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オルゴールの箱庭  作者: 猫目石琥珀
チューン・シート
5/6

5 風の中の羽のように



 秋が過ぎれば、冬が訪れる。

 



 初霜が降りて、森はしばらく人間を拒絶していた。うさぎ狩りを口実にしようと思ったけど、じいちゃんは絶対に許してくれなかった。

 でもじいちゃんはもともと森に近づくのは嫌がっていた。魔女が出るからって。

 クロエは魔女じゃない。

 魔女だとしても善い魔女だ。

 じいちゃんは何も知らないんだ。バカみたい。

 でもいいんだ、クロエはおれだけの秘密だから。



 家禽がたまごを産まなくなれば、絞める作業で忙しくなる。

 卵を産む数が少なくなった牝鶏に、冬を越す餌を与えられない。役に立たなくなったら、絞めて羽根を抜いて、宿屋に売るんだ。

 おれは鵞鳥たちを街へ出荷したり、鶏たちの世話をしたり絞めたり、羽根を冬布団に足したり、ライ麦用の畑を起こしたり、それからよそんちの豚の屠殺を手伝ったりして、晴れた日をひたすら待った。

 ずっと曇り空が続く。

 なんてうんざりする色だ。空が自分の色を忘れて、灰色だと思い込んでいるみたいだ。

 空がようやく自分の青さを思い出した日に、おれは森に飛び込む。

 慣れた山道を駆け上がり、渓流を飛び越えて、柳を通り過ぎ、オルゴール屋敷を目指した。

 裏手に回る。色褪せた菜園には、ベル型硝子覆いがいくつも置かれている。冬の菜園は硝子細工だ。

 台所に入れば、棚にはみっちりと保存食があった。溢れそうだ。

「すっげぇ量」

 おれが叫ぶと、クロエがやってきた。

 暖かそうな天鵞絨のドレスだ。

 深緑色なんだけど、ちょっとだけ茶色っぽい。なんだか日なたの苔みたいだ。

「ひと冬分の食料だもの」

「じゃあクロエ、冬は荷馬車もお客さんも来なくなるの?」

「そうね。訪れるのは霜と雪だけよ。次に荷馬車が来るのは、すももの伐採の時かしらね」

「じゃあ三ヶ月は誰も来ないんだ、暇だね」

「やることはいっぱいあるわ。厄介な修繕に取り掛かるの。それから整備もしなくちゃ。軸受やダンパーを交換したり、接触音を減らしたり……」

「あれだけのオルゴール、みんな調整するの?」

「楽しみだわ。誰にも邪魔されず、オルゴールとからくりに触れられるの」

 クロエは優しく微笑む。

 ほんとうに幸せにそうで、蕩けそうで、おれまで気持ちが暖かくなってくる。

「作業に取り掛かる前に、石炭を運ばなくちゃいけないわね」

「運ぶの手伝うよ」

「ありがとう。わたくしは寝室に運ぶから、台所の石炭箱もいっぱいにしてくれるかしら」

 言いつけ通り石炭バケツを運ぶ。

 台所の箱型オーブン。こいつは石炭をいくらでも貪り食う化け物だ。石炭バケツにたんまり餌を用意しておかけないと、すぐ役立たずになる。

 石炭を入れる木箱は、おれが入っても余裕なくらいでかかった。

 おれは三往復して、蓋が閉まらないくらい石炭箱を満たして、石炭バケツもいっぱいにした。 

 窓の外は暗くなっていた。

 さっきまであんなに天気が良かったのに。

 びっくりしているうちに、空はぜんぶ分厚いに雲に蓋された。風がますます強くなって、硝子窓を殴りつけている。

 屋敷中の雨戸を閉めていると、雨が降ってきた。かちんかちんと鳴る雨。

 これ、雨じゃない、霰だ。

 雨戸を閉め切って暗くなった屋敷。

 一瞬、寒気がする。

 でもクロエのスカートの音が聞こえてきたから、なんとなく安心できた。手燭に蜜蝋を灯してやってくる。優しい香りと光だ。

「助かったわ。でもこの状態で帰らせるのは酷ね」

「雲脚が早かったから、すぐやむよ」

「だといいけど」

 顰められた横顔に、蝋燭の光たちが揺れる。

 クロエは天気を心配しているのに、おれは美人だなって思った。蜜蝋の光に照らされているからか、肌はますます黄薔薇みたいだ。

 そんなこと言ったら、暢気って怒られそうだ。黙っておこう。

「とりあえず手を洗いましょう」 

 雨戸を閉めたせいで、おれの手のひらは黒くなっていた。

 台所の箱型オーブンに行く。

 ボイラーがついている最新型だから、横の蛇口をひねるとお湯が出る。

「石炭を入れてくれてありがとう。薬草入りのオレンジエードを作るけど、あなたも飲むかしら?」

「飲む!」

 クロエはオレンジの皮を削る。精製された白砂糖と水、それから丁字とアニスの種もいっしょに手鍋にかけた。

 ことこと煮込んでいると、オレンジ皮と丁字の香りがいっぱいになってくる。お菓子みたいな香りだ。

 煮込んでいる間、クロエは緑薄荷と香水薄荷を刻んだり、生姜をすり下ろしたり、オレンジの果肉を絞り器にかけたりする。

「あなた、見ていて楽しい?」

 おれがあんまりじっと見つめているから、クロエは不思議そうに呟いた。

「楽しいよ。いい香りがするし」

 オレンジの匂いはわくわくする。

 それにクロエがいるだけで、幸せな気分だ。

「クロエ。この前さ、おれ、隣の家の豚の屠殺を手伝ったんだ。三頭も屠ったから、すげぇたくさんお湯を沸かすだろ。水汲みで背骨が折れそうだったけど、大釜なみなみいっぱいにしたんだよ」

「そうなの」

 クロエは相槌を打ちながら、木べらを回す。

「隣の農家は、豚吊るしの滑車があるから、それで豚を大釜につけてさ。おれ、すげぇ熱くなった豚皮から、毛抜きしたんだ。自分で抜いた分だけ雑貨屋に売っていいって言われたから、頑張ったんだ。けっこう小遣いになった」

「そう」

「晩ごはんに肝臓ソテーをご馳走になったんだ。あと豚足を煮込んでゼリーにして、くず肉を入れた料理。外国の料理なんだって。ぷるぷるして味が濃くて、すっげぇ美味しかった。クロエは食べたことある?」

「ないわね」

「機会があったら食べると良いよ。すげぇ美味しかった。今度、料理の名前を聞いてくる。豚肉が漬け終わったら、燻製にするだろ。その時にまた手伝いに行くんだ」

 相槌打ちながらも、クロエの長い指は器用に動く。

 10分以上は煮込んだだろうか。

 オレンジ皮のシロップに薄荷と生姜を入れて、弱火でゆっくり煮込み、タミー布で濾す。オレンジ果汁と混ぜて、最後に緑のリキュールを一滴。

 エードグラスにそそぐ。

「ほんとうは一時間くらい馴染ませると香りが落ち着くけど、暖かい方がいいでしょう」

「ありがとう」

「棚のお菓子は食べていいわよ」

 クロエはそう言いながら、もう一杯、オレンジエードをそそぐ。

 お盆に乗せていってしまった。

 あの男に持ってくんだ。

 おれは不思議な香りのオレンジエードを飲み干す。

 慣れないけど嫌じゃない。善い魔女の作る魔法の薬みたいだ。

 棚からお菓子を引っ張り出して食べたけど、クロエがいないと味気ないな。

 天窓から微かに差し込んでくる。

 雲が薄らいで途切れてきた。晴れてきたっていうには暗いけど、このくらいなら足元まできちんと見えるだろう。

 帰るって、クロエに伝えなくちゃ。

 おれは廊下を歩いていく。

 屋敷の表廊下は、細かな模様の壁紙が張られていた。でも黄ばんだりしている。貼り足せばいいのに。

 きょろきょろしていると、オルゴールの音がした。

 子守唄のメロディだ。

 クロエかな。

 メロディが響いているのは、褐色の扉からだ。周りに額縁のような飾りがついている立派な扉。

 扉は少しだけ開いて、そこからメロディが零れていた。

 羊歯模様の壁紙と、白い暖炉を備えた寝室だった。天蓋のついた寝台があって、そこには金髪の男が眠っている。目を瞑っていると、よけいに大理石像みたいだ。

 傍らには、クロエが立っている。

「……結局、わたくしはオルゴールしか愛せないのかしらね」   

 クロエの手には、紡錘刃が握られていた。

 木工職人が持っていそうな刃。

 その刃が眠っている男に向けられた。

 おれは息を呑み、扉に凭れてしまった。

 軋む蝶番。

 ほんとうに僅かな軋みだったのに、クロエは野兎みたいに気づいた。黒い目がおれに向けられる。

 黒?

 いつも新緑に輝いていた瞳なのに、どうしてか黒くみえた。なんだか怖い。

「おれ、帰る」

 そのまま屋敷を飛び出した。

 


 クロエはあの男が邪魔なんだろうか。

 見た目はきれいだけど、介助されないと何もできない男。

 あれがいなかったら、クロエはもっとオルゴールに触れられるのに。

 幸せになれるのに。







 冬に入れば毎日のように雪が降るから、じいちゃんからいろいろ教わる。

 ヒッコリーの皮から作る椅子の背もたれや、ヒッコリーの枝から作るホウキ、隣にじいちゃんがいなくても一通りできるようになりたい。

 たくさん飯を食って、たくさん働いて、豚の屠殺や薪割りができるようにならなくちゃいけない。納屋の修繕だって、馬車だって御せるようにならないと。



 冬が半分終わるころ、薪割りを独りでさせてもらえるようになった。自分用の薪割り斧も買ってもらえる約束もした。斧が持てれば半分は大人だ。

 雪はときどき、視界ぜんぶ真っ白になるくらい降った。

 夜に晴れて、月が雪景色に差し込むと青白く輝いていた。

 あの金髪の男と同じ、温かみの無い青白さ。

 クロエの屋敷に誰も訪れないうちに、あいつはひっそりと死ねばいい。

 こめかみが痛くなるほど強く願う。


 

 雪解けが訪れた暖かな陽気、おれはぬかるみを駆けて、オルゴールの屋敷に赴いた。

 

 

 屋敷の敷地に入れば、オルゴールの音が鼓膜に届いた。金属の櫛が弾けて、音が風に散っていく。

 応接間の出窓からだ。

 おれは壁の隙間に爪先入れて、大きな硝子窓越しに室内を覗く。薄暗い応接間で、金髪の男はソファに腰かけている。

 生きてた。

 生きているんだ。

 あんな役立たずは、雪解けみたいになればいいのに。

 何をしてるのか暗いから手元まではよく見えないけど、読書しているみたいだった。

 ときどきページを捲る仕草。

 ふと、指が止まった。

 目も閉じている。

 いびきもなく、こくりこくりと眠りに沈んでいた。狐を追い払えなくなった雄鶏のように、卵を産まなくなった牝鶏のように、隅でひっそりとしている。

「………」

 おれは窓枠から降りて、裏手に回る。

 寒さの底から暖かくなると、年寄りは死にやすい。たぶん病弱な人間だってそうだろう。

 いつも帯びてるナイフに触れる。鹿角の柄におれの体温が移って、ちいさな動物が息を潜めているみたいだった。

 いつだって研いで切れるようにしてある。

 うさきだって、鱒だって、なんだって。

 入口の泥落としで靴裏の泥をこそぎ落として、屋敷にそっと入った。

 足跡をつけないように、物音ひとつさせないように、歩いていく。呼吸も抑えて。

 不思議な感覚だ。

 いつもナイフがおれの一部みたいなのに、今日はおれがナイフの一部みたいだ。

 台所を抜けて、廊下に行く。応接間までもう少し。

 あと五歩。

 あと三歩。

 あとたった半歩のところで、しゃらしゃらとしたタフタの音色が聞こえてきた。

 クロエだ。

 苔緑色のベルベットドレスに、遠い国から運ばれてきたカシミアショール。陶器のロケットペンダントが揺れている。硝子越しの冬の日差しでも、金鎖はきらきらと光を振り撒いていた。

「こんなぬかるみの森を来たの?」

 緑の瞳にも問いかけにも、驚きが含まれていた。

「靴の泥は落としたみたいね」

「うん。クロエ、おれ、えっと、自分用の薪割り斧を持たせてもらえるんだ。雑貨屋に注文したから、春一番で届く」

「あらそう」

 自分だけの斧が手に入る。

 それなのにクロエの反応は素っ気なかった。

 みんなに認められたんだから、もっと褒めてくれていいのに。

 クロエと話していると、たまに森と会話しているみたいな気分になる。独り言じゃないけど、返事は木霊めいていた。

「斧が届いたら、クロエが薪割りしたい時、手伝えるよ」

「うちは石炭だけで大丈夫よ」

「でも燻製とか作る時にいるだろ?」

「ハムやベーコンを注文しているから、わざわざ家で仕込まないわ。でもあなたの力が有り余っているなら、また石炭運びを手伝ってくれる? 台所と寝室まで」

「うん!」

 クロエの役に立てる。

 それが何より嬉しい。

 もっと力を付けて、豚を屠殺できるようになって、石炭運びより役に立とう。いつか、必ず。 





 また春が来て、クロエは若返ったみたいに若草色のドレスに戻った。

 夏は薄荷みたいな淡い緑。

 秋は蜥蜴みたいな濃い緑。

 冬は苔みたいに柔らかそうな深い緑。

 それからまた春。

 

 風のように季節が巡って、緑のすももを何度も齧った。

 おれの背や手足が伸びてきて、薪割りが楽にできるようになっても、クロエは出会ったときのまま、露をいっぱいに含んだ新緑みたいだった。

 もしかしておれが21歳になるまで、クロエも21歳でいてくれるんだろうか。

 クロエが魔女だとしたら、善い魔女だ。

 21歳より先に踏み出さず待っていてくれる、そんな気がした。

 

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