6 歌に生き、愛に生き
サーカスの夏が近い。
宿屋の友人は大人ぶって、りんご園の娘をサーカスに誘うって吹聴していた。
りんご園の女の子は、ソバカスだらけの赤毛だ。しかも口うるさい。誘ったって、別に楽しくないだろうに。
サーカスの話で盛り上がる連中を無視して、おれは森へ釣りに行くふりをする。
最近、クロエの屋敷まで行くのが速くなった。
山道に慣れてきたのか、体力と足の長さのおかげか、とにかく気軽に行けるようになった。
夏の日差しに照らされた菜園は、薬草たちがすげぇ繁っていた。パセリ、セージ、ローズマリー、タイム。それからボリジに、ヒソップ、ヘンルーダ。
蜜蜂たちが羽根音を立てて、ハーブの合間を飛び交う。
おれをクロエの元に連れてきてくれた蜜蜂だ。
菜園を横切っていると、日陰からオルゴールが響いていた。
クロエだ。
木漏れ日のベンチに腰を下ろして、オルゴールに耳を傾けていた。
クロエは相変わらず黒髪を几帳面に結い、淡い緑のドレスを着ている。
美人だ。何度見たってそう思う。ガキのころよりもっともっと美人だと思うようになった。
その風景と音楽に浸っていると、緑の瞳と目が合う。
双眸を向けられると、ガキのころよりもっとどきどきする。頬や指先が熱くなって、喉が渇く。
「あなたは見るたびに背が伸びているわね」
「うん、またシャツが寸足らずになった」
この前会った時と似たような会話。
おれが成人するまで、こんなやり取りが繰り返されるのかな。
でもおれが一人前だって分かってくれたら、クロエは「今まで子供扱いしてごめんなさい」って、優しく言ってくれるんじゃないか。
クロエがおれを大人だって認めてくれたら、そこから何かはじまる気がする。
「あのさ、クロエ……」
「ちょうどいいわ。今日の午後は荷馬車が来るの。それまで草むしりをお願いできる?」
「うん」
勝手知ったる菜園だ。
草むしりをすれば、ずっとポケットに突っ込んでいた手紙が、がさがさと鳴る。
サーカスにいっしょに行かないかって誘いの手紙だ。口で直接伝えると、クロエはすぐ断る。
人込みが苦手なのは分かっている。せめてサーカスの音楽を聴きながら、クロエと祭りの夜を散歩できたらいい。そう書いたんだ。
どう渡そうか考えているうちに、クロエは台所へと引っこんだ。
聞き慣れた車輪の音が響いてくる。いつもの荷馬車だ。
おれは年寄りの御者のため、焙煎エールを持っていく。駆けつけの一杯は欠かせない。
「じいさん、お疲れさま。ちょっと頼みがあるんだけど」
「ああ? なんだ、小僧」
老御者は息継ぎ代わりに返事して、ふたたび焙煎エールを呷る。
「街からの手紙をクロエに渡すとき、おれの手紙もいっしょに渡してくれないか?」
「自分で渡さないか?」
「手紙は自分で渡すもんじゃないだろ?」
「まあ、かまわんがな」
ブリキの平箱に、おれの手紙も入れてくれる。
きっとクロエ、びっくりするぞ。
おれと御者が荷物を片付けている間に、いつもクロエは街からの手紙を確認する。
「代わりと言ってなんだが、小僧。地下への運搬を頼んでいいか。最近、腰が言う事きかんでな」
「まかせとけよ」
おれは地下の食料庫へ、ワインだのオリーブオイルだのが入った重い木箱を運ぶ。このくらいもうひとりで運べるようになった。
地上の方から、しゃらしゃらとペチコートの布ずれが聞こえる。ペチコートがかき回されているような慌ただしさだった。
クロエが小走りしてるのは珍しいな。
あの金髪の男に何かあったのか?
「この手紙は誤配達みたいよ」
「いやいや、こいつは間違いなくクロエさんへのお便りですよ」
「わたくしの知らない名前だし、教養のない子供みたいな文字だわ」
「まさかクロエさん、あの小僧の名前を知らないんですかい?」
御者が驚いている声がする。
クロエが誤配達って言ったのは、おれの手紙のこと?
じゃあ……クロエが、おれの名前を知らない?
何年もずっといたのに?
おれはクロエを助けてきたし、クロエだっておれに優しくしてくれた。
なにどうしておれの名前を知らないんだ?
クロエは何か言っていた。
だけど心臓の音がうるさい。おれの早鐘打つ心臓が、鼓膜を叩きつけてくる。何も聞こえない。いつもどこからか響いているオルゴールの音色だって聞こえなかった。
どうやって階段を昇ったのか。
どうやって階段を歩いたのか。
どうやって扉を開いたのか。
おれは覚えていなかった。
ただ目の前にクロエがいた。
「帰ったのかと思ったわ。どうしたの? ワイン瓶でも割ったの? 怪我がないなら、それでいいわ」
淡々とした声に、拳が震える。
震えているのは拳だけじゃない。
唇は蝶番が壊れた箱みたいで、舌なんて鉋をかけてない板みたいになっている。おれの身体がおれじゃないみたいだ。
「クロエは知らなかったのか……おれの、名前」
「ええ、でも覚えたわ」
今?
やっと?
ああ、たしかにクロエはおれの名前を呼ばなかった。
ずっと呼んでくれなかった。
「どうして……」
「最初にわたくしは名乗ったけど、あなたは名乗らなかった。そうでしょう」
「でも、そんな……」
何度も通ったのに、聞かれなかった。
どうして。
そんな言葉だけが頭のなかを巡っている。
「サーカスのお誘いは嬉しいけど、わたくしは屋敷から離れないわ。お友達か好きな子を誘って行きなさい」
「おれはクロエが好きなんだ!」
叫んだ勢いのまま、クロエを抱き締める。
ああ、クロエってこんなに細かったんだ。柔らかかったんだ。
腕に力を込めるたびに、山薄荷とローズマリーの混ざった緑の香りが溢れる。それから微かな鯨油の移り香。足元からはタフタの音がしゃらしゃら響いていた。
「ずっと好きだよ。こんなに力だって強くなったし、足だって速くなった。クロエの役に立てるだろう」
「ええ、だからお賃金は上げたでしょう。相場より弾んだつもりだったけど……」
「そうじゃない!」
お金は大事だ。
でも大事なのは、それだけじゃない。
「大好きなクロエに認められたかったんだ」
「認めているわ。あなたがおじいさまの許可を取れたら、この屋敷に雇ってあげられる。でも遊んだり恋をしたりするのは、近い年頃の子がいいわよ」
優しい口ぶり。
だけどこれは大人がガキを窘める口調だ。
「おれとクロエの齢も近くなった。クロエは出会った頃のままだ」
緑の瞳がおれを見ている。
出会った頃と変わらない新緑の鮮やかさ。
黒髪の豊かさだって変わらないし、黄薔薇みたいな肌も澄んだまま。
おれだけのきれいな秘密。
「……そう」
腕の中が静かになった。
タフタも鳴らない。オルゴールも。どこからも音が聞こえない。
世界が閉じられたオルゴールみたいだ。
「わたくしは変わらなかったのに、どうしてあなたは可愛い子供のままでいてくれなかったの?」
抱き締めているクロエは、か細く呻いた。
苦しいのかな。
両腕の力を緩めると、黒髪が解けて広がった。
「あなたが大人になるなんて望まなかったわ」
いつも緑に輝いていた瞳が、今は濁っている。
乱れた黒髪よりも、黒く暗い眼差しだった。
どうしておれが大人になるのを望んでくれなかったんだ。
おれはずっとクロエのために生きてきたのに。
クロエが好きだったのに!
金髪の男の姿が、瞼の裏に焼き付くように浮き上がる。
悍ましいくらい白くて病的な男の姿だ。
「あいつがいるから? もう大人の男がいるから?」
「何を言ってるの?」
クロエから手を離して、おれは駆けだしていた。
いちばん奥の寝室。
あいつがいつも眠っている部屋。
扉を蹴り飛ばす。
羊歯模様の壁紙と、天蓋付きの白い寝台。そこにあの男は上体だけ起こして、目を伏せていた。
リネンより白い膚だ。
呼吸しているのかさえ怪しいくらい、静かに眠っていた。
役立たずの男。
いてもいなくても同じじゃないか。
朝も晩も夏も冬も寝台で横たわっているなら、土の下でもいいじゃないか。
こんな貧相な奴、豚を屠殺するより楽に殺せる。ナイフひとつで十分だ。
手の中には鹿角のナイフ。
ガキの頃からずっと使って、手に馴染んだナイフだ。おれにとって指の続きみたいなもんだった。
おれは大股で寝台に近づく。
「離れなさい」
おれの背後にクロエがいた。
その手には、赤い短銃。銃口を、おれに狙いさだめている。
金彩の短銃で、絹の房飾りが垂れていた。
何も知らないやつなら、貴婦人が持つ護身用の短銃だって思い込ませられるだろう。でもおれは、その短銃がオルゴールだって知っている。昔、手に取ったこともある。ただのコケ脅しだ。
笑ってしまいそうになる。
そんな子供だましに引っかかる齢じゃないのに。
「大丈夫、クロエ。穴はおれが掘るから」
クロエは眉を吊り上げる。
怒った顔も美人だ。眉や唇の形がきれいだし、黄薔薇の膚は赤みが差して鮮やかになっている。
「埋める場所はもう考えてあるんだ。柳の繁っている奥の崖。岩がごろごろしているから、誰も近寄らない」
「そう、わたくしが独りで埋めるわ」
撃鉄が上がる。
銃声が、響いた。
火薬の匂い。
それから脇に走る、火掻き棒を触った時のような痛み。
銃?
ほんものの短銃で、おれを撃ったの?
いやだ。
おれはクロエが好きなんだ。クロエはおれのこと好きじゃないなんて、いやだ。
現実と激痛を振り払おうとして、おれの両足はふらつく。
寝台に倒れると、まだ金髪の男は眠っていた。
おれがこんなに苦しいのに、どうして安らかに眠っているんだ。教会の天使像みたいな顔をしているんだ。
痛みを押し付けるように、ナイフを振り上げる。
刃が男の腹を貫いた。
「……ッ!」
手首に伝わる感覚は硬い。豚の屠殺とは違う。金属じみた感覚だ。
バネが、ゼンマイが、歯車が、ネジが、弾けて飛んでいく。
甲高い悲鳴が響き渡った。
クロエは短銃を投げ打って、男へと駆け寄る。
黒髪を乱して、緑の瞳から大粒の涙を零している。
何に縋りついているんだ。
蒼褪めた膚は陶器じゃないか。
半開きの瞳は宝石じゃないか。
男のはらわたから溢れているのは、血飛沫じゃなくて歯車じゃないか。鯨油の匂いが染みた機械仕掛けじゃないか。マガイモノじゃないか。
そんな壊れたマガイモノに縋りついて、クロエは人間が死んだように泣きわめいていた。
狂っている、狂っている、狂っている。
「狂っている……」
ああ、狂っているんだ。
だけど、どっちが?
オルゴールを人間のように扱っていたクロエが?
それともおれが?
あの金髪の男は、精巧なオルゴール人形だったのか。
それとも人間だったのか。
本当は人間だったのに、おれが狂っているから血肉が発条や螺子に見えたのか。
もしかしておれの手は今、血に染まっているんだろうか。指紋までべったりと赤く汚れているのか。
おれは駆けだしていた。
オルゴールの箱庭を飛び出して、メロディに追いつかれないうちに、渓流を渉って、しだれ柳の下をくぐって、泥道を駆け下りた。
肺腑が空っぽになるくらい、脾臓が爆ぜそうになるくらい両足を動かす。
それでも追いついてくる、オルゴールの不協和音が。
壊れて蓋が閉まらないオルゴールが、頭の中にあるみたいだ。螺子を捲いてないのに、不協和音は終わらない。続く。ずっとずっと鳴り響く。
帰らなくちゃ。
どうして村が見えてこない。どうして森が続く?
何度も通った道だ。
間違うはずがない。
おれが、道を間違ったりするはずない!
しだれ柳に取り囲まれていた。さわさわと揺れる柳。まるで歌うように。腰を下ろして、髪を解いて、項垂れて歌う女のように、柳が騒めいている。
どうしておれはこんなところで迷っているんだ。
がむしゃらに走って、いつの間にか村に帰り着いていた。
夕暮れになっている。
家も道も、教会も広場も、重くて濁った朱色に覆われている。沈みかけた太陽が投げる光のせいで、行き交う人々の影は妙に長い。幽霊を引きずっているみたいだ。
呆然と歩いていると、暮れなずんだあぜ道を誰かがやってきた。
友人のひとりだ。
「おい。どうした、しけたツラして。釣れなかったのか? 具合でも悪いんだったら、木陰まで肩貸すぞ」
やたら親身に話しかけてくるけど、こいつの名前はなんだっただろうか。
思い出せない。
今朝だって会話した。ちっちゃいガキの頃から一緒に蜜蜂を追いかけたり、サーカスへ行った記憶はあるけど、名前がどうしても出てこない。
頭の中で鳴り響くオルゴールのせいだろうか。
もしかしたら元々、こいつの名前を覚えていないのかもしれない。
「脇腹、怪我したのか?」
……ああ、そうだ。
こいつの名前は思い出せないけど、いいことを思いついた。
おれが狂っているのか、クロエが狂っているのか、判断する方法はひとつある。
誰かを刺せばいい。
流れるのが臓物や血じゃなくて、歯車や発条に見えたらおれが狂っている証拠になる。
簡単だ。
だってナイフはまだ、おれの手の中にあるんだから。
END