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満汐引力 11

『だから、汐さん。汐さんが戻ってきたら、花江さんからも指名が入ると思います。花江さんは、プランナーとして、とても有名な方なんです。そんな人に認められている汐さんは、本当にすごい』


陽河の興奮が、文字からも伝わってくる。汐はなんだか、懐かしいような気持ちで、陽河の文字を追った。


『最近、僕は、久しぶりに楽しい気持ちで仕事に取り組めている気がします。汐さんの担当をしていた時みたいに、ワクワクしている。多分、この案件や関わっている人が、僕だけじゃなくて、汐さんにも合っていると感じているからかも知れません。できれば、直接、伝えられたら良かった』


もし、直接、陽河に会っていたら、陽河はあの頃みたいに、興奮を滲ませながら仕事の説明をしてくれたんだろうか。そう思うと、そんな陽河を見たかったなと、思う。


『汐さん、会って話したいことがたくさんあります。汐さんの顔を見ながら、話したい。会えなくなって1年です。会えませんか。仕事の話だけじゃなくて、これからの事をちゃんと話たいんです。僕が考えていることを聞いてほしい。

 考えていることがたくさんあります。その全部に汐さんが必要です。だからちゃんと、汐さんの意見が聞きたい。

 そろそろ会うことを考えてください。 陽河』


読み終えた陽河の手紙を、汐は封筒にしまった。住所は相変わらず汐のアパートのまま。住んでいるかはわからないけれど、少なくとも陽河は、あのアパートをそのままにしている。


そして、夢みたいな楽しくて嬉しい未来だけじゃなくて、現実的な未来を考えている。陽河の傍に、汐が戻って、生活していくための未来だ。


そのために、陽河はどれぐらいの犠牲を払うつもりでいるのか……。具体的に想像できない分、それが怖い……。


「いつもの定期便?」


同房の小林が尋ねてきたのに、汐は小さく頷いた。


同房者は、汐を含めて5人。元職人で作業が丁寧な初老の男は、本名はわからず、みんなから「棟梁」と呼ばれている。食事の作法に五月蝿くて、汐は刑務所に入ってから、箸の使い方が上達した。それから「俺は騙されたんだ」と言って憚らないIT系出身の酒井、汐よりちょっと年上で無口な佐藤。


小林は「大手製薬会社の経理課長だった」らしい。かなりの金額の横領の罪で逮捕されたと聞いたことがある。小林は他の3人と比べると比較的おしゃべりで、同房者のこともよく見ている。頭がいいようで、何かを説明するときは、陽河みたいにわかりやすく噛み砕いて教えてくれた。


「なんだって?」


「なんか、前に仕事を一緒にやった人が、俺のことを認めてるとかなんとか、そう言うこと」


「へー。そりゃ、出所も楽しみだな」


汐に対して、小林の口調はぞんざいだ。それが汐にとってはありがたい。少し、話しやすい。


「でも、その人の会社は、俺が金を取った会社なんだ。俺が出たって、仕事なんてさせてもらえないよな」


汐が尋ねると「まず無理だろうな」と、本をめくりながら小林は言った。


「もし、その人が、俺の仕事場の家賃とか払ってたらどうなる?」


花江の話にかこつけて、陽河の事を聞いてみる。「あぁ?なんのために?」と、逆に質問された。


「理由はわからないけど、仮に、そうしてたら?」


「法的には問題ないはずだけど、会社としては面白くないだろうな。バレれば、下手すりゃ解雇もあり得るんじゃね」


「解雇って?」


「辞めさせられるってこと、会社を」


「……そう、だよな」


小林の言葉に、汐は落胆する。落胆してから、やっぱり自分は、陽河に期待をしていたのだと気づいた。


陽河を巻き込まないと言いながら、陽河が魔法みたいに全部を解決してくれるんじゃないかと、心のどこかで思っていた気がするのだ。


飯田の家で囲われていた頃、飯田はよく言っていた。飯田の会社は業界では有名で、憧れの的だと。そんな会社のクリエイターである飯田は、才能の塊で、選ばれた人間なんだと。


陽河がそこまで偉ぶった事を思っているわけがないけれど、会社を辞めさせられるのは、陽河だって困るに違いない。それを押して曲げてでも、陽河は、現実的に汐を迎えようとしているのではないか……。今日の手紙を読んだら、そうとしか思えなくて、汐は眉間にシワを寄せた。


(手紙を書こうか、もう、俺に構うなって……)


陽河があのアパートに出入りしているなら、アパート宛に書けばいい。


(手紙も迷惑だって。出所したって、陽河のことは頼らないって……。2度と、会いたくないって……)


そう書かれた手紙を受け取ったら、陽河はどんな顔をするだろう。


(傷つけるかな、陽河のこと……)


汐のために何か力を尽くしてくれているとしたら、それまで拒絶された陽河の落胆は、想像もできない。「あんなに良くしたのに」と、恨まれるかも知れないし、憎まれるかも知れない。


(陽河に嫌われても、陽河が怖い思いや苦しい思いをするより、ずっといいはずだ……)


どうせ、もう会わないのだし……。汐が出所したとしても、外の世界で陽河とすれ違う可能性なんてゼロに近い。陽河は、あの立派な実家に住んで、立派な会社に通って、いい仕事をする。出所後の汐が生きる場所は、そことはかけ離れた所になる。


それに、汐の拒絶が陽河につける傷なんて、きっとすぐに癒えるはずだ。


だって陽河には、立派な両親がいて、ちゃんとした仕事があって、汐は知らなかったけれど、有名な俳優の友人がいて……。汐以外の陽河の知り合いも、みんな、陽河みたいに、ちゃんとした人なんだろう。


古びたアパートのちゃぶ台で仕事をしていた陽河は、本当の陽河ではない。汐の担当にならなければ、あんなアパートの部屋に足を踏み入れることも、一生なかったんじゃないかと思う。


だから、汐が陽河を拒絶しても、大丈夫なのだ。一瞬は傷つくかもしれないけれど、ちゃんとした人たちに囲まれていれば、陽河は、陽河らしい場所に戻っていける。


(俺も、俺らしい場所に、戻されただけなのかも……)


何かのハプニングで、陽河が近くに来てくれて、嬉しいことや楽しいことを与えてくれた。舞い上がって、喜んでいたから、「お前の場所はそこじゃないよ」と、神様が何かが、汐を刑務所に入れたのかもしれない。


汐が、いい気になっていたから……。陽河がくれるものを全部受け取って、陽河が傍にいることを、当たり前に感じ始めていたから……。


(こう言うの、なんて言うんだっけ……。なんかのドラマで『インガオウホウ』とか、言ってた気がする)


漢字は思い出せない。陽河に聞いたら「それは、こう書くんですよ」と、すぐに教えてくれると思う。陽河は、頭がいいから。


(1回だけ、やっぱり、陽河に手紙を書こう。もう、陽河には頼らないって)


それが一番、いいはずだ。陽河のためにも、汐にとっても。


だけど汐には、予感があった。


汐が陽河に拒絶の手紙を送ったとしても、陽河は……。


『大丈夫です、汐さん。僕を信じてください』


そう言って、笑う気がするのだ。







「仮出所は、やっぱり来年の4月でしょうか」


『早くて、4月だと思います』


「承知しました。引き続き、よろしくお願いいたします」


オフィスの廊下で受けた大波からの電話を切り、陽河は深呼吸を一つする。早ければ、あと半年と少しで汐が出所してくるかも知れない。


それは陽河が待ち望んだことではあったけれど、同時に、陽河の生活を大きく変えなければならないリミットでもあった。


(2月末には会社を辞めて、そのまま自分の会社の業務に移るとなると、12月にはオフィス兼住居を決めて、1月中には法人を準備しておく必要がある。会社に退職を申し入れるのは1月初め……)


大波と何度も確認した段取りを、陽河は心の中で繰り返した。


今の業務に加えて、法人設立の準備もしなければならないし、部屋も探さなければならない。ただでさえ睡眠不足なところではあるが、陽河の気持ちは昂っていた。


(4月になれば、汐さんが戻ってくる……)


仮出所に必要なことも、ちゃんと教えてもらっている。仮出所3ヶ月前には、仮出所後の住所情報が必要になるらしい。汐が望めば、陽河のところに問い合わせがくるそうだから、その時にちゃんと住所を準備してく必要がある。だから、オフィス兼住居を決めるのは12月なのだ。


(あとは、仕事の整理と引き継ぎ、新しい会社での仕事の確保だ)


後者が一番の懸念ではある。だけど、自分のためにも汐のためにも、必ず確保しなければならない。


(よし、やろう!)


陽河はやる気をみなぎらせてデスクに戻った。


「陽河さん、見積もり作ったので送っておきました」


隣のデスクに座る萌香からの声がけに「見ておくよ」と陽河は答える。そして引き続き「定時だよ」と続けた。


萌香は入社以降「残業キャンセル界隈」として、アフターシックスを楽しみ尽くしている。その楽しみに、陽河を巻き込もうとしている節があったが、クラブイベントにも異業種交流会にも何かの勉強会にも全く関心を見せない陽河を「つまらない人」と評価したようだ。


どうせ見積もりも中途半端な仕上がりだ。それならそれでいい。今の陽河には、見積もり一つだって、やりがいを感じる作業だ。


帰り支度をしていたはずの萌香の視線を感じて、陽河はふと、顔を上げた。


「何?」


「なんかいいことでもありました?」


探るような萌香の目をチラリと見返して、陽河は「別に」と軽く躱す。だけど、本音ではギクリとした。他人に隠した感情を悟られるのは初めてだ。それぐらい、自分は舞い上がっているのかもしれない。


「嘘ですよね。絶対、いいことありましたよね」


「いいことっていうか、今日は金曜だからね。いい日に違いない」


「ええ?だって陽河さんは、今日も終電まで仕事でしょ?」


「そうだけど、明日が休みだから、いい日だよ」


「たまには週末に、遊んでみたらいいんじゃないですか?陽河さんって、楽しいことなんて全然ないって顔、してますよ。あ、この後、飲み会に来ません?異業種交流会だから、他の会社の人とも知り合えるし、陽河さん有名だから、楽しめますよ」


萌香の言葉に、陽河はモニターから顔を上げた。その口角が、柔らかく上がっていることに、陽河自身は気づいていない。


「楽しみはあるよ」


そう萌香に答えながら、陽河は思う。


(僕は楽しみなんです、汐さん……)


あなたが戻ってくる目処が見えてきた……。


そのことが、本当に楽しみなんです。






面談に呼ばれた。全く知らない担当者が座る小さな机の前に、汐も腰を下ろした。


「今後の処遇について確認します。出所後の生活に関する事項も伺いますが、よろしいですか」


相手の言葉に、汐は「はい」と返事をする。


「出所後の住居についてですが、現時点で考えていることはありますか」


汐は一瞬、答えをためらった。


結局、汐は一度も陽河に返事を書けないまま、陽河の一方的な手紙が続いている。明確な拒絶を伝えられないまま、ここまできてしまった。


これは仮出所に関する面談だ。小林からも「そろそろじゃない?」と、言われていた。


もし陽河に頼る事を選べば、汐は満期より早くここを出ることができる。特にそれを望んでいるわけではないけれど、早く出た挙句、必然的に陽河に会うことができる。きっと陽河は、快く汐を迎えてくれるだろう。


(そうして俺は、また、陽河を巻き込んでいく)


陽河がどこまで考えているかわからないけれど、陽河が汐を守るということは、陽河が自分の会社と敵対することに他ならない。それはきっと、陽河が飯田に逆らったこと以上に、大ごとになるだろう。


陽河なら、それすら分かった上で、汐を守ろうとしそうで、怖い。


「ありません」


答えた直後に、汐は後悔を感じた。だけど、それ以外の回答なんて、あるわけもないと分かっていた。


「更生保護施設や受け入れ可能な施設の案内もできますが」


「……今は、希望しません」


「出所後の就労予定は?」


「今は、ありません」


「仮に、出所の時期を早める選択をとる場合、住居や就労について具体的な確認が必要になります」


「それも、希望しません」


担当者は「わかりました」と頷いた。


「現時点では、そういう意思ということで記録します」


「はい」


「今回は以上です」


立ち上がり、一礼して部屋を出た。刑務官に連れられて房に向かって歩きながら、汐はどんどん自分の中に湧き上がってくる後悔に、押しつぶされそうになる。


何度も何度も、繰り返し考えて、やっぱり陽河を巻き込むのは違うと結論を出した。出所を早めようと思えば、陽河を頼らざるを得ないから、このまま満期を待つ。その後も陽河とは会わない。


「公的な更生保護施設があるから、そこに住んで、就職の世話もしてもらった方がいいんじゃね」


小林は、自分の出所も見据えて色々な事を調べている。そのついでに、汐の出所についてもアドバイスをしてくれているのだ。読んだ方がいい本も教えてくれている。


その小林も、陽河や花江のような「汐の被害者である会社の社員」に頼ることは、相手のためにならないと言っていた。むしろ、自分の身の安全を考えたら、汐を支援するはずがないと。


だけど陽河は、まだ月2回の手紙を続けている。最初の頃は、夢物語みたいな未来の話ばかりだったけれど、最近は、仕事の話が混じるようになった。汐のデザインを褒めてくれている人がいるとか、陽河が新しく手がける案件の方向性が汐に合っているとか。


今後、汐がどんな案件を手掛けたい思っているか、という質問もあった。陽河は、汐がデザインの仕事に戻れると思っているのだ。


少しでも早く汐が出所することを、陽河は待っている。そのための受け皿になろうとしている。


そんな陽河を頼らないと決めたこと……。陽河の意見も聞かずに、満期出所を決めた事……。その後も、陽河を巻き込まずに生きていくこと。


何度、結論づけても、その度に決心が揺らぐ。汐が素直に陽河を頼れば、陽河はきっと喜んでくれると分かっているから。仮に会社で自分の立場が悪くなったとしても「全然大丈夫です、汐さん」と、笑う姿が目に浮かぶ。


出所までの間に、きっと、何度もこんな気分になるだろう。


その度に、汐は心の中で唱えることになる。


(陽河をもう、巻き込まない。俺みたいな犯罪者の人生に、陽河を巻き込んだりしない)


そんな日に限って、陽河からの手紙が届いた。


『汐さん、新しい部屋を決めました。汐さんも気に入ってくれるといいんですけど』


そんな書き出しで始まった陽河の手紙に、汐はハッとした。続く文字で、陽河が決めたという部屋の詳細が綴られいる。それに加えて、陽河が思い描いている生活も垣間見れる。


『場所は、汐さんのアパートの近くです。駅側ではなくてスーパー側。あそこのスーパーは24時間なので、より使い勝手がいいかなと思っています。

 2LDKですから、汐さんと僕で一部屋ずつ使えます。汐さんのPC関連を汐さんの部屋に置くかリビングに置くか、ちょっと迷いますね。できればちゃんとしたプリンタがあった方がいいと思うので、やっぱりリビングを仕事場にしましょうか。

 それから、水回りもなかなかいいですよ。浴室とトイレは別ですし、洗面台も独立しています。洗濯機置き場も別になっています。

 キッチンはちょっと妥協しました。できれば三口コンロにしたかったのですが、二口のところしかなくて。そこだけちょっと気になりますけど、仕方ないですね

 生活する地域は全く変わらないから、汐さんにも安心してもらえると思います。

 調べてみたら、スーパーを通り越した先に別の路線の駅があるんです。そこの前に、ちょっと古いけれど活気のある商店街があることがわかりました。食べ歩きのお店もあるみたいですし、有名な焼き鳥のテイクアウトのお店もあるみたいです。あと古本屋や、広めの公園もあるみたいですよ。

 考えてみると、僕らは本当に仕事ばっかりで、近所を散策してみようとか、思いつきもしなかったですよね。汐さんが戻ってきたら、一緒に商店街を見に行きましょう。

 汐さんが帰ってくるまでに、もっと近所の事を調べておきます。 陽河』


手紙から顔を上げられない汐に、隣で本を読んでいた小林が「定期便、なんだって?」と尋ねてくる。汐は、自分の動揺を悟られないように、気持ちを落ち着けながら口を開く。


「なんか、引越しするみたい」


「へー、転勤かなんかで?」


「多分、違う。前に『そろそろ実家を出なきゃ』って言ってたから、それだと思う」


「その人、都内出身のボンボンかなんか?確か、仕事関係の人だって言ってたよな。東京で20代後半まで実家住まいができるなんて、恵まれてんなぁ」


小林の言葉に、陽河の実家を思い出す。汐の育った地域だったら「お金持ちの子」が住むような、綺麗な家。優しそうな声の母親がお茶を出してくれるような家。もし陽河が望めば、そのままずっと実家暮らしをしても、不都合なんてなさそうな家だ。


あの時、陽河は「そろそろ家を出なければ」と言っていた。汐に「一緒に引っ越そう」と言ってくれた時だ。言い方としては「陽河が実家を出る必要があるから、汐を便乗させる」という感じだったけれど、それだったら、今まで待ちはしなかっただろう。


(陽河は本当に俺と暮らそうとしてるんだ)


そんな実感が押し寄せてきて、体から血の気が引いていく気がした。


汐が刑務所に入ったから、陽河の引越しも伸びた。そして、汐の仮出所のタイミングが見えてきたから、部屋を決めた。「汐さんも気に入ってくれるといい」と言っている通り、汐の事を考えて部屋を選んだ。住む地域も、陽河にとっての便利さより、汐になじみがあるかどうかを優先させたに決まっている。


今回の手紙で、陽河は夢を語るだけでなく、汐を迎える準備を現実的に進めていることがわかった。実際に、汐と住む家まで決めて……。このタイミングで部屋を決めたのだって、汐の仮出所の審議の際に、出所後の居住場所の住所が必要になるとわかっているからだ。


汐の知らないところで、陽河は思った以上に動いてしまっている。前にもらっていた「鍋をしよう」とか「旅行に行こう」という手紙と、この手紙は性質が全く違う。汐を励ますために遠い夢の未来を語るんじゃなくて、汐にちゃんとわからせようとしているのだ。


陽河が、相も変わらず、汐を守ろうとしている事を……。


(どうして、陽河……)


陽河と汐の関わりは、1年にも満たなかった。その間、汐は陽河に、色々なものを与えてもらった。食べ物、着る物、気持ちのいい寝床。汐が興奮できるような仕事も……。そこまでは、あまりにも汐が不憫すぎて見ていられなかったという、陽河の優しさが発揮されたのだと、理解できる。


あの時の「一緒に住みましょう」だって、陽河はあのアパートの惨状を目の当たりにしていたし、飯田が汐に月々微々たるお金しか渡していない事も薄々わかっていただろうから、優しさの延長線上で思いついたと、納得できる。


弁護士の手配も、面会や差し入れの申し出も、陽河は汐が不憫すぎて放って置けないのだろうと思っていた。それを受け入れてしまったら、陽河が手を引きにくくなる、巻き込んでしまうと思ったから、全部拒否してきたのだ。


アパートをそのまま残しているらしい事は、汐にできることがないから放置していたけれど……。


まさか、ここまで現実的に、汐の出所のために動いているとは、思ってもみなかった。


(俺なんて構ったって、なんの得にもならなねぇし……、陽河……)


それどころか、お荷物でしかない。お荷物どころか、出所後の汐の面倒なんてみたら、陽河の会社での立場が悪くなるのだ。


「消灯!」


刑務官の声が響き渡り、汐はハッとして陽河の手紙を封筒にしまう。それを枕の下に入れて、布団の中に仰向けになった。


バチンと音を立てて、明かりが落とされる。辺りが暗くなると、さっき読んでいた手紙の文字がぼんやりと浮かんでくる気がした。


(陽河、どうして……?)


どうして陽河が、ここまで汐を構おうとするのかわからない。まさか陽河は、出所後の汐を支援することで、会社との折り合いが悪くなることに気づいてないのだろうか。仮にそうだとしても、汐が出所後すぐ、仕事なんてできないことぐらいは想像がついているはずだ。それとも、出所さえすれば花江から仕事がくると、本気で思っているのだろうか。


汐のデザインが褒められたとかで、稼げると踏んだ……?陽河が……?


(陽河って、そんな甘ちゃんだったか?)


確かに、なんでも「大丈夫です」と笑っていたし、同居の話をした時も、「なんとかなる気がしているんですよ」と、軽く考えている節はあった。だけどその時だって、飯田が社員のプライベートに口出しをしたら「会社で問題になる」と、むしろ会社があるからこそ自分たちは守られるのだと、わかっている風だったし……。飯田が来た時だって「コンプライアンス違反です」と、飯田を押し留めていた。法律じゃなくて、陽河は「会社」を盾にして汐を守ってくれた。


会社というものの大きさを知っているのは、汐よりも陽河の方だったはずだ。


(何、考えてる、陽河……)


陽河のことだから、部屋だって見もせず決めたわけじゃないだろう。多分、本人が言っていた性格通り、「迷いに迷って」、最後に「ここなら!」と決めたはずだ。


汐には想像もつかないけれど、多分、汐のアパートとは比べ物にならないぐらい綺麗な部屋に違いない。部屋をひとつひとつ確かめて、手紙に書いていたような生活を思い浮かべながら、それが実現できるかどうかをチェックして。何軒も見て回ったのかもしれない。


『ここなら、いいな』


ほっとしたような表情を浮かべる陽河が目に浮かぶ。


ここなら、汐にとっていいはずだ。ここなら、汐も満足するはずだ。ここなら、汐も安心して暮らせるはずだ、そう確信できて、安堵する陽河の表情は、簡単に思い浮かぶ。


(お前、なんで……、わけわかんねーし……)


薄い掛け布団に潜り込んで、汐はぎゅっと、体を縮こませた。







「お父さんとお母さんに、話があるんだけれど」


12月の半ば、土曜の夕食時に、陽河は切り出した。


ダイニングテーブルに並んで座る父母の視線が、同時に陽河に向けられる。


「なんだ」


父に促されて、陽河は手にしていた箸を置いた。


「会社を辞めて独立します。2月いっぱいで退職して、3月からは自分の会社でやっていくつもり」


両親にとっては寝耳に水だっただろう。先に「独立って、どうして?」と尋ねてきたのは、母だった。


「お給料もいいし、きちんとした会社じゃないの。そりゃ、随分、残業が多いとは思うけど、若いうちの我慢なんじゃないの?」


母の言葉に、陽河は苦笑を漏らす。


「残業が問題なんじゃないよ。独立したら、むしろ、今以上に忙しくなるかもしれない」


「何か、やりたいことでもあるのか?」


父の質問は、想定内だ。


「今の会社だと、部署とか立場に縛られて、業務の範囲が狭くなりがちなんだ。その中でも、比較的自由に仕事に携わらせてもらっているけれど、もっと広げていきたくて」


「だったら、別部署で経験を積む方がいいじゃないのか?希望は出せるだろう」


「そうなると、その部署の仕事に終始することになっちゃうから。今やれているような業務は続けつつ、新しいことにチャレンジしていくつもり」


「そうか。引き継ぎなどはきちんとやって、頑張りなさい」


父は驚くほどあっさりしていた。母は「お父さん!」と、何か言いた気だったが、父は「陽河が決めたことだ」と一蹴した。


「それで、独立に際して、実家を出ようと思います。これまで、大変お世話になりました」


陽河が頭を下げると、母が慌てた。


「独立した挙句に一人暮らしなんて……。お仕事が忙しくなるなら、せめて落ち着くのを待ったら?」


「会社を独立するのに実家に寄生してるんじゃ、話にならんだろう」


「でも、お父さん!」


「それも陽河が決めたんだ。好きにさせてやりなさい」


母はため息を吐いたが、陽河の独立も一人暮らしも、拍子抜けするぐらい簡単に認められた。むしろ「実家に寄生」というのは父の本音だろうと、陽河は思う。ご時世とは言え、父からしたら、いつまでも実家を出ようとしない陽河の方が心配だったのかもしれない。


食事を終えて自室に戻った陽河は、ベッドに腰掛けて部屋の中を見回した。ここで生活するのも、あと1ヶ月ちょっとになる。大半のものは置いていくことになるし、父母のことだから陽河の部屋は残したままにするだろうけれど、少し寂しさを感じた。


(汐さんに会わなかったら、僕は会社を辞める事も、実家を出ることも、考えなかったかもしれないな)


母が言う通り、いい会社だ。少なくとも10年は勤めただろうし、定年までいたって問題なかったかもしれない。実家はいずれ出ることを考えたかもしれないが、ここまで必要に迫られることがなければ、ずっと実家で暮らした可能性もある。


(あとは会社に退職を伝えて……。そうしたら、新会社の登記作業を開始する。今の会社の口座も問題なく開けそうだし……)


事前に独立を相談した花江からは、4月から始まるいくつかの案件に外部のプロデューサーとしての参加を打診されている。そのため、口座開設はプランニング局から申請を出してもらえる予定だ。


1月の初めに正式に退職の意向を伝えれば、2月の中頃からの有給が認められるはずだ。そのあたりで法人の登記と引越しを行なって、3月いっぱいの有給消化期間から新会社として動き始める。


(そうすれば、汐さんがいつ戻ってきても大丈夫だ)


思わず「長かったなぁ……」と、声が出た。


汐が逮捕されてから、もうすぐ2年だ。あれ以来、一度もちゃんと顔を見れていない。話もできていない。手紙さえ返ってこない。


だけど、伝えてきた。汐が唯一、拒否していない手紙の形で。読んでいない可能性もあるけれど、手紙を書き続けたことには意味があると、陽河は感じていた。


汐を待つという陽河の意思は、一度もブレていない。汐が戻ってきた時に、その受け皿になるという覚悟もだ。その確認のためにも、手紙を書き続けて良かったと思うのだ。


それに、仮に今、汐が手紙を読んでいなかったとしても、仮出所の可能性が出てくれば、汐だって外で頼れる相手は誰かと考え出すはずだ。汐にとって、そんな相手は陽河しかいない。そうなれば、改めて手紙の存在を思い出すだろう。


汐のアパートの住所も書いてきたし、陽河が家を出れば、新居の住所で手紙を出せる。そこが汐の戻る場所だと、伝えられる。


(どんな風になってるんだろう。下手すりゃ、髪が短くてヒゲがない汐さんのこと、汐さんだってわからないかも知れないな)


そんなことを考えつく余裕も出てきた。出所の時には迎えに行くつもりでいるけれど、汐の顔がわからなくて戸惑うかもしれないと、苦笑が漏れる。


早ければ4月に、汐は戻ってくる。そうすれば、来年の汐の誕生日は、手紙で宣言した通り、盛大に祝ってやれる。その頃には少しモジャモジャのむく犬に戻ってしまっているかも知れないけれど、また、汐が喜ぶ様子が見られる。


(汐さんが戻ってきたら、まずはゆっくりして貰おう。誕生日もそうだけど、ちょっとしたイベントを多くやってあげたいな)


汐が子供の頃に享受すべきだった喜びや楽しみを、たくさん経験してほしい。そして、飯田に搾取されずに、本来なら汐が受け取るべきだった全部を、取り戻してほしい。


(そのための準備は、もう万全です、汐さん!)


だから早く、戻ってきてほしいと、陽河は切に願っていた。

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