満汐引力 06
突然、玄関から響いた「ガチャン!」という大きな音に、汐と陽河は飛び上がった。ドアを振り返った陽河は、引き続き上がった「ガチャッ!ガッチャッ!」という音が、ノブを回す音であることに気づく。
(そういえば、鍵を閉め忘れて……)
そう思ったけれど、今見る限り、鍵が閉まっていてドアが開かないようだ。
(最初の音は、鍵が閉まった音か?)
腰を浮かせながら、陽河は床に放り投げていたスマホに触れた。110番する必要があるかも知れないと、近くに引き寄せる。
「チッ!なんだよっ!」
外から聞こえた声に、陽河はビクッと震えた。汐の息を飲む音が聞こえた気がする。
(落ち着け、落ち着け)
陽河は自分に言い聞かせた。落ち着いて、冷静に……。だけど、絶対に身勝手なことはさせない。
「チャリチャリッ」と外から聞こえた金属音に、今度こそ鍵を開けられると覚悟する。
ふと、クリスマスイブの日に、父が漏らした言葉を思い出した。
『最近は若者の方が強い場合もあるからな』
陽河はポケットに手を突っ込むと、ミーティング用にいつも入っているレコーダーをオンにした。「ピッ」と鳴った小さな音を確認し、今度はスマホのカメラを起動して録画マークをタップする。何も映っていないが、RECマークはちゃんとついた。
そして玄関とちゃぶ台の間で身構える。そのちゃぶ台の後ろには、汐がいるのだ。
(必ず、食い止めなきゃ)
やがて、また「ガチャン!」と大きな音が鳴り、鍵が開いた。ノブも乱暴に回されたと思った時には、ドアが開いて飯田が姿を現す。
飯田は壁を伝って三和土に入ってきた。自分を見上げている陽河に気づくと、「旭くん、遅くまで悪いね」と、呂律の回らない口調で言った。どう見ても泥酔状態だ。
「局長、お疲れ様です。どうされたんですか?」
立ち上がりながら、陽河は飯田に挨拶を返す。できるだけ穏便に済ませたい。飯田が何もせずに出ていくなら、それ以上を求める気はない。
飯田は陽河の肩越しに部屋を見回すと「随分、こざっぱりしたなぁ」と呟いた。そして陽河を押し除けて、靴のまま部屋に上がり込もうとする。
「ずいぶん、お酒を過ごされたみたいですね」
陽河は飯田を支えるフリをしながら、その進行を阻む。
「旭くん、君は、もう、帰っていいよっ!」
「いえ、今日は、汐さんが体調を崩されているので、付き添う予定でおります」
揉み合いながらも、陽河は慇懃無礼な態度を崩さない。途端に飯田が「汐ぉっ!!!」と怒号をあげた。
「たらし込んだのか!えぇっ?」
「飯田局長!!」
同じぐらいの身長なのに、ウェイトの差があって飯田を押さえ込めない。だけど、飯田を抱えるようにしてジリジリと後退させる。後ろから、汐の「ヒィ、ヒィ」という苦しそうな呼吸が聞こえた。
「局長、今日はお帰りください。お酒が過ぎています。お話なら、年明けにでもうかがいますので」
陽河が落ち着いた口調で説得しても、飯田はなんとか陽河を躱そうとする。それを何度か阻むと、いきなり頬を張られた。陽河の口から「グッ!」という声が上がると、汐が何かを叫んだ。
「汐っ!いい気になるなよっ!お前は、俺がしたい時に、足を広げてればいいんだ!それしか能がねぇんだからっ」
喚く飯田を殴りたいと思った。だけど陽河はその衝動を堪える。
「当てつけみたいにヒゲなんて伸ばしやがって!後ろから突っ込んでやるっ!」
力任せに体当たりしてくる飯田を、陽河は渾身の力で、三和土ギリギリまで追い詰めた。その間にも飯田は、汐を貶める呪詛を吐き続ける。
「飯田局長!コンプライアンス違反です!」
陽河が叫ぶと、耳元で「ふんっ」と飯田が笑った。
「コンプラぁ?……私が、何か言ったか?何かしたか?」
嘲るように言った飯田に、陽河は「録画しております」と冷静に告げた。途端に飯田の表情は、憤怒のそれになる。
「旭ぃ、俺に、逆らう気か?」
「飯田局長に逆らう気はありませんが、外部の方へのコンプライアンス違反は、会社の人間として見過ごせません」
「……」
睨み合いになった。陽河は、絶対に目を逸らすものかと思う。ここで負けたら、汐を守れない。
やがて飯田は陽河から目を逸らすと、力任せに壁を蹴り上げた。それでも気が済まなかったのか、三和土にある汐の靴を踏みつける。
そして閉まりきっていないドアも蹴り付けて開くと「使い古しのケツでも掘っとけ!」と、陽河に向かって叫ぶ。「舌もだいぶ仕込んだから、せいぜい楽しめっ!」と付け加えて、飯田はようやく部屋から出て行った。
手すりや壁にぶつかりながら、飯田が遠ざかっていく。階段を降りる音が聞こえ始めた時、正直、飯田を追いかけて、蹴り落としたいと思った。
陽河の思いとは裏腹に、飯田は、ちゃんと1Fにたどり着いたらしい。時折、どこかを蹴ったり、何かを喚いているような音が聞こえてきたが、やがてあたりは静まり返った。
陽河は震える手でドアを閉めると、鍵をかけた。飯田が鍵を持っている以上、かけたって無駄だとわかっているが、それでも頼れるのはそれしかない。申し訳程度の強度しかないように見えるドアチェーンもかけてから、陽河はポケットからレコーダーを取り出した。
RECを停止する。再生を押すと、「ガチャン!」と、鍵が開く音が鮮明に流れた。それを停止して、陽河は部屋に戻る。そしてずっと床を映していたと思われるスマホのカメラも停止した。
途端に、汐の泣き声が鮮明に聞こえ出した気がする。床にうずくまった汐は、波打つみたいに背中を震わせていた。
汐のそばに膝を折ると、陽河は、うずくまっている体を抱き起こした。
そのまま汐を抱きしめる。汐は呼吸困難のように「ハッハッハッハッ」と短い呼吸を繰り返していたが、やがてそれは「し、ってた?よう、が、しって、た?」という繰り返しの質問に変わった。
自分の過去を……、汐が飯田の慰み者だったことを、陽河が知っていたかどうかを、汐は尋ねている。
知っていたのに、知らないフリをしていた方が酷か、知らなかったのに今日、知られたことの方が酷か。わからないけれど、陽河は本当にことと嘘を半々にして口にした。
「なんとなくは、気づいてました」
汐の担当になった日に、まるで業務の引き継ぎのように、噂を吹き込まれたとは言えない。
途端に汐の呼吸が荒くなって、陽河の腕の中から逃れようとした。逃げ惑う汐を、陽河は力を込めて腕の中に拘束する。
「汐さん、汐さんが悪いんじゃない。あなたが悪いんじゃないんです、汐さん!」
腕の中で小さくなって震えている汐に、根気よく言い聞かせるしかなかった。それで汐が安心したり、苦しみが和らいだりするなんて思えなかったけれど、陽河にできるのは、そんなことしかないのだ。
やがて汐の震えが小刻みになって、寒気を感じているかのようになってきたので、陽河は急いで布団を敷くと、汐を寝かせた。それでも震えが治らないので、汐へのクリスマスプレゼントとして押し入れにしまったスウェットを複数枚取り出して、汐の首元や肩を包んだ。陽河のコートもジャケットも、布団の上からかけてやる。
それでも汐の震えは止まらない。陽河は布団の中に滑り込んで、汐を抱き寄せた。嫌がるかと思ったけれど、汐はされるがままだ。
涙は止まったみたいだけど、やっぱり目元が隠れていてわかりにくい。髪を分けて、その目を見ることは憚られた。
汐が整えるのを嫌がる長い前髪も伸ばし放題のヒゲも、汐にできる最大の防御なのだと気づいてしまった。飯田にせよ、飯田以外の男にせよ、そうした衝動を起こさせないように、汐は自分の顔を隠している。
だけど今日、飯田は汐を辱めにやってきた。陽河が気づかなかっただけで、これまでもあったかもしれない。
(いずれにしろ、僕は汐さんを守れなかったんだ……)
今日、汐の体は守れたのかもしれない。だけど、飯田が汐の心を傷つけるのを防げなかった。レコーダーとスマホに残ったであろう飯田の暴言は、これから役に立つこともあるとは思う。でも、それを記録として残すために、汐を飯田の悪意に晒してしまった。
「……明日、鍵屋さんを呼びますね。鍵は新しくします。持つのは、汐さんと僕だけです」
静かに汐に話しかける。汐は無言だ。その沈黙が耐えられなくて、陽河は思いつくままに言葉を重ねる。
「それから、今年中に、大物を洗濯に行きましょう。あと、お正月の準備もしなきゃですね。近くのスーパーに、多分、しめ縄も売っていると思うので、買ってきます。他にもお正月飾りとか、あと、鏡餅も。あぁ、31日の夜は、年越しそばも食べましょう。それから……」
取り止めもなく話しているうちに、声が掠れそうになった。鼻の奥がツンとしたの感じて、陽河は何度か瞬きをする。カメラの前で、普通のテンションの台詞を口にする前のように、少しだけ口角を上げた。
「おせちよりも、僕は、正月はお餅三昧が好きなんです。だから、これからのお正月は、汐さんもお餅ばっかり食べることになりますからね。うちの雑煮は醤油ベースなんです。僕は作れないから、こっそり家から持ってきますね。あんこ餅とか、磯部焼きとかは作れますから、食べたいだけ作ります……。それから……」
自分が泣くのは間違っているとわかっている。だけど天井を見上げている陽河の両目から、止められない涙がこぼれてしまった。汐を抱き寄せたのとは別の腕で、陽河は目元を押さえる。
汐を守れなかったことも、汐を傷つけられたことも悔しくて仕方ない。飯田の口から発せられた汐を貶める言葉の数々を思い出すと、やっぱり、殴りつけて血反吐でも吐かせてやりたかったと思う。
「守れなくて、すみませんでした……」
汐にとって、なんの意味もない謝罪を口にしてしまった自分が、情けない。
だからかもしれないけれど、汐はやっぱり、無言のままだった。
(陽河は最初から知ってたんだ……)
そう気づいた時、汐は、陽河の視界から消えたくて仕方なくなった。飯田が気持ちの悪い言葉をいっぱい吐いたから、汐がどんなことをしてきたかを、陽河にもっと知られてしまって、恥ずかしくて逃げ出したくなった。
あんなことをしてきた自分がどんなに汚いか、汐自身が一番わかっている。撮影の現場で、飯田が「汚いの」と汐を呼んだ時、汐の見てくれだけじゃなくて、その中身についても仄めかしていることに、汐は気づいていた。
陽河が気づいていないようだったから、あの時は、汐も知らん顔をしたけれど……。
消えてしまいたかった。自分が小さく小さくなって、消えてなくなればいいと思った。
だけど陽河は、そんな汐でも抱き締めてくれて、「汐さんが悪いんじゃない」と言ってくれた。陽河は、汐が今まで会った人の中で、一番変なヤツで面白い奴だ。
だから、飯田のことさえ、追い返せたのかもしれない。
でも、陽河も怖かったんだと思う。汐を抱き締めている陽河も、震えていた。会社の仕組みはわからないけれど、飯田が「逆らうのか」と言っていたから、本当なら、逆らっちゃいけないんだと思う。
(陽河が飯田に逆らったら、どうなるんだろう……)
そう思ったら、より一層、怖くなった。飯田は、人を痛めつけたり苦しい思いをさせたりするのが好きだから、陽河にもそういうことをするかもしれない。小さかった汐にやったことを、陽河にするとは思わないけれど、殴ったり蹴ったりするかもしれない。
実際、飯田は陽河を殴っていたし……。
そんな想像が怖くて怖くて、汐の体の震えは止まらなくなった。陽河に何かあったらどうしよう……。どうしよう……。どうしよう……。
なのに陽河は、ずっと何かしゃべっていた。「洗濯に行こう」とか「お正月の準備」とか「お餅」とか。「お正月」とか「お餅」は、なんだか懐かしい響きだ。「おせち」は、よくわからない。
陽河の声を聞いていたら、少しずつ怖さが和らいだ。陽河は大丈夫なのかもしれないと思えた。
飯田を追い返してくれたのに、陽河はなんでか汐に謝ってきた。「守れなくて、すみませんでした」と、泣かせてしまった。陽河が謝っている理由も「守れなくて」の意味もわからない。
「陽河は、ちゃんと守ってくれた」と伝えたかったけれど、声にならなかった。そもそも、陽河が汐を守る理由なんてないのだから、謝らなくてもいいんだって思ったけれど、それも言えなかった。
そのうち、陽河は眠ったようだ。
汐は、ちょっと体を起こして、陽河の顔を見てみた。眠っている陽河の顔は、いつもより少し赤い。そういえば今日、お酒を飲んで真っ赤な顔で来たことを思い出した。
それから汐にお寿司を食べさせてくれて、頭を撫でてくれて……。真っ赤な顔なのに、陽河はすごく優しかった。
なのに飯田のせいで……。
(陽河、ケガしてる)
陽河の口に血がついているのに気がついた。飯田が陽河を叩いた時に、ケガをしたのだ。
(ケガさせて、ごめん……)
陽河に痛い思いをさせてしまって、すごく悲しい。シクシク、シクシク……。また胸が変になってしまう。
(ごめん……)
気づいたら、汐は陽河の口に唇を押し当てていた。ケガをさせてしまった陽河に謝りたいと思っただけなのに、そんな事をしてしまっていた。
自分でびっくりして慌てて陽河から離れたけれど、シクシクした気分はもっと強くなった気がする。
陽河が自分のせいで、痛い思いや苦しい思いをするのは嫌だ。
陽河が、自分のせいで、嫌な思いをするのも、嫌だ。
陽河が、自分のせいで、怖い思いをするのも嫌だ。
でも、陽河がいなくなってしまうのは、もっと嫌だ。
汐は、もう一度、陽河の隣に横たわる。陽河の体温を感じる。
こんな風に、陽河にそばにいてほしい。
怒った飯田がそれを、許さないとしても……。
翌日、汐は陽河に揺り起こされた。
「汐さん、朝ごはんを食べて、洗濯に行きましょう。それから、鍵屋さんが来るのは夜になりそうなので、あとでちょっと付き合ってください」
汐はぼんやりした頭で、朝から陽河がいる不思議さを考える。そして、昨夜のことを思い出した。
だけど陽河は、昨日のことなんて忘れたみたいに元気に振る舞っている。ご飯と味噌汁と納豆、卵焼きを、夜ご飯でもないのに陽河と向かい合って「いただきます」をしてから、2人で食べた。
部屋は朝から暖かくて、窓から見える空は真っ青だ。陽河に追い立てられてシャワーを浴びて、同じくシャワーを浴びた陽河と一緒に、布団カバーとかシーツカバーとかと一緒に、汐の他の洗濯物も持って、コインランドリーに行った。
洗濯の終わり時間を確認して、一緒に汐の家に戻る。陽河は押し入れを開けると、「クリスマスプレゼントだ」と言っていた洋服の中から、セーターとジーンズを取り出して、汐に着替えるように言った。
「……なんで?」
「出かけるからです。ちょっと、付き合ってください」
「……どこに?」
「僕の家です」
「……」
どうして自分が陽河の家に行くのかわからなくて、汐は渡された洋服を持ってボーッとしてしまう。陽河はコートを手にして、汐を振り返った。
「どうしました?」
「なんで、陽河の家に?」
「置いていくのが心配だからです。そんなに長い時間はかかりませんから、付き合ってください」
陽河の口調も表情も優しいけれど、汐を絶対に連れて行くのだという断固とした意思を感じた。汐は仕方なく、服を着替える。汐が着替えを終えると、陽河は近づいてきて汐の髪を撫で付けようとしたけれど、「やっぱり、シャンプーに変えなきゃダメですね」と、呟いて、ボサボサの汐の髪を諦めたようだ。
撮影の現場の前に陽河が買ってきたブルゾンも着せられて、陽河と汐は家を出た。「一応、カギ閉めてくださいね」と言われて、汐は家のカギを閉めた。
アパートの前にはタクシーが止まっていた。後ろのドアが開いて、汐は思わず陽河を見上げる。
「乗ってください」
陽河に言われて、汐はタクシーに乗り込んだ。そうしたら陽河は「ははっ」と笑ってから「もうちょっと奥にお願いします。僕が座れません」と言う。汐が慌てて奥にずれると、陽河は笑いながら汐の隣に座った。
「お願いします」
陽河が言うと、タクシーはドアを閉めて走り出した。
汐がタクシーに乗ったのは、数年ぶりだ。今の家に飯田に放り込まれた時に乗った以来だから……。
(何年ぶりだろう)
あの時は、飯田が自分をどこに連れて行こうとしているのかわからなくて、怖くてしかたなかった。だけど反対に、体も大人になってヒゲを伸ばすようになった汐を、飯田が捨てようとしているのだと思って、嬉しかった。
(そう言えば、あの時のあいつは、何してるんだろう……)
まだ飯田の家に囲われていた時から顔を出していたそいつは、飯田の家にあったPCでの遊び方を教えてくれた。そいつ自身がデザイナーだったんだと思う。汐が作った画像を褒めてくれて、汐が「こんなものを作りたい」と言うと、インターネットで「作り方」を学ぶ方法を教えてくれた。印刷やホームページの知識を教えてくれたのも、そいつだ。
ただそいつは、飯田の目を盗んで汐を弄んだ。嫌だったけれど、食事を与えてくれる飯田の言う事を聞くのと同様に、遊びを教えてくれるそいつの言う事も聞くしかなかった。
今のアパートに放り込まれた時も、最初はそいつが来ていた。汐のためにネットやPCを繋いでくれて、そのお礼を汐から無理に奪っていった。コンビニの場所、お金のおろし方、お金の使い方……。その度に、何度も「お礼だろ」と奪っていった。
汐が伸びるがままにヒゲを伸ばすようになると「そのヒゲはさすがに萎えるな」と言われた。来なくなって、嬉しかった。
そいつの名前も覚えていない。覚えているのは、汐の上でタプタプ揺れてた腹の動きぐらいだ。
「うっ……」
吐き気を覚えて、汐は口を覆う。陽河が慌てて「すみません、窓を少し開けてもらえますか」と、運転手に言って、カバンの中からペットボトルの水を取り出した。
「お水、飲みますか?」
汐は首を振る。車に酔ったわけではない。気持ち悪い景色を思い出してしまっただけだ。
気分を紛らわしたくて、汐は、思いついたことを陽河に尋ねる。
「……どんな家?」
唐突に汐が尋ねたせいで、陽河は戸惑ったように「え?」と、顔を近づけてきた。
「陽河の家、どんな家?」
「家って、住宅の作りですか?それとも、僕の家族についてですか?」
今度は汐の方が、陽河の質問の意味がわからなくて戸惑ってしまった。それに気づいたらしい陽河は、汐の返事を待たずに話し始めた。
「僕の家は、一軒家です。23区内ですから、すごく広いってわけじゃないですけど、家族3人で住むには十分な広さですね。住宅街なので、周りも同じぐらいのサイズ感の家がたくさんあります。一階は車庫と倉庫になっていてますが、階段で少し上がったところに玄関があるので、地下みたいに使っています。2階はキッチンとダイニングとリビングがあって、水回りもこの階に集まっています……。汐さん、この話、面白いですか?」
心配そうに尋ねてきた陽河に、汐は思わず笑ってしまう。面白いかと言えば、面白くはない。だけど、陽河が話してくれていれば、それでいい。
「参ったな。何か話そうと思っても、話題って、考えつかないもんですね」
陽河が困ったように言った。(そういえば……)と、汐は思う。初めて陽河に会った時に、飯田が「元俳優」だと言っていたのを思い出した。
「俳優の話は?」
汐が尋ねると、陽河は「言ったことありましたっけ?」と首を傾げたが「その話なら得意、かなぁ?正直、人に聞かれれば話すけど、自分からはあんまり話してないんです」と苦笑した。
「あ!」
陽河はスマホを操って、「見てください」と写真を汐に見せてきた。今より随分子供の顔をした陽河と、汐が知らない少年が一緒に写っている。
「俳優の園枝研くんとのツーショットです。すごいでしょ」
「……この子、知らない」
「えっ?知らないですか?園枝研、知らないですか?」
「陽河しかわかんない」
汐の言葉に、陽河は「この写真が不発なのは初めてですね」と苦笑いする。そして「この休みの間に、何かドラマも見ましょう」と、言った。
やがてタクシーは止まり、陽河は支払いを済ませて降りた。
「汐さん、行きましょう」
汐を促してタクシーから降ろすと、陽河は門を開けて先に進んでいく。
(こんな家に住んでた子、いたな……)
汐が子供の頃住んでいた地域にも、こういう綺麗な家がたくさん並んでいるエリアがあった。そういう家に住んでいる子供たちは「お金持ちの子」で、汐のように公営の団地に住んでいた子は「貧乏な子」だ。
思わず汐の足がすくむ。ふと振り返った陽河が、慌てたように戻ってきた。
「どうしました?まだ、気分が悪いですか?」
汐は首を振る。陽河は汐の肩に手を置いて心配そうに「大丈夫ですか?」と尋ねてくる。
「家が綺麗で、びっくり、した」
汐が言うと、陽河は苦笑した。
「母が綺麗にしてくれています。趣味みたいな感じかもしれないですね」
そう言うと、汐の手を取った。そのまま手を繋いで、陽河は階段を上がっていく。
「その母ですが、とにかくおしゃべりです。見つかったら1時間でも2時間でも捕まってしまうので、こっそり行きましょう」
イタズラっぽく言って、陽河は本当にこっそり玄関の鍵とドアを開ける。小声で「どうぞ、汐さん」と言って汐を招き入れると、「靴を脱いで」と囁いて、陽河も靴を脱いで廊下に上がった。
「こっちです、汐さん」
陽河に手を引っ張られて、家の中の階段を上がる。上がっている途中で「陽くん?」と言う声が聞こえた。
「帰ってきたの?」
優しそうな女性の、綺麗な声だ。きっと陽河がさっき話していた母親だろうと、汐は思う。
陽河が立ち止まったので、汐も俯いたまま立ち止まった。
「昨日はメッセージを送ってきただけで電話も寄越さないで……。どなた?」
「前に話した、外部のデザイナーさん。後でリビングに話しにいくから、ちょっと待ってて」
陽河は早口でそう言うと、汐の手を引っ張る。そのまま階段を上がって廊下をちょっと歩いて、陽河が開けたドアの部屋に、汐は足を踏み入れた。
燦々と光が降り注ぐ、綺麗な部屋。汐の部屋よりもずっと広い。
「ベッドにでも座っててください」
陽河はそう言うと、別の引き戸を開けた。洋服がたくさんかかっている。下の段の奥から、陽河はスーツケースを取り出した。
床にスーツケースを広げて、引き出しから洋服や下着などをどんどん取り出し、スーツケースに詰めている。
「あとは……」
呟きながら振り返った陽河は、立ち尽くしている汐を見つけると、「座っててください」と言ってベッドに座らせた。
デスクの引き出しや、壁にある引き出しなどを開けて、陽河は目当ての物を取り出すと、それもスーツケースに入れる。汐はそんな陽河の動きを目で追うしかない。陽河が何をしているのか、わからない。
部屋のドアがノックされて、汐はビクッと体を震わせた。
「陽くん、お茶をお持ちしたんだけど……」
遠慮がちな母親の声に、陽河は素早くドアに近づき、それを開けた。
「ありがとう」
トレーを受け取った陽河に「お父さんも、リビングに……」と、小声で母親が伝えるのが聞こえる。
「うん。お茶をいただいたら、行くね」
「そうね」
陽河はドアを閉める。母親から受け取ったトレーを、汐が座った場所に近い棚の上に置いた。そして自分のためにデスクから椅子を引っ張ってくる。
「せっかくだから、いただきましょう。母は、料理も得意ですが、お菓子作りも上手なんです。美味しいですよ」
陽河が母親の手作りのクッキーを勧めると、汐はクッキーと陽河を交互に見た。だけど、なかなか手を出そうとしない。お腹が空いていないのか、遠慮しているのか……。
「お腹、いっぱいですか?」
尋ねると、汐は首を横に振った。「食べたくない?」と言う質問にも、横に首を振る。
「じゃあ、一個だけでも」
クッキーを一つ摘んで、陽河は汐の口元に運ぶ。汐はまた陽河の顔を見た。……と、思う。そしてもう一度クッキーを見て、口を開けた。
汐の口にクッキーを入れてやると、汐は慎重な感じで咀嚼を始めた。見えにくいけれど口角が上がったようだ。
陽河もクッキーを口に放り込む。そして、母が入れてくれた紅茶を一口飲む。陽河の様子を見ていた汐もティーカップに手を伸ばした。一口飲んで「ふぅ……」と息を漏らす。
そして「きれいだな」と呟いた。汐は、シンプルな陶磁器のティーカップを見つめている。
「きれいですよね」
母の自慢の逸品のティーカップだ。きっと汐の風貌は見たはずなのに、ちゃんとお客様として汐を扱ってくれた母親に、陽河は感謝した。
2人とも紅茶を飲み干し、汐はクッキーをもう一枚食べた。皿に敷かれた紙を残りのクッキーごとデスクに置いて、陽河はトレーを持って立ち上がる。
「ちょっと、両親と話をしてきます。汐さんは、ここで待っていてください。その辺のもの、見ててもらって構いませんから」
汐の顔が上がった。陽河の顔を見上げているようだ。陽河は軽く汐の頭を撫でると「心配いりませんから」と言い残して、部屋をでた。




