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満汐引力 10

クライアントからのメールを確認していた陽河は、デスクの上で鳴ったスマホを手に取る。木島からだった。


「もしもしー?」


『あ、旭?お前、明日の夜、暇?』


木島はこの春、入社以降、留め置かれていたクリエイティブ局から営業局に移動となった。特にネガティブな理由ではなく、むしろ飯田のせいで止まっていた人事異動が順当に動き出したという感じだ。


新卒3年の間に3つの局を移動した陽河と違い、木島は営業局に移ったことで、これまで3年間在籍したクリエイティブ局の仕事とのギャップに戸惑っているらしい。入社4年目ともなると新卒相手のような手取り足取りの指導というわけにもいかないのか、フラストレーションを溜めがちのようだ。


週に1回は、飲みの誘いをかけてくる。申し訳ないと思いつつも、陽河が応えるのは3回に1回の頻度だ。


「残念だけど、暇じゃない」


『何がそんなに忙しいんだよー!』


「色々あるんだよ」


電話口で喚く木島を軽くいなしながら、陽河はクライアントのメールに了承の返信を送り、帰り支度を始める。


『明日、横手さんと飲もうと思っててさ。どうせなら、花江さんとか旭も一緒にって、思ったんだ』


汐が手がけたメイセア化粧品の撮影を担当してくれた横手や、案件を仕切ってくれた花江の名前に、陽河は一瞬、カバンにPCを入れる手を止めた。


あの撮影現場で、横手には本当に助けられた。花江には現在進行形で別案件で世話になっている。木島の誘いに乗ろうかとも思ったが、やはり、やめた。


「明日の誘いを、今日、言うなよ。また今度な」


『わーったよ!じゃあ、またな』


木島は駄々をこねるでもなく、電話を切った。陽河はデスクから立ち上がると、局内を見回す。局内には、まだ数人の人が残っていたが、陽河が座るデスクの島には誰も残っていない。


終電ギリギリの時間だから、こんなものだ。


社を出た陽河は、急いで駅に向かう。そして、いつもの電車に乗って、汐のアパートの最寄駅で降りた。途中のコンビニで夕飯を見繕い、汐のアパートに向かう。


カギもついていないポストから、雑に入れられたチラシ類を抜き取り、階段を上がり、汐の部屋へ。


「ただいま」


カギを開けて、電気を点けながら帰宅を告げる。返事がないことは分かりきっていた。


汐が逮捕されてから7ヶ月。判決が出てから6ヶ月が経った。汐は今、刑務所に収監されている。


居住者のいなくなったこの部屋を、今は陽河が維持していた。「代理で賃料を払う」という申し出を、管理会社は断らない。支払い方法は、汐の口座引き落としから、振り込み用紙に変わったので、その他の光熱費などと合わせて、陽河が支払っている。


住むことは許されていないから、月に2回程度、部屋の掃除のために訪れている。警察が押収していった汐の所有物も、早々にこの部屋に返された。大波が国選弁護人と調整してくれたおかげだ。


ちゃぶ台を開いて、コンビニで買ってきた弁当を置く。弁当は一人分。正面に汐の姿はない。


陽河は黙々と食事をした。毎回、味けなさにびっくりするけれど、陽河が出会う前の汐の食事も、こんなものだったろうと思えた。


食事を終えて、陽河はちゃぶ台の上を片付けると、便箋とペンを取り出す。月に2回、ここでだけ、汐に手紙を書くことにしていた。


今の陽河にとって一番楽しい時間だ。思う存分、汐のことを考えることができる。


面会も差し入れも、最初から拒否されたけれど、手紙だけは返送されてこない。「それはけして、受け取っていることや、読んでいることとイコールではない」と、大波から言われているけれど、汐が読んでくれているのではないかという期待は抑えられない。


「汐さん」


最初の呼びかけを書く時、本当に気持ちがこもる。音として口からも漏れてしまう。すぐ傍で、続く陽河の言葉を待っている汐の姿が思い浮かぶ。


「季節は秋なはずなのに、まだまだ昼間は暑いですね。夜の蒸し暑さは少し楽になった気がしますけど、体調は大丈夫ですか?

 そろそろ上着を出さなきゃなと思っています。去年買った汐さんのブルゾンもクリーニングから戻ってきているので、ちゃんとしまっています。でも、秋冬の服がまだまだ足りないですね。似合いそうな服をいくつか見ているんですけど、汐さんの好みに合うかわからなくて、買っていいものかどうか」


汐と一緒に服を買いに行く想像をする。刑務所ではヒゲや長髪が許されないそうだけれど、戻ってきたら、また、モジャモジャに戻ってしまうだろうか。そんな汐に似合う服を選ぼうと思っても、なかなか難しいなと苦笑が漏れた。


(どんな顔をしてるんだろう)


刑務所ではマストでヒゲや髪を整えられると知ってから、そんな汐の姿を何度も思い浮かべようとした。だけど全然、想像がつかない。思い浮かぶのはやっぱり、むく犬のような汐だけだ。


(会いたい、汐さん……)


そう思ってしまうと、ダメだ。手紙を書く時は、できるだけテンションを保ちたいと思っているけれど、このままでは湿っぽくなってしまう。


「新しい服を買ったら、どこかに出掛けてみたいですね。夏は屋内にいないと熱中症が怖いけれど、秋は自然に触れたいですね。この間、東北の方の牧場の動画を見たんです。動物もたくさんいて、牛乳を絞る体験ができたり、美味しいソフトクリームがあるんだそうです。楽しそうですよね」


そこまで無心に書いて、牧場ではしゃぐ汐を想像する。似合う服を選ぶのは難しいと思ったけれど、辛子色のブルゾンに、グリーンのマフラーを巻いた汐が、すんなりと思い浮かんだ。


(汐さんは、動物は大丈夫かな。苦手なら、ソフトクリームとか、焼き芋とかの食い倒れだな。夜は近くの宿に泊まって、やっぱり温泉か)


温泉宿は、これでもかというほどテーブルに料理が並ぶ。そんな光景を見たら、汐は口を大きく開いて驚くに決まっている。


「汐さんと、楽しいことをたくさんできるように準備していますから、どうか、楽しみにしていてください。 陽河」


陽河は、書き終えた手紙を避けて、封筒を取り出す。刑務所が宛先なのは、毎回、悲しい気持ちになるけれど、そこに必ず汐がいる安心感も感じていた。


手紙を封筒に入れて、封をし、切手を貼る。これで明日、ポストに入れればいい。


カバンに手紙を入れると、陽河は長いため息を吐いた。


汐に手紙を書くのは、楽しい。だけど、書き終えた後に感じる寂しさは、桁違いだ。汐が逮捕されていなければ、夕食のタイミングで軽く話せるような内容を、時間をかけて文字にしなければならない。その上、汐からの返事も聞けないのだ。


そんな状況にも、慣れつつあるけれど……。汐が刑務所で、どんな生活を送っているかという心配は尽きない。


大波によると、汐が入っている刑務所は、比較的穏やかな施設らしい。きっと汐は雑居房で、数人と共同生活を送っている。刑務作業も退屈ではあるかもしれないが、厳しいものではないらしい。1日3食、風呂は週に2〜3回。


同室者に嫌がらせをされたり、刑務官が横暴だったりしないかと心配する陽河に、大波は「それはドラマの見過ぎです」と、微笑んだ。


「基本的に、同室者に対しても、皆、無関心なものですよ。自由時間もそうないですしね」


大波のおかげで、刑務所での汐のタイムスケジュールは正確に把握できた。だからといって、心配事がなくなるわけではない。


(何もできることは、ないんだ……)


何度も確認した事実を、陽河はまた、自分に言い聞かせる。刑務所にいる汐に対しては、読んでもらえているかもわからない手紙を書くことが、精一杯だ。


その代わり、汐が刑務所から出るまでの間に、陽河にはしなければならないことがたくさんあった。


汐の刑期は2年8ヶ月。汐が刑務所内で問題を起こさなければ、仮釈放は2年弱ではないかと、大波は予想している。汐が服役して6ヶ月だから、残り1年半。それまでに、汐が安心して暮らせる用意を整えなければならない。


陽河は、汐を1人にするつもりなんて、さらさらないのだ。約束からだいぶ時間が経ってしまうけれど、一緒に暮らすつもりでいる。仮に汐が、それを嫌がるようなら、最悪、このアパートに戻ってもらう。そのためだけに、このアパートを維持しているのだ。


そしてもし、汐が陽河と暮らすことを了承してくれるなら……。


陽河はそれまでに、会社を辞めて独立することを考えていた。法的に見れば、汐は陽河の会社に被害をもたらした人間だ。その汐を支援することは、会社から見て利益相反と取られかねない。そうなれば、会社内で陽河の立場は微妙なものになる。


それなら、いっそ独立してしまった方が自由度が高い。


このアパートを維持したいと相談した時に、大波からの指摘で気がつけた事実だ。


6年目での独立は、業界的に見ても早い方だろう。独立して仕事が来るかという不安がないわけではない。


正直、俳優の廃業を決めた時よりも重い決断だった。俳優を辞めると決めた陽河には、他の学生と同様に就職活動をするという道があり、「元俳優」という名刺代りの肩書きも、他の学生たちに劣らない学歴もあった。


その頃に比べると、社会人となった陽河の売りは、あまりに少ない。


だから、がむしゃらに仕事をしている。休日らしい休日は、月に2日。汐の部屋で過ごす日だけと決めている。呼ばれれば、どんなプロジェクトにも参加した。1日のミーティング本数が6本を超える日もある。それが全て別プロジェクトだったりすると、頭の芯が痺れるような感覚を覚えるほどの疲労感だ。


提案書を作り、プレゼンをする。獲得した案件の進行を管理し、見積もりを更新する。その合間に制作のスケジュールを立て、キャスティングを行い、撮影の段取りを組む。


この半年間で、過去3年の業務量なんて、とっくに超えたんじゃないかと思うほどに、忙しい。


汐のことを思い出さない日もある。映像撮影日の前後など、徹夜続きで、自分が何をこなしているのかさえ、定かじゃない時もあった。


残業代が増えたのはありがたい。汐のアパートや光熱費を支払っても余裕がある。「汐の刻参り」をしていた時は、汐にかかる経費を切るわけにいかなくて、残業代もほぼない中、全て自腹で賄っていた。


それでも、汐が喜んでいたから、全部チャラにできた。陽河が何かを差し出すたびに、見えない尻尾をビュンビュン振っていそうな汐を見るために費やすなら、惜しくもなかった。


「汐さん……」


ちゃぶ台に突っ伏して、汐の名前を呼ぶ。刑務所は21:00には就寝だそうだから、汐はもう、眠っているだろう。規則正しい呼吸で、穏やかに眠っている汐を想像する。その頭を撫でてやる。短い髪の汐なんて想像できないから、陽河の手の中には、モジャモジャの髪の感触が蘇った。


あのむく犬に、心地いい寝床を与えて、不安のない朝を迎えさせたい。ちゃんと食事を摂って、自分の意思でタイムスケジュールを決めて、仕事に疲れたら、甘い物でも食べながら、ちょっと休憩をする。気分転換に散歩に出かけたりもいい。


そうして、また仕事をして、夜には食事に舌鼓を打つ。眠る前には湯船に浸かって、洗った髪はちゃんとドライヤーで乾かして、また、心地のいい寝床に潜り込む。


そんな普通の1日を送る汐を見ていたい。


(必ず、叶えます、汐さん……)


毎日、毎日、汐を喜ばすことが起きるわけじゃないけれど、それでも汐は、幸せそうにいてくれると思う。


(汐さん……)


顔の作りも表情もわからない、モジャモジャの汐の表情を窺っているうちに、陽河は眠りに落ちていった。






『汐さん』


陽河の手紙は、文字なのに陽河の声で聞こえてくる。


『昨日、こっちでは雪が積もりました。すぐに溶けましたけど、翌朝は道路が凍っていて、滑って転んでしまいました。駅の近くだったので、たくさんの人に見られてしまって、正直、恥ずかしかったです』


一瞬、怪我をしなかったか心配になったけれど、『人に見られて恥ずかしい』と言っているぐらいだから、大丈夫だったのだろうと、汐は思う。


(どんな顔してたのかな)


陽河が汐の前で、慌てたり恥ずかしがるようなことは起きなかったから、どんな表情なのか想像がつかない。


(ああ、でも、クリスマスの時は、玄関に引っかかって、ちょっと慌ててたっけ)


思い出して、汐は「クスッ」と笑う。両手にいっぱいの荷物を抱えてやってきた陽河は、クリスマスパーティーをしてくれた。チキンは美味しかったし、『パイを崩して食べるんですよ』と言って、汐だけのメニューを差し出してくれた。


あの日、陽河は珍しくお酒を飲んでいたけれど、そういえば、ほとんど何も食べなかった気がする。汐が食べているのを、ただ見ていた。優しい表情だったのを思い出す。


(お寿司の時もだ……)


その後、飯田がやってきて、ひどいことになったけれど……。


陽河は真っ赤な顔で「ゲットしました!」と言って、見せてくれたお寿司を、一つ残らず汐に食べさせてくれた。醤油の付け方がわからない汐のために、ちゃんと醤油もつけてくれて。美味しくて美味しくて、びっくりしている汐を見て、陽河の方が嬉しそうな顔をしていた。


お寿司でお腹が膨れた汐の頭を、ずっと撫でてくれて。陽河と出会ってから、嬉しいことや楽しいことはたくさんありすぎたけれど、あの時間は、汐が生きてきた中で、一番幸せな時間だったと思う。


『そう言えば、ちゃんとした鍋をやってなかったですよね。最近は、トマト鍋とか変わった鍋がはやってるみたいですけど、僕は定番の寄せ鍋が好きかな。そうだ、大きな土鍋とガスコンロを買っておきます。小さい鍋もあるみたいだけど、色々な具材をいっぱい入れて、グツグツしてるのが鍋の醍醐味ですから、土鍋は大きい方がいい。1日じゃ食べきれないから、次の日も鍋になっちゃうかもしれませんけど、いいですよね』


言いながら、陽河が汐の顔を覗き込む。陽河がそう言うなら、汐に異存なんてあるわけがない。


『土鍋を買ったら、しょっちゅう鍋になっちゃうかもしれませんけど、色々なのを試してみましょう。僕、食べたことがないんですけど、石狩り鍋が美味しそうだなって前から思ってるんです。あと、あんこう鍋も。

 汐さんは、好きな鍋とか、食べてみたい鍋、ありませんか?教えてもらえたら、作り方を調べておきます』


汐がもし、食べてみたい鍋をあげたら、陽河はきっと、色々な作り方を調べてくれるんだろう。そして「これだ!」というものを見つけ出して、汐のために準備してくれるのだ。


(でも、陽河……、俺はもう、お前を巻き込まないんだって……)


ひたすら明るく、楽しみな未来を書いている陽河は、本当に気づいていないのだろうか。汐が陽河を巻き込まないために、面会も差し入れも拒否していることを。


それとも気づいていて、気づいていないフリをしているんだろうか。


月に2回、きっちり届く陽河の手紙。差出人のところに書かれている住所は、変わらず汐のアパートのまま。もしかしたら陽河は、あのアパートに住んでいたりするのだろうか。


(陽河、ダメだって……)


汐がそう言ったら、陽河はきっと「大丈夫です」と笑うだろう。「大丈夫です、汐さん。僕に任せてください」と。そして本当に、大丈夫にしてくれるんじゃないかと、信じてしまいそうになる。


だけど、汐が刑務所に入った事実は、消しようがないはずだ。刑務所を出ても、汐は普通の仕事にも就けないに違いない。今までみたいなデザインの仕事なんて誰にももらえないだろうし、コンビニのバイトだって、難しい可能性がある。


そんな汐を、陽河は、抱え込もうとしている気がする。


『汐さんと鍋をするのが楽しみです。 陽河』


最後に書かれた陽河の名前が、涙で滲んでしまう。汐は作業着の袖で目元を拭った。


陽河が楽しみにしているなら、それを叶えたいと思う。だけど叶えちゃいけないことはわかっている。


『楽しみですね、汐さん!』


汐がうなずくと信じている陽河の笑顔を、曇らせることになるのかと思うと、本当に辛い。


刑務所に入ったことよりも、逮捕されたことよりも、何よりも……。


それが本当に、辛くて仕方ない。







入社5年目の4月以降も、陽河は変わらず、クリエイティブ局に席を置いていた。変化といえば、新卒の女性社員が下についたことだ。


課長から「頼むな」と言われた時、正直、断りたかった。陽河自身、人の面倒を見ている余裕なんてなかったし、同じ案件を一緒に回すとなると、新卒をフロントに出して業務に慣れさせる必要が出てくる。陽河が独立を視野に入れて培ってきた人間関係を分配することになる気がして、不本意な気分になった。


だけど昨今、組織の中での出世のためには、マネジメント能力も見られるようになった。独立を考えていることを悟られないためにも、「チャンス!」という顔をしないわけにはいかない。


さらに面倒なのは、下についた新卒の経歴だ。10代後半から雑誌の読モになり「高学歴タレント」としてバラエティ番組にも出ていたらしい。


「タレントから一般の社会人になった先輩として、他の人にはわからない悩みなんかにも答えられるだろう」


もっともらしいことを付け加えられては、受け入れるしかなかった。


その新卒社員、椎名萌香を伴って、陽河は一つ階下のプランニング局に向かう。2人揃ってエレベーターホールでエレベーターを待っていると、なんだか周囲の視線が気になった。


陽河が入社したばかりの頃にも、こんな視線が集まったものだ。羨望ともやっかみともつかない好奇の目。どうやら萌香が見られているらしい。


「1ヶ月も経たないうちに、みんな慣れるよ」


陽河が言うと、萌香は「見られることは慣れているので、気にしてないです」と、笑った。


「それより陽河さん、次って何の打ち合わせですか?」


「月曜のミーティングで伝えたと思うけど、次は制作局主導の舞台のプロモーションのキックオフね」


週初めのミーティングで、その週の大まかな予定は伝えているし、共有しているカレンダーにもざっくり概要が入っている。入社してまだ半月とは言え、スケジュールぐらいは把握してもらわないと困る。


(それに、服装がな……)


クリエイティブ局は比較的服装が自由とはいえ、布を纏っていればなんでもいいというわけではない。スカートが短すぎるのではないかという指摘を陽河がしたら、セクハラになるだろうか。


(なるんだろうなぁ)


陽河は小さくため息を吐く。新卒の服装が気になったり、自分の行動がハラスメントか気になったり。なんだか気分はおじさんだ。


(いや、おじさんなぐらいでちょうどいい。僕は若く見られがちだから)


見た目が全てとは思わないけれど、独立するからには、もう少し大人っぽい見た目の方が、いいかもしれない。


陽河がそんなことを考えていると、「陽河さんはゴールデンウィークどうするんですか?」と萌香に聞かれた。


「僕は休まない。クライアントのポプアップイベントがあるから」


「ええ?彼女さんが怒りません?」


「いないから、怒られないね」


「嘘!彼女いないんですか?」


少し大きい萌香の声に、オープンエリアの何人かが振り返るのが見えた。さすがの陽河も、あからさまにため息を吐く。


「他人のプライバシーを吹聴しないようにね」


ちょっと嫌味っぽかったかなと思ったが、萌香は「すみません」と肩をすくめただけだ。


会議室に入ると、奥に花江が座っていた。その隣に、舞台の制作を主導する制作局の面々、それから制作に名を連ねる芸能事務所の担当者。そのうちの1名を見て、陽河は笑顔になった。


「相澤さん!」


「陽河、久しぶり」


陽河が所属していた事務所で、舞台の制作を一手に引き受けていた相澤が手を振っている。


「うちの事務所の作品だって知った時から、きっと担当は相澤さんだと思ってました!」


言ってから、陽河はハッとする。


「『うちの事務所』は違いますね。元事務所、だ」


「構わんさ。卒業したって、教え子はいつまで経っても教え子だ。陽河がプロデューサーとして入ってくれると聞いて、楽しみにしていた」


「お役に立てるように頑張ります」


2人が握手をしたところで「旧交が温まったようだし、ミーティングを始めますか」と、花江が場を仕切りに入ってくれた。


俳優として舞台経験は何度もあるが、プロモーションを担当するのは初めてだ。花江はどうやら、相澤と組んでのプロモーションに慣れているらしく、話がサクサクと進んでいく。陽河はチャットシステムに打ち合わせ内容をメモしながら、大事な部分は手元のスケジュール帳にコメントを残す。


「では、早急にスケジュールを組み立てます。旭、頼めるか」


「はい!不明な点は、都度、確認させてください」


陽河は、久しぶりにワクワクする感覚を覚えていた。ドラマや映画などの映像作品ももちろん好きだが、陽河は舞台の方にやりがいを感じていた。裏方とはいえ、またあの興奮する現場に関われるのが嬉しい。


「陽河、何かあったら、遠慮せずに連絡して」


会議室を出る間際、相澤は、そう言い残して行ってくれた。


「さてと……、問題は、誰をシーディーに立てるかってことだ。作品のトンマナを考えると、『あいつ』に頼みたいところなんだけど、旭、『あいつ』は、まだなんだよな」


花江の言葉に、陽河は「はい」と頷く。花江がいう『あいつ』とは、汐のことだ。花江は本当に汐を買ってくれている。汐が戻ってきたら、花江が一番のお得意様になるかもしれない。


「じゃあ、まぁ、他を何人か当たってくれ」


「わかりました」


陽河は頷き、席を立った。


会議室を出ると「あいつって、誰ですか?」と萌香が尋ねてくる。


「花江さんが気に入ってくださっている、外部のクリエイターさん。今はちょっとお休みを取られてるんだ」


「なんで休んでるんですか?」


「それはプライベートなことだから、僕にもわからない」


そんな言葉で誤魔化しながら、陽河は自局に足早に戻る。今回のプロモーションは、とても魅力的だし、大きな案件だ。


(それに、事務所との関係が良好なら、独立後も別の作品に定期的に呼んでもらえるかも)


そんな期待があるから、気合が入る。早くスケジュールを組み立てて、段取りを進めたい。


「椎名さんは、作品のトンマナに合いそうなクリエイターさんをピックアップしてくれるかな」


「いつまでですか?私、今日は定時で上がりたいんですけれど」


「……」


(『今日は』じゃなくて『今日も』だろ)


などと思っても口には出せない。


「じゃあ、今週中を目処に。その代わりと言ってはなんだけど、リストアップに加えて1ページ1名の形で、パワーポイントの資料もまとめて」


「了解です!」


それから陽河は、長期にわたる暫定の制作スケジュールを組み立てた。萌香は定時を待って「お先します」と帰って行った。


(このボリュームだと、スケジュールを立てるだけでも数時間の作業だな)


一旦、関係者全員が入ったチャットにスケジュールを送り、陽河は椅子の背もたれに背中を預ける。制作物も多くて細かすぎるから、集中力も要した。


(でも、汐さんに報告できることができた)


汐のデザインを、花江が変わらず評価してくれていることを知れば、きっと汐も喜ぶだろう。


(今週末は汐さんのアパートに行く日だし。たまには仕事のことを手紙に書いても、いいよな)


陽河はスマホで時計を確認する。終電まであと2時間。別件のメールを読み込むか、帰るか、迷う時間だ。


「……もうちょっとやるか」


陽河は「うーん」と腕を伸ばすと、メールアプリを開いた。

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