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満汐引力 07

「お茶をありがとう。ごちそうさま」


ダイニングに入って声をかけると、母が陽河の手からトレーを受け取った。リビングから父が「おかえり」と声をかけてくれたので、陽河はリビングに向かう。


「友人を連れてきたんだって?」


ソファーに座った陽河に、父が尋ねる。


「友人というか、前に話した外部のデザイナーさん。実は昨夜、彼の仕事場で打ち合わせをしていたら、泥棒というか、暴漢が家に入ってきて……。鍵も壊れてしまったので、昨日はそのまま泊まって来ました」


「警察は呼んだのか?」


「呼べる相手ではなかったので……」


陽河が言うと、父は少し難しそうに眉を寄せた。


「お前の会社の人間か」


陽河が頷くと「おいそれと警察は呼べないな」と、父も頷いた。


「彼の仕事場は自宅でもあるので、ちょっと心配で。年末で鍵の交換もまだ予約が取れてなくて……。とりあえず、会社が始まるまで、彼の自宅に泊まろうかと思うんだ」


「お前がいて役に立つのか?ホテルに避難した方が、安心なんじゃないか」


「年末年始のホテルなんて、ビジネスホテルでも手が出ないよ」


「確かになぁ」


父は納得したように頷いてくれた。父にお茶を持ってきた母が「うちに泊まっていただいた方がいいんじゃないの?」と口を挟む。


「そういうタイプの人ではないから。本当に、人と接するのが苦手な人で……。あ、クッキーは美味しかったみたいで、笑ってた」


陽河が言うと、母は嬉しそうにしながらも「その暴漢が、また来るかもしれないんでしょ?」と、心配を口にした。


「可能性は低いけど、ないとは言えないかな。でも、僕が泊まるのは、本当に万が一のためだから」


「万が一が起きたら怖いじゃないの」


「ほぼ、ないとは思う。相手も、年末年始は何かしらの予定は入れているだろうからね」


両親相手に、僅かに嘘を交えた話をしながら、陽河は飯田が過ごしそうな年末年始を考える。豪華な旅館や海外旅行に行っていそうだとは思ったが、ただの予想だから安心はできない。


「まぁ、陽河がそうしたいなら、そうしなさい」


父はあっさり言ったが、母は「でも、お正月なのに」と、残念そうだ。


「陽くんが好きだから、お餅もいつものをたくさん買ってあるのよ。おせちも、お父さんと2人じゃ食べきれませんよ」


「陽河たちに持たせてやればいいだろう。もう、餅はあるんだろ?用意してやったらいい」


父が言うと、母はようやく諦めたようだ。餅を持たせる準備のために立ち上がった。


「じゃあ、そう言うことで。お父さん、ありがとう」


陽河が腰を上げると、「証拠は残せたのか?」と、父が尋ねた。


「一応、音声は」


陽河が答えると、「1回では足りない場合が多いから、その人と対面する時は、必ず録音するようにな」と、父はアドバイスをしてくれる。


「うん。そうする」


頷いて、陽河はリビングを出る。自室に向かいながら、次に飯田と顔を合わせるのはいつか考えた。


(仕事始めの日には、顔を合わせるか……)


どうせなら社内で顔を合わせてしまった方がいい。陽河が持っている記録について、飯田がなんとかしようと思っているなら、少しでも早く接触したいと思うだろう。社内で会わなかったら、飯田はまた、汐の部屋にやって来るかもしれない。


自室のドアの前で、陽河は少し表情を和らげた。


「汐さん、お待たせしました!」


ことさら明るく言いながら、陽河はドアを開ける。汐は先ほど座っていた場所から全く動いていないようだ。ちょっと不安そうに肩をすぼめている姿に向かって、陽河は満面の笑みを見せる。


「母がお餅を持たせてくれるそうです。よかったなぁ」


言いながら、陽河はアプリでタクシーを呼ぶ。幸い、5分で到着するようだ。


そしてずいぶん前にキャンプで使ったシュラフのことを思い出し、クローゼットから取り出して肩にかけた。スーツケースを手にし、汐を振り返る。


「さあ、帰りましょう」


陽河が言うと、汐は「え?」と小さく呟いた。


「陽河も、帰る?」


「はい。洗濯物も取りに行かなきゃならないですしね」


「……」


無言になった汐に近づいて、「帰りますよ」と、もう一度、声をかける。そして、棚の上に残っていたクッキーを手早く紙で包んで、汐に差し出した。


それを受け取った汐は、少し嬉しそうに見える。


汐を伴って階下に降りたが、両親は玄関にいなかった。汐に靴を履くように促していると「陽くん、お餅、取りに来てちょうだい」と、母に呼ばれる。


キッチンに向かうと、母だけではなく父も待っていた。母はかなり重い紙袋を陽河に手渡してくれる。どうやら2人は、汐と顔を合わせないように気を遣ってくれたようだ。


「過保護と思うかもしれんが、連絡は入れてくれ。暴漢の話なんて聞いたら、心配だからな」


「うん、もちろん」


キッチンで両親と別れて、陽河は汐を伴って自宅を後にする。


到着していたタクシーに汐を乗せると、汐は最初からちゃんと、奥のシートに座った。







多少警戒はしたものの、陽河と汐の年末年始はのどかに過ぎていった。


鍵もちゃんと付け変わったし、陽河が自分の洋服と一緒に持ち込んだトランプやオセロで、2人は時間も忘れて遊び続けた。大晦日は陽河の実家から連絡が入り、雑煮からおせちから年越し蕎麦までを取りに行くことになった。


その時も汐には同行してもらったが、陽河もすぐに帰る予定だったので、タクシーで待ってもらった。汐にとっては、その方がやっぱり気楽だったようだ。


この年末年始で、汐はシャンプーとコンディショナーデビューをした。陽河が石鹸での洗髪に音をあげたからだ。


六畳一間での同居生活は、2人の体がぶつかるほど狭かったけれど、大きな問題ではなかった。眠る時は汐は布団で、陽河はシュラフで眠っていたけれど、結局、2人とも満足するほど暖かくならなかったので、布団にフラットにしたシュラフをかけて、2人で潜り込むようになった。


眠る前に、陽河のタブレットで、ヌクヌクした布団を被りながら映画を見る。汐は次から次へと作品を見たがって、寝させるのに苦労した。


三ヶ日を過ぎると、2人で行くスーパーでもコンビニでも、お正月ムードは徐々に消えていった。2人の生活も、なんとなく、日常の空気に変わっていく。


明日は仕事始めという日、2人は年明けの仕事の進行確認をした。メイセア化粧品の納品物は、1月中に全て納められそうだ。それさえ終了すれば、2月は少し、ゆっくりできる。


「2月になったら、温泉にでも行きましょうか」


布団の中で陽河が言うと、「温泉?」と汐が呟いた。


「そうです。1月は多分、目も回るような忙しさになりますから、2月に楽しみでもないと、やっていけませんよ」


「……」


汐が無言なので、陽河は隣に並んでいる汐の方に顔を向ける。豆電球すらない汐の部屋は真っ暗で、隣の汐の顔さえ見えない。もっとも、髪やヒゲで、汐の顔は元々、見えないんだけれど。


「温泉は、惹かれませんか?」


尋ねると「よくわかんねーし」と、汐は答えた。


汐は「温泉に行こう」と考えたことさえないのだと、陽河は理解する。そうしたことを口にできるのは、実際に温泉に入って、ちょっと豪華な食事とお酒で、のんびりしたことがある人間だけだ。


(今年は、汐さんにいろんなことを経験してもらおう)


温泉だけじゃない。居酒屋に行ってみるとか、ボーリングに行ってみるとかでも、いい。


最初は怯えるかもしれないけれど、汐が「楽しい」と感じる瞬間を、たくさん経験して欲しいと思う。


(あとは、引越しもだな)


そう思いついて、陽河は、汐にまだ引越しの打診をしていないことに気づいた。


「あと、汐さん、相談があるんですけど」


「相談?何?」


「メイセア化粧品の納品が終わってから動くことになるので、ちょっと、先の話になるんですが……。思い切って、引越ししませんか?」


「……」


汐はまた、無言だ。きっと想像もしてない提案だったのだろう。


「僕も、そろそろ実家を出なきゃなと思ってたんです。いつまでも親掛かりなのは、肩身が狭いですから。なので、そのタイミングで汐さんも引越しをしましょう。2人で、シェアハウスすれば、やっていけると思うんです」


「シェア、ハウス……?」


「はい。僕と汐さんで、2人で同居しましょう。僕、実家を出るのが初めてなので、迷惑かけるかもしれませんけど。前向きに考えて欲しいんです」


明るい口調で、陽河は続けた。それでも汐は、しばらく無言だった。汐の返事を待ている間に、断れる可能性を感じて、陽河は不安になる。


「……飯田が、許すわけ、ない」


汐が苦しそうにそう呟いた時、陽河は、わずかに触れ合っていた汐の手を握った。飯田になんか囚われていてほしくない。汐自身が思い切ってくれなければ、汐はずっと、飯田の影に怯えていくことになる。


「案外、大丈夫な気がするんですよ、僕は」


「仕事も回してこなくなるし、陽河に、何かしてくるかも……」


「仕事は僕がとってきます。それに、『友達同士がシェアハウスする』なんてプライベートな話に口出ししてきたら、うちの会社で問題になっちゃいますよ」


「……」


「絶対に大丈夫ですから。一緒に住みましょう!」


明るく言ってみたけれど、それでも汐は無言だ。口調とは裏腹に、陽河は心の中で汐に懇願していた。


(お願いですから、頷いてください、汐さん)


汐が望んでくれれば、陽河は動けるのだ。汐に望んで欲しい。飯田から自由になりたいと……。そうすれば、陽河は大手を振って汐を守っていける。


「陽河……」


名前を呼ばれて、陽河は思わず目を閉じた。断られるのが怖かった。断られたら、説得している時間分、汐が飯田に搾取される時間が長引いてしまう。


「……引越し、する」


迷っているような口調だったけれど、汐はそう言ってくれた。思わず、息が漏れた。


「2月以降で、一緒に色々、見て回りましょうね」


「……うん」


汐が頷いた声を聞いたら、安心した。これで一歩進んだと思う。


陽河は、汐の手を握ったまま目を閉じた。


明日からまた、仕事が始まる。







陽河が予想した通り、目まぐるしく1ヶ月が過ぎようとしている。キービジュアルを始め、各雑誌広告、WEB用のバナー、ポスター、OOH……。納品しても納品しても、まだ納品物があるのだ。


驚いたことに、汐は別件のデザインを進めながら、それらの納品物のリサイズやリデザインを全て1人でやってのけた。花江が危惧してスタンバイさせていた社内の若手デザイナーの出る幕がないほどだ。


「あいつは、化け物か何かなのか」


花江が唸る。陽河は少し、得意な気持ちで答えた。


「本当に丸一日、PCの前から動かない人ですから」


「このスピード感だったら、安心できる。今、コンペになりそうな案件がひとつあってな。寺岡にデザイン頼むかも。その時は、お前に言えばいいんだな?」


花江の申し出に、陽河は「はい!」と大きく頷く。


「ぜひ、やらせてください!」


「じゃあ、決まったら連絡する」


花江は手を振って、会議室を出ていく。その後ろ姿に、陽河は直角のお辞儀をした。


「やった!!」


汐には「仕事は僕が取ってきます」なんて言い切ってしまったけれど、正直、陽河にアテがあったわけじゃない。コンペは水物だから必ず取れると言うわけではないだろうけど、外部を動かしたらプレゼン費ぐらいは出してもらえる。


(その前に、汐さんの通帳の件をどうにかしないと)


汐に正当な報酬が渡るためには、やっぱり飯田の存在をどうにかしなければならない。


(それに、局長が何も言ってこないのが、不気味ではあるな……)


1月ももう、終わりに近づいてきた。その間、飯田と陽河は顔を合わせていない。社内で姿を見ることはあったが、特に陽河を気にしている……と、いう風でもなかった。


(やっぱり、あれが、局長の差金だったんだろうか)


仕事始めの3日後、陽河は人事部に呼び出された。話題は飯田のことで、「外部の人間に対するコンプライアンス違反が報告されている」とのことだった。


「君は、飯田局長が懇意にしている外部のデザイナーを担当しているそうだね。局長がコンプライアンスに抵触するような場面を見たことは?」


人事部長と法務部長、それからもう1人、スーツの男性が同席したが、陽河は面識のない人だった。


(飯田局長が、人事部長と法務部長を動かしているのか……?)


あまりに規模感が大きすぎて、陽河は戸惑いを覚えた。だが、目の前の部長陣が、飯田の差金でないという確証もない。


「私が、飯田局長とデザイナーさんが同席する場にいたことは1.2回しかありませんが、昨年の仕事納めの日に、デザイナーさんが体調を崩したので付き添っていたところ、飯田局長がいらっしゃったことがありました。その際に、アルコールの影響かと思うのですが、私的な暴言を吐かれているところは、見ました」


「どういったことを?」


尋ねられて、陽河は回答を躊躇する。内容が内容だし、暴言を吐かれたのは汐だ。それに、人事部長と法務部長が飯田側だとしたら、ホイホイ陽河がしゃべることで事態が悪くなりかねない。


「……個人のプライバシーですし、お答えするのは、憚られるのですが……」


陽河の答えに、人事部長と法務部長は頷いた。


「ちなみに、証拠などは残していますか?」


「咄嗟に、録音は行いました」


「そのデータを提出してもらうことは可能ですか?」


その質問にも、陽河は躊躇ってしまった。飯田がデータを奪いたくて、この場が設けられたのかと思ってしまう。だけど、今時、データだけ奪っても無駄なことは、誰でもわかっているはずだ。


「……多分に、プライバシーが含まれますので……、お渡ししていいものか、判断できかねます……。然るべき機関からの要請であれば、提出させていただきますが……」


苦し紛れに言うと、陽河はあっさり解放された。


「また、聞きたいことがあれば、呼ぶかもしれません」とは、言われたが……。


(パワハラ・セクハラ事案で、局長の首が締まってきているのか……)


そうであれば、社内で噂ぐらいは立っていてもおかしくない。最近、ビジネスタイムのほとんどを社内で過ごし、木島や他の同僚とランチなどもしているが、誰の口からもそうした話題は上がっていない。


(やっぱりあれが、飯田局長の差金だったのか?)


だとすれば、早々に陽河の進退に影響が出そうだ。


(いきなりクビは、ないとは思うけど……)


部署移動か、地方への左遷か……。部署移動ぐらいで済めば御の字だが、地方に左遷となれば、汐を連れていくのが正解か迷うところだ。


(結局、結論が出てからだな)


陽河は、テーブルの上のPCを閉じながら、ため息をついた。







『入稿データも納品データも、すべてチェック完了しました!お疲れ様でした!』


木島からの電話をスピーカーで聞いていた陽河と汐は、思わずハイタッチをした。


「木島もお疲れ様でした!ありがとう!」


『おう!今度、横手さんや花江さんと打ち上げをしよう!もちろん、汐さんも一緒に。とりま、今日はサクッとお疲れ様会でもしちゃって。じゃなー!』


電話が切れると、汐は「はーっ!」とため息をつきながら、PCチェアの上で仰け反った。


「汐さん、お疲れ様でした!今日はお祝いです!食べたい物、なんでも準備しますから、言ってください!」


陽河がテンション高く言うと、汐は仰け反らせていた頭を戻して、陽河に顔を向けた。


「なんでも?」


「はい!なんでもです!あ、一緒にスーパーに行きましょうか!食材見ながら考えるのも楽しいですよ!」


言うが早いか、陽河は押し入れに向かう。1月に入ってから汐に買ったダウンジャケットを手に「行きましょう!」と手招きした。汐は素直に陽河の元にやってきたが、ダウンを肩にかけてやると「ピザ……」と、呟いた。


「ピザ?ピザが食べたいんですか?」


尋ねると汐は確かに頷いた。


「よく、ポストにチラシが入ってるやつ?」


「そう。食べてみたい」


陽河は満面の笑みを浮かべて「ピザにしましょう!」と頷く。汐からリクエストしてくるなんて、初めてだ。スマホでピザ屋を検索し、近所の宅配ピザのHPを表示させて汐に渡した。


「どれがいいですかね」


汐は陽河のスマホをスワイプし、目当てのピザを探している。陽河も一緒に覗き込みながら「これだと、4つの味が楽しめますよ」とか、「これは肉のピザが多そうです」と、説明を加える。


だけど結局、汐はピザを選べなかった。


「いっぱいありすぎて、わかんなくなった」


途方に暮れた声を出した汐に「じゃあ、僕が選んでもいいですか?」と尋ねると、汐は頷いた。


改めて2人で床に座り込み、陽河は「コーンもいいし、照り焼きもいいですよねぇ」と、汐に画面を見せながら迷う。


「シーフードもいいし、肉が多めなものおいしそう。うーん、ああ、カニか……。季節的にはカニもいいな」


もはや独り言になった陽河の言葉に、汐が「ふっ」と笑った。


「なんです?」


「陽河でも迷うんだなと、思って」


「どういう意味です?僕、結構、優柔不断ですよ」


「でも、バーっと出かけて行って、バーっと買い物してきたり、いきなり服をいっぱい買ってきたり、『今日はこのメニュー』って、作り始めたりするし」


汐の謂わんとすることがわかって、陽河は思わず苦笑してしまう。汐は全然、わかっていない。それらを決める間に、陽河がどれほど迷いに迷っているかを……。


「その裏側で、結構迷って、迷って、迷ってるんですよ」


「絶対、嘘だし!」


「いえ、迷ってますよ。目的だけはブラさないようにとは、思ってますけど」


だから陽河は、結局、コーンと照り焼きマヨネーズと大きなエビとジャーマンポテトの4種のピザが一枚になったメニューを選ぶ。これなら汐が喜ぶと確信できたからだ。


「これにしましょう。生地も色々ありますが、パンのタイプが一番いいかな。お腹いっぱいになりますし」


「陽河は、どれが好き?」


「僕はお酒を飲みながら食べることが多いので、クリスピーのタイプが好きです」


言いながらも、陽河はパンタイプのLサイズを選ぶ。無料でついてくるハッシュポテトも忘れずカートに入れて、注文ボタンを押した。


「陽河の好きなのでいいよ」


汐の言葉に、「今日はお酒も飲まないので、パンタイプにしましょう。汐さん、パンタイプが好きだと思いますから」と、陽河が答えると、汐は大きく頷いた。


「1時間ぐらいかかるみたいですね。その間に、やっぱり買い物に行きましょうか」


陽河が言うと「ピザの他に何がいるんだよ」と、汐は笑いを滲ませた口調で尋ねてくる。


「飲み物ですよ。ピザと言ったら、コーラですから」


「めんどくせぇ。食べ物に合わせて、飲み物も変えるのかよ」


そう言いながらも、汐はダウンジャケットの袖に腕を通した。



陽河が選んだピザは、やっぱり汐の好みに合ったようで、Lサイズのピザの3分の2は、汐のお腹に収まった。


「ピザにコーラって、わかる気がする。体に悪そうだけど」


チビチビとコーラを口に運びながら、満足そうな口調で汐が言う。


「でしょう?今日はお祝いですし、たまにはこれぐらいの暴飲暴食は許されてもいいですよね」


そうは言いつつ、スーパーではコーラの他に野菜も買ってきて、陽河は温野菜のサラダを作った。


「俺にとっては贅沢過ぎだけど」


「そんなことはありません。今回の案件は、汐さんが一番頑張ったんですから。木島が企画する打ち上げは、もっと豪勢にしてもらいましょう」


そう言うと、陽河は立ち上がった。ピザの箱を片付け始めると、汐もコップに残ったコーラを飲み干して、立ち上がる。


「汐さん、先にシャワーを浴びちゃってください」


「片付けぐらいするし」


「そうですか。じゃあ、食器を洗ってもらえますか」


汐はピザを食べるのに使った皿とコーラを飲んだコップを流しに運ぶ。それらの食器は、陽河が100円均一の店で購入してきたものだ。しまえる棚がないから、お椀やお茶碗と一緒に、流しの下に置いている。


汐が食器を洗っている間に、陽河はピザの箱などをゴミ袋に入れた。結局、この部屋ではゴミ箱を買うところまで至らなかった。


(引っ越したら、新しい部屋に合うものを買えばいいな)


そうした細々した物のことまで考え出すと、引っ越しというものは本当にお金がかかりそうだ。


「俺、先にシャワー使うな」


食器を片付け終えた汐が、パジャマとタオルを手に浴室に入っていく。


「はい」


返事を返しつつ、陽河は押し入れの中の布団を取り出す。敷布団を敷いて、その上に、一応羽毛が入っているらしい掛け布団をかけ、さらにその上に、フラットにしたシュラフをかけた。枕は汐の分だけ。陽河は丸めたタオルケットを使っている。


結局、年末年始の休暇以降も、陽河は汐の部屋に泊まり続けている。飯田に対する対処が取れていないことも理由だが、メイセア化粧品の納品物の対応のために、ビジネスタイムのほとんどを社内で過ごすようになったから、「汐の刻参り」の時間が、朝と夜しか取れなくなったのだ。


2人でちゃんとした部屋でシェアハウスをすることになっても、きっと、そういう動き方になると思う。朝は一緒に朝食を摂り、陽河は出社し、汐は自宅で仕事をする。陽河が帰宅したら一緒に夕食を食べて……。時々は、今日のような祝杯をあげる。


(汐さんと僕のそれぞれの部屋があって、それぞれベッドにするとなると、シングルが限界だろうなぁ。汐さんの作業デスクをどこに置くかが問題だ。もう一部屋はさすがに予算が許さないし……、汐さんの部屋に置くとなると、汐さんの部屋はせめて、8畳ぐらい欲しいよな)


できれば会社までのアクセスも良好な方がいいし、最寄駅にも近い方がいい。遅くまでやっている大型スーパーが近くにあればなお有り難いけれど……。


(ちゃんと考え出したら、もっと条件は出てくるだろうし)


汐の意見も聞きたいと思う。叶えられるかはわからないけれど、汐がどんな生活を望んでいるかは把握しておきたい。


「陽河、出た」


シャワーを終えた汐の声に、陽河は振り返る。ほんの少し前まで、シャワーの後も、その日着ていた洋服を無頓着に着ていた汐だったけれど、今はちゃんと陽河がプレゼントしたパジャマを着ている。髪を拭いているのも新しいタオルだ。


「じゃあ、僕もシャワー浴びちゃいます」


「ん」


汐と入れ替わりにシャワーに入った陽河は、浴槽とも言えない狭さの湯船の中でシャワーを浴びる。


(トイレと風呂は別にしたいよなぁ。洗面台も独立したのがいいし……)


木島に軽く相談した時、一人暮らしの部屋だと、トイレと風呂は同じ空間の家が多いと聞いて、驚いたものだ。そうなると、浴槽にお湯を溜めて入浴するのは我慢することになる。


(湯船に浸かって欲しいんだよなぁ。シャワーだけだと、やっぱり体が温まらないし)


部屋数を考えると、一人暮らし用の部屋よりも広い部屋になることは必至だ。その分、水回りの機能も悪くない部屋を選べそうだけど、その分、家賃は上がっていく。


(そうなると、やっぱり場所だな。駅ちかとかは諦めないと)


当初、毎月汐が受け取っている10万も予算に含めていたけれど、陽河は今、それはないものとして考えていた。何が起こるかわからないのなら、最初から、当てにしない方がいい。


汐と一緒に暮らすことを考え始めてから、始終、金のことを考えている。陽河の人生で、初めてのことだ。


俳優のギャラはもらっていたけれど、大学4年まで、両親の方針でお小遣い制だった。生活費と学費は親が出し、お小遣いも一部は親からもらっていた。俳優仲間との付き合いや仕事関係の出費の時だけ、理由を述べて、母が管理している陽河のギャラから、その分を補填してもらう。


陽河が使えるお小遣いは、家庭教師などで稼いでいる学生と同額ぐらいだったと思うけれど、これと言って不満もなく過ごせていた。


社会人になってからは、給料の中から家に生活費を納めている。保険やスマホ代などを払っても、陽河が月々、貯金に回すだけの余裕のある金額が手元に残った。高いブランド物を買うのは躊躇するけれど、陽河が好きなブランドの小物ぐらいなら、時々、手を伸ばせた。


(僕は、恵まれてたんだ……)


つくづく、そう思う。汐と比べるのはもう、お話にもならないぐらいで……。今、同僚として一緒に仕事をして木島の学生時代の話などでも、陽河は心底、驚いてしまうことが多い。さらに、周囲の人たちが懐かしそうに、輪をかけて極貧な時代の話をしたりするものだから、自分がどれほど幸運に人生を送ってきたかと身に沁みる。


(贅沢は、望まない……)


そう思ってはいるけれど、生活水準の考え方自体が、自分は甘い方なのだとも思う。


(それでも、汐さんが風呂に浸かれて、食事に困らなくて、よく眠れてってところだけは、死守しなきゃ)


その上で、飯田のルート以外の、汐の仕事の確保。それをきちんと、汐の収入とするための準備。これまで飯田がやっていたであろう、汐の健康保険や税金関連を汐自身に手続きさせる必要もある。


いわば、汐を個人事業主として、きちんと独立させる必要があるわけだ。普通なら、専門サイトなどを見ながらなんとか自力でできるのかもしれないが、飯田のせいで複雑化している。


(誰か、プロに一度、相談してみた方がいいのかな)


考えながら、陽河はシャワーから出た。狭い6畳の部屋に敷かれた布団の中で、汐はタブレットで動画を見ている。年末年始の休み以来、汐は映画やドラマ、アニメにハマっている。陽河のサブスクアカウントなので、好きにさせているが……。


(このアカウントも死守だな)


タオルで髪の水気を拭いながら、陽河は、布団から覗いている汐の頭に苦笑を漏らす。エンタメを楽しんでいることも死守の理由の一つだが、作品を通して、汐は一般常識を学んでいるようにも見受けられた。


エアコンと電気を消して、陽河も汐の隣に潜り込む。汐は寝そべった体勢で、微動だにしない。最近、配信が終わった、魔女の冒険もののアニメを見ているようだ。


「今日は、あと、何話見るんですか?」


「あと、3話で最終回まで見れる」


汐の答えに、陽河は(1時間半ってところか)と、予想して頷いた。


アニメの光に照らされた汐の横顔は、相変わらずのむく犬だ。髪質こそ、シャンプーを使うようになって良くなったとは言え、長くなるばかり。


(局長との関係が切れたら、整える気になってくれるかな)


陽河は見慣れているし、木島あたりも気にしていない風ではあるけれど……。新しい部屋に引っ越したり、新しい仕事が入ったりすれば、やはりこのままというわけにはいかない。その風貌だけで、不信感を持たれてしまうはずだ。


(……ってことは、局長のことをクリアにしてから、引っ越しかな……)


汐の体温で温まっている布団の中で、陽河の意識がふわりと揺れる。


(ダメだ……。寝ちゃったら、汐さん、朝まで動画を……)


そう思ったところで、陽河の意識は完全に途切れてしまった。






アニメの最終回を見終えた汐は、アプリを閉じながら目元に浮かんだ涙を拭う。慌てて陽河を見たら、陽河はいつの間にか眠っていたようだ。


感動して泣いているのを見られなくて、良かった。


タブレットを頭上に置いて、汐は仰向けになる。アニメの光が消えた部屋は真っ暗だけど、陽河の気配と息づかいが感じられるから、安心できた。


年末年始の休み以来、陽河がこの部屋に泊まり込むようになって、1ヶ月。メイセア化粧品の仕事が忙しいからかと思っていたけれど、納品が済んだ今日も泊まっているということは、引っ越しまで、陽河はここに住むつもりでいるのかもしれない。


(俺は、いいんだけど……。引っ越しも、陽河がここにいるのも……)


だけど、陽河はいいのだろうかと、思う。一度だけ足を踏み入れた陽河の家は、お金持ちの子が住んでいる家だった。陽河の部屋も、清潔で綺麗に整えられていて……。ベッドも大きくて、こんなふうに縮こまって眠らなくてもいいはずだ。


やはり、飯田が何かしてくる可能性があるのだろうか。陽河はそれを警戒しているのだろうか。


年末に飯田が突然やってきた時のことを思い出すと、今でも汐は、恐怖で体が震えそうになる。


この部屋に汐を放り込んで以降、飯田が仕事以外の用事でこの部屋にやってきたことはなかった。担当を紹介して、それで終わり……。その代わりのように、汐の通帳は飯田の側にある。


体の代わりに金を搾取されるようになったのだと、ある意味、安心していた。飯田はもう、汐をそうした対象として見ていないのだと思い込んでいた。ボサボサに生やしたヒゲや髪が男を萎えさせることも知ったから、陽河に何度言われても、最後のダメ押しのように、切ったり剃ったりを拒否してきた。


それでも、あの日、飯田はやってきた。陽河が撃退してくれたけれど、もし、陽河がいなかったら……。自分が抵抗できたかどうか、汐は分からない。恐怖はいつでも、汐の体を硬直させて、飯田の味方をしてしまう。どんなに嫌だと思っていても、ガタガタと震える足で逃げ出すことは難しい。


(それに、陽河は、大丈夫だったのかな……)


あれ以来、陽河の口から飯田に関する話は出てこない。陽河の仕事の内容が変わったということもなく、汐の担当として動いてくれている。


その上、「引っ越そう」と言ってくれている。「一緒に住もう」と。陽河が言うように、「案外うまくいく」のだろうか。あの飯田を相手に?


(あんな怖いやつなのに?)


それとも自分は、子供の頃の印象そのままに、飯田を世界で一番強くて怖い人だと思い込んでいるのだろうか。飯田が好き放題できるのは、実は飯田のあの家の中だけで……。外に出れば、それこそ「会社」という場所では、飯田よりも強い人がいたりして、陽河を守ってくれるのだろうか。


(それならいい……、陽河が、怖い思いや痛い思いをしないなら……)


陽河は、あれ以降も、いつも明るい。無理をしているようにも見えない。


だけど、もし、飯田が陽河に何かするようなことがあったら……。


(俺のせいで、陽河に何かあったりするなら……)



俺は、陽河を巻き込みたくない。


陽河が「大丈夫」と言ってくれても、俺が、巻き込みたくない。


俺のために、陽河に何か、怖いことが起きたりするのは嫌だ。


何かあったら……、俺だって絶対に、陽河を、守るし……。


そのためだったら、俺は、なんだって、する……。

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