満汐引力 02
新しく担当になった、旭陽河という男が、さっきから変なことをしている。
次の作業のために、ネット上でさまざまな画像を検索しながら、汐はチラっと、這いつくばっている陽河を見る。さっきまで、部屋中をホウキで掃いていたと思ったら、今度は雑巾で床を拭き始めた。
一足しかない汐の靴は、玄関のドアの近くに持って行かれたようだ。
「ふぅ……」
体を起こした陽河が、一旦、スマホで時計を確認した。そして、雑巾を持って風呂場に消えていく。
(何してんの、あいつ)
いや、陽河がしているのが掃除であることはわかっている。だけど、掃除というのは、学校でやるものか、家政婦という職業の人がやるものだ。汐も学校でなら掃除をしたことがあるし、飯田の家に住んでいた頃は、週に1回来た家政婦が、掃除をしているのを見ていた。
汐の親が、家を掃除していたことなんてないし……。だから、旭陽河は、変なヤツなのだと思う。
昨日は夜にいきなり来て、お菓子をくれた。3つもらって、夢中で3つ食べてしまった。
3つ目を食べている途中で、2つ以上食べてもいいか聞かなかったことを、怒られるかと思ったけれど、陽河は逆に笑っていた。自分の分を食べられても笑っているなんて、変なヤツだ。
その変なヤツが、掃除という変なことをしている。
(だから、やっぱり、旭陽河は、変なヤツなんだ)
前の担当は、ほぼメールでしか連絡を取らなかった。その前の担当は、最初こそ、あれこれ食べ物を持ってきていたけれど、早々に顔を出さなくなった。前の担当は変なヤツじゃないから長続きして、前の前の担当は変なヤツだったから、すぐにいなくなったのだ。
(ってことは、旭陽河もすぐにいなくなるな)と、汐は思う。
変なヤツが変な事をすると、飯田は、その変なヤツを、すぐに汐から取り上げる。
まるで、汐の楽しみを奪うのが楽しいみたいに、飯田はニヤニヤ笑いながら、取り上げてしまうのだ。
狭いとはいえ、ひと部屋の床から壁から天井まで綺麗にするのは、時間がかかった。
陽河が(ほんと、どういう生活なんだよ)と、特に思ったのは、丸一日掃除をしても、ゴミ袋1つ分に満たないゴミしか出なかったことだ。
それぐらい、汐の部屋には物がない。不要なものだけじゃなく、必要な物さえ、ない。
(カーテンも、何年、同じのを使ってるんだか……。あとは、布団だな)
折り目がついてカチカチになっている布団をどうにかするのは、早々にあきらめた。宅配で新しい物を購入済みで、明日、到着の予定だ。この部屋のどこにも見つからなかった枕も、一緒に届く。
(今日は、これぐらいか……)
時計を確認すると、20:00を過ぎていた。流石に陽河も空腹を感じている。
「汐さん、夕飯に食べたいものはありますか?」
PCモニターの陰に隠れている汐に声をかけると、モニターの上から頭だけが覗いた。
「なければ、適当に買ってきます。コンビニになるかもですが」
「……」
返事がないので「適当に買ってきます」と、もう一度言うと、「ねーしっ!」と怒ってるように言い返された。
丸一日、自分の家を掃除してもらって、何を怒っているのか……と、呆れるよりも先に、「ありますか?」という問いかけに対し「ねーしっ!」と、会話が成立したことに、陽河はほっとしてしまう。
財布を持ってアパートを出る。スマホで検索すると、近所のコンビニとは反対方向に、スーパーがあるのがわかった。
汐の部屋にはガスコンロはおろか電気コンロすらないから、いずれにしても惣菜になる。
(だったら、スーパーの方がマシか)
陽河はコンビニに背を向けて、スーパーへと向かった。
(そしてこの家には、食事を摂る場所すらないんだ……)
スーパーで買って来たチャーハンや焼きそば、餃子と焼売を並べる場所がない。陽河は諦めて、それぞれをレンジで温め、流し台に束で置かれている深めの紙皿2つに、汐の分として半分を盛った。
「どうぞ。こっちはチャーハンと餃子。こっちは焼きそばと焼売です」
PCデスクの端に皿を置くと、汐はそれをじっと見てから、陽河に顔を向けた。
「これは、汐さんの分です」
そう言いながら、割り箸とスプーンを差し出すと、汐は箸を手にした。そして皿に顔を近づけて、まるで警戒しているかのように匂いを嗅ぐ。安全だとわかったのか、ただの癖なのかわからないが、匂いを嗅ぎ終えると、汐は握った割り箸でチャーハンを掻き込み始めた。
その食べ方の雑さときたら……。
少しゲンナリした気分で、陽河は流し台に戻る。自分の分として残しておいた半分の惣菜を食べようとした時、「陽河のは?」と、汐が尋ねてきた。
咄嗟に振り返ると、もうチャーハンと餃子を食べ終えたらしい汐が、空の皿を手に陽河を見ている。一瞬、(僕の分も強奪しようっていうのか)と思った陽河だったが、汐の様子を見て、思い出した。
汐は昨日も、こんな顔をしていた気がする。モナカを3つ食べてしまったと気づいた時に……。正直、表情どころか顔の造作さえわからないぐらい、ヒゲモジャで髪モジャなんだけれど、汐は、食べ尽くしてしまった皿に、不安を感じているのではないかと、陽河は推察する。
「僕の分は、こっちにあります。そのお皿のも、そっちのお皿のも、汐さんの分です」
陽河がはっきり滑舌良く告げると、汐は安心したように、今度は焼きそば焼売の皿を手にした。焼売に箸をブッ刺して、口に運ぶ。
きっと、美味しいと思ったのだろう。モナカの時と同じように、ニンマリと笑った……と、思う。ヒゲモジャで髪モジャだから、雰囲気で察するしかないんだけれど。
(まるで、むく犬だな)
割り箸で自分の分の惣菜をつまみつつ、汐を眺めてそう思った。むく犬と思えば、ヒゲモジャも髪モジャもかわいいかもしれない。そのむく犬は、先にチャーハンや餃子を食べたことで余裕が出たのか、焼きそばの皿を大事そうに抱えて、ゆっくりゆっくり、口に運んでいる。
(どういう生活をしていたら、こんな風に……)
汐と出会ってから、何度目かの同じ疑問が頭に浮かんで。そして汐が「お稚児さん」だったことを思い出す。それだけで、汐の今に説明がつく気がした。
その汐が、今日送ってきてくれたような、美しいデザインを生み出している。それが汐にとって救いなのか、どうか……。少なくとも、飯田に搾取されていなければ、救いだっただろう。
チリッと、陽河の胃が痛みを覚えた。汐への不憫さを感じたためか、飯田への怒りなのかは定かではない。
焼きそばと焼売を食べ終えたらしい汐は、空になった皿を眺めている。(足りなかったのかな)と、思って「もう少し、食べますか?」と陽河が尋ねると、汐の顔がパッと上がった。
陽河の分は皿に盛っていないから、PCデスクに並べられない。汐に向かって手招きすると、汐は皿と箸を持ったまま、流し台へとやってきた。
「好きなだけ食べていいですよ」
「でもこれ、陽河の分だし」
「僕、お腹空いてないので、食べてもらったほうが助かります」
陽河が言うと、汐はすぐに焼売に箸を伸ばす。握った割り箸を突き刺して、それを不器用な感じで口に運ぶ。
(箸の使い方も、そのうち教えてあげよう)
ガツガツと咀嚼している汐を見ながら、陽河は思う。気分はもう、足元で餌を食べている飼い犬を見ている、それと同じだ。
(それから、せめて電気コンロを買わなきゃ。毎日惣菜じゃ、それはそれで飽きるし)
汐関連の経費が切れないとなると、毎日の惣菜も、陽河の財布を直撃してくる。毎日惣菜よりは、自炊の方が安く上がる気がする。
(それから……)
そのうち汐の髪も切ろう。ヒゲの剃り方も教えてあげて。それから少し、太ってもいい。部屋着じゃない服も必要だ。
(この人、本当に、いくらもらってるんだろう)
月100万以上の外注費のうち、アパートの家賃を入れても10万ぐらいしか汐に渡っていなんじゃないかと思って、陽河はやるせないため息をついた。
翌日も昼から「汐の刻参り」をしていた陽河は、汐が使っていた布団を紐でまとめるのに苦心していた。
「陽河、メール見て」
不意に汐に言われてスマホをチェックすると、陽河と汐宛に飯田からメールが届いてた。
(フルでコピペかよ)
昨日、汐があげたデザインに対する、クライアントのフィードバックと思われる文面が、そのまま貼り付けられている。「お疲れ様」の一言もなくだ。
「意味わかる?」
汐に尋ねられて、陽河は内容を確認する。指示自体は明確だが、一部が英単語だったり漢字が多用されていて、汐には難しいようだ。
「ええ。デザイン自体はとてもいいそうです。ただ、もう一案、チャレンジしてほしいみたいですね。汐さんが作ってくれた背景画像の色味を、商品の色味にギリギリ近づけてみてほしい……ってことみたいです」
「ふーん」
「どうでしょう?できそうですか?」
布団を置いて、汐のPCデスクに近づく。汐は早くも画像データを開いて、作業を開始していた。
迷いのない手つきで、画像の数値を変更していく。ある程度まで色味を変えると、汐はどんどん前屈みになり、モニターに前髪がつきそうなぐらい近づいて、細かい部分を見始めた。
「汐さん、そんなに近づくと、目に悪いです」
思わず汐の両肩を掴んで引き戻す。汐は煩わしそうに肩を振って陽河の手を外すと、マウスで微妙な色味を変更しながら、またモニターに近づいていった。
(これはダメだ。何か対策を考えないと)
ここまでモニターに近づく人がいるかはわからないが、社内のクリエイターに何かないか聞いてみよう。そんなことを考えながら、陽河は汐の作業を見守る。
(こうやって見てると、普通に、クリエイティブにしか興味ない、オタク系のクリエイターに見えるな)
ここまでボサボサの髪やヒゲ姿は滅多にお目にかからないけれど……。少なくとも汐は、クリエイティブの作業が好きなんだろうと感じた。
「今まで、メールの指示がわからない時は、どうしてたんですか?」
陽河が尋ねると、汐は「とりあえず変えて出してた」と言った。
「修正内容もわからずに?」
「おう。そうすると、『修正内容がわかってない』ってことが伝わるし」
「……」
なんていう無駄な作業を……。電話でもして聞くか、「わかりません」とメールを返せばいいのに。
陽河が思ったことを口にすると、汐は「飯田の声なんて聞きたくねぇし、『わかりません』なんて言いたくもねぇもん」と、言う。
「そう、ですね……」
汐の返事に、陽河は自分の考えなしな発言を後悔する。
汐にとって飯田は、上司でもなければ世話になった恩人でもない。汐の身に起きたこと、そして現状、起きていることをわかっていながら、それを情報としてしか理解していない自分に、陽河は気づいてしまった。
もし状況が許すなら、汐は、飯田との縁を切ってしまいたいに違いない。でも、その方法すら分からなくて、飯田のいいように扱われてしまっている。そんな汐が、飯田にお伺いなど立てたいわけがないのだ。
沈黙した陽河をどう思ったのかわからないが、汐はそれから無言で作業を続けた。陽河は布団を紐で縛る作業に戻る。カチカチの布団は、陽河が全体重をかけて折っても、まるで形状記憶かのように伸びて始末が悪い。
(これを布団だと思って、寝てたんだ……、汐さんは……)
陽河がこれまで寝てきた布団……、ベッドも含めて寝具という大きな枠で括っても、これは布団なんて代物ではない。この上で眠ったって、疲れも取れなければ、いい夢だって見れないに決まっている。
(でも、今夜からは違う)
夕方には、新しい布団が一式届く。それが汐に幸せな睡眠を運んでくればいいと、陽河は思っていた。
(陽河って、変だ)
今日、陽河は、汐がずっと使ってきた布団を捨ててしまった。そして夕方になったら、どこからか新しい布団がやってきた。
敷き布団にも掛け布団にも、陽河は紺のカバーをつけた。あと、枕にもカバーをつけて、柔らかいタオルみたいな生地の、大きな布を、布団の中に入れてくれた。
その中に、今、汐はいる。
布団を敷く前に、陽河はPCデスクの向きを変えた。今まで玄関に向かって座っていたけれど、今度は流し台に背を向けて、部屋の壁に向かって座る形になった。そうしてから、陽河はデスクの向きを少し斜めにした。壁に平行よりも、その方がいいと、汐も思う。
その上で、陽河が布団を敷いたら、布団はちゃんと広がった。今まで、デスクが邪魔で捩れていたのに。
(ちゃんと敷いた布団は、気持ちがいい)
汐は、そのことを初めて知ったと思う。
そして、引き続き思う。
(陽河って、本当に変だ)
昨日も今日も、汐の家に来て、家中を掃除して回っている。トイレの上の小さな棚には、見たこともないスプレーが並んで、洗面には新しいスポンジが置かれた。
それに……。
(陽河は、頭がいい)
飯田から送られてきた暗号みたいなメールを、説明してくれた。その後、修正したデータを、陽河が飯田に送ったけれど、飯田からの返事はなかった。
つまり、修正は正解だったということだ。
夕飯は、今日も陽河が、どこからか買ってきてくれた。そして、「仕方ない」という顔をしながら、幾つものパックを床に置いて「そのうち、テーブルも買わなきゃですね」と呟いてから、汐に食べるように言ってくれた。
陽河はいつもお腹が空いてないらしくて、汐が「満腹!」と思うぐらい食べてから、ちょっと残ったものを食べて「十分」なんだそうだ。
食事の間に、好きな食べ物を聞かれた。カレーとか、ハンバーグとか、あと、随分前に食べた肉が美味しかったと言ったら、急に目を伏せて「そうですか」と、小さく頷いていた。そして「明日は、カレーにしますか」と、言ってくれた。
(明日は、カレー)
思わず汐は笑みを漏らす。明日の予定がカレーなのが、すごく嬉しかった。
陽河が帰宅すると、まだ起きていた母が迎えに出てきてくれた。
「随分遅いのね、最近」
「部署変わってから、まだ、慣れてないんだ」
「ご飯は?」
「……食べようかな」
母は頷くと、「ここのところ、お父さんと2人だから、味気ないのよ、お夕飯が」と言いながら、キッチンに向かう。その後ろをついて行きながら、陽河はなんとも言えない気分を味わっていた。
23区にある父が購入した一軒家に、陽河は今も暮らしている。父は大手食品メーカーの重役で、母は専業主婦。陽河は母の夢だったから、子役になった。小学校からエスカレーターの私学に通いながら、いつでも3番手ぐらいの俳優を続けて……。
(社会人になっても、家に帰れば、食事が出てくる生活か……)
汐の目に、自分はどんな風に映っているのだろう。どこぞのボンボンに見えているか、「俳優崩れ」のサラリーマンに見えているのか。
(いや、汐さんは多分、何も感じてない)
陽河をいう人間を認識しているが、その姿や形とか雰囲気とかで、カテゴリーわけができるほど、世間を知らないに違いない。いつから今のような生活をしているのか知らないけれど、飯田に囲われる生活から飯田に搾取される生活に変わっただけで、汐の世界は、大人になっても広がっていないのだ。
「今日は、宮崎牛の切り落としがお安かったから、ビーフストロガノフにしたの」
陶器の深いシチュー皿に盛られたビーフストロガノフと、ライス皿に盛られた白米。どちらもホカホカと湯気をあげて、椅子に座った陽河の前に置かれた。
母が作ったビーフストロガノフの肉の値段だけで、汐の1ヶ月の食費が賄えるんじゃないか……。今まで、気にも留めなかったけれど、自分は、恵まれた生活をしてきたのだと思った。
「どうしたの?食べないの?」
陽河の正面に座った母が、心配そうに尋ねてくる。
「ううん。なんでもない」
陽河がスプーンを手にすると、後ろから「仕事で何かあったか」と、父の声がした。パジャマ姿だから、どうやら風呂上がりらしい。
「仕事でっていうか……、世の中、色んな人がいるなって、思って……」
「まぁ、会社なんて、色んな人間の寄せ集めだからな」
そう言って冷蔵庫を開けた父は、きっと、汐のような人間がいることなど想像もできないに違いない。父が言う「色んな人間」は、きっと性格や地頭の良し悪しの違いぐらいで……。
子供と言ってもいいぐらいの年齢の頃から、男に囲われていた人間がいるかもしれないなんて、陽河の両親は思いもよらないだろう。
陽河自身もそうだった。陽河のように芸能活動をしている人は少人数と認識していたが、その他の人たちは「普通」に暮らしているのだと思っていた。小学校から私立だったので、「クラスに貧乏な子がいる」という経験もなかった。たまにテレビで問題提起される「貧困家庭」のドキュメンタリーを見ても、「気の毒だ」と思いこそすれ、本当にそうした家庭があるという実感は持てていなかった気がする。
陽河が「気の毒だ」と思った貧困家庭のリアルはわからないけれど、汐が育った家庭は、より酷かったんじゃないかと考えてしまう。それが具体的に、どう酷かったのかはわからない。「飯田に囲われていた」間、汐の身にどんな事が起きていたかも、わからない。
半分ぐらいビーフストロガノフを食べて、陽河はスプーンを置いてしまった。
「具合でも悪いの?」
「ストレスか?」
母も父も、陽河を心配して声をかけてくれる。
(汐さんは、誰かにこんな風に、声をかけられたことがあったかな)
そう思ったら、胸が苦しくてたまらなくなった。それでも普通の表情を取り繕う。
「眠くなったから、寝るよ。ごちそうさま。おやすみなさい」
陽河は急いで席を立って、自室に向かう。部屋に入って電気をつけると、今朝まで全く違和感のなかった自室の広さと清潔さに、目眩を感じた。
汐の生活空間よりも広い、陽河だけの部屋。本気で不用品を捨てようと思ったら、ゴミ袋2つ分ぐらいは出てくるだろう。それらを収納しっぱなしにしていても、窮屈じゃない部屋。
カバンを床に放って、陽河はベッドに倒れ込む。洗剤の香りのする枕に顔を埋めたら、泣けてきた。
(あの人は、あまりに不憫すぎる……)
だからと言って、ヒーローみたいに汐を助けられるわけでもない。陽河にできるのは、汐がちょっとでもお腹を満たせたり、心地よく過ごせたりするように、生活環境を整えてあげるぐらいだ。
仕事は飯田が握っており、そこから汐を引き離したら、汐は今よりも困窮する。じゃあ、陽河の全てをかけて汐を養えるかと言えば、そんな甲斐性が陽河にあるわけもなく……。
飯田には憤りを覚えているけれど、飯田のやり口を糾弾できるような証拠もなければ、勇気もない。陽河は多分、明日も普通に出社し、もし飯田と顔を合わせたら、礼儀正しく飯田に接するだろう。
(いや、それでいいんだ……、汐さんだけじゃなく、僕にも力はないんだから……)
そう、思う。そして(今は……)と、思った。
うまく立ち回れば、3年の時間がある。3年間、汐は不自由なままかもしれないけれど、3年の間に、状況を変えていくことはできるかもしれない。
(何ができる?3年間で……)
少なくとも、汐の身の回りを整えてやっているだけでは、ダメだ。飯田が搾取している汐の才能も金も、汐の元に戻すためには、どうしたらいい?
(考えろ、陽河)
そして動こう。最大限の注意を払いながら、静かに、動き続けよう。
汐が、汐の全部を、汐自身の物にできるように……。
「じゃ、『汐の刻参り』に行って参ります」
自身のデスクがある島で仕事をしている同僚にそう声をかけると、「いってらっしゃーい」と、辺りから見送りの声が上がった。もはや同じチームの誰もが、陽河が毎日、昼前に「汐の刻参り」に出かけて、直帰することに慣れている。
本当に汐の元に行っているのかと、疑っている者もいるだろう。むしろ、それぐらいでいい。良くも悪くも「穏便」に汐に仕事をさせること。それが重要で、匙加減は陽河次第だ。
執務室を出てエレベーターを待っていると、「旭くん」と、声をかけられた。陽河は可も不可もない笑顔で、すぐに振り返る。
部長陣と連れ立って、飯田が立っていた。ゴルフにでも行ったのか、ポロシャツ姿だ。
「局長、お疲れ様です」
笑顔のまま、陽河は軽く会釈する。
「最近、寺岡くんの仕事が、随分スムーズだね」
人前だから、飯田は汐を「寺岡くん」と呼ぶ。陽河は微笑んだまま「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いただいたフィードバックを、できるだけわかりやすく説明するようにしています。寺岡さんは、その、あまり漢字や英語が得意ではないようなので」
言いにくい事を口にするような口調に、ちょっと汐を見下したようなニュアンスを混ぜて陽河が言うと、「彼は、中卒だからね」と、飯田は頷いた。
「悪いね、子守みたいな事をさせて」
そう言った飯田に「とんでもないです。お役に立てているなら、何よりです」と、言いながら、陽河は微笑みを濃くする。局長に気にかけてもらって、少し舞い上がっている自分を演出した。
「今度、ぜひ、ゴルフでも行こう」
そう言うと、飯田は部長陣を引き連れて、陽河が呼んだエレベーターに乗った。陽河は腰を70度に曲げてお辞儀をする。エレベーターが閉まって、たっぷり10秒、頭を下げ続けた。
やがて姿勢を正して、陽河は「ふぅ……」と、息を吐く。飯田の顔を見ると、昔セリフで言ったことがある「反吐が出る」という気分を正確に味わえた。
陽河は改めてエレベーターを呼ぶ。2Fのエントランスを抜けて外に出ると、まだ7月の初旬だと言うのに、モアッとした熱気を感じた。
(今日こそは、汐さんに、ちゃんと約束させなきゃ)
6月の中旬ごろから、東京は夏日を感じさせる気温を、度々記録している。そして、最近は真夏日に近い気温が続いているのに、汐は極力エアコンを使わないのだ。
「寒くなり過ぎる」というのもわかるが、せめて28度でも25度でもいいから、使って欲しい。つい先日も、陽河が汐の自宅を訪ねたら、作業もできず床に突っ伏していた。
「床が冷たいから、大丈夫」
「このぬるい床のどこが冷たいんですか!」
そんな会話をしたにも関わらず、汐は陽河が行くまでエアコンを使わない。8月になったら、エアコンなしで寝るのは命に関わってきそうで怖いし。
(電気代の問題なんだろうけど……)
それぐらい、陽河の給料から賄ってもいい。
(だいたい、あの人は……)
4月の末日に、おずおずと1万円札を差し出してきた汐を思い出し、陽河は唇を噛む。「食費、これで足りる?」と尋ねてきた声は、怖がっているようだった。
「僕が用意しているご飯分は、ちゃんと経費切れてますから、大丈夫ですよ」
「経費?」
「はい。会社から、お金が出てるんです」
陽河が言うと「飯田が出すわけねーしっ!」と返された。
「局長じゃなくて、会社が出してくれています。僕、その辺の手続き、得意なんです」
「……」
自信満々に陽河が言ったら、汐は腑に落ちないと言う態度ではあったものの、陽河の嘘を信じたようだ。だけど、その1万円は、汐のパソコンデスクの申し訳程度についている引き出しに、しまわれた。5月分も、6月分も、同じようなやり取りがあった。
汐のアパートの家賃は、42,000円だ。それにスマホが月々5,000円ぐらい。光熱費で8,000円。微々たる日用品と食費で20,000円として、仮に飯田から渡されている金額が10万だとすると、残りは25,000円。何かイレギュラーがあったら、汐の生活は破綻する。
国民健康保険や税金関連は、飯田が持ち金の方で処理しているようだが……。
(そんなことより、とにかくエアコン問題だ……)
電車の中だというのに感じる、ギラギラとした太陽の光に、陽河は思わず舌打ちをした。




