満汐引力 12
陽河の独立は、想定以上にスムーズに進んだ。有休消化期間の3月から、予定通り自分の会社の名前で仕事を受け始め、4月にはもう、意外なぐらい社名を名乗るのに、違和感もなくなった。
新卒から6年近く世話になった、前の会社との関係も良好だ。花江だけでなく、元いたクリエイティブ局からもポツポツと相談が入ってくる。それら全てが仕事になるわけではないけれど、陽河はできる限り応えることで、次の案件の獲得を目指している。
一つ面倒があるとすれば、2年近く面倒を見てきた萌香が「陽河さんの会社について行きたい」と、意味不明な駄々をこねたことだろうか。人を雇う余裕もないし、あったとしても、萌香のことは選ばない。陽河はそう思うのだけれど、萌香は何故か「陽河と萌香が組めば、業界が注目して、仕事がバンバン入ってくる」と、思い込んでいるらしい。
仕事の合間に、そんな萌香から売り込みのような電話を受けるとイラッとしてしまう。だが、クリエイティブ局の人間は、陽河と萌香をワンチームだったと思っているらしく、窓口に萌香を据えてくるから始末が悪い。
『対面で打ち合わせしますか?陽河さんのオフィスに行ってみたいです』
「自宅がオフィスだから、招待はできないよ」
電話をスピーカーにした状態で、どうでもいい萌香のコメントにどうでもいい返事をしながら、陽河はチャットシステムで花江にミーティングの都合を問い合わせる。
『え、自宅でもいいですよ?』
「……自宅に他人を入れるつもりはないんだ。あ、ミーティングの時間だから、失礼するね。お疲れ様です」
萌香の返事も聞かずに電話を切る。思わずため息が漏れた。
「学歴と知性って、イコールじゃないんだな……」
そんな悪態もつきたくなるというものだ。
自宅のダイニングテーブルで作業をしていた陽河は、「うーん」と伸びをする。コーヒーでも飲もうと立ち上がると、腰に鈍い痛みが走った。
「やっぱり仕事用のデスクにしないとダメかな」
PC作業も多いけれど、汐のアパートのちゃぶ台でもこなせていた程度だから、ダイニングテーブルで十分だと思っていた。その認識は、どうやら間違いらしい。かといって、陽河の分のデスクを置いてしまったら、リビングが狭くなってしまう。
そう思いながら、陽河はリビングを見遣った。何人かのクリエイターにヒアリングして揃えたPCデスクとチェアにモニターが、リビングに鎮座している。
汐の姿は、まだ、ない。
期待していた4月になっても5月になっても、汐からの音沙汰はなかった。もし汐が仮出所を予定しているなら、それ以前に、汐の出所後の同居確認の連絡が陽河の元に入るはずだったが、それもない。今の段階で連絡がないということは、下手すれば仮出所は夏以降。あるいは、満期出所になるかもしれない。
変わらず送り続けている手紙が返送されてこないから、汐は刑務所にいるんだろう。汐の所在がわかっていることだけが、救いだ。
(今年の誕生日も、祝ってあげられなかったな)
コーヒーが抽出されるのを見ながら、陽河は思う。ギリギリまで、せめて誕生日までには戻ってくるだろうと信じていただけに、今年の汐の誕生日は、かなりキツい精神状態に陥った。
汐が手紙を読んでいないなら、陽河が待っていることも知らずにいる可能性もある。それを希望と思うか、絶望と感じるか……。最近、陽河は後者なのではないかと感じている。
『頼る相手がいないと思っていれば、満期出所を選ぶのも珍しくないですよ』
慰めるように言った大波の言葉に、陽河は逆に抉られた。汐が「頼る相手」として陽河を思い浮かべもしないのかと思うと、なんのために、ここまで準備したのかと、気持ちが沈んでしまう。
汐のために会社も辞めて、実家も出た。ありがたい事に仕事が順調だから考えずにいられるけれど、これで仕事が行き詰まっていたら、汐を責めたい気分になったかもしれない。
(いや、これは僕の選択だから、汐さんを責めるのは違う)
理性ではそう思えるけれど、感情はまた別物だ。自分ばかりが汐のことを考えていて、当の汐は陽河のことを忘れているのではないか……。そんな想像は、陽河の気持ちを確実に萎えさせていく。
「ああ、ダメだ!ダメだ、ダメだ!」
抽出されたコーヒーを手にして、陽河はダイニングテーブルに戻る。一口飲んで、チャットシステムの返信を確認し始めた。
汐は戻ってきていない。その事実と、陽河の仕事は、別物だ。
夏の初め、作業終わりに、汐は顔馴染みの刑務官に呼び止められた。一緒に作業をしていた人たちが出ていくと、刑務官は汐に座るよう促した。
「最近、体調はどうだ?」
汐の正面に座った刑務官に尋ねられて、汐は戸惑いながら「大丈夫です」と答える。
「そうか。それで、ここを出た後だが、行き先は考えているか?」
続いた刑務官の言葉に、これは満期出所に関する確認面談だと理解した。汐はこれまで3度、仮出所のための意思確認を受けているが、それは全て、小さな面談室に呼ばれての面談だった。面談相手も刑務官ではなかった。仮出所をさせていいかの判断も含めての確認面談だったから、堅苦しい雰囲気だった。
だけど今、目の前の刑務官は、汐が出所することを前提に、その後の生活について尋ねてきている。
もしここで、「友人の世話になるつもりだ」と言えば、刑務官は表面的な情報収集をしただけで、汐を解放するだろう。満期出所となれば、行政はもう、汐を縛れない。
(陽河……)
陽河が用意した新しい部屋の住所はわかっている。住所どころか、場所もなんとなく想像がつく。汐が住んでいたアパートの最寄り駅から、いつものコンビニの前を通り過ぎ、前のアパートも通り過ぎて、陽河がよく利用していたスーパーまで行く。その目の前にあるマンションだ。
スマホは部屋に置きっぱなしにしてしまったから、陽河に連絡は入れられないけれど、部屋番号がわかるから問題ない。昼間は留守にしているかもしれないが、夜には帰ってくるだろう。陽河が在宅の時間に訪ねていけば、陽河は、きっと……。
『汐さん!お帰りなさい!!』
きっと玄関のドアを大きく開けて汐を迎えてくれる。もしかしたら抱きしめられるかもしれない。それから、ちょっと困惑した顔で汐の顔を眺めるはずだ。
陽河は、髪が短くてヒゲのない汐の顔を見たことがないから。その時、陽河がどんな感想を持つのかが、ちょっと気になる。
「どうした、どこか、宛はあるのか?」
刑務官に改めて尋ねられ、汐はギュッと目を閉じた。
「……ありません。可能であれば、更生保護施設を希望します」
「就労の予定は」
「それも、ありません」
「ここを出るに際して、何か困ることは?」
「特には……」
書類に何かメモした刑務官は「こちらでいくつか調整する。無理に決めようとしなくていい」と言った。
「はい」
「以上だ」
「はい」
そのまま刑務官に連れられて、汐は房に戻る。「言ってしまった」という不安と、「ちゃんと言えた」という高揚した気持ちの両方が、交互に汐に襲いかかってきた。
夕食を終え、就寝までの時間に、汐は私物のノートとペンを取り出す。誰も使っていない小さな机にそれを広げた。
小林に勧められて、思いついたことや、自分の気持ちを紙に書いている。「書くと整理されるんだよ」と小林が言っていた通り、グルグルと頭を巡る言葉を追っているよりも、書いた方がスッキリする気がした。
「満期出所」と書いた後に、「更生保護施設」と書き込む。「職さがし」の後に、「工場」「せいそう員」「食べ物屋」と書く。今、汐が想像できている、未来の仕事だ。
デザインを作ることは、もう願えない。履歴書に書けるような実績は、全部、飯田の物になっている。
「自分の家」と書き込んで、今度はどんなところに住むことになるのだろうかと、考えた。きっと、飯田が準備したあのアパートと、そう変わらないところになるだろう。ああいうところが、汐にはお似合いなのだ。
そこからはもう、書けることがなくなった。これが汐の人生の全てだ。外に働きに出る事になる以外、あのアパートでの暮らしと何も変わらない。
(陽河……、俺って、こんなもんなんだ……)
陽河が手紙で伝えてくれたような未来は、汐の本当の未来と程遠い。汐が陽河を巻き込めば、陽河もこんな汐の人生に付き合わなければならなくなる。それどころか、汐に関わることで会社をクビにされたりしたら、陽河の人生だってどうなるかわからない。
「陽河」と、丁寧にノートに書いてみた。太陽の「陽」に大河の「河」。同じページに書かれた他の文字が霞むぐらい、陽河の名前は輝いて見える。
もう、陽河を巻き込まない。そう決めているのだから、今日、刑務官との面談で「更生保護施設を希望する」と言ったことは正しい。「ちゃんと言えた」と、自分を褒めてやってもいいぐらいだ。
満期出所するまでの間に、あと何通、陽河の手紙を受け取れるだろう。汐には思いつきもしない、夢みたいな未来とか仕事の話が綴られた陽河の手紙。そんな未来があるかもしれないなと、汐を幸せな気持ちにさせてくれる陽河の手紙。
あともう少しだけ、陽河の手紙を受け取っていたい。
そして汐がここを出た後に届く陽河の手紙は、陽河のところに返送されるだろう。
そこで陽河は知るのだ。
汐が黙って出所したことや、陽河を頼らずに、どこかに行ったことを。
汐の満期出所は、疑いようもない。大波が出所予定日を算出してくれたが、プラスマイナス1〜2日のズレは生じる上に、当日のスケジュールは予想できないとのことで、博打のように刑務所に迎えに行くのは諦めた。
汐のアパートの玄関ドアには、メッセージを貼り付けた。陽河の個人情報を書くわけにはいかないから、陽河がアパートを訪れる時間を明記して、待っているように伝えた。その上で、汐が戻ってくると思われる週、陽河はほぼ自宅にいて、汐を待ち続けた。
だけど汐は、戻らなかった。アパートのメッセージもそのまま残されている。
「刑務所内で何かあって、出所が遅れてるんでしょうか」
『その可能性は、低いと思いますよ』
たまらず大波に電話をしたが、大波の声は冷静だ。
『自分で行き先を決めて、そちらに向かったと考えるのが自然です』
「汐さんが頼れるのは僕だけです!他には、誰も……」
『公的な施設を頼ったかもしれません。自ら希望する方も多いですよ』
大波の言葉に、陽河は愕然とする。思わず「僕は、何のために頑張ったんでしょうか……」と、呟いてしまった。
『自分のためだったのではないですか?確かに旭さんは、寺岡さんのために奔走されましたけど、そうすることであなた自身が救われていたでのはないかと、私は思います。役に立てる、必要とされると信じていられたから、立っていられたでしょう。でも、だから今、キツいんだと思います。善意に見返りを求めて、報われなかったから』
「……」
大波の言葉の辛辣さに、陽河は絶句した。
『あなたが寺岡さんを救おうとしたのは事実です。だけど、それを受け取るかは、寺岡さん次第です。そして寺岡さんは、受け取らないことを決めた。ならば、あなたにできるのは、それを受け入れることだけです。受け入れた上で、広げた善意を自分なりに後始末しなければ。寺岡さんは、罪を償って、自分なりに進む道を見つけました。今度は、あなたが前に進むことを考える番です』
「……汐さんは、手紙を読んでいなくて、僕が待っていることも知らないかもしれません」
『それも寺岡さんの選択です。逮捕前の人間関係を頼らないと、最初から決めていたというだけの話です』
(そうだったんですか、汐さん……、全部、僕の独りよがりだったんですか……?)
それを認めるのは、身を切られるよりも辛い。汐の中で、自分という存在がどれほど希薄だったかを認めることになる。
『旭さん、辛い気持ちはわかります。ですが、もう、終わりです。寺岡さんの人生とあなたの人生は交わらないという結論が出たと、納得してください。そして、あなたも、前を向いてください』
大波はそう言うと、「今日はもう、失礼しますね」と、電話を切った。それと同時に、陽河は床に崩れ落ちる。
「汐さんっ……」
今、ここに汐がいない事実が、大波の言葉の正しさを裏付けている。汐は逮捕以降、陽河が差し出そうとした全てを拒否していた。それは汐なりの意思表示だったのだ。なのに自分は、勝手に期待して、勝手に思い込んで、勝手に汐の受け皿になろうと動き続けた。
『今まで、ありがとう』
大波が唯一持ち帰ってくれた汐の伝言は、陽河が予感した通りに、汐からの別れの言葉だったのだ。
(わかっていたんです、本当は……。だけど、そうだとしても、覆したかった……)
だから、手紙を書き続けた。だから、待ち続けた。待っていると伝え続けた。そうすれば、いつか汐が音を上げるんじゃないかと期待して……。
それら全てが独りよがりだったとわかった今、陽河にできることは、諦めることだけだ。汐が戻ったら、ああしよう、こうしようと、手紙に綴った全てを破り捨てることだけだ。
誕生日を祝われて「嬉しくねーし!」と、文句を言う汐も、牧場でソフトクリームを舐めて笑う汐も、温泉で豪華な料理に驚く汐も、見ることは叶わない。この部屋に戻ってくる汐も、湯船で温まる汐も、PCデスクで仕事をする汐も、陽河の人生には存在しない。
(あなたにとって、僕は、不要だったんですね……)
汐に全てを拒絶された時から、ずっと認められなかったことを、陽河は、やっと認めた。やっと認めて……、だからこそ、「汐のため」という大義名分に隠された本音に、気付かされる。
でも、僕には必要です、汐さん。どうしてかわからないけれど、僕は、あなたにいてほしい……。
あなたが、お腹も心も満たされて、幸せそうにしている姿を見ていたい。何故かわからないけれど、あなたが幸せそうだと、僕も満たされる。そのためだったら、本当に、なんだってできるんです。
(でも、それを、汐さんは求めていないんですね……)
だったら僕は、理解するしかない。
あなたは、僕のそばには戻ってこない。僕とあなたの人生は、もう2度と、交わらない。
あなたはそれでいいと、思ってるんだ。
僕がどんな気持ちで待っていたかなんて、想像さえしないで、あなたは、僕を置いていくんだ……。
翌週月曜の夕方に、陽河はアポイントをとって、大波の事務所にやってきた。正直、「今度は何を言い出すか」と、戦々恐々としていた大波の前で、陽河はテーブルに鍵を一つ、置いた。
「来月で、汐さんのアパートの賃料の支払いを止めることにしました。それ以降、管理会社が整理に入るかもしれません。アパートには、汐さんの私物が保管されています。……汐さんに、この鍵を渡していただきたいんです。必要なものがあれば、勝手に持ち出してもらって、構いません」
「寺岡さんの居場所を見つけるのに、時間を要するかもしれませんよ。最終的に、興信所を使うことになるかもしれません。それでも見つけられるかどうか」
「承知しています。興信所が必要な場合は、見積もりをお願いします」
大波は、テーブルの上の鍵を手にした。
「仮に寺岡さんが行政の施設に入所している場合、私が会うことも難しいかもしれません。お渡しは文書でとなるかもしれません」
「それも承知しました」
「お渡しできたか、そして寺岡さんが私物を持ち出したかも、お伝えすることはできないと思います」
「はい、必要ありません」
「……」
これまでだったら食い下がりそうなことも、陽河は全て承知した。その様子に、(無気力になっちゃったかな)と思った大波だったが、用件を伝え終えて立ち上がった陽河は、少しやつれたように見えるものの、しっかりした大人の男性の顔をしていた。
「それでは、よろしくお願いいたします」
陽河は丁寧に頭を下げて、会議室を出ていく。
陽河も踏ん切りをつけたのだなと、大波は思う。
「これは、どんな手を使ってでも、渡さなきゃならないなぁ」
大波は、手の中の鍵をじっと見つめた。
「寺岡さん、ちょっといいですか」
茨城の更生保護施設に入所して1ヶ月半後、汐は職員に呼ばれた。小さな部屋に通されて、椅子を勧められる。
「実は、封書が2通、届いています。1通は、寺岡さんの私物を保管してくださっている弁護士さんから、もう1通は書留です」
聞き慣れない言葉に、汐は「カキトメ、ですか?」と、戸惑いながら尋ね返した。
「確認されますか?良かったら、一緒に確認しますよ」
職員が差し出した封書の表面に、黒のスタンプで「書留」と言うハンコが押されている。どんな内容なのか想像もつかなくて、汐は頷くと、震える手で封筒の上部をちぎった。
数枚の紙が折りたたまれて入っている。テーブルの上でそれを開くと、職員も向かい側で身を乗り出した。
「損害賠償請求について」という文字を見て、汐は瞬間的に、陽河の会社を思い浮かべた。視線を泳がせると、やっぱり、陽河の名刺に書いてあったのと同じ会社名が書いてある箇所を見つけた。
紙を凝視している汐に「民事の内容証明ですね」と、職員が言う。思わず汐が職員を見ると、職員は汐が感じた戸惑いを見抜いたようだった。
「これは、刑事とは別の話です。刑事は国が相手です。何をしたか、どんな罪か、それに対して罰を受けます。ですが民事は、人……、今回はこの会社が相手です。その会社がどれだけ損をしたか、それをどう償うかという話になります」
よくわからないけれど、刑務所に入ったからと言って、自分が飯田から受け取ったお金の話までチャラになったわけではないんだなと、汐は理解した。
2枚目に書かれた「損害額:金50,000,000円」という数字のゼロの多さに、汐は震え出す。汐にとっては5万円だって大金なのに、その1000倍。仮にこれから毎月5万円を払えたとして、1000ヶ月かかることになる。
(1,000ヶ月って、何年……?)
単純な計算なはずなのに、全然頭が働かない。震えながら3枚目に目を落とした汐は「14日以内」と書かれたところで、とうとう、喉の奥を鳴らした。
14日以内に5000万なんて払えるわけがない。いや、一生かかっても、汐が払える金額じゃないかも知れない。
「寺岡さん、内容証明は、請求のための準備だと思ってください。相手が『請求した』という状態を作るための文書です。でも『知らなかった』は通らなくなります。裁判になる時に『この時点でちゃんと通知しました』というための証拠がこれです」
「でも、いつか、請求されるんですよね……」
「その可能性はあります。ですが、今、あなたが優先すべきなのは、支払いよりも自分の生活を安定させることです。弁護士の宛てはありますか?」
職員の質問に、汐が思い出したのは、2度だけ会った大波だった。逮捕された直後に陽河が手配してくれた弁護士。国選弁護人以上に淡々としていたけれど、陽河が信頼した人だと思うから、汐にとっても信じられる人だ。
だけど、大波を頼ったら、陽河に知られてしまうかもしれない。刑務所に入った上に、5000万なんて借金を背負った自分のことを、陽河に知られたくないと思った。
(自分でなんも考えないで、ただ、流されたバカだから、こんな目に遭う……)
正直、刑務所に入ったのは飯田のせいだと、どこかで考えていた。その飯田に巻き込まれたのも、汐をちゃんと育ててくれなかった親のせいだと、思っていた。親とか学校とか、実感はないけど社会とかが、ちゃんと自分と向き合ってくれなかったから、汐は飯田みたいな男に生かされるしかなかったのだと。
どこかで、被害者みたいに感じていた。
でも、現実が押し寄せてきたことで、実感した。誰かが守ってくれなかったから仕方ないなんて言い訳は、何の役にも立たない。汐が何も考えずに、飯田に従った……。その結果、汐がバカだったせいで、5000万も損をした人がいたのだ。
そのことにも気づかず、刑期が終われば、全部終わりだと考えていた。他人から見たら「底辺」かもしれないけれど、細々と生きていく計画を立てたりして。
そんな汐の人生に「陽河を巻き込まない」と決めただけで、それに誇りさえ感じていた。
(恥ずかしい……、俺がバカすぎて、恥ずかしい……)
そんな自分を陽河に知られたくない。
ポタポタと、内容証明に落ちていく涙を止められなかった。
「寺岡さん、弁護士の宛てがないなら、法テラスが使えますので、ここから相談をすることも可能です。お金の心配がある人のための窓口ですから、心配しなくて大丈夫です。あなたは何もしないでください。相手に連絡もしない、返事もしない。それだけ約束してください」
職員の言葉に、汐は頷いた。「何もしないでください」と言われたが、言われるまでもなく、汐には何もできない。お金も払えないし、弁護士も雇えない……。
「もう一通、書面が届いていますが、今日はやめておきましょうか。部屋で休んだ方がいいでしょう」
職員が気遣ってくれたけれど、汐は首を振る。もう一通が内容証明以上に厳しい手紙だったとしても、今のうちに見ておきたかった。先延ばししたって、現実は変わらない。
「わかりました。よかったら、私が開封して中身を確認しましょうか」
「……」
汐は涙を拭いながら、頷いた。職員が封を開き、ザッと中身を確認した。
「寺岡さんの私物を預かってくれている弁護士さんからみたいですね。前に住んでいた物件に保管しているから、確認と整理のために、立入できますという、連絡みたいです。心当たりは、ありますか?」
(陽河の弁護士さんだ……)
汐は何度も頷く。手紙の差出人の住所は、途中から、陽河が引っ越した先と思われる住所に変わったけれど、それまではずっと、汐のアパートの住所のままだった。陽河がずっと、家賃を支払い続けてくれていたのだろう。
「整理しに行きたいですか?」
「……行けるんですか?」
「そのようですね。弁護士さんの立ち会いも、送迎もないようですが、鍵が同封されています」
パチンと、テーブルに鍵が置かれる。見覚えがある銀色の鍵。飯田が来た翌日、陽河が鍵を付け替えてくれて、汐の手に握らせてくれた鍵。
『この鍵を持つのは、僕と汐さんだけです。だから、安心してください』
汐は震える手で鍵を握った。あの部屋に戻ってみたくなった。あの部屋に戻れば、安心できる気がする。今は泣いてしまうぐらい不安で仕方ないけれど、あの部屋の空気に触れて、安心したい。ほんの少しの時間でもいい。
「行きたい、です」
汐が答えると、職員は頷いた。
「期日が書いてありますから、それまでの間に行けるよう、調整しましょう」
汐はぎゅっと鍵を握る。まるで、汐のために陽河が用意してくれた、最後の贈り物みたいだった。
内容証明と鍵が届いてから10日後、アパートへの立入り期限の2日前の平日の朝、汐は施設を出発した。期限ギリギリになった理由は、汐が電車の乗り方に慣れていなかったことと、内容証明を受け取ってからの精神状態が不安定になったからだ。
時刻表の見方、駅の名前、路線の名前、ICカードへのチャージの仕方。それらを頭に叩き込みつつ、わけがわからなくなっても、見れば一発で行程を思い出せるようなメモを作る。お金の管理や、緊急時に交番に助けを求める話し方の練習。
施設から貸与された上下のスウェットに、ジャンパー。足元は、逮捕された日に履いていたスニーカー。12月の外出着としては寒いぐらいだったけれど、汐は駅に向かって風を切るスピードで歩く。
ヒゲを剃ったばかりの肌に冷たい風が当たって、少しピリピリする。刑務所にいた頃の習慣で、朝にヒゲを剃らないと落ち着かなくなってしまった。
交通費と食費分のお金を入れた透明なポーチと、アパートの鍵、時計、行程メモが入った布のバッグをギュッと握って、汐は急ぐ。電車を一本逃すだけでも、きっと自分はパニックになってしまう。
駅に到着し、施設で教えてもらった通りに ICカードを買う。改札を通りすぎる時はドキドキしたけれど、ちゃんと通過できた。
電車に乗り込んだだけで、汐はホッと胸を撫で下ろす。ここからは1時間ぐらい座っていればいい。
アパートに行くのに、ワクワクする気持ちはない。あるのは、施設に無事に帰れるかという不安だけだ。
それでも、ポカポカと温かい電車の中は心地よかった。見たこともない景色が、汐の前を通り過ぎていく。少し眠気を感じた汐は、布のバックの手提げ部分をぐるぐると自分の腕に巻きつけた。
このバッグを無くしてしまったら、アパートに行けたとしても入れなくなってしまう。バッグを開いて、底に鍵があることを何度も確認してしまった。
少し落ち着きを取り戻した時には、もう、乗り換え駅が近づいていた。汐は慌てて行程メモを取り出して、次の路線を確認する。
ひとりで電車に乗ることは、中学卒業以降、世間から断絶されていた汐にとって、大冒険に近い感覚だった。
2時間以上の時間をかけてアパートに辿りついた汐は、自分でも驚くぐらいの懐かしさに襲われた。「帰ってきた」と、素直に思えた。
このアパートに引っ越してきたばかりの頃は、嫌なこともあったけれど、デザインについて教えてくれてた嫌な男が出入りしなくなった後は、汐にとって、安心して過ごせる場所になった。陽河が居てくれるようになってからは、楽しくて、嬉しい場所にもなった。
階段の前にあるポストを開けてみる。中には、数枚のチラシだけしか入っていなかった。
踏みしめるみたいに、ゆっくり、階段を上がる。カン、カン、カンという音さえ懐かしい。ようやくドアの前に立った汐は、バッグから鍵を取り出す。少し躊躇ったけれど、思い切って鍵を差し込み、回した。
カチャッと音が鳴り、鍵が開く。ノブを回すと、アパートのドアは静かに開いた。開いたドアから、新鮮な空気が流れてきたような気がする。
部屋に入った汐は、カーテンを開けてみた。明るくなると、部屋の様子がようやく見える。汐が逮捕された日の記憶と、ちっとも変わらない空間がそこにあった。
このまま待っていたら、陽河が帰ってきそうな気がする。
『汐さん、ただいま。このままスーパーに行ってきますけど、食べたいものありますか?』
そう言って、汐の返事を待つ陽河‥…。
そして陽河がスーパーから帰ってきたら、そのまま、あの日の続きみたいに、毎日が続けばいいのに……。
そんな汐の願いが叶わないのは、汐自身が一番わかっている。
PCデスクの上も、引き出しの中も、整えられていた。汐が毎月差し出して、陽河が受け取らないから引き出しにしまい続けた月1万円の食費も、そっくりそのまま入っている。合計10万円。汐の逮捕は2月の月末前だから、1月分までだ。
それを持ち帰ろうか迷って、汐は取り敢えず引き出しを閉じる。帰るまでに決めようと思った。
片方の押入れの中には、陽河が買ってくれたブルゾンやダウンジャケットが、服型のカバーをかけられて置かれていた。陽河が自分用に持ち込んでいた洋服は、なくなっている。
(ブルゾンが、クリーニングから帰ってきたとか、手紙に書いてあったっけ)
その下に、セーターやデニムがきちんと畳まれてしまわれている。持ち帰れたら、冬が本格化するこれから助かるだろう。
これらを汐が持ち帰ることを、陽河は望んでいるだろうか。
『汐さん、しまっていたって仕方ないじゃないですか。ちゃんと使ってください』
そんな風に言う陽河の笑顔が目に浮かぶ。自分に都合のいい言葉を陽河に言わせただけな気がして、汐はギュッと眉間にシワを寄せた。そしてそのまま、押入れを閉じる。
反対側の押入れは、布団が入っている。陽河はしまい方にこだわりがあって、敷布団が一番下で、その上に掛け布団、その上にシュラフや枕を置く。布団を敷く順番を考えたら、掛け布団が一番下なんじゃないかと汐は思うのだけれど「掛け布団がペシャンコになったら嫌じゃないですか」と、陽河は譲らなかった。
汐はポフッと掛け布団に額を預ける。付けられている布団カバーから、陽河が使っていた石鹸のような洗剤のいい匂いがした。それを胸いっぱいに吸い込んで、汐は目を閉じる。
(俺も、この洗剤、使いたい……。なんて名前だったっけ?)
洗剤ぐらいなら、陽河と同じ物を使っても贅沢とは言われない気がする。そんな事を考えた時、汐はハッとして顔を上げた。
(洗剤の匂いって、3年も残るもの?)
汐はグルっと部屋を見回した。人が3年も出入りしなくても、部屋はこんな空気のままなのだろうか。埃っぽいとかカビ臭いとか、そんな風になったりしないものだろうか。PCデスクの上も、流し台の上も、冷蔵庫の上のレンジもその上の炊飯ジャーも、まるで掃除したてのようにピカピカしている。
(陽河、まさか、ずっと……?)
アパートを借り続けただけじゃなくて、掃除をしてくれていたのだろうか。
何のために?
(俺が、いつ戻っても、いいように……?)
不意に、「うぅっ……」と、汐の口から嗚咽が漏れた。肩が跳ねるように震えるのを止められない。身体中から力が抜けて、床にしゃがみ込んだ。手の平をついた床も「キュッ」と音が鳴るくらい、拭き清められている。
身を屈めて、床を拭いている陽河の姿が浮かぶ。どんなに忙しくても、陽河は週に一度は部屋の掃除をしていた。いつしか汐も、一緒に掃除をするようになった。
『部屋が綺麗だと、気持ちがいいですね』
汐が初めて聞く言葉を陽河は言っていて、それを聞いた時、汐も(部屋が綺麗だと、気持ちがいい)と、思えた。
何も考えなかった結果、5000万の借金を背負った自分も死ぬほどバカだけれど、陽河もバカだと思った。たかだか1年弱、担当しただけの汐のために、お金も時間も使って……。それまでだって、汐にどれだけ喜びを差し出してくれたか、わからないのに……。
(わかんねーしっ、陽河……)
陽河に何を返したらいいのか、どう感謝していいのかわからない。いや、返したり感謝したりしていいのかも、わからない。
(どうしたらいいっ、陽河!……俺、どうしたら……)
うずくまって泣くしかできなくなった汐の耳に「カンカンカン」と、外階段を上がる音が聞こえてきた。慌てたようなスピードで上がってきて、途中で「ズリッ」と、滑ったような音がしたけれど、すぐに「カン、カン、カン」と、続く。
その足音の主は、陽河のような気がする。平日の昼間だから、陽河は会社にいるはずだけど……。だから汐は、土日を避けて平日に来ることを選んだはずなんだけど……。
でも、陽河な気がする。
陽河だったらいいと、思ってしまう……。




