満汐引力 13
自宅の最寄り駅に戻った陽河は、ポケットの中で震えたスマホを取り出す。萌香からのメッセージが表示されていた。
『陽河さん、もしかして帰りました?』
通知だけで用件を確認し、陽河はポケットにスマホをしまう。
今日は10:00から、前の会社の会議室で、2件続けてのミーテイングがあるはずだった。1本目は1時間半、2本目は1時間。その2本目のMTGは、一昨日、萌香が突然ブロックしたものだ。その結果、1時間後に入っていた別のミーティングを、今日の夜にずらしてもらう羽目になった。
会社から自宅への移動で、陽河が遅れてしまう可能性があったし、それ以降は、先方が夜しか時間が取れなかったためだ。
なのにその2本目は、萌香とのランチミーティングとかいう、ふざけた用件だったようだ。
1本目のミーティング終わりに、「ミーティングルームが取れなかったので、外に移動しましょう」と言って、ランチセットが美味しい近所のカフェの名前を萌香が上げたので、嫌な予感はしていた。
「他の人に連絡しなくていいの?」
陽河が尋ねると、萌香はあっさり「大丈夫だと思います」と答えた。本当にミーティングが設定されていたら、大丈夫なわけがない。
「PCをデスクに置いてくる」と言って萌香が執務室に戻った隙に、陽河は会社を出て、本来であればミーティングに参加するはずの社員に連絡を入れてみた。「今日はミーティングの予定はないですよ」と言われ、インビテーションを確認したら萌香と陽河にしか送られていなかったので、腹が立ってそのまま帰ってきてしまった。
その時点で、ミーティングの開始予定時間から10分が経過していた。本当にミーティングがあったとすれば、他の人からも陽河に連絡が入ったはずだ。
「だいたい、ミーティングするのに『PC置いてくる』の意味がわからん」
呟いた陽河は、風に煽られてブルっと震えた。ダウンジャケットのボタンを閉じてから、駅を出る。
(ミーティングが夜になったから、先に別件の資料を作るか。その前に、ご飯を食べようかな)
朝イチにクライアントから電話が入ったため、10:00からのミーティング前に食事を摂るタイミングを逸してしまった。昨日の夜も、資料作りに集中していて、気づいたら日付が変わっていたので食べていない。
(ちょっと生活は見直した方がいいな。このままじゃ体を壊す)
せめて2食、きちんと食べるようにしなければ……。
そう考えながらも、陽河は習慣のように駅前のコンビニに入る。温かいお茶と、重くなさそうな蕎麦を買う。それを腕にかけて歩きながら、陽河はポケットからスマホを取り出す。届いたメールをチェックしながら歩き、汐のアパートの前に差し掛かった。
いつものクセで、チラッとアパートを見てしまったけれど、陽河はそのまま通り過ぎた。このアパートの維持をやめると決め、その手続きをしてから、陽河は間違いなく、抱え込んでいた重荷を下ろした気がしている。
汐を思い出すことも減りつつあるし、今の自宅も、次の更新を待たずに引っ越しする予定でいる。陽河ひとりであれば、もう少し狭い物件でいいし、もう少し中心部に近い場所の方がいいのだ。
「……」
ふと、陽河は足を止めた。スマホから目を離し、自分が立ち止まった理由を考える。そして、チラッとだけ視界に入れた汐のアパートに、違和感を感じたことに思い至った。
(なんだろう……)
前に進むことも戻こともできず、陽河は考える。
そして(カーテンだ!!)と思いつくのと同時に、踵を返して、来た道を駆けていた。
アパートの前で足を止めて、汐の部屋を見上げる。
(やっぱり……)
つい先日の土曜日、陽河が閉めたはずのカーテンが開いていた。それを認識した陽河の、息が上がる。
(汐さん……?)
陽河が支払った賃料分が消化されるのは、今月末だ。あと2日ある。それまで管理会社が勝手に入ることはあり得ない。
今、あの部屋の鍵を持っているのは、陽河と汐だけだ。
だからきっと、あの部屋に今、汐がいる……。陽河を頼らず、陽河を不要だと意思表示した、汐がいる。
「諦めたはずじゃないか」と、心のどこかで声がした。(そうだ、諦めたんだ)と、陽河は思う。だから、アパートの賃料の支払いを止めたのだ。汐への手紙に書き続けた、今の住所からも引っ越そうと考えている。
期待することも、待つことも止めた。汐にとって、自分の存在なんて希薄なんだということも、受け入れた。会社を辞めて独立したことも、一人暮らしを始めたことも、汐のためじゃなくて、自分にとって、そういうフェーズだったんだと、目的さえすり替えて納得した。
だから自分は、このまま、立ち去ればいい。どうせ、汐の人生と陽河の人生は交わらない。汐が陽河を、必要としていないんだから……。
(……本当に、そうなんですか、汐さん。どうしても、そう思えないのは、僕がおかしいんでしょうか……)
ジャリっと、陽河の足が一歩前に進む。ジャリっと、もう一歩……。
(その答えを、僕は、汐さんから聞けていないんです!)
思った時には、もう、階段を駆け上がっていた。無理して2段飛ばそうとして、陽河は足を滑らせ、埃っぽい階段に両手を突く。だけど、そんなことにも構ってはいられない。すぐに立ち上がり、階段を駆け上がる。
短い廊下も走って、あっという間に、汐の部屋のドアを開けた。
「……汐、さん?」
三和土からちょっと上がったところの、押入れの前で、うずくまっている人がいる。その顔が上がった瞬間、陽河は思わず「誰……?」と、苦笑してしまった。
でも、わかってる。
涙でぐちゃぐちゃだけど、ベリーショートの美女かと見まごう男の口から「よ、う、が……」と、声が漏れる。それを聞いた瞬間、弾かれたみたいに、陽河はその体に飛びついていた。
「汐さんっ!」
うずくまっていた体を抱きしめる。体温なのか、まとう空気なのかはわからないけれど、見たこともない顔のその人は、確かに汐だった。自分が、汐の声や姿を、見間違えるわけがない。
(汐さんだ……)
それだけで、陽河の中の何かが満たされていく。急スピードで幸福感が迫り上がってきて、「あぁ……」と声が漏れた。
「陽河ぁぁっ……」
か細い声をあげて、汐が縋り付いてくる。その声が含む、どこかホッとしたような響きに、汐にとって自分が不要だなんて、嘘だと感じた。
陽河は、思い出す。逮捕される直前も、汐は陽河を抱きしめていた。まるで、陽河の温もりだけが頼りだとでも、言うように。
そんな汐が、自分を必要としていないなんて、信じられなかった。汐が頼れる相手も、頼りたい相手も自分だけだと、あの時点で陽河は、確信していたのだ。
だから、何度拒絶されても、信じなかった。そして、信じなかったことは、大正解だと思う。
陽河の腕の中で、汐は声をあげて泣いている。たった1人で、汐がどれほど辛い思いに耐えてきたかが、わかる気がした。
「大丈夫です、汐さん。僕がいますから、大丈夫ですよ」
耳元で囁いて、震える背中を撫でてやる。「もう、大丈夫。汐さんには、僕がいますからね」と、繰り返す。そう、汐はもう大丈夫だ。汐が何を思って自分を拒絶していたとしても、絶対に1人にはしない。必ず自分が傍にいて、頼らせてやる。
やがて汐の泣き声は小さくなり、しゃくりあげるだけになった。脱力したように、陽河にもたれて体を震わせている。それでも陽河は、「もう大丈夫」と「僕がいる」を繰り返し続けた。泣き疲れて思考が散漫になっていそうな汐の意識に、刷り込まれるぐらい、言い聞かせたい。
「ダメ、だ……」
掠れた声で呟いた汐が、体を起こそうとする。陽河は腕に力を入れて、汐の体を引き戻した。
「大丈夫です、汐さん」
「ダメだ。俺が、陽河に頼ったら、ダメだ。陽河を、巻き込まないって、決めたしっ……」
汐が漏らした言葉に、(そんな事を考えていたのか……)と、陽河は思う。
「それで、面会も差し入れも、拒否してたんですか?」
尋ねると、汐は、素直に「うんっ」と頷いた。
「どうして?僕を頼ったら、僕が困るとでも思いました?」
「……だって、俺を助けたら、陽河は、会社の、て、敵になる、だろ……」
汐の言葉に、陽河は驚く。まさか汐が、そこまで考えていたとは思わなかった。
後から気づいた事だが、逮捕時に汐が大波を私選弁護人に選んでいて、その費用を陽河が建て替えていると会社にバレたら、正直、陽河の立ち位置はあの時点で微妙になったはずだ。大波はその辺りも考えた上で、まずは「私選弁護人をつける意思確認」だけに動いたようだったが、あの時の陽河は、そこまで頭が回っていなかった。
その指摘もあって、汐の出所までに会社を辞めることにしたけれど……。自分が汐を守ろうと思っていた裏で、汐も自分の事を考えてくれていたんだと、気づいた。
「……だから、ダメだって。これからだって、俺を助けたら、会社は、陽河を辞めさせるって……」
陽河の背中に回っていた汐の手が、ぎゅっと握られるのを感じた。陽河の腕の中で泣いたくせに、「だから頼らない」と言い出しそうな汐に、陽河は少し笑ってしまう。
(もうダメなのは、汐さんの方だ。こんなに弱ったところを見せておいて、僕が手放すとでも?)
できるわけがないし、する必要もない。陽河はこの日のために、ちゃんと全てを整えていたのだから。
「もう、会社は辞めたんで、大丈夫ですよ」
「……え?」
ポカンとした表情で、汐が顔を上げた。見慣れない汐の形のいい目が、間近で陽河を見つめている。
「や、め、た……?」
「はい」
「……飯田、が、すごく立派な会社って……」
「はい。いい会社です。でも、辞めました。だからもう、大丈夫なんですよ。僕が汐さんを助けたって、会社は文句を言いません」
「……」
無言になって目を逸らした汐の眉間に、ぎゅっとシワが寄る。その表情の険しさに、陽河は(まだ、何かあるな)と、感じた。顔も表情も露わになった汐は、感情が読みやすい。むく犬の頃とは、大違いだ。
「……でも、俺、巻き込まないって……。俺、俺、前科者、だし……、やれる仕事なんて、工場とかだし……」
自分で言っているうちに悲しくなってしまったのか、汐はまた、ハラハラと涙をこぼし始めた。そして「しゃ、借金も、ご、五千万っ……」と、付け加える。その金額の大きさと「借金」という単語に、一瞬、度肝を抜かれた陽河だったが、金額感に思い当たる節があった。
「内容証明が来たんですね」
「んっ!」
涙を拭いなら、汐が頷く。陽河は汐の両頬を手で包んだ。ぎゅっと閉じられた目から、止めどなく涙が溢れている。
「汐さん、その5,000万は、会社が被害を受けた総額です。そりゃ、汐さんが億万長者だったら、全部払って欲しいと会社も思うでしょうが、そこまで期待はしてませんよ。間に弁護士さんに入ってもらって、適正な金額まで交渉してもらいましょう。それが決まったら、分割にしてでも払っていきましょう。弁済が済めば、きっと汐さんも気が楽になります」
「……」
「それから、仕事については、ゆっくり模索しましょう」
「でもっ、施設の人は、生活を、まずは整えろって……」
「汐さんの生活を整えるのは、僕の役目です」
陽河がキッパリ言い切ると、汐の目が大きく見開かれた。数秒間、陽河の顔を凝視して、汐はくしゃっと表情を歪ませる。
「……だから、わかんねーって!お前が、なんで、そうやって、俺のこと、構おうとすんのか!」
それは確かに謎だなと、陽河は思う。汐の担当を1年近く勤めて、境遇が不憫過ぎると構い倒した自覚はある。だけど、逮捕されて会えなかった3年近くの間も、汐に時間もお金も費やすのは、正直、やり過ぎだ。汐の受け皿になるために会社まで辞めて……。その原動力が何なのか、自分でもわかりかねていたと思う。
「……好きだからです」
思わず口からこぼれた言葉に、陽河自身が(そうだったか)と、納得した。あの、むく犬だった汐の何に魅力を感じていたかは定かではないけれど、少なくとも自分は、汐が喜んだり、楽しそうだったりするのを感じると、安心したし、幸せだった。自分が確かに汐を幸福にしていると、なんだか自信のような感覚を覚えたし、もっと汐を幸せにしたいという気持ちが、いくらでも湧いてきた。
陽河は博愛主義者じゃないから、万人に対して幸せを願ったりしない。いや、誰もが幸せであればいいとは思うけれど、「自分が幸せにしたい」と思える相手なんて、1人が限界だ。
目だけでなく、口までポカンと開けた汐を引き寄せて、抱きしめて、「正当な理由でしょう?」と陽河は尋ねる。陽河の耳元で「す……き……?」と、呆然と呟いた汐は、次の瞬間「わっかんねーしっ!」と、絶叫した。
「鼓膜、破れます、汐さん」
「知らねーしっ!す、好きだと、なんで、構うかなんて、わかんねーしっ!」
「幸せにしたいからですよ。だから僕は、汐さんのためなら、なんだってするんです」
「……」
黙り込んだ汐は、顔を真っ赤にしている気がする。それでも離れていかない背中を、陽河は優しく撫でた。
「それから、前科の件ですけどね。正直、僕は全く気にしません。僕だけじゃなくて、木島とか、花江さんとか、多分、会社の人たちもみんな、汐さんは悪くないと思っていると思います。汐さんは、誰かを騙して儲けようとか、ずる賢い事を考えたわけじゃない。それをちゃんと、わかっている人はいます。ただ、法律ではそうはいかなくて、汐さんの経歴に、犯罪歴がついてしまったことは、事実です。履歴書にも書かなければならないでしょうし、心無い事を言われることもあるかもしれません。だからって、それは、僕が汐さんを諦める理由にはならないし、汐さんが幸せになっちゃいけない理由にもならないんです」
汐は、黙って陽河の話を聞いている。その空気が凪いでいくのを、陽河は、確かに感じていた。
汐を抱き起こして、涙まみれの目元を拭ってやる。そうしながら、なんでもない事のように言ってみた。
「だから、一緒に暮らしましょう。手紙は読んでくれてましたか?僕、実家を出て、一人暮らしをしているんです。この近くのマンションで、汐さんの部屋もあります」
「知ってる……」
「知ってて、頼ってくれなかったんですか。ひどいな」
そんなに自分は頼りないだろうかと、陽河は思う。汐にとって、唯一、頼りたい相手だったことは間違いないとしても、頼ると同時に、ポッキリ折れてしまうぐらいの胆力しかない男だと言われているようで、ちょっといじけた気分になる。
「だって、俺が陽河を巻き込むと……、陽河に迷惑かけるし……」
「迷惑なんてことは絶対にないです、汐さん」
「……」
「汐さん、本当に、大丈夫ですから。ね?」
「……」
無言になって、俯いてしまった汐に、不安が募る。前に引越しを打診した時もそうだった。すぐに「わかった」と頷かない汐が、飯田に囚われたままの生活を選んでしまいそうで、不安だった。
今も、「やっぱり、陽河を巻き込まない」と、言い出しそうで怖い。それを言葉にしたら、汐は、決心を固め切ってしまいそうで……。
(そんなのは、ないよ、汐さん……)
汐の両肩に手を置いて、俯く汐の顔を覗き込む。目を合わせてこない汐に「3年ですよ……」と、呟いた。
「3年、待ってたんです。あなたが安心して戻ってこられるように、準備してたんです!そりゃ、頼まれたわけじゃないけど、汐さんが戻るのは、僕のところしかないって、信じて、待ってたんです。ねぇ、そうでしょう?僕しか、いないですよね?」
陽河が揺さぶるがままに揺れている汐は、この瞬間にも口を開いて、陽河が聞きたくない言葉を発しそうだ。「陽河はいらない、誰にも頼らないし巻き込まない」と。
「僕は、違う……。汐さんが、いないと、寂しい……」
本音が漏れるのと同時に、堪えていた涙が溢れた。3年間、ずっと寂しかった。寂しくて、辛くて、それを誤魔化すためにも、汐を迎える準備に奔走した。汐に会えない不安を、独立の不安とごっちゃにしてやり過ごした。
「僕は……、辛いです……。汐さんが、いてくれないと、寂しい……」
陽河は、ジャンパーの袖を握り締めている汐の手に触れた。この手に、自分の手を握り返して欲しい。そうしてもらわないと、寂しくて死んでしまいそうだ。
「寂しいんです、汐さん。僕には、汐さんが必要なんです。傍にいて欲しいから、待ってたんです……」
冷たい汐の手に頬を押し付ける。情けない男だと思われたくはないけれど、泣くほど、汐が必要な事をわかって欲しい。
「お願いです、汐さん……。お願いです……。僕の傍にいてください、お願いですから……。お願いします……」
体を打ち伏して、懇願を続ける陽河の頭上で、汐が吐息と一緒に「なんで……」と言葉を漏らした。
「……陽河、お前、わけわかんねぇ……。俺がいたって、何も、役に立たねぇのに……」
「役に立つとか、立たないとかじゃなくて……、汐さんにいて欲しいんです……。僕のために、いて欲しいんです……。汐さんが必要なんです!お願いします……」
また、頭上で汐がため息を吐く。「どうしようもない」と、諦めたようなため息。
汐の決心が、覆った音だと感じた。
投げ出された汐の足に顔を預けて、その腰に腕を回すと、汐の手が陽河の頭に置かれた。
汐の体温が腕の中にあるから、陽河の心も徐々に落ち着きを取り戻す。きっと汐は、戻ってきてくれると思う。それでも陽河は、ダメ押しのように「お願いします……」を繰り返す。
情けなくてもいい……。プライドなんて、何の役にも立たない。汐が戻ってきてくれるなら、何でもする……。
「言っておくけど、俺……、本当に、役に立たねぇし、何もできねぇからな……」
汐の言葉に、陽河は思わず目を閉じた。
陽河の傍に戻る事を、前提とした言葉だ。
「はい……」
「……また、ヒゲも髪も、ボサボサになるかもだし……」
「はい」
「……す、好き、とかも、よく、わかんねぇし……」
「はい。……汐さんにも好きになってもらえるように頑張るのは、僕なので、構いません」
「……」
「他に、何かありますか?」
尋ねると、「ねーしっ!」と、むくれたような口調で、汐は答える。陽河は少し笑って、起き上がった。
泣いたせいで、汐は鼻も頬も赤くなっている。でも、自分の顔も大概だろうなと、陽河は思う。
不貞腐れた表情の汐をもう一度、今度は柔らかく抱き寄せると、汐は素直にもたれてきた。
「汐さんが僕を巻き込まないなら、僕が、汐さんを巻き込みます。僕の人生に、汐さんを巻き込みます。覚悟していてください。僕は結構、しつこいタイプみたいですから」
「ククッ」と、汐が喉の奥で笑った。その音色に、陽河は(もう、大丈夫だ)と、安堵する。
「それから、安心して欲しい事が、もう一つ。……僕の理性は折り紙付きです。汐さんが、ちゃんと僕を好きになってくれるまで、一緒に住んでいようとも、手は出さないと約束します。万が一、僕がおかしな事をしようとしたら、骨の一本や二本、折ってもらって構いません。心配でしたら、弁護士の先生に頼んで、証人になってもらいましょう」
冗談めかした陽河の誓いに、汐は今度こそ、笑い声をあげる。
「弁護士の先生って、そんなことまでしてくれるのかよ!」
「どうでしょう。相談してみてからですね」
そう言って、陽河は汐を腕の中から解放した。
「もし時間があるなら、家に寄って欲しいんですけど……。どんな部屋か見て欲しいし」
陽河が言うと、汐は床に落ちている陽河のスマホを拾って、時間を確認した。そして、「そろそろ出なきゃ」と呟く。
「こんなに早く?」
尋ねると「うん」と、汐は頷く。
「施設に外泊届、出してないし」
門限は夕方、施設までは片道2時間かかると言う。
汐の言う「施設」のルールが、どれぐらい厳しいのかわからないが……。汐の身元引受人となる以上、施設には誠実さをアピールしておいた方がいいかも知れないと、陽河は思う。
だが、ここで離れるのは、あまりにも寂しい。
「送って行きたいんですけど、この後、ミーティングが……」と言いかけて、陽河は心の中で(でかした、椎名!)と、出会って初めて萌香を褒めた。
萌香がランチミーチティングとかいうふざけた予定を入れたおかげで、別件ミーティングを夜にリスケしたのを思い出したのだ。
「リスケになったのを思い出しました!汐さん、あったかい服に着替えて帰りましょう。お昼も食べ損ねましたね。途中で何か買って、電車の中で食べましょうか」
「陽河も?」
「ええ。送っていきます。施設の退所のルールも確認したいですし、内容証明は施設にありますよね。今日、受け取れれば、大波先生に、早く確認していただけますから」
押入れから取り出したセーターに着替えながら「お前、勝手に金を払ったりするなよ」と、汐が釘を刺す。
「汐さんが、自分で責任を取りたいのは、わかってます。先に書類だけ見ていただいて、相談には一緒に行きましょう」
陽河が言うと、汐は納得したように頷いた。
クリーニングしていたダウンジャケットも着込んだ汐と、部屋を出る。PCなどの機材と引き出しのお金などは、明日にでも陽河が取りに来ることにしたから、汐がこのアパートに来るのは、最後になるだろう。
大きな駅でサンドウィッチを買って、施設の最寄り駅に向かう電車に乗り込む。幸いなことに乗客が少なかったので、2人は電車の中でサンドウィッチを食べた。
「汐さん、少し、変わりましたね」
汐は、食べ終えた包装紙を綺麗に畳んで袋に入れ、その袋も小さく折って自分のバッグに入れている。昔だったら、くしゃくしゃに丸めていただろう。
「身だしなみから服の畳み方から、細かく指導されんだよ。同房だった『棟梁』って人も、飯の食い方にうるさくて。したがってる間に、慣れた」
「そうですか」
「それに、作業が封筒作りだったからな。紙を見ると、折りたくなる」
「へぇ、封筒作りをしてたんですね」
「そ。世の中にある封筒のうちの何万部かは、俺が折ったヤツだな」
「教えてくれたらよかったのに。汐さんが作った封筒、僕も欲しかったです」
「どれが俺が折ったもんかなんて、わかんねぇよ」
汐が小さな笑い声を上げた。
自分が問うことに、すぐに汐が答えてくれる……。その距離感に、汐がいてくれている。
読んでもらっているかわからない手紙を書き続けて、何一つ返事がもらえなかった日々を思うと、夢のようだ。
それに汐は、あの頃とは違い、汐なりの考えを持っている。「陽河を巻き込まない」と決めたのも、集めた数少ない情報から、汐が導き出した答えだ。陽河にとっては困ることなので撤回してもらったけれど……。今の汐に対して「すべて自分に任せろ」と言うのは違うんだなと、陽河は気づく。
「汐さん、一つ、お願いがあるんです」
「何?」
落ちかけている日の光に、眩しそうに目を細めた汐の表情が、すごく綺麗だ。一瞬、見惚れた後、陽河は口を開いた。
「これから先も、色々なことがあると思うんです。何を選択しようかとか、どうしようかとか、迷う場面って、いっぱいあると思います。そういう時、1人で決めたりしないで、ちゃんと僕に話して欲しいんです。汐さんが決めてしまってからの報告じゃなくて、僕にも、一緒に考えさせて欲しいんです」
陽河の言葉に、汐はちょっと意地の悪い笑みを浮かべた。こんな表情を持っているとは思ってなくて、陽河の心臓が跳ねる。
「お前は、勝手に、会社を辞めたのに?」
「……それは、汐さんがいなかったし、会ってもくれなかったから」
「手紙にも書いてなかった」
「……情報としては、不要だと思ったので……」
痛いところを突かれて、陽河は口をつぐむ。手紙に書かなかったのは、汐に余計な事を伝えて、気を揉ませたくなかったからだ。
汐はそれに気づいているのかも知れない。陽河の表情をうかがっていた汐は、少し首を傾げると「わかった。約束する」と、同意した。
「その代わり、陽河もそうして。っていうか、俺よりお前の方が勝手が多い気がする。会社は辞めるし、家は決めるし、アパートは借りっぱなしだし……」
「だから、それは……」
汐が会ってくれなかったからだと、言いかけて。陽河はため息を一つ吐くと、「僕も、約束します」と、頷いた。
汐は満足そうに笑っている。それを見て(こんなに表情が豊かだったんだな)と、陽河は嬉しくなった。むく犬の汐もいいけれど、こんな風に、気持ちを表情で見せてくれる汐もいいなと、思う。
「汐さん、表情も豊かだし、口数も増えましたね。僕の方がやり込められるとは、思っていませんでした」
「周りに人がずっといたから。刑務所って大きな変化はないけど、小さい話題はいくらでもあった。それに小林って人が、おしゃべりで、会話には慣れた。その分、色々考えるようにもなったかな」
「そんなに、喋ってたんですか?」
「3年間、毎日」
「僕には会わないのに、その人とは、毎日ですか……。妬けますね」
陽河が言うと、汐は慌てたみたいに「同房だったからな」と、付け加える。少し、沈黙になってしまった。
「……でも、楽しい話はなかったし……。刑期とか、出所後の話とかで……」
汐の呟きに「少しは、楽しみとか、あったんですか?」と、陽河は尋ねる。
「たまに慰問があったけど、俺はそんなに……。あとは、食事が他の日と、ちょっと違うとか、かな。だから……」
汐は少し言葉を切ってから「陽河の手紙が、楽しみだった」と、言ってくれた。汐がそう思っていたと知れただけでも、3年近く、書き続けた甲斐があったと、陽河は泣きそうになる。
「こういう未来が、あるかも知れないなって、思えたし」
「僕が必ず叶えます、汐さんが望んでくれるなら」
汐は、陽河の言葉に「ふっ」と笑いを漏らす。だから陽河は「絶対に叶えますから」と、力んでしまう。汐はそれには答えず、正面を見たまま、口を開いた。
「陽河の手紙に書いてある俺の名前見て、綺麗な名前だなって思った。俺のことだなんて、信じらんねぇぐらいに」
「……」
「『汐』って、どういう意味なのかもわかんねぇし、誰がつけたのかも知らないけど」
「……海の満ち引きの意味ですよね。確か、汐さんの名前の漢字は、夕方の満ち引きする海の意味だったと思います。やわらかい響の、いい名前ですよね」
「ふーん。そうなんだ」
特に感想らしい感想も言わずに、汐は口をつぐむ。そんな汐の横顔を見ながら、(この人はずっと、引き潮のままだったんだ)と、陽河は思った。
人は、出会った人間の影響を受ける。海水が、月の引力に影響されるように。
誰の元に生まれて、誰と出会って、誰と生きるか……。汐の両親がどんな人で、子供の頃にどんな生活をしていたのか、陽河は知らない。飯田との出会いも生活も、知る勇気は、まだない。だけど、汐があのアパートで1人で過ごした時間よりも、より過酷だったのだろうと想像はつく。
誰にも満ちる事を教えてもらわなかったから。満ちるための引力もなかったから、汐は引き潮のまま留まり続けるしか、なかったのだろう……。
(でも、これからは、ずっと、満ちていきましょう)
心の中で囁くと、不意に汐は、陽河に顔を向けた。
「何?」
「いえ。『これからは僕が、汐さんのための引力になります』って、誓っていたところです」
「……?」
意味がわからないと、困惑した表情を浮かべる汐の手を、陽河は握る。
この人を満たして、満たして……。満ち足りすぎて「もう、満足!」と仰け反るぐらい、豊かな日々を送って欲しい。そして、そんな日々を、一緒に過ごして行きたい。
(そのためには、僕の引力も鍛えなきゃだな)
陽河は、そんな事を決心していた。
END




