満汐引力 01
「君には、寺岡くんの担当になってもらうね」
クリエイティブ局長に言われて、旭陽河は元気よく「ハイっ!」と返事をした。返事をしてから「担当とはなんぞ?」と思ったけれど、返事をしてしまった手前、「担当とはなんですか?」とは聞けなかった。
「じゃあ、汐、今後は旭くんの指示で動いて」
「……」
陽河の目の前にいる、ヒゲ面で、ガリガリの貧相な体の男が頷いた。だから「寺岡くん」と言うのが「汐」と呼ばれた人で、その担当が自分なんだなと、陽河は理解する。
でも、担当とは、なんぞ?
「じゃあ、後はよろしく」
そう言って、クリエイティブ局長の飯田は、アパートの一室としか呼べないこの部屋を出て行こうとした。呼び止めて「担当とはなんですか?」と聞きたかったけれど、入社3年目で、さらに本日付でクリエイティブ局デザイン部プロデュース課に配属された陽河としては、「お疲れ様です!」と、腰を90度に曲げて、飯田に挨拶をするしかない。
「ああ、そうだ」
飯田が立ち止まって振り返った時、陽河は「説明を忘れていた」という一言が、その口から出るものと思っていたが……。
「汐、旭くんはかっこいいだろう?学生時代、テレビドラマにいっぱい出演してたんだよ。元俳優さんだ」
「……」
何故か飯田は、汐に陽河の経歴を説明をした。陽河が戸惑っているのも気にせず、飯田は楽しそうで、汐は無反応だ。
「いくら俳優上がりでかっこいいからって、旭くんに、昔の癖を出しちゃダメだぞ」
意味こそ陽河にはわからないけれど、なんとなく不穏な言葉を、飯田は口にする。それに対する汐の反応は、明確な「チッ!」という舌打ちだった。
その汐の舌打ちに、陽河は飯田が激怒するのではと震え上がったが……。飯田は愉快そう笑いながら、アパートから出て行っただけだった。
「……」
飯田が出て行ったドアと無言で向き合っている汐は、多分、ドアを睨みつけているのだと思う。目元まで前髪がかかっていて、定かではないけれど……。
「あの……、改めまして、旭陽河です」
「……」
陽河の挨拶は、見事に無視された。汐はクルッと体の方向を変えると、ドスドスとリノリウムの床を歩いて、PCモニターの前のイスにドカッと座った。
「あのぉ……」
このままでは、飯田の言った「担当」の意味がわからないままだ。意を決して陽河が汐に声をかけると「今の案件は、前の担当さんから指示来てる。明日にはできるから」と、案件の進捗を伝えられた。
「えっと、でしたら僕は、明日、それを、どうすれば?」
「メールで送るから、飯田に出して」
「なんと言って、出せば?」
何せ、陽河はその案件が何の案件で、どんなものが上がってくるのか把握していないのだ。恐る恐る尋ねると、汐はモニターの陰から「出せば、飯田がわかるから」とだけ、言った。
「はあ」
「ってことだから、今日はもう、いいし」
「はぁ……」
「……」
「……」
「帰っていいよって、言ってる」
「あ、そういうことですか」
思わず間抜けな反応をしてしまったけれど、モニターと向き合っている汐は、なんの返事もしてくれない。
仕方がないので、陽河は「じゃあ、よろしくお願いします」と、何をお願いしているのかもわからないのに定型文的な挨拶をし、アパートの玄関を開け「お邪魔しました」と言って、玄関を出てしまった。
外に出てから、改めて思う。
「で、担当とは、なんぞや?」
「『汐の刻参り』の担当が、旭くんになるとはねぇ」
課内で開かれた陽河の歓迎会で、先輩社員にそう言われた。
「汐の刻参り?」
「そう。寺岡汐の担当のこと、俺らはそう呼んでんの」
「あー、なるほど。『汐の刻参り』、ですか」
言い得て妙だと、陽河は思う。あのアパートは陰気臭く、当の寺岡汐も、輪をかけて陰気だ。まさに丑の刻参りの雰囲気と言っていい。
「その『汐の刻参り』ですけど、具体的には、何をすればいいんですか?」
陽河が尋ねると、「具体的には、何もしないかな」と、先輩社員は笑う。
「局長から案件の指示が飛んでくるから、それをメールで汐さんに送ると、期日より前に上がってくるから、それを局長に転送する。ほぼ、それが仕事」
「え?」
陽河が驚くと、「まぁ、汐さん、デザインの才能だけはピカイチだから、任せたら勝手に上がってくるのよ、デザインが。一応、ご機嫌伺いというか、様子見ぐらいは、毎日行くってことにはなってるけど、前任者も汐さんのところに行くフリして、毎日、フラフラ遊んでたからね」と、さらに驚きの情報がもたらされた。
「それって仕事なんでしょうか」
広告代理店のクリエイティブ部門のプロデューサーといえば、複数人のクリエイターをアサインし、その一癖も二癖もあるクリエイターをコントロールしながら、クライアントの期待に応える広告を作り出す、という、胃に穴が開くこと必至な部署と考えていた陽河からすると、期待はずれもいいところだ。
そうやって経験を積んで、次のキャリアに進んで行こうと思っていたのに……。
そんな陽河の嘆きが表情に出ていたのか「あ、キャリアの心配はしなくていいよ」と、別の先輩が口を挟んだ。
「『汐の刻参り』の担当は、3年経ったら担当を外れて、そこから部内で、爆速出世コースを進んでいくのが既定路線だから」
「なんでです?」
3年間フラフラ遊んだ挙句、その後は出世コースに乗れるという胡散臭い謳い文句に、陽河の眉間にシワがよる。すると、周りで別の話に興じていたはずの課内の別の先輩たちも、阿吽の呼吸で、陽河たちの会話に混ざってきた。
「それは、大いなる秘密を握るからだよ」
「もっともそれは、公然とした秘密で、課内どころか部内でも、知らぬ者はいないんだけどね」
「だから、先んじて、俺たちが知っていることを教えておくと……。大前提、寺岡汐は、局長の『お稚児さん』だったんだ」
「……なんです、『お稚児さん』て?」
聞き慣れない言葉に、陽河はますます眉間にシワを寄せてしまう。
「表現が古いんだよ。旭くんはZ世代だぞ」
そう口を挟んだ別の先輩が、声を顰めた。
「つまり局長は、ショタコンで少年嗜好で、昔、寺岡汐を囲ってたってこと」
「……」
あまりの情報に、陽河は思わず、その場の全員の顔を見回した。だが、誰もが冗談を言っている風ではない。一部ニヤニヤしている人もいるが、陽河をからかっているというより、「局長がショタコン」あるいは「汐がお稚児さんだった」という事実を、嘲笑っているように見える。
「その囲っていた少年が、実はクリエイティブの才能を持っていた。『しめしめ、こいつにクリエイティブを作らせて、それを私のデザインとして世に出そう』。世に出してみたら、あら不思議。いつの間にか局長は、クリエイティブ局の寵児となり、あっという間に局長に大出世。これが二つ目の秘密」
「さらに三つ目。汐さんには、毎月、専属のアシスタント代として、外注費が100万以上、支払われている」
「は?100万??」
陽河は思わず声を上げた。その金額が、デザイン費やその他クリエイティブ作業の費用として高すぎるからではない。月にこなすボリュームによっては、もっと払ってもいいぐらいだ。
だが……。
「今日、汐さんの家に行っただろう?あれ、月収100万の人間の生活空間だと思う?」
「……思いません」
陽河が答えると、「では、その100万円はどこに消えているか。答えは至極、簡単だよね」と、意味有り気に、先輩は話を終えた。
「それって、コンプライアンス的に、大丈夫なんですか?」
とんでもない事に巻き込まれたと気づいた陽河は、掠れた声で尋ねた。先輩たちは顔を見合わせると「もちろん、ダメだよね」「一発アウト、下手すりゃ警察沙汰」と口々に言う。
「だからこそ、3年勤めあげれば、出世コースな訳よ。その3年間、うまい具合に寺岡汐を馬車馬のように働かせ、局長が汐さんの口座に落とす金を知らぬ存ぜぬで見て見ぬふりし、局長の懐がいつでも、温かい状態に保っておければ、の話だけどね」
そう説明されて、陽河は口をつぐむ。大手の広告代理店なんて、多かれ少なかれグレーなところがあるだろうと思っていたが、これまで陽河が所属していたメディア局や営業局で、ここまで大っぴらな不正が囁かれていたことはない。むしろ局員たちが、結構、真面目に仕事に勤しんでいる姿を見てきたと思う。
だから陽河は、少なくとも自分の周りでは、不正なんか行われていないと信じてきた。多くの人が働く会社だから、中にはそうした人もいるかも知れないが、それが明るみになった時、自分は他人事の顔をして「マジかよ」と呟く立場にいるものと思い込んできたけど……。
(いや、ちょっと待て)
陽河は、自分を取り囲む人たちの顔を、もう一度、見回した。
これだけの人数が知っている公然とした秘密……。それが会社にバレていない、なんてこと、あるだろうか。むしろこれは、才能ある局長を陥れながら、新米局員をからかうだけの、ネタの可能性もある。
「信じられない?」
オフィスで陽河とデスクを並べることになった、木島がうっすらと笑う。
「正直、信じられない」
陽河が答えると、「自分で確かめるといい」と、木島は言った。
「3年もあるんだ。それまでにきっと、答えは出るよ」
歓迎会の冒頭で、あんなにも衝撃的な秘密の暴露があったにも関わらず、その後は、陽河にとって馴染みの展開となった。
初めての部署の飲み会だと必ず聞かれるのが「何故、俳優を辞めたのか」だ。
大学3年まで俳優を続けて、同世代の俳優たちが出演する青春ドラマや映画に何本も出演した。いつでも3番手ぐらいの立ち位置で、主演級の人と絡むけれど、主役にはなれない……。そんな人生を送っていた。
「やっぱり売れてなんぼの世界だから。僕は、そんなに俳優として才能があったわけじゃないですし」
「でも私、俳優時代の旭くんのこと、覚えてるよ」
「ありがとうございます。でも、恥ずかしいから、もう、この話はここまでに」
女子社員に絡まれて、話題を終えるところまでが、ワンパッケージ。そうすると、陽河が注目を集めすぎて面白くなかった男性社員が「ほら、旭も昔話されたら、やりにくいさ」なんて言いながら、女子社員をいなしてくれる。
「追加のドリンク注文しようぜ」
粒揃いの女子社員にメニューを渡し、男性社員たちが取り囲む。陽河の周りには、隣のデスクの木島だけが残った。
「話題の多いヤツは、大変だな」
そんな風に言った木島は、陽河にサラダを勧めてくる。
木島は陽河と同じ年に入社した、いわば同期だ。この3年、他の同期と同様に、社内の部署を回ってきた陽河とは違い、入社時からずっとクリエイティブ局のこの部署にいる。
「木島は、ずっとここだよね。さっきの、汐さんの話って、マジ?」
サラダを受け取りながら陽河が尋ねると、「マジだよ。俺、入社して半年間、『汐の刻参り』やってたから、断言できる。もちろん、証拠のないことも多いけど、先輩たちの話は、ほぼ本当。何より、俺がここにずっと席を置いてるのが、その証拠とも言えるな」と、木島は言った。
「木島も、汐さんの担当を?」
3年やりきれば出世コースという話だったはずだ。陽河が驚くと、木島は自嘲気味に笑った。
「俺は、汐さんに肩入れしちまった。それで煙たがられて、外されて、他部署に飛ばすのも危ないってことで、局長権限で、部署異動にもならないんだ」
「マジかよ……」
早速、身近なところで巻き込まれている人間を目の当たりにし、陽河は目を剥く。そんなにもセンシティブな話なのかと、薄ら寒くなった。
「みんな汐さんのことよく知らないから、色々、噂してるけど。俺は、汐さんのこと、尊敬してる。クリエイターとしては、本当にすごい人なんだ。殻がないから、思ってもみないような発想をする人だ。もし、旭がクリエイティブも好きなら、汐さんの担当は、楽しめると思うよ」
「そうなんだ。それだけは、ちょっと楽しみだな」
気遣うような木島の発言に、陽河は乗っかってみたけれど、心は晴れなかった。
(それだけを楽しみに、3年間、耐えられるだろうか……)
陽河の新卒3年目の春は、とんでもないスタートとなったのだった。
翌日、陽河が出社のために電車に乗っていると、メールが一通届いた。送り主のアドレスに「teraoka」の文字を確認し、陽河はスマホをタップする。自動挿入と思われる定型文の短い挨拶に、PDFが添付されていた。
何気なくそのデータをタップした陽河は、一瞬、息を呑んだ。
(きれいだ……)
スマホの画面だから詳細はわからない。だけど、飛び込んできたカラフルで華やかな光に、陽河の指先が震える。
(これを、あの人が……)
顔の作りなんてわからないぐらい、ヒゲと髪の毛に覆われて、貧相な体の、一見すると浮浪者のような見栄えの汐から、この美しさが生まれたなんて、信じられない。
会社に到着すると、陽河はすぐ、PCで先ほどのメールを開いた。添付のPDFをダウンロードして、目の前の大きなモニターに表示させる。
「……」
花なのか紅葉なのか、それともそれらを複雑に組み合わせているのか……。考えている側から、光なのか虹なのかと、別の可能性も見えてくる。
「おはよ。汐さんから?」
木島がデスクにリュックを置きながら尋ねてきたのに、「ああ」と陽河は応じる。
「やっぱ、すげえね、汐さん」
しばし、2人で無言でモニターを見つめて……。
「それ、早く局長に転送しな」
いきなり冷めた口調になった木島の気持ちがわかると、陽河は思う。
メールを転送し終えた時、自分は、飯田が汐から諸々を搾取するための手助けをする役割を担ったのだと、実感した。
だからというわけでもないが、帰宅の途中で、陽河は汐のアパートを訪ねていた。(一応、クリエイターのご機嫌伺いだから)と考えて、汐の好物もわからないまま、小さなモナカの箱を持って。
呼び鈴を押したが、音が鳴らない。昨日、飯田がノックもせずにドアを開けていたことを思い出し、一応のノックの後、勝手にドアを開けた。
「汐さん、旭です」
陽河が声をかけるのと同時に、部屋の隅の流し台のところに、汐の後ろ姿をみつけた。振り返った汐の口元がモグモグと動いている。
「あ、お食事中でした……か……」
思わず陽河の口調があやふやになったのは、立ったまま深めの紙皿を持っている汐の前の流し台に、納豆のパッケージしかないことに気づいたからだ。
『あれ、月収100万の人間の生活空間だと思う?』
昨日、誰かに尋ねられた言葉が脳裏に浮かぶ。呆然としてしまった陽河の方を向いたまま、汐は紙皿の中の物を掻き込むと、紙皿を流しに放って歩いてきた。
「誰?」
尋ねられて、陽河は気づく。昨日は状況がわからな過ぎて、名刺も渡せなかった。
「あ、昨日、局長と一緒に伺った、旭です」
言いながら、ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を汐に渡す。受け取った汐は、名刺を一瞥した。
「あさひ……」
汐の呟きに、陽河はなんとなくほっとして「はい」とうなづく。すると汐は、くるっと名刺を陽河の前に突き出した。
「どれが、あさひ?」
「え……?」
尋ねられた事の意味がわからず、陽河は思わず、自分の名刺をマジマジと見る。そして思い出したのは、『寺岡汐は、局長のお稚児さんだったんだ』という、先輩の言葉だ。
普通に義務教育を受けられたり、高校や大学に進学できる者だったら、そんな生活は選ばないだろう。そのことに気づいた陽河は、慌ててカバンと紙袋を足元に置いて、汐から名刺を受け取った。
「旭」の字を指さして「これが、『旭』です」と示してやると、汐は顔を近づけて、もう一度「あさひ」と呟いた。
「えっと、それから……」
足元のカバンのポケットからペンを取り出し、「旭」の上に「あさひ」とフリガナをふる。そして、隣の「陽河」にも「ようが」と文字を書き込んだ。名刺のフリガナはローマ字で記載されている。「旭」すら読めない汐が、ローマ字を習得しているかはわからない。
「旭が苗字で、名前は陽河と言います。太陽の陽に河……、大河の河で、陽河です」
「ようが」
「はい。変な名前ですけど……、旭陽河です」
そう言って、陽河は汐の反応を見守る。汐は陽河から名刺を取り上げると、それを見ながらPCデスクの方に行ってしまった。まるで陽河の存在を忘れたかのように、椅子に座って名刺を眺めている。
「あ、そういえば、モナカを……」
モナカの紙袋を持って三和土から上がろうとした陽河は、靴を脱ぎかけた体勢で動きを止めた。リノリウムと思われる床は土埃で汚れていて、その先に、汐のものと思われるキャンパス地のスニーカーが転がっている。だが、今、この三和土のすぐそばまで、汐は裸足で来ていたはずだ。
部屋が狭過ぎて、昨日、陽河は三和土から上に上がれなかった。汐がこの部屋で靴のまま生活しているのなら、陽河もそれに倣えばいい。
だけど……。
汐が、三和土で靴を脱ぐという常識すら知らなかったとしたら……。
(まさか、そんな……)
思ったけれど、その「まさか」を「まさか」で片付けさせないのが、寺岡汐だ。
陽河は思い切って靴を脱いだ。汚れたところで靴下だ。洗えばいい。
「汐さん、モナカ、お好きですか?」
PCデスクの近くで、陽河は紙袋を掲げた。そこでようやく汐は名刺から目を離し、紙袋に顔を向けた。その顔が、陽河に向けられる。
そしてまた、紙袋を見た。
もはや、陽河が疑問を挟む余地もない。汐は「モナカ」も、陽河が見せている紙袋の意味も、「お好きですか?」と尋ねられた意図も理解していないのだ。
「甘いもの、好きですか?疲れが取れるかと思って、買ってきたんです」
汐に袋をそのまま渡しても仕方ないと思い、陽河は紙袋から小さな箱を取り出し、開けた。3つ入っているうちの一つを取り出し、個包装されているフィルムまで外していく陽河の手を、汐はジッと見つめている。
「よかったら、どうぞ」
差し出すと、汐の顔がまた、陽河に向けられた。顔中ヒゲと髪の毛だから、視線がどこを向いているのか分かりにくい。
やがて汐は、陽河の手からモナカを受け取った。恐る恐るという風情でそれを口に持っていき、匂いを嗅いでから、一口、口にする。
途端に、ヒゲに覆われた顔つきが変わったように見えた。表現するなら「ニンマリ」というところだ。モグモグと咀嚼しながら、すぐにもう一口、齧り付いている。
どうやら甘い物が好きらしいと判断して、陽河は胸を撫で下ろす。そして「お茶を淹れますね」と、言いかけたが、先に炊飯器とレンジの下敷きになっている冷蔵庫の中身を確認することにした。
冷蔵庫の前にしゃがみ込み、陽河の太腿ぐらいまでしか高さのない冷蔵庫を開ける。お茶ぐらいは常備していると信じたかったが、納豆ひとパックと卵が3つ入ったパッケージしか見つけられず、愕然とした。
(外に自販機があったな)
立ち上がり、「お茶を買ってきますね」と汐に声をかけた。返事はなかったが、陽河は靴を履いて外に出た。
(一体、どれぐらい搾取してるんだ、局長は……)
汐と自分の分のお茶を買いながら、陽河は思った。汐の家は、見るからに格安物件っぽいボロアパートだ。いくら都内23区といっても、家賃なんて3万円台ではないかと、外観を眺めながら、陽河はあたりをつける。
部屋に戻ると、汐はまだモナカを食べていた。汐が食べているのが最後の3つ目であることに気づいた陽河は、思わず「クスッ」と笑ってしまう。
その音に気づいた汐が、陽河を見上げた。口元にモナカがあるのに咀嚼すらやめて……、多分、陽河を凝視しているようだ。
その汐の様子に、陽河は違和感を持つ。どうして食べるのをやめたのか、見当もつかない。なんとなく、汐が怯えているよう気がして、陽河は買ってきたお茶の蓋を開けると、できるだけ優しい口調で「どうぞ」と差し出した。
「モナカ、美味しかったみたいで、よかったです」
それでもまだ汐は動かない。だから陽河は、お茶を差し出したまま、笑顔を作った。俳優時代に「いい笑顔だ」とよく褒められた、陽河の得意技だ。
ようやく汐の手が動いて、お茶を手にした。ペットボトルとはいえ、ホットのお茶をガシッとつかむものだから、熱くはないのかとヒヤヒヤしてしまう。
「熱いですからね」
そう声をかけたが、汐に伝わったかは謎だ。だが、汐はお茶にも恐る恐る口をつけたので、火傷の心配はなさそうだ。
汐のことは残りのモナカとお茶に任せて、陽河は改めて部屋の中を見回した。部屋の大きさは6畳あるかどうか。ど真ん中に不相応なスペックのモニターとPC。デスクと椅子も立派なものだ。
だが、そのデスクと壁の間に、本来のサイズの半分ぐらいまで縮まった布団がある。きっと元は白かったんだろうと思う、薄汚れたカバー付き。
引き続き、陽河は水回りと思われるドアを開けた。あまり掃除が行き届いていない便器と、シャワーカーテンもかけられていないユニットバスがある。シャンプーもコンディショナーも見当たらず、歯ブラシと歯磨き粉、そして固形石鹸が洗面台に置かれていた。
ここまできたら、全て確認しよう……。そんな気持ちで、汐が背中を向けているカーテンを開けた。そこは半畳にも満たないベランダだ。カーテンを閉めて、今度は押入れに向かう。半分開いている扉を開けると、畳まれてもいない数枚の洋服と、下着と、3枚のタオルが目に入った。
「洗濯は、どこで?」
陽河が尋ねると、「コインランドリー」と背後から返事が返ってきた。
「近くにあるんですか?」
振り向いて汐を見ると、汐は大事そうに、最後の一口のモナカを口に入れたところだった。多分、目を閉じて味わっているんだろう。ヒゲで見えないけれど、口元がほころんでいる気がする。
それを邪魔したくなくて、陽河は視線を流しに向けた。マグカップが一つと、先ほど汐が放り込んだ紙皿が見える。足元に、透明なゴミ袋。中には乱雑に、紙皿と割り箸、卵の殻と納豆のパックが、いくつも詰められていた。
(どういう生活なんだ、これは……)
こんな環境にいる汐も信じられないが、もっと信じられないのは、汐にこんな生活をさせて平気でいる飯田だ。
翌日、出社した陽河は、こっそり「汐さん関連で、経費って切ったことある?」と木島に尋ねた。
木島はモニターを見つめたまま、小さく首を振る。そして小声で「最初の日に買って行った菓子折りの領収書も突き返されたよ」と呟いた。
「そう。ありがと」
そんな気はしていた。モナカを買った店から受け取っていた領収書を、陽河は手の中で握り潰す。
そしてデスクの上のノートPCをカバンに入れると「担当業務に行ってくる」と木島に言い残し、立ち上がった。




