満汐引力 03
「ううっ……」
うめいた汐のそばにしゃがみ込んで、陽河は思わずため息を吐く。
「1本だけって言ったのに、3本も食べるからです」
「う……、うぅ……」
布団の上で丸まっている汐は、呻くだけだ。陽河は「まったく、もう」と呟くと、汐が押さえているお腹に手を当てた。
押さえている汐の手も冷えているが、服越しに触れた汐のお腹は、輪をかけて冷たい。
夕食後、陽河は気が向いて買ってきたソーダ味のアイスを汐に食べさせてみた。汐は相変わらずのヒゲ面でそれを食べて「俺、これ、食ったことあるし」と、ニンマリ笑った。
(美味しかったんだな)と、思ったから警戒していたのだが……。陽河がクライアントからのメールを熟読している間に、汐は、冷蔵庫にこじんまりとついている冷凍室をこっそり開けて、残り2本を食べてしまったのだ。しかも、猛スピードで。
食べ慣れていない冷たいものを一気に摂取して、胃がびっくりしたのだろう。そこから布団に倒れ込んで、呻いている次第だ。
(まったく、潮さんは……)
陽河は仕方なく汐を抱き起こすと、あぐらをかいた自分に凭れさせた。両手を汐のお腹に当てて、自分は壁に背中を預ける。
陽河もけして体温が高い方ではないが、汐よりはマシだ。冷房が軽く効いた部屋で、陽河は長袖のシャツ姿だが汐は普通にトレーナーを着ている。それ越しでも、汐の体温が低いのがわかるのだから、低体温にも程がある。
「ううぅ……」
情けない声を汐があげるから、陽河は笑ってしまった。
「アイスは、一日に1本だけです。そうじゃないと、お腹を壊しますからね」
「い、痛くなんか、ねぇしっ!」
「強がっても無駄です」
「ううう……」
しばらくそうしていると、汐の腹痛も少し落ち着いてきたのか、大人しくなった。切るのを嫌がるモジャモジャの髪が、陽河の顔に当たってくすぐったい。汐は、髪を切ることもヒゲを剃ることも、とにかく嫌がるのだ。
その髪もヒゲも、顔も体も、汐は牛乳石鹸で洗っているらしい。シャンプーやコンディショナーを買い与えようかとも思ったが、それはもう少し後で……と、思い直した。いきなり色々と習慣を変えては、汐が混乱しそうでかわいそうだ。
(それに、今のところ、会うのは僕だけだし)
汐は、とにかく外出しない。陽河が担当になるまで、卵や米、納豆を買いにコンビニに出かけていたようだが、陽河が食べ物を運ぶようになったら、それさえしなくなった。それでストレスを感じているわけでもないらしい。この6畳程度の空間で、淡々と生活をしている。
仕事をしているか、仕事ではないけれど、思いついたデザインや素材を作っているか……。汐はひたすら、PCに向かっている。食事時は、陽河が買った本当に小さなちゃぶ台で、陽河と向かい合って食事をするようになった。握っていたお箸も、今では持ち方を覚えつつある。
(まだ、使いにくそうだけど……)
大きな食材なら、ちゃんと掴めるようになった。汐はそんな時も、ニンマリと笑う。
憎まれ口が多いけれど、汐は驚くほど素直だ。「こうですよ」と陽河が教えたことを、本当に素直に受け入れる。そして習得する努力もする。
もう少し早く……。いや、普通の子供と同じように生活を送れていたら、汐は普通の人として問題なく生活できていただろう。
汐がどうして飯田に囲われるようなことになったのか、陽河はまだ、聞けていない。飯田に囲われていた時の生活についても、触れられていない。聞いたところで、今が変わるわけじゃないからと言うのもあるが、正直、聞くのが怖いと感じていた。
陽河には想像さえできない生活だったに違いない。詳しい生活を聞いて、そんなところに汐が存在した事実を認識してしまったら、陽河は、自分を保っていられる自信がないのだ。
ふと気づくと、汐は陽河にもたれたまま眠ってしまっている。布団に寝かせようかと思ったが、もう少し温めようと思い直した。
陽河が子供の頃、親に抱き抱えられて安心したような気持ちを、汐にも感じて欲しい。そう、思っていた。
「よし!きたぁ!!」
陽河があげた大声に、汐が驚いて顔を上げた。
「何?」
「メイセア化粧品さんからの、仕事ですっ!」
満面の笑みの陽河の様子に、汐も嬉しくなってしまう。だけど……。
「メイセアさんの仕事は、いつも来てるし」
1年間に4回、キービジュアルのデザインを汐が作っている。ついこの間、第3期のキービジュアルを納品したばかりだ。
(飯田の名前で……)
不愉快なことではあるが、飯田の名前がなければ、汐に回ってくる仕事でないのも事実だ。
「次の、4期ですけど……、クライアントが、『撮影で』っておっしゃってるんです」
「撮影?」
汐が首を捻ると、陽河はノートPCを手に、ちゃぶ台から立ち上がった。汐のそばに来ると、「ほら」とモニターを指差す。
クライアントからのメールだけれど、汐には、ちょっと難しくてわからない。だけど陽河は、メールの文章を指さしながら、説明をしてくれる。
「クライアントは、汐さんのデザインをすごく気に入ってくれていて、次の4期に発売になる新商品は、気合を入れて、世界観をリアルにして、スチールで押さえたいって、仰っているんです。世界観をリアルにっていうのは、たとえばスタジオに、汐さんが思うデザインのイメージを本当に作って、カメラさんに撮影してもらおうってことです」
「そうすると、俺はデザインしなくていいってこと?」
「いえ、もちろんキービジュアルのデザインはします。その背景画像、汐さんは毎回PC上で作ってますよね。その画像をPC上じゃなくて、本当に建て込みして、撮影するんです」
「そうなると、どうなる?」
「PC上では表現できないような事も、実現できるようになります。それで、汐さんは、デザイナーじゃなくてクリエイティブディレクターになります……って、ことかな。いや、どうだろう、汐さんはデザイン作業もするけど、元々、ディレクターとしても機能してるから……」
陽河は難しいことを呟き始めたが、汐の視線に気づいて、にっこり笑った。
「とにかく、楽しくなります。初めてのことばっかりで大変かもしれないけど、きっと汐さん、楽しめると思います」
陽河の言っていることの半分も理解できていない気がしたが、それでも汐は「わかった」と頷く。陽河が言うなら、間違いないと思ったからだ。
「4期とはいえ、新商品のローンチは3月だそうです。諸々の納品は、2月の初めかな……。その辺のスケジュールは確認するとして、逆に提案は、ちょっと余裕が取れそうですね」
嬉々として、陽河はPCを抱えてちゃぶ台に戻っていく。汐はそんな陽河を見て、ニンマリ笑った。
(陽河を喜ばせられて、良かった)
メイセア化粧品のキービジュアルをはじめ、飯田の名前で納品された沢山の汐のデザインを、陽河は毎回、褒めてくれて、喜んでくれた。飯田がいい思いをするのは嫌だけど、陽河が喜んでくれるから、最近、汐も仕事が楽しい。飯田から生活費を受け取る以上の嬉しさを感じている。
陽河は早速、クライアントにお礼のメールを打ち始めた。
いつの頃からか、飯田はクライアントとのメールのCCに陽河を入れ始め、そのうち「返信しておいて」とか「色稿、持って行って」という指示を出すようになった。オンライン、オフラインに関わらず、陽河をミーティングに参加させるようになったし、小さな仕事であれば、自分が関わることもなく、陽河に丸投げしてきている。
陽河は汐の存在をまったく感じさせないよう細心の注意を払って、クライアント対応を行なっている。そうすれば、飯田は安心して、もっと陽河に仕事を振ってくるだろう。そうやってクライアントとの接触を増やして、広げて深めていくことで、クライアントの信頼を勝ち得ていって……。
(局長以上に、僕がクライアントの信頼を勝ち得た時が、チャンスだ)
地道ではあるが、この方法以上に、スムーズに汐を自由にする道筋はないと思う。
直接、飯田から汐に指示が入ることもなくなった。汐は「ほんと、清々する」と笑っている。
とはいえ、ここまでで5ヶ月かかっている。地道過ぎやしないかと不安になることもあった。
そこにきて、メイセア化粧品からの申し出だ。これで汐は、この小さな部屋から一歩外に出ることができる。スタジオでの撮影となる以上、ディレクターである汐が現場に出ることは、おかしなことではない。それはつまり、クライアントや制作スタッフたちの前に、汐がデザインを司る者として「必要だから」出るということだ。
(それをギリギリまで、局長には悟らせないようにしないと……)
クライアントにメールを送って、陽河は考える。メールには飯田も入っている以上、内容は筒抜けだ。その飯田を、一切クリエイティブに関わらせず、それでも「旭ならうまくやるだろう」と信じ込ませなければ……。
(心にもないことを、言わなきゃならないだろうな)
もしかしたらこの案件が、初めて迎える正念場かもしれないと、陽河は感じていた。
メイセア化粧品の撮影案件について、飯田に別途、一報を入れるかどうか迷っていた陽河だが、休日を挟んで熟考した結果、きちんと報告を入れることにした。報告を入れないことの方が、不信感を持たれてしまうと判断したのだ。
社内のメッセージアプリで、飯田にDMを送った。「メールは確認いただいているかと思いますが」から始めた文章で、クライアントの要望を簡潔にまとめ、進め方はこうするつもりだと記載し「過不足ありましたら、ご教示いただけますと幸いです」で締める。
呼び出される可能性もあったので、その日は珍しく16:00頃まで社内に留まったが、返事もないので「『汐の刻参り』に行くわ」と同僚に告げて社を出た。
(今日は久しぶりに、夕飯を買っていこうかな)
ここのところずっと、汐の部屋に置いた小さなIHコンロで肉を焼いたり、野菜を炒めたりの食事で済ませてしまっている。時々はカレーを作ったり、パスタを茹でてみたりするが、コンロが一口だと時間もかかるし、手間もかかるので、凝ったものは、本当にたまにしか作ってやれない。
汐が好きだと言ったハンバーグも、調理工程の多さを考えると難しい。
それでも汐は、文句を言ったことがない。汐にとっての食事は、卵かけご飯か納豆かけご飯が定番で、2品も品数が増えたら、「ご馳走」なのだ。いつだったかスーパーでメンチカツを買っていたら、踊り出さんばかりにテンションが上がっていた。
「コンビニのレジのところに、揚げてるのとかあるじゃん。あれ?あれと同じ?」
言外に、コンビニのホットスナックすら食べたことがないのだと伝わる言葉。ふとした時に、汐の口からこうした言葉が出てくると、陽河は最近、泣そうになって困ってしまう。
自分はそんな汐に、本当に些細なことしかしてやれない。
(ハンバーグか……。ハンバーガーでもいいかな)
駅に向かう途中に、ちょっと高いが美味いハンバーガーショップがあることを思い出し、陽河は夕飯をそこに決めた。
あのハンバーガーを食べた時の汐を想像するだけで、気持ちが浮き足立ってくる。顔も表情も見えにくいけれど、最近はなんだか、汐の周囲の空気の揺れ方で、汐の気持ちがわかるようになってきた。
足早にハンバーガーショップに向かう途中で「旭!」と呼び止められた。営業と一緒にクライアント先に行っていた木島だ。
「今から汐さんのところ?」
「うん。今日は、局長から呼び出しがあるかもなと思って、この時間まで待機してたんだけど、メッセージに連絡もないから、汐さんのところに行って、直帰するよ」
陽河の説明に「局長から呼び出しって、お前、なんかしたの?」と、木島の表情が曇った。
「まさか。メイセア化粧品さんが、4期のビジュアルを撮影したいっておっしゃってるから、進め方を相談しただけ」
「すごいじゃん!それって、つまり、汐さんが仕切るってことだろ?」
「クリエイティブ部分はね。制作の進行は僕が見ると思う。汐さん、コミュ力はあんまり期待できないと思うから」
陽河が言うと、「マジ、局長には気をつけろよ」と、木島が声をひそめた。
「自分の評価が上がりそうと見るや、すぐ、しゃしゃり出てくるから」
木島の言うことは、もちろん陽河もわかっている。だからと言って、全面的に同調する気もない。木島が半年で汐の担当を外されるぐらい、汐に肩入したというのは本当だろうと思うけれど、今も同じマインドかどうかはわからないからだ。
(木島が、局長側に寝返ってる可能性だって、ないわけじゃない)
だから陽河は「でも、クリエイターとしての名前は、局長の名前になるわけだし。出るべきと思われるなら、出ていただいた方がいいと、僕は思ってるんだ」と、言うに留めた。この言い方なら、木島から仮に局長に報告が上がっても、不信を抱かれずに済む。
だけど、木島は陽河の返事が不満だったようだ。
「それじゃ汐さんが、可哀想じゃないか」
それが木島の本心だとしたら、ありがたい味方になってくれるかもしれない。だけど、それを判断するのは時期尚早だ。
「そうかもしれないけど、仕方ないだろ。汐さんはそういう立場なんだから」
陽河は肩をすくめてみせた。木島は「そうかもな」と呟いただけだった。
会社に戻るという木島と別れて、陽河はハンバーガーショップに入った。壁に貼られたメニューのどれもが、汐のテンションを上げてくれる気がして、何を買おうか迷ってしまう。
(僕はアボカドが好きだけど、汐さんはどうかな)
これまで「アボカドが大嫌い」という人に会ったことはないけれど、ちょっと青臭いものがあるのも事実だ。せっかくのハンバーガーなのに「なんか違った」と、残念な気持ちにさせるのは避けたい。
(だったら、チーズかな……。でも野菜も摂ってほしいし。トマトが入ってた方が……。いやでも、トマト入りが汐さんの好みに合うかは……)
自分でも呆れるぐらい迷ってしまう。腕を組んで真剣に悩む自分を、多分大学生と思われる店員が、どんな目で見ているかと思うと、恥ずかしくなってきた。
(よし)
ようやくメニューを決めて、陽河はレジに向かう。自分用にアボカド入りのハンバーガーを、汐用にチーズ入りを。それから抑えに、プレーンのハンバーガーとポテトとオニオンリングを注文した。
「お作りしますので、お待ちください」
会計を終え、渡された札を持った陽河は、近くのカウンター席に腰を下ろす。汐に「夕ごはんは買っていきますから」と、一言だけメッセージを送信した。
送ったメッセージは、すぐに既読になった。汐からの返信はなかったが、陽河は気にせずアプリを閉じる。汐は文字でのコミュニケーションが苦手で、陽河が送るメッセージに返信を寄越したことはないのだ。
(でもきっと、楽しみに待ってるだろうな)
モニターの前でソワソワしているかもしれない汐を想像すると、思わずニヤけそうになる。1人で笑っていたら、おかしな人なので、陽河は口元を手で覆った。だけど、夕ごはんを待っている汐の姿は、後から後から想像できて、陽河はとうとう「ふっ」と笑いを漏らしてしまった。
そうやって持ち帰ったハンバーガーは、陽河の予想以上に、汐を喜ばせたようだ。
陽河が玄関を開けた時、汐はもうちゃぶ台に座っていてた。そして、目の前に置かれた袋から漂う匂いに、深呼吸までしてみせた。紙袋が開くのをジッと見つめて、包装紙に包まれた塊を陽河が差し出すと、それと陽河を交互に何度も見る。
目元が髪で見えにくいけれど、その奥で瞳がキラキラ輝いているのがわかった。
「汐さんは、チーズ入りです」
包装紙を開けて、ハンバーガーの中身がこぼれない持ち方を教えた途端に、汐はハンバーガーにかぶり付いた。あまりに豪快な一口に、陽河は笑ってしまう。
ヒゲがソースまみれになっていたけれど、そんなものは食べ終わってから拭えばいい。汐が夢中になって咀嚼している姿を見ていると、陽河はなんだか、安心した。
汐が過ごしてきた人生の中で、このハンバーガーを食べている時間なんて、ほんの一瞬だ。残りの時間が汐にとって苦痛だったことは消せないかもしれないけれど、それでも「美味しい」という感覚が、汐を少しでも幸せにしてくれることを願う。
汐は、あっという間にチーズ入りのハンバーガーを食べ終えた。そして、何も食べずに自分を見ている陽河に気付き、「陽河の分は?」と、少し不安そうに尋ねてくる。
「ちゃんとあります。汐さんが美味しそうに食べてたから、見てただけです」
陽河が自分の分を袋から取り出すと、汐は安心したように頷いた。
「もう少し食べますか?チーズ入りじゃなくて、プレーンですけど」
「食べる!!」
「じゃあ、はい、これ」
汐にプレーンのハンバーガーを渡し、ポテトとオニオンリングを袋の上に置く。ハンバーガーの包みを開けながら、汐の目はそれにも釘付けになった。
「これも、つまんでいいですよ。でも、ハンバーガーが大きいから、食べすぎないようにしてくださいね」
汐は「おう!」と元気に返事をして、すぐに大きな一口でハンバーガーに齧り付く。
自分の分のハンバーガーを食べながらも、陽河は汐の旺盛な食べ方に気を取られてしまう。そんな汐も、ポテトやオニオンリングも摘んだせいか、プレーンのハンバーガーの半分あたりで「もう、入らないかも」と、呟いた。
でも、汐の周りの空気が「残すのは嫌だ」と、言っている。
「残していいですよ。もし食べられそうなら、明日の朝、レンジで温めて食べてください」
途端に汐は笑顔になった。と、思う。表情は見えないんだけれど。
「明日も食べれる?」
「明日の朝なら、悪くなったりしないから大丈夫です。僕も半分でお腹いっぱいだから、もし良かったら、これも明日、一緒に食べてください」
「食べる!!」
前のめりになった汐の様子に、ヒゲがなかったら、汐の満面の笑みが見れたかもしれないなと、陽河は思う。
「ヒゲにソースが付いてますから、拭いてください」
ハンバーガーと一緒についてきたお手拭きを渡すと、汐は素直に、それでヒゲのソースを拭った。
残ったハンバーガーをラップで包んで冷蔵庫に入れてから、汐に仕事の進捗を確認し、陽河は帰路についた。そして電車の中で、ハンバーガーの温め時間を伝え忘れたことに気がついた。
スマホを取り出し「ハンバーガーの温め、レンジで10〜20秒でダイジョウブだと思います」と送ったメッセージは、すぐに既読になったけれど、やはり返信は来なかった。
それでも、構わない。
残り物ではあるけれど、明日を楽しみに待つようなものが汐の家にあることに、陽河の心は高揚していた。




