりあえず、この部屋を出ましょう。考えるのは、どこかで落ち着いてから……」


「陽河!!」


腕の中で鋭い声を出した汐に、陽河はビクッと体を震わせる。


「何があった?」


「……局長が、逮捕されたようです。横領と、背任で……」


ためらいがちな陽河の言葉に、汐は「ふぅ……」と息を漏らす。面白くて見ていた裁判物のドラマで「横領」はよく出てきた。陽河が日本語でも字幕が出るようにしてくれたから、漢字も知っている。


(それに、俺が巻き込まれてんのか……)


飯田から月に10万をもらっていたのが問題なのか、入金の大半を飯田がせしめていたのが問題なのかは、分からない。どっちにしても陽河が「逃げよう」と言ったのは、自分も逮捕される可能性があるからなんだろう。


「……とにかく、荷物を……」


そう言って汐を手放そうとした陽河の背中に、汐は手を伸ばす。引き寄せて陽河の胸に額を預けた。


陽河の温もりを感じていると、幸せな気分が押し寄せてきて目眩がしそうだ。陽河は、変なヤツで、面白くて、優しい。あんまりにも優しいから、関わらなくてもいいはずの汐に、必要以上に関わってしまった。


「汐さん……」


もう一度、陽河の腕に囲われる。それだけでもう、十分だと思えた。汐の事を、こんな風に優しく抱きしめてくれた人なんていない。汐から何かを奪っていかなかったのも、陽河だけだ。


それどころか陽河は、くれてばかりだ。次から次へと、汐にたくさん、差し出してくれた。


(もう、なんもいらない。いっぱい、してもらい過ぎたぐらいだし)


陽河に食べさせてもらった物、入らせてもらった撮影現場、作らせてくれたデザイン……。どれもこれも、今、思えば、汐の人生には起きるはずのないことばかりだった。ふかふかの布団も、おかずのある夕飯も、温かい防寒着も、陽河だけが与えてくれた。


鍵も変えて、ずっと居てくれて、汐の部屋を安心できる場所にしてくれた。


そんな陽河を、これ以上、汐の人生に巻き込めない。もし本当に自分が逮捕されるなら、ここから先はもう、陽河に甘えるのはお終いだ。


(俺は、ひとりでも大丈夫)


口に出したら「どこが大丈夫なんですか」と怒られそうだなと、汐は思う。陽河から見て、ひとりで生きてきた汐があまりにもダメだったから、構わずにはいられなかったのだろうし。


でも本来、自分はそういう人間なのだ。陽河から見てダメと思われるような生活ですら、汐からしたら「普通に生きている」感覚で。それ以前、飯田の家に住んでいた頃は「最悪」で、もっと前に母親と住んでいた時は、どんな言葉で表現したらいいのかわからないぐらい、どん底だった。


(だから大丈夫。今更、逮捕されたところで、良くも悪くもならねぇし)


怖いのは、そんな汐を、陽河が「なんとかしよう」とすることだ。ついさっき「逃げましょう」と言ってくれたみたいに、自分自身の後先も考えず、陽河が汐と同じところに堕ちてこようとしそうで、怖い。


そんなことをさせてしまったら、陽河に嫌なことや苦しいことが降りかかってしまう。しなくていいような辛い目に遭うかもしれない。


そんな目に遭うのは、汐ひとりで十分だ。本来それは、汐ひとりに降りかかるものなんだから。陽河が汐を庇って、守って、自分に傷をつけるなんて、馬鹿げている。


(だから、俺だって、お前を守るし……)


もう二度と、陽河に甘えない。陽河を巻き込まない。


(陽河は、あったかい……)


この温かさだけは覚えておこうと、汐は思う。この温かさを守るために、汐はひとりに戻るのだ。


階段を上がってくる複数の足音が聞こえる。警察は必ず複数人で行動する。これもドラマで知った事だ。


呼び鈴を押しているんだろう。「カチ、カチ」とボタンを押す音がする。呼び鈴が鳴らないので、音はノックに変わった。


「寺岡さん、いらっしゃいますか」


陽河の腕の力が強くなったけれど、汐は自分の腕を陽河の背中から解いて、その体を押しやった。


「汐さん……」


陽河が呟くみたいに呼ぶのを無視して、汐は玄関に向かう。鍵は開けっぱなしだったから、すんなりドアは開いた。


「寺岡汐さんですか?」


スーツ姿の男に聞かれて、汐は頷く。


「警察署の者です」と言って、男は警察手帳を掲げた。


「業務上横領の件で、逮捕状が出ています」


男は汐の反応を伺っているようだったが、汐が何も言わないでいると「これからご同行願います」と、ドアを大きく開いた。


汐が靴を履こうとすると、背後から「汐さん!」と陽河の声がした。それも無視して、汐は靴を履いて外に出る。


「合わせて、家宅捜索の令状も出ています。このまま、こちらに上がって捜索を行います」


言うが早いか、3人が汐の横を通り過ぎて行った。それと同時に、「汐さん!!」という陽河の声が、もう一度上がる。「下がって下さい」と、押し殺した警察官の声が被さった。


「上着は?」


最初の男に聞かれて、汐は首を振る。男は汐の半歩後ろに着くと、「下に降りてください」と指示を出す。


引っ張られたり、押されたりもしない。汐は素直に階段を降り、敷地の外に止まったパトカーの近くで手錠をされた。そのまま、パトカーに乗せられる。汐の隣には、最初の男が1人乗っただけだ。


そしてパトカーは、サイレンも鳴らさずに走り出した。


びっくりするぐらい淡々と、汐の逮捕劇は終了した。汐自身が、拍子抜けするぐらい、あっさりと。


アパートを振り返りたい衝動に駆られたけれど、汐はそれを堪える。ただ目を閉じて、陽河の体温を思い出した。


(陽河……)


陽河には、ずっと言いたいことがあった。クリスマスパーティーの日は具体的に言葉が思い浮かばなくて言えなかった。具体的な言葉が見つかってからは、なんでか口にするのが恥ずかしくて言えなくなった。


陽河に抱きしめられている間に、言えたら良かった。そんなことも思いつかないぐらい、陽河の体温を覚えておくのに必死だったけれど……。


(ありがとうって、言っておけば良かった……)


心の中で呟いた途端に、汐の口から嗚咽が漏れた。


もう、陽河には会えない。


陽河が会おうとしても、会わない。


これから先、陽河が何を準備してくれて運んできたとしても、汐はもう、陽河を巻き込まないと決めたのだから。






「家宅捜索」という大層な名前の割に、それ自体は1時間ぐらいで終わった。


立ち会いを求められた陽河は、部屋の片隅でその様子を見ていたが、警察が押収できたのは、汐のPCと、机の周りのデザインの出力紙とスマホ、HDD、それからPCデスクの引き出しの中から取り出した数点のものだけだった。


一応、押し入れの中身も全部出していたが、洋服や寝具は押収品に入らないらしい。陽河の私物のタブレットや業務用のPCも持って行ったが「一応ですから」と、丁寧に断ってから持って行った。


陽河の洋服があるのを見て、「ご同居を?」と聞かれた。陽河は「仕事で詰まっていた時には泊まり込んでました」と答えるに留めた。


警察も、押収品の少なさに戸惑ったのではないかと思う。流しの下や風呂の天井まで開けていたけれど、「何かを発見した!」という騒ぎも起きなかった。


警察が汐の部屋を出ていってから、陽河は出しっぱなしにされた洋服や寝具を押し入れに片付けた。それだけで汐の部屋は元通りになる。モニターは残されたから、その陰から汐がひょっこりと顔を出すのではないか思うぐらい、変化はない。


だけど、汐はいない。汐は逮捕されたのだ。


「汐さん……」


呟いた途端に不安が押し寄せてきた。汐がこれからどうなるのか、全く予想がつかない。警察は手荒なことをしないのか、汐はどんなところで過ごすのか、そこの環境はどうなっているのか……。心配事はいくらでも思いつく。


そして、汐を守れるのは自分しかいないと、強く思った。どんな状況であれ、汐を守りたい。


「そうだ、弁護士だ……」


自分が法に明るくない分、プロの手助けがいる。自分の知り合いの中に、すぐに繋がれる弁護士がいるか考えたが、思いつかなかった。会社の顧問弁護士などは論外だし、今日、明日にも動いて欲しいのに、法テラスに問い合わせというのも、まどろっこしい。


陽河は腕時計を確認して、スマホを取り出した。誰に情けないと思われてもいい。陽河が今、心から信じて頼れるのは父親しか思いつかない。


時間はまだ、21:00前だ。電話をかけると、父は数コールで応答した。


『もしもし』


「もしもし、お父さん……。陽河です。実は、信頼できる弁護士さんがいたら、紹介を頼みたいんだけど……」


陽河が用件を告げると、父は深いため息を吐いた。


『この時間に、滅多に連絡を遣さない息子からの電話だ。いい知らせではなさそうだとは思ったが……』


「すみません」


『すぐに家に戻りなさい。話はそれからだ』


有無を言わせぬ口調の父に「はい」と答える。父はすぐに電話を切ったようだ。


タクシーを呼んで待っている間、陽河は汐の部屋の戸締りを確認し、エアコンを消した。カーテンを閉め、ガスの元栓も閉める。汐が逮捕されたと言うのに、妙に冷静な自分に、自分自身で驚いた。


だけど、他所を向いていた汐のPCチェアの向きを直した時、突然、嗚咽が漏れた。背もたれを抱きしめて、汐の体温を探す。ここに座って、ただひたすらにモニターを見ていた汐を思い出すと、やっぱり、汐が警察に連れて行かれたことは理不尽としか思えなかった。


「汐さん……、僕が、助けますから……、絶対に……」


今頃、全く知らない場所に置かれた汐が不安でいるんじゃないかと思うと、胸が痛む。何人もの警察に囲まれて、怖い思いをしてやしないか、心配でたまらない。


「汐さん、必ず、助けます。だから、待っていてください」


チェアの塗装の剥げた手すりに、陽河は額を押し付ける。


汐が一番触れていた場所だから、気持ちが伝わると信じたかった。







陽河からおおよその話を聞いた父は、渋い顔をしている。


「それで、局長が横領で逮捕されて、その共犯として、お前が担当しているデザイナーも逮捕されたと。話を聞く限り、確かに会社の金を2人で共謀して横領していたと言われても、仕方がないと思うが」


「いえ、汐さんはきちんと仕事をしてて。支払われたデザイン費は正当な物です。それを局長が、汐さんから搾取したと言うのが、正しい」


「その違いを立証できるかどうかなだ。そもそも、そのデザイナーに、弁護士費用を払えるだけの金はあるのか」


「……」


「まさか、お前が立て替えるつもりか?」


「……はい」


陽河の返事に、父は重いため息を吐いた。


「どうしてそこまで庇おうとするのか、皆目、見当もつかんな……」


父はそう言ったものの、一枚のメモを陽河に差し出した。


「お前が覚えているかわからんが、昔、よく、家に遊びにきていた男だ。私の大学時代の後輩で、弁護士をやっている。刑事事件も手掛けているそうだから、頼りになるだろう」


メモに書かれた名前と電話番号を受け取って、「ありがとう、お父さん」と、陽河は礼を言う。すぐにも電話をかけたかったが、流石に「明日にしなさい」と、止められた。


やがて、話が終わったのを見計らって、母が顔出す。


「陽くん、お風呂に入っちゃって」


「……ああ、ありがとう」


母に礼を言って、陽河は一旦、自室に戻る。デスクの上に、カバンとスマホ、そして父からもらったメモを丁寧に置いた。


精神的にクタクタだったけれど、風呂に入り、自室のベッドに潜り込む。汐の部屋の布団に比べれば、広くて温かくて、本当に心地いい。


だけど、その分、汐の体温が傍にないことに、淋しさが募る。汐がいた隣に体を向けても、むく犬のような汐はいない。


(汐さんは、温かくしてるかな……)


思ったら、自分ばかり親の庇護下に逃げ込んだように感じた。事実、そうなのだと思う。


自分が汐を助けると言いながら、結局、弁護士すら父親の紹介に頼ろうとしている。


(いや、いいんだ。僕のプライドなんて、なんの役にも立たない)


使えるものなら、なんでも使う。それが汐のためになるなら……。


(汐さん、明日には、弁護士さんに相談ができます。そうしたら……)


あなたが少しでも安心できるように、しますから……。


僕が、あなたを、守りますから……。







陽河の依頼を受けて、汐が留置されている警察署を訪れた弁護士の大波は、接見申請を終えて受付近くの椅子に座った。


(あの陽河くんが、社会人だもんなぁ)


陽河の父親は、大波の大学の先輩に当たる。学生時代から仲良くしていて、陽河の父が結婚し、陽河が生まれた頃も、よく自宅にお邪魔しては、食事をご馳走になったものだ。


陽河が子役として活躍し始めた頃、大波も事務所を替わったことで多忙になり、あまり陽河宅を訪れなくなった。だが、年に1・2度、陽河の父とは酒を酌み交わす仲だ。


息子が順調そうに見えた俳優業から足を洗った時も、新卒として大手の広告代理店に入った時も、そうした酒の席で、陽河の父は陽河の心配を口にしていた。その割に、陽河自身の進路には一切、干渉をしない様子であるのを「先輩らしいな」と、思っていた。


だが昨日、「息子から依頼がいくかもしれない」と連絡をもらった時、陽河の父は口にした。


『社会人として、まだ未熟者だ。無理を言うなら叱ってやってくれ。本人がもし、自分の力量を超えるようなことを背負おうとしたら、断ってもらって構わない』


言われるまでもないと、大波は思った。そして陽河と会って、陽河の父の心配が杞憂ではないと感じた。


「弁護士さん、接見室へどうぞ」


留置係に案内されて、接見室に入る。椅子に座ってノートとペンを取り出した。


しばらく待っていると、分厚いアクリルの向こうの扉が開いて、恐ろしくモジャモジャな男が入ってきた。


留置所の支給品と思われる、サイズの合っていないスウェットが、両手さえ隠してしまっている。今日、久しぶりに会った陽河の洗練された姿と、目の前の男の見栄えのギャップに、大波は一瞬、会う人物を間違えたのかと思ったほどだ。


男は警戒心を露わにしながら、大波の前に座った。


「こんばんは。弁護士の大波と申します。寺岡汐さんですね」


マイクに口を近づけて挨拶をする。汐はわずかに頷いた。顔を覆うヒゲと目元を隠す前髪のせいで表情は読めない。


「旭陽河さんから相談を受けて参りました」


大波がそう言った時、汐はピクリと体を跳ねさせた。


「私選弁護人をつけるおつもりは、ありますか?」


「ありません」


昨夜の内に、当番弁護士から、おおよその説明は受けているのだろう。汐は即答した。


「費用については、旭さんが支払う意思を示していますが……」


大波が伝えても汐は首を横に振る。


「わかりました」


大波は、側に置いたノートを閉じた。


「今後、勾留、起訴という流れになります。私選弁護人をつけない場合は、国選弁護人が選出されるでしょう」


それにも汐は小さく頷く。わかって全てを断っているのだと、大波は理解した。


「もし、気が変わったら、留置係の方にお伝えください」


そう言って大波が立ち上がると、「あの……」と、小さな声が聞こえた。


「なんでしょう?」


汐は椅子に座って前を見たまま、「どうしてますか?」と尋ねてきた。


「旭さんでしたら……、かなり、心配されています」


「そう、ですか……」


陽河が心配しているという事実を、汐はどう受け止めたのだろうと、大波は思う。愉快なぐらい表情が見えないモジャモジャの男は、一点を見つめているように見えた。


「では……」


大波は一礼をして、部屋を出ようとする。その背中に「今まで、ありがとうって、伝えてもらえますか」と、言葉が追いすがってきた。


大波が振り返った時も、汐は椅子に腰掛けたままだった。ただ、顔だけは大波の方を向いている。


「お伝えします」


大波が言うと、汐は黙って頭を下げた。







陽河は翌日の昼休みの時間を利用して、アポイント通りに大波の事務所を訪れた。


出社はしたものの、PCを押収されているので、普段通りの業務はできない。汐が進めていた別件は、一緒にメールに入っていた木島が引き継いで、クライアントとのやり取りや新しいデザイナーのアサインに動いてくれている。


それが、今の陽河には有り難かった。押収されたPCの代替機で、他の同僚に頼まれた資料などを作りながらも、気がつけば汐のことを考えてしまっている。汐がどんな環境にいるのかわからな過ぎて、気もそぞろになりがちだった。


大波は、昨日の夜の内に、汐の接見に行ってくれている。少しでも汐の様子が知りたい。それに、大波が汐の私選弁護人になってくれれば、安心できる。


会議室に通されて、すぐに大波が「お待たせしました」と入ってくる。


「お疲れ様です。汐さんの様子は、いかがでしたか?」


大波は、立ったままの陽河に椅子を勧めた。陽河は着席したが、汐の様子が気になって「汐さん、元気でしたでしょうか」と、矢継ぎ早に尋ねる。同時に、女性がコーヒーを持ってきてくれた。


その女性が退室するのを大波は待っている。そのわずかな時間にすら、陽河は焦れてしまった。


ようやく大波が「昨日、寺岡汐さんの接見に行って参りました」と話し出す。


「私選弁護人は、断られました」


大波が言った瞬間、陽河は心臓が捩れたような痛みを覚えた。汐は、私選弁護人と国選弁護人の違いを理解していないのかもしれない。そうでなければ、断るなんてあり得ない。


「きっと、弁護人の違いを、理解してないんじゃないでしょうか!」


「いえ。ご本人は、理解していらっしゃいました。当番弁護士からも説明を受けているはずです」


「じゃあ、費用を心配して?僕が支払うことも、伝えてくださいましたか?」


「旭さんが支払う意思があることもお伝えしましたが、お断りになりました」


大波の言葉に、陽河は衝撃を受けた。


(汐さんが、断った……。僕の、申し出を……?)


まさか、ありえない……。汐はいつだって、陽河が差し出す物を迷わず受け取ってくれた。だから、自分の名前を出せば、安心して受けてくれるものと思い込んでいた。


留置・勾留の間は、どう頑張っても汐に会うことは叶わない。その代わり、大波を通じて、汐の力になれると信じていた。汐もそれを望んでくれると、信じきっていた。


(汐さん、どうして……)


汐の意図がわからなくて、陽河は目を泳がせる。


「伝言を預かりました」


大波の言葉に、陽河はハッと大波の顔を見た。大波は表情も変えず「『今まで、ありがとう』とのことでした」と言う。


(今まで……?)


まるで別れの言葉のようなフレーズに、陽河の呼吸が早くなった。


(『今まで』って、何?……違う、汐さん、違う……)


これからだって、自分は汐を守っていける。いや、これからこそが重要なのだ。汐が受けるかもしれない苦難を、少しでも和らげるためなら、なんだってする。


「寺岡汐さんには、国選弁護人がつくことに……」


大波が言う言葉を遮って「もう一度、会ってもらえませんか?説得して欲しいんです」と、陽河は懇願した。


「説得はできません。そうしてしまったら、ご本人の意思ではなくなってしまいます」


「僕が会えませんか?僕が説得を……」


「最初にお話しした通り、留置中は弁護士しか接見できません」


「なら、せめて……、せめて、差し入れは……?確か、差し入れは、大丈夫でしたよね」


「……」


大波は、必死すぎる陽河の様子に、思わず無言になってしまった。


(これは、単なる担当としての心配なのか?)


まるで、家族か恋人を心配しているかのようだ。だが、そうした個人的な感覚を仕事に持ち込むわけにはいかない。


「ご本人が望まれれば、差し入れは可能です」


「でしたら、何か欲しいものがないか、聞いていただけないでしょうか」


「……承知しました。が、接見だけでも、費用は発生しますよ。初回分もいただいていますが、2回目分も……」


「構いません」


「ご本人が、差し入れを望まれない可能性もあります。念の為、お伝えしておきますが」


「……」


陽河の眉間に、わずかに皺が寄る。心を落ち着けるように目を閉じた陽河は、わずかに開いた口で短い呼吸を繰り返している。


「……とにかく、汐さんに、会ってください」


「承知しました。そうしましたら、受付で、お支払いの説明を受けてください」


「はい」


陽河は力なく立ち上がった。かろうじて「お時間をいただき、ありがとうございました」と頭を下げて、会議室を出ていく。


陽河はきっと、受付で即金か、振り込みでも、すぐに2回目の接見費用を支払ってくるだろう。


(差し入れも断りそうだなぁ、あの人は)


必死な陽河に、また「断られました」と伝えるのは、さすがの大波も気が重く感じた。







その日、終業時間になると同時に、陽河は席を立った。代替機のPCは、デスクに置いていく。


「お先に失礼します」


ちらほらとデスクに座っている同僚に頭を下げると、「お疲れー」と、いくつかの声で挨拶が返された。


社内で……、と言うより、クリエイティブ局内で、陽河は「災難に見舞われた人」という立ち位置のようだ。汐が飯田に搾取されているという事実は、陽河が入社する前からの公然とした秘密であり、会社が飯田を告発したタイミングで、汐の担当をしていた陽河が巻き込まれてしまったというのが、おおよその見方なのだ。


木島の情報によると、今回の飯田逮捕は、汐とは別のルートの横領が発覚したためだったらしい。飯田はクライアントの担当と懇意になり、空請求を繰り返し、小さなデザイン会社に架空の請求を行わせ、その会社から現金を受け取っていたらしいのだ。


その件の調査の過程で、汐の件も明るみになったのだという。何の慰めにもならない情報だ。


汐の逮捕の翌日は、部長に呼ばれて逮捕の一部始終と、陽河がどこまで知っていたかを尋ねられた。最終的に「大変だったな」と労われ、当分は木島や他の同僚のサポートにつくよう指示が出たので、陽河がこの件に関わっているのではないかと、疑ってはいないようだ。陽河だけでなく、陽河の前の担当も、木島も、その前の担当も呼び出しを受けたようだから、陽河に対する呼び出しも、事実確認以上のことではなかったのだろう。


(大波先生、汐さんに会えたかな)


電車の振動に合わせて揺れながら、陽河は考える。接見に行っても、取り調べ中だと、長時間待たされることがあるらしい。


(取り調べ……)


汐は、どんなことを聞かれて、何を答えているだろう。大波に会うまでの間に、汐が不用意なことを言ってしまっていないか、警察の口車に乗って自供してしまってやしないかと、心配が募った。


何より、汐がどんな生活をしているのかが気にかかる。食事は3度出るし、風呂にも2日か3日に一度は入れると大波から聞いてはいるが……。


(せめて差し入れを……。それに、汐さんも状況がわかってくれば、大波先生に弁護を依頼するかもしれないし)


定期的に差し入れをして、不安であろう汐の気持ちを和らげたい。何なら、毎日だって構わない。汐が具体的な品物を言わなくても、汐が好きそうなものや欲しがりそうなものを、自分なら選ぶことができる。


電車が駅に近づき、陽河はドアへ向いかけた。そして、ハッとする。


到着しようとしているのは、汐の部屋の最寄り駅だ。陽河の家の最寄り駅は、もう少し先だ。


(汐さん……)


毎日、毎日、この駅で降りて、汐の元に通った。汐の担当になってから、それだけが陽河にできることだったからだ。だけど、いつからか、汐の元に通うことが当たり前になった。


電車に乗りながら、汐の部屋に揃えたい物を思い浮かべたり、呑気に夕飯のメニューを考えたり。ふと思いついたお土産を手に、この駅で下車する瞬間、汐の反応を想像して笑いを漏らしてしまったり。


あんなに幸せな気持ちで、この駅で電車を降りることは、もう、ないかもしれない。


(いや、でもまだ、できることはある)


差し入れをすることで、汐に伝えたい。自分はまだ、汐の味方だと。いつだって、汐の味方だと。


(汐さん……)


今、どんなところにいて、何をしてますか?


何を考えてますか?


僕は、あなたのことばかり考えている。


あなたのことしか、考えられなくなったみたいに……。


ずっと、あなたのことばかり、考えてしまうんです……。

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