満汐引力 05
メイセア化粧品の制作物の作業は、着々と進行された。
写真のレタッチや調整については、陽河を介さず、汐と横手がやり取りするようになった。「あいつの言うことわかんねぇよ」と、横手からクレームが入ったりする度に、陽河は思わず笑ってしまう。
飯田は撮影以降、またダンマリに戻った。飯田から来ていた他の案件も、この頃はほぼ、陽河に直接連絡がくるようになっていたので、陽河は飯田との接触を、進捗報告だけに留めている。
(このままいけば、汐さんを局長から解放できるかもしれない)
そう思う反面、お金の問題をクリアにしないと、それは難しいとも感じていた。汐に探りを入れたところ、会社に登録されている汐の振り込み口座の通帳は、飯田が所有しているらしく、汐が持っているのはキャッシュカードのみであることが判明した。
(多分、ネットバンキングも局長が抑えてるんだろう)
毎月1回、汐はコンビニのATMで10万円を引き出している。それ以前に、飯田は汐の口座から自分の口座に金を移しているようだ。
登録口座を別のものに変えることも考えたが、そんなことをしたら、飯田に汐の造反がすぐにバレる。その瞬間に仕事を取り上げられたら、困るのは汐の方だ。
(やっぱり、もう少し汐さんを指名するような仕事が増えないと難しいな。そのためにも、汐さんの味方を増やさないと)
撮影現場でも、飯田に自分の本音は隠しおおせた自信がある。飯田の目論見がうまく行かなかったのは、横手や花江のせいだと思っていることだろう。
あの日、横手を見た飯田の表情が歪んだ理由を横手に尋ねたところ、10年ほど前から、飯田の案件を露骨に受けなくなったことを気にしているのだろう……とのことだった。横手は業界で有名なカメラマンで、特に幻想的な世界観を映し出すセンスに定評がある。
「その俺の写真に、あいつ、手を加えやがったんだよ。しかも納品して、俺が気づいてから『すみません』とか宣いやがった。そりゃ、出禁にもするわ」
そう言って笑った横手を羨ましいと思う。陽河にもっと力があれば、横手のように堂々と汐を引き立てられるのにと、考えてしまう。
(でも、こればっかりは焦っても仕方がない)
陽河は、悶々と考えるのをやめた。
今日はクリスマスイブだ。しかも金曜日。汐には「クリスマスパーティーをしましょう」と伝えている。
(とはいえ、予算はチェーン店のチキンでおしまいだ。ケーキはコンビニだな)
その代わり、クリスマスプレゼントはコスト的に奮発する。本来であれば良いブランド品などを選びたいところだが、同じ金額感で、陽河は汐の洋服や靴や下着を大量に購入した。けして高くもない量産品だけど、きっとこれからの汐に一番、必要になる。
(本当は、ヒゲも剃って欲しいんだけど。髪は結ぶとか色々やりようがあるけど、ヒゲはなぁ)
おしゃれな感じに整えるだけでもいいのだが、汐はそれさえ嫌がるのだ。
(まぁ、それもおいおい、考えよう)
まだまだ問題は山積みだけど、撮影を機に汐の世界が広がった気がして、陽河の気持ちは少し穏やかになっている。小さな変化を積み重ねていけば、いつか汐を飯田から解放できると信じる気持ちも強くなった。
「じゃあ、『汐の刻参り』に行きます」
夕方、今日こなすべき事務仕事を終え、同僚にそう言い残して執務室を出ようとしたら、木島が追いかけてきた。
「荷物、下まで持つよ」
「え?大丈夫だよ」
「お前は大丈夫でも、周りがビビる」
木島はそう言うと、陽河が持っている量販店の紙袋やビニール袋を半分取り上げた。
「こんなに大量に量販店の袋なんて持ってたら、お前のイメージも壊れるし、見る人が見れば、汐さんへのクリスマスプレゼントだってバレる」
「……」
「誰が見てて局長の耳に入るか、わかったもんじゃないだろう」
「……気をつける」
図星を刺されたことはともかく、飯田のことを気にしていなかった自分に気づき、陽河は自分の迂闊さを痛感した。
「クリスマスで浮かれるのもわかるけど」
「クリスマスは関係ない。来年は、汐さんも人に会う機会が増えそうだから、準備しておこうと思っただけで……」
「ふーん」
2Fのエントランスまで荷物を持ってきてくれた木島に礼を行って、荷物を受け取ろうとすると「チキンはどこで?」と尋ねられた。
「駅近くの店で受け取るけど」
「やっぱりクリスマスじゃないか」
「……」
「仕方がないなぁ」と言った木島は、荷物を持ったまま店まで着いてきてくれた。クリスマス仕様のチキンのボックスを受け取った陽河に「お前、今日はタクシー使えよ」と言って、さっさとタクシー乗り場に向かってしまう。
「いやでも、極力、タクシーは使わないことにしてて」
陽河が言うと、木島は立ち止まりもせずにこう言い放った。
「今日のお前が電車に乗ったら、同乗した人が迷惑」
タクシーの後部座席に収まった時、陽河はようやく木島の言うことを理解した。大量の荷物を後部座席や足元に置いたら、陽河1人しか乗っていないのに狭いぐらいだったのだ。
「じゃあ、メリークリスマス!」
そう言って木島はタクシーから離れ、車両は動き出す。大量の荷物に囲まれた陽河は、思わず赤面してしまった。
(陽河は、やっぱり面白い)
いつもより重い足取りで外階段を上がってきたから、何かあったのかと心配したけれど……。陽河は両手で抱えきれないほどの荷物を持ってやってきた。普通に玄関から入ろうとして引っかかり、横向きになってなんとか室内に入ってきた。
(引っかかってたの、面白かった)
慌てている陽河の様子を思い出し、汐は「ふふふっ」と笑う。陽河らしくなくて、面白すぎた。
陽河は持ってきた荷物を床に置いて、「ふー」と汗を拭っていた。そうしてから、荷物を跨いで室内に入って、紙袋やビニール袋を押し入れに詰め込み、すごく美味しそうな匂いのする箱を流し台に置いた。
そして室内を見回して、汐が座っているPCデスクまで来ると、エアコンのリモコンを手にして「ピピピピ」っと、設定温度を上げた。
「汐さん、何度も言いますけど、せめて20度以上に設定してください」
「もったいねーし!」
「エアコンつけているのに、寒い方がもったない!」
「……」
怒っている本人は、額に汗まで浮かべている。そしてタオルケットでぐるぐる巻きになりながら椅子に座っている汐を見て「その格好じゃ仕事にならないでしょう」と、言添えた。
「なるし!」
「仕事は震えながらするもんじゃないです」
「温度、下げないでくださいよ」ともう一度、汐に言い聞かせると、陽河は「買い物に行ってきます」と言い残して、また出ていった。
「まだ、何か買ってくるのかよ」
汐は唖然としてしまう。さっき、陽河が押し入れに詰め込んだ袋が何なのかわからないけれど、陽河は、汐が一生でする買い物の量を、1日でしてしまうんじゃないだろうか。
今日を指定して、「クリスマスパーティーをしましょう」と、陽河は言っていた。そんな単語を聞いたのは、小学校以来かもと、汐は思う。教室に紙で作った輪っかを飾って、図工の時間に作った三角帽を被って。給食にケーキが出たから、ジングルベルを歌って、みんなで食べた。
クラスメートがウキウキしてたから、汐も楽しかったと思う。みんなが話すサンタクロースの話には胸が躍った。欲しいものを手紙に書いておけば、願い通りの物が届くと聞いて、汐も何かを書いた覚えがある。
プレゼントが届いた覚えはない。
ぼんやりとPCモニターを見ていた汐の耳に、軽快に階段を上がってくる足音が聞こえてきた。陽河もウキウキしているのが足音でもわかる。
だから汐も、楽しくなる。陽河がいれば、嬉しいことがたくさん起きると、わかっているから。
部屋に戻ってきた陽河は、紙で作った輪っかを飾ったりもしなかったし、ジングルベルを歌うこともしなかった。代わりに、ちゃぶ台に「どん!」と、いい匂いのするボックスを置いた。
開けてくれたボックスを覗き込むと、汐が見たこともない食べ物がたくさん入っていた。
「こっちがビスケットで、メイプルシロップをつけて食べます。これはコーンサラダ。はい、汐さんの分です。ポテトも2つありますからね。それから、これは汐さんのスペシャルです。パイの中にシチューが入っています。で、こっちがお待ちかねのチキンです」
ナプキンで包んで、陽河はチキンを汐に渡す。表情は全くわからないけれど、汐は期待を持って陽河からチキンを受け取ったようだ。そしてすぐにチキンにかぶりつく。
「あ、乾杯を……」
言いかけたけど、陽河はすぐに(まぁ、いいか)と、思った。乾杯をする前にチキンを渡した自分が悪い。美味しそうな物を差し出されていながら「乾杯を待つ」なんて、汐にしたら意味がわからないだろう。
ガツガツとチキンを食べている汐の様子を見ながら、陽河は汐のマグカップに炭酸のオレンジジュースを注いだ。子供っぽいかもしれないけれど、汐の味覚なら、これが正解な気がしたのだ。
「骨は残していいですからね」
陽河が声をかけると、汐は歯を立てていた骨をすぐに手放した。首を伸ばして箱の中身を覗き込み、もう一つチキンを取り出した。大きなチキンを選ぶあたりが、ちゃっかりしている。
(僕は、久しぶりに、これを……)
スーパーで目についたら、無性に飲みたくなってしまった。飲みたい衝動はあまりないが、今日はなんだか開放感を感じたかった。
500mlのハイボールをあけて、一口。(あー、美味しい)と、心の底から思った。4月の1日にいきなり「汐の刻参り担当」を拝命して、8ヶ月。気分としては「乗り切った」だ。
正直、大変だったのは確かだ。新卒から2年で回った部署では、最初は手取り足取り業務を教えてもらえて、徐々に仕事を任されてきた。それが汐の担当は、汐を紹介されて終わり。周りからは最初から、不穏な情報を与えられたし……。
それでも、辞めたいとは一度も思わなかった。汐を飯田から自由にしようと決めてからは、自分でも驚くぐらいの狡猾さで立ち振る舞ったりもして。その反面、汐を理解してくれそうな人たちには、汐の良さを知って欲しいと、本心からコミュニケーションを求めた。
(気分はもはや、マネージャーだ)
子役を卒業した高校入学時から、俳優を辞めるまでついてくれていたマネージャーを思い出す。生活の面倒こそ見てもらうことはなかったけれど、仕事全般の調整から陽河自身の精神的なコントロールまで、本当に世話になったと思う。
(そういえば、会社員になってから連絡してないな)
最後に会ったのは、大学4年の春。「俳優を廃業する」と正式に申し入れた時だ。その時、マネージャーがどんな顔をしていたかは、覚えていない。
(久しぶりに連絡してみようか……)
そんなことを思った時、汐が二つ目のチキンを食べ終えた。陽河は腕を伸ばして、汐の前のシチューのパイ包の箱を取る。箱から中身を取り出して、それをもう一度、汐の前に置いた。
スプーンで一回だけ、パイを崩して見せる。そのスプーンを汐に差出した。
「パイを崩しながら、食べるんですよ」
汐はど真ん中のパイをガシャガシャ崩してシチューと一緒に口に運んだ。一瞬、動きが止まった汐を見て(正解だったな)と思う。次の瞬間には、汐は夢中でシチューを食べ始めた。
そんな姿だけで、汐は陽河を幸せな気分にするんだから、たいしたものだ。ヒゲがシチューまみれになっているけれど、そんなことは、本当に小さなことでしかないよなと思う。
シチューをあらかた食べ終えた汐は、満足気に手の甲で口を拭う。そして陽河を見ると、「ハッ!」と体を硬直させた。
「それは汐さんのためのメニューだから、全部、汐さんが食べていいんです」
汐が尋ねてくる前に、陽河はそう説明する。汐は空のシチューと陽河を何度か見比べたが、陽河を見ながらシチューの最後の一口を口に入れた。そして、大きく口を開けて笑った。
(顔を見せてくれたら、もっといいんだけど……)
そうしたら、もっと汐の気持ちを理解できると思う。そうすれば、もっと汐のためにやってあげられることを増やせるかも知れない。
だけど汐は、自分を守る最後の砦みたいに、髪もヒゲも整えようとしない。
(僕がもっと信頼されたら、いつか、任せてくれますか?)
今度はポテトをモグモグ食べ始めた汐を見ながら、陽河は思う。濃密過ぎて、すごく長い時間を共にしたような気持ちでいるけれど、まだ8ヶ月だ。陽河的には、飯田と汐の間に入って、汐のために動いているつもりではいるけれど、汐から見たら、陽河はまだまだ、信頼できる人間の部類ではないのかも知れない。
(だから僕は、せっせと汐さんに餌付けをしてるのかもな)
美味しい物を食べている時だけは、汐は足元で食事をする飼い犬のように、傍にいてくれる。
(それでもいつか、信じてください、僕のこと)
ポテトも食べ終えた汐は、大満足かのように後ろにのけぞった。次はビスケットを食べさせようか、それともケーキを出してあげようか。そんなことを考えるだけで、陽河は本当に楽しい気持ちになってしまう。
(お腹がはち切れる前に、ケーキかな)
予算の都合上コンビニのケーキだけれど、最近のコンビニスイーツは秀逸だから、きっと汐も喜んでくれるだろう。
「汐さん、ケーキ食べましょうか。まだ、お腹がいっぱいじゃないなら、ですけど」
陽河が言うと、汐は「まだ食えるし!」と嬉しそうに座り直す。
陽河は立ち上がり、冷蔵庫にケーキを取りに行った。
汐をシャワーに追い立てて、陽河は、プレゼントとして渡した数々の洋服を片付け始めた。汐は面白いほど洋服に興味を示さず、予想通り過ぎて陽河の笑いを誘う。
でも、シャワーのために持たせた新しいタオルやパジャマ代わりのスウェットは、使えばきっと「気持ちがいい」とわかるだろう。
押入れの中にはラックなどもないので、陽河は下着は下着、靴下は靴下、ボトムはボトム、トップスはトップスでまとめて置くに留めた。
ちゃぶ台を片付け、明日以降、汐が温めれば食べられるように、チキンやビスケットをラップで包んで冷蔵庫にしまう。ゴミを片付けて、陽河は部屋を見回した。
初めて汐の家を訪れた時よりも、少しは暮らしやすい部屋になっただろうか。
(いや、やっぱり、部屋自体が問題なんだよなー)
ふと、汐と一緒に住むのはどうだろうかと考えた。陽河の同期の中には、会社のある港区で一人暮らしをしている者もいる。陽河の出社に問題がないなら、何も23区内でなくてもいい。中心部から少し離れれば、安くて広い物件が見つかりそうな気がする。
陽河の月給と汐の月10万なら、2馬力と言えなくもない。陽河が実家で享受している生活のしやすさは手放すことになるが、いつかは手放さなければならないものでもある。
問題は、それを飯田がどう感じるか……だが、汐から巻き上げる金が変わらなければ、そんなに気にしないかも知れない。仮に陽河の忠誠心を疑われても、「Z世代ってこんなもんですー!」というノリで、誤魔化せそうな気もした。
(敷金、礼金で3ヶ月分。それから引越し代と、家電か。情けないけど、貯金が吹っ飛びそうだな)
一軒家を建てた自分の父親との差を感じた。父に言わせれば「運と時期が良かった」と言うことらしいが、今の父親と同じ年齢の時に、戸建て、マンションに関わらず「自分の家」を持っていられるか不安になってしまう。
それでも、初めてみようと思った。この部屋をどうにかするよりも、よほど建設的だ。
ガチャっと音がして、汐がシャワーから出てきた。新しいスウェットを着て、新しいタオルで髪をゴシゴシ拭っている。
(そういえば、ドライヤーもないんだよな)
冬だからエアコンの熱で乾くかも知れないけれど、この部屋にはそんな生活必需品さえないのだと、改めて気づく。
(諸々、年明けから計画開始だ)
陽河は床に置いておいたコートを羽織るとカバンを手にする。
「じゃあ、帰りますね」
汐は無言で頷く。
陽河が玄関を出ようとすると、「陽河」と呼び止められた。陽河が振り返ると、汐は何か言いたげに口をモゴモゴさせていたが、「なんでもねーし!」と言って、PCデスクに向かってしまう。
「なんです?気になるじゃないですか」
「いいから。帰っていーよ!」
汐はモニターの陰に隠れてしまっている。陽河は食い下がるのを諦めた。
「わかりました。カギ、ちゃんと閉めて寝てくださいね。おやすみなさい」
そう言って玄関を出てから、こんな鍵なんて役に立つのかと考えてしまった。鍵は閉まるかも知れないが、泥棒でもやってきたら、ドアの方が蹴破られそうだ。
(それも、汐さんの引越しの理由にしよう。一応、高価なPCなんかはあるわけだし。アパートの老朽化とかも理由にして……、たまたま一人暮らしを検討していた僕が、汐さんとのシェアハウスを提案した……ってことで、乗り切れる気がするな)
そうなってくると引越しをいつにするかが問題だ。3月4月は移動も多いし、引越しの相場も高くなると聞く。かといって、2月は多分メイセア化粧品の納品が続くから、そんな暇は取れないし。
(むしろ、6月とか7月の方がいいのかな。明日、木島に聞いてみよう)
木島は地方出身のため、大学の時から一人暮らしをしており、キャンパス替えで1回、入社時に1回、3年目になった時も引越しをしたと聞いたことがある。安い引越し業者なんかを知っているかも知れない。
陽河が自宅に帰ると、やっぱり母は起きていた。待っていたのか、玄関まで迎えに出てくる。
「陽くん、ご飯は?」
尋ねられて、陽河は「大丈夫、食べてきたから」と、答えた。汐の家ではほとんど何も食べなかったけれど、ハイボールを飲んだからか、何か食べたいという感じではない。
「うふふ、クリスマスイブだものね。デート?」
母の問いかけに、「違うよ」と陽河は苦笑する。
「外部のデザイナーさんと、ちょっと飲んだだけ」
「女性の方?」
「違います。4月から担当させてもらってる、男性のデザイナーさん」
ウキウキした様子の母をガッカリさせるのは気が引けるが、変な誤解をされるのは困る。
陽河がリビングに行くと、ソファーでテレビを見ていた父も「なんだ、デートじゃなかったのか?」と話に混ざってきた。
「2人とも、勘弁してよ。仕事の話をしてたら、お互い独り身だから、お酒でもって話になっただけです」
「寂しいもんだな」
「そのデザイナーさんも独身の方なの?お一人暮らし?それなら一度、うちに連れていらっしゃいよ。4月からお世話になってるんでしょ」
母の提案に、陽河は「あんまりコミュ力のある方じゃないんだ」と首を振った。
この家に汐を連れてきたら、父も母も戸惑うだろう。汐にとっても居心地のいい場所ではないはずだ。陽河の両親は一般的に善良で……、汐が生きてきた世界など想像もできないだろうから。
「まだ飲めるだろ。一杯、どうだ?」
父の勧めで、陽河はソファーに腰を下ろす。母が陽河の分のグラスを持ってきてくれた。そのまま、つまみを作りにキッチンに戻っていく。
「じゃあ、陽河の独り身のクリスマスイブに、乾杯」
「不甲斐ない息子ですみません」
父とグラスを合わせて、ウィスキーの水割りを一口。汐の家で飲んだハイボールとは違う、上等な味わいが広がった。
「仕事はどうだ?3年目ともなると、責任も増えてくるだろう」
父に尋ねられ、「責任と言っていいかはわからないけれど、気苦労はあるかもね」と陽河は答える。
「仕事なんて、気苦労の連続だ。人の顔色を窺わなきゃならんこともある」
「お父さんの立場でも?」
「今は、若い社員の方が強い場合もあるからな」
父の立場になっても問題は尽きないのかと思うと、これから30年以上続くであろう「サラリーマン」という立場に夢も希望も感じられなくなりそうだ。
それでも父は、この家を建てて、母と陽河を養ってきた。その胆力には驚嘆を禁じ得ない。
父に「家族を養うって覚悟を決められたのは、どうして?」と聞いてみたかった。だけど、それを聞くには、まだ酔いが足りない。
「陽くん、今日はね、タンドリーチキンだったのよ。細かくしてお野菜と和えたから、食べてみて」
「ありがとう。いただきます」
母が差し出してきた箸を、陽河は受け取る。
母と結婚して30年以上、人のいい母を、人のいいまま養えてきたのも、父のすごいところだ。
(汐さんと2馬力で……なんて計画している自分が、情けないな)
いざという時に、自分1人の力で汐を守れるようになること。目指すのはそこなのかも知れないと、陽河はぼんやり思っていた。
今日の陽河は「納会」なるものがあるそうで、来るのが遅いらしい。
「それでも、明日もちゃんと来ますから。遅くなるかもしれないので、何か食べていてくださいね」
昨日の夜、そう言って陽河は帰って行った。
空腹を感じた汐は、冷蔵庫を開けてみる。
クリスマスイブの日に陽河が買ってきて、冷蔵庫に入れてくれていたチキンやビスケットは、土日のうちに食べてしまった。それでも汐が冷蔵庫を開けたのは、月曜日の昨日、陽河が作ってくれた「豚とナスの炒め物」が残っているからだ。
「一口コンロだと、作れる物が限られますね」と言っているけれど、陽河は色々な物が作れてすごいと思う。
今日、炊いたばかりの米に、レンジで温めた「豚とナスの炒め物」をかけたのを、ちゃぶ台に置いて、汐は「いただきます」と手を合わせる。陽河の真似だ。
空腹は感じていたけれど、「お腹に詰め込まなければ」という飢餓感はないから、汐はゆっくり食事を噛み締めた。
今日が世間でいう「仕事納め」の日であることは、陽河と花江たちのメールのやり取りで気がついた。花江は明日から休みを利用してどこかに帰ると言っていて、陽河は「お気をつけて」と返していた。
(陽河は、どうするんだろう?)
陽河も休みの日は、汐の家に来ない……、はずなんだけど、汐がコインランドリーに行くのに一緒についてきて来れたり、何かを持ってくるとかで顔を出したりで、休みの日も来てくれることが多い。
(でも、確か、いつまでか休みなはず)
いつまで休みなのかはっきりしないけれど、確か長い休みが続くはず……。さすがの陽河も、花江と同じように、どこかに出かけたりするのかも知れない。
(だから今日、なんか持ってくるのかもな)
そう思った汐は、自分の胸が妙に騒つくのを感じた。騒つくというか、なんだか悲しい気分というか……。
「悲しくねーし!」
口に出して言ってみた。陽河が来ないぐらい、悲しいわけがない。だって、陽河が担当になるまでの3年間は、ほぼ誰も来なかったけど平気だったし。誰も来ない時は、ネットを見たり眠ったりしていれば、あっという間に時間は動いて、いつの間にか仕事が始まってたし。
今年はメイセア化粧品の仕事があるから、長い休みの間も、作業をやらなきゃいけないかもだし。それをやっておけば、休み明けの陽河が、喜んでくれるかも知れないし……。
「だから、寂しくなんてねーし!」
口にしてから、飛び出た単語にびっくりした。「寂しい」ってなんだろうとさえ、思う。意味は正確に捉えられないけれど、自分には馴染みの気持ちのような気がした。
(わかんねーし!)
胸がシクシクしている気がして、汐は両手で胸を押さえる。シクシク、シクシク……。こんな痛みを、知っている気がした。
その時、外階段を上がる足音が聞こえた。陽河の足音の割には、ちょっとヨロヨロしているように感じたけれど、陽河のような気もする。途端に汐の胸のシクシクしたものが、おとなしくなる。
足音は少しゆっくり目に汐の部屋の前まできた。トントンというノックの後、「ただいま」と言いながら、陽河が入ってくる。
その顔が真っ赤なのを見て、汐は体をこわばらせた。心臓がドクドクと鳴り出すのがわかる。
酒で赤い顔をした男は、汐にとって恐怖の対象だ。
父親と思われる男の、唯一の記憶も、真っ赤な顔で眉を吊り上げた、恐ろしい顔で。母の男に殴られた時も、男は毎回、真っ赤な顔と濁った目で汐を睨みつけていた。
飯田がひどい折檻をする時も、そうだ。真っ赤な顔で目をギラギラさせて汐を睨め付けて、裸に剥くだけじゃ飽き足らず、痛くて苦しいことを……。
汐が体を強張らせて縮こまったことにも気づかず、陽河は荒い息を吐きながら、三和土にしゃがみ込む。そのまま、ズリっと這って、恐怖で動くこともできない汐の傍に、なんとか座り込んだ。
「飲まされ、過ぎました……」
そう言って、陽河は汐の手を握る。でもすぐに顔を上げると、真っ赤な顔なのに満面の笑みで汐に笑いかけた。
「でも、ゲットしました!超、高級寿司!汐さんに食べて欲しくて……」
顔は赤いけれど、陽河の笑顔はいつもと変わらない。それどころか、いつもより一層、優しい気がする。汐の手を握る陽河の手も、力任せな感じじゃない。
「まだ、お腹に入りますか?この時間だから、ナマモノでも、明日まで保つとは思うんですけど……」
そう言った陽河は、伺うように汐を見る。
(陽河は、赤い顔になっても、陽河のままなんだ……)
そう思ったら、汐の体の緊張が解けた。変な感じに鳴っていた心臓も、少し落ち着いた気がする。
黙ったままの汐の反応を「お腹がいっぱい」と誤解したのか、陽河はちょっと残念そうな顔をした。けれど、すぐに笑顔になって「明日にしましょうか。冷蔵庫にしまっておきますね」と言って、立ちあがろうとする。
「は、腹、減ってるし!!」
なんとかそう言った汐の声は、変にひっくり返ってしまったけれど、それを聞いた陽河は、嬉しさを爆発させたような笑顔を見せた。いそいそと汐の近くに座り直すと、ちゃぶ台の上に小さな箱を置いた。
「お寿司は、手で食べていいんです。わさびは抜いてもらったけど、どうかな。食べてみてからですかね」
そんなことを言いながら、陽河は小さな濡れた紙で、汐の指を丁寧に拭いてくれる。そして、小さな皿みたいな物に魚の形の入れ物に入った醤油を注いだ。
「こうやって持って、ネタの方に醤油をつけるんです」
やり方を教えてくれるんだけど、手をひっくり返したりする動きの意味がわからず、汐は戸惑って陽河を見た。
「えっと、こうです」
綺麗なピンク色のを手にすると、陽河はクルッとひっくり返して醤油をつけた。そして汐の口元に差し出してくれる。
「食べてみてください、汐さん」
どうしてかわからないけれど、陽河は期待に満ちたような顔をしている。汐が口を開けると、そこに寿司が転がり込んできた。
「!!」
あまりの衝撃に、汐は噛むのも忘れて目を見開いた。口の中でパラパラ米がほぐれて、すぐにトロッととろける感じがした。ようやくモグモグと咀嚼した汐を見て、陽河はほっとしたように「飲んだ甲斐があったぁ……」と、よくわからない言葉を口にする。
「ほんと碌でもないですけど、高級寿司の折り詰めを賭けて、日本酒勝負になってしまって。二万の折り詰めなんて、僕には手が届かないから、勝つしかないと思って……。次は、イクラにしましょうか。どうぞ、汐さん」
また、陽河が寿司を差し出してくるので、汐は口を開ける。赤いプチプチしたものが、噛むとすごく甘くてびっくりした。思わずニンマリと笑った汐を見て、陽河の笑顔も濃くなる。
「アナゴもいいですね。まだ食べれますか?」
汐が頷くと、陽河は慎重に大きなのを摘んだ。大きすぎて、汐は途中で身を噛み切ってしまったけれど、陽河は自分の手の中に残ったアナゴを口に放り込むと、モグモグ咀嚼する汐を優しく見ている。
「美味しいですか?」
尋ねられて、汐は何度も頷いた。陽河には美味しいものをいっぱい食べさせてもらったけれど、こんなにも美味しいものがこの世にあったのかと改めて思うぐらい、美味しい。
それからも、陽河は「これはハマチですね」とか「これはウニです」と言いながら、汐の口に寿司を運んだ。どれもこれも、信じられないぐらい美味しかった。
最後に残った卵焼きも、陽河は全部、汐にくれた。ふわっふわの卵焼きを味わって飲み込むと、陽河は汐よりも満ち足りたみたいに息を漏らす。そして、汐のヒゲについていたご飯粒をとって自分の口に入れると、汐の頬に手を当てた。
「美味しかったですか?」
頷くと、陽河は「ほんと、頑張って飲んだ甲斐があったなぁ……」と、もう一度呟く。そして頬に触れていた手で、汐の頭を優しく撫でてくれた。
とてもいい気分で、汐はちゃぶ台に顔を預ける。陽河の手はちゃんと追いかけてきて、何度も何度も汐の頭を撫でてくれた。
(ふわふわする……)
前髪の隙間から、汐は陽河を見る。頭を撫でてくれている陽河の表情は、すごく優しい。汐の人生の中で、こんな表情を向けてくれた人はいなかったと思う。頭を撫でられるなんて経験も思い出せない。
「……」
陽河に何か言いたくて。でも、何を言ったらいいのかわからない。クリスマスパーティーの日も、陽河に何かを伝えたかったんだけど、結局、言葉を思いつかなくて、追い返したみたいになってしまった。
気持ちは穏やかなのに、なんでか泣きたいような気もする。こんな気分なのに泣くなんて変だ。涙は、痛いとか苦しい時に、助けて欲しくて必死だから出てくるものなのに……。
でも結局、涙は出なかった。撫でてくれる陽河の手が吸い取ってしまっているのかもしれない。それなら、もっと、ずっと撫でていてほしい。そうすればこれから先、悲しいことが起きても、泣かずに済むかもしれないから。
(このまま、ずっと……)
なんだか眠くなってきて、汐はテーブルに寄りかかったまま目を閉じた。
(かわいいなぁ)
テーブルに頭を預けて眠りそうになっている汐を見て、陽河は思う。撫でている陽河の手の下で、表情は見えないけれど、汐が安らいでいるのがわかる気がした。
犬を飼っていたら、こんな感じかもしれないなと、思った。汐に対してはちょっと失礼かもしれないけれど、モジャモジャの髪もヒゲも、むく犬のそれとしか思えない。
(僕にペットを飼わせなかったのは正解だな、お父さんもお母さんも)
陽河の性格なら、ペットを甘やかすだけ甘やかすと、両親はわかっていたのかもしれない。たった今、自分ですら口にしたこともない高級寿司を食べさせたばかりなのに、陽河は「次」を考え始めている。汐に、次は何を与えようか。何を経験してもらおうか。どうすれば汐を喜ばせられるか。
だって、汐が幸せそうにしていると、陽河も幸せな気分になれるのだ。自分は汐を幸せにできていると実感できる。
(汐さんだからなのかな、こういう気分になれるのは)
見るからに犬っぽいからなのか、表情が見えにくいからこそ、ダイレクトに汐の気持ちが伝わってくるのか。
いずれにしても、陽河をこんな気分にしてくれるのは、汐しかいない。
(もっともっと、幸せにしますからね)
酒に酔った頭で、陽河は思う。汐は、今より何倍も、何十倍も、幸せになっていい人だ。奪われ続けた分も取り返す勢いで、幸せにならなきゃいけない人だ。
(僕が必ず、叶えますから)
だから汐さん、僕を信じて、任せてください。全部、任せてください。
そんな気持ちを込めて、陽河は汐の頭を撫で続けた。




