5 風の中の羽のように
秋が過ぎれば、冬が訪れる。
初霜が降りて、森はしばらく人間を拒絶していた。うさぎ狩りを口実にしようと思ったけど、じいちゃんは絶対に許してくれなかった。
でもじいちゃんはもともと森に近づくのは嫌がっていた。魔女が出るからって。
クロエは魔女じゃない。
魔女だとしても善い魔女だ。
じいちゃんは何も知らないんだ。バカみたい。
でもいいんだ、クロエはおれだけの秘密だから。
家禽がたまごを産まなくなれば、絞める作業で忙しくなる。
卵を産む数が少なくなった牝鶏に、冬を越す餌を与えられない。役に立たなくなったら、絞めて羽根を抜いて、宿屋に売るんだ。
おれは鵞鳥たちを街へ出荷したり、鶏たちの世話をしたり絞めたり、羽根を冬布団に足したり、ライ麦用の畑を起こしたり、それからよそんちの豚の屠殺を手伝ったりして、晴れた日をひたすら待った。
ずっと曇り空が続く。
なんてうんざりする色だ。空が自分の色を忘れて、灰色だと思い込んでいるみたいだ。
空がようやく自分の青さを思い出した日に、おれは森に飛び込む。
慣れた山道を駆け上がり、渓流を飛び越えて、柳を通り過ぎ、オルゴール屋敷を目指した。
裏手に回る。色褪せた菜園には、ベル型硝子覆いがいくつも置かれている。冬の菜園は硝子細工だ。
台所に入れば、棚にはみっちりと保存食があった。溢れそうだ。
「すっげぇ量」
おれが叫ぶと、クロエがやってきた。
暖かそうな天鵞絨のドレスだ。
深緑色なんだけど、ちょっとだけ茶色っぽい。なんだか日なたの苔みたいだ。
「ひと冬分の食料だもの」
「じゃあクロエ、冬は荷馬車もお客さんも来なくなるの?」
「そうね。訪れるのは霜と雪だけよ。次に荷馬車が来るのは、すももの伐採の時かしらね」
「じゃあ三ヶ月は誰も来ないんだ、暇だね」
「やることはいっぱいあるわ。厄介な修繕に取り掛かるの。それから整備もしなくちゃ。軸受やダンパーを交換したり、接触音を減らしたり……」
「あれだけのオルゴール、みんな調整するの?」
「楽しみだわ。誰にも邪魔されず、オルゴールとからくりに触れられるの」
クロエは優しく微笑む。
ほんとうに幸せにそうで、蕩けそうで、おれまで気持ちが暖かくなってくる。
「作業に取り掛かる前に、石炭を運ばなくちゃいけないわね」
「運ぶの手伝うよ」
「ありがとう。わたくしは寝室に運ぶから、台所の石炭箱もいっぱいにしてくれるかしら」
言いつけ通り石炭バケツを運ぶ。
台所の箱型オーブン。こいつは石炭をいくらでも貪り食う化け物だ。石炭バケツにたんまり餌を用意しておかけないと、すぐ役立たずになる。
石炭を入れる木箱は、おれが入っても余裕なくらいでかかった。
おれは三往復して、蓋が閉まらないくらい石炭箱を満たして、石炭バケツもいっぱいにした。
窓の外は暗くなっていた。
さっきまであんなに天気が良かったのに。
びっくりしているうちに、空はぜんぶ分厚いに雲に蓋された。風がますます強くなって、硝子窓を殴りつけている。
屋敷中の雨戸を閉めていると、雨が降ってきた。かちんかちんと鳴る雨。
これ、雨じゃない、霰だ。
雨戸を閉め切って暗くなった屋敷。
一瞬、寒気がする。
でもクロエのスカートの音が聞こえてきたから、なんとなく安心できた。手燭に蜜蝋を灯してやってくる。優しい香りと光だ。
「助かったわ。でもこの状態で帰らせるのは酷ね」
「雲脚が早かったから、すぐやむよ」
「だといいけど」
顰められた横顔に、蝋燭の光たちが揺れる。
クロエは天気を心配しているのに、おれは美人だなって思った。蜜蝋の光に照らされているからか、肌はますます黄薔薇みたいだ。
そんなこと言ったら、暢気って怒られそうだ。黙っておこう。
「とりあえず手を洗いましょう」
雨戸を閉めたせいで、おれの手のひらは黒くなっていた。
台所の箱型オーブンに行く。
ボイラーがついている最新型だから、横の蛇口をひねるとお湯が出る。
「石炭を入れてくれてありがとう。薬草入りのオレンジエードを作るけど、あなたも飲むかしら?」
「飲む!」
クロエはオレンジの皮を削る。精製された白砂糖と水、それから丁字とアニスの種もいっしょに手鍋にかけた。
ことこと煮込んでいると、オレンジ皮と丁字の香りがいっぱいになってくる。お菓子みたいな香りだ。
煮込んでいる間、クロエは緑薄荷と香水薄荷を刻んだり、生姜をすり下ろしたり、オレンジの果肉を絞り器にかけたりする。
「あなた、見ていて楽しい?」
おれがあんまりじっと見つめているから、クロエは不思議そうに呟いた。
「楽しいよ。いい香りがするし」
オレンジの匂いはわくわくする。
それにクロエがいるだけで、幸せな気分だ。
「クロエ。この前さ、おれ、隣の家の豚の屠殺を手伝ったんだ。三頭も屠ったから、すげぇたくさんお湯を沸かすだろ。水汲みで背骨が折れそうだったけど、大釜なみなみいっぱいにしたんだよ」
「そうなの」
クロエは相槌を打ちながら、木べらを回す。
「隣の農家は、豚吊るしの滑車があるから、それで豚を大釜につけてさ。おれ、すげぇ熱くなった豚皮から、毛抜きしたんだ。自分で抜いた分だけ雑貨屋に売っていいって言われたから、頑張ったんだ。けっこう小遣いになった」
「そう」
「晩ごはんに肝臓ソテーをご馳走になったんだ。あと豚足を煮込んでゼリーにして、くず肉を入れた料理。外国の料理なんだって。ぷるぷるして味が濃くて、すっげぇ美味しかった。クロエは食べたことある?」
「ないわね」
「機会があったら食べると良いよ。すげぇ美味しかった。今度、料理の名前を聞いてくる。豚肉が漬け終わったら、燻製にするだろ。その時にまた手伝いに行くんだ」
相槌打ちながらも、クロエの長い指は器用に動く。
10分以上は煮込んだだろうか。
オレンジ皮のシロップに薄荷と生姜を入れて、弱火でゆっくり煮込み、タミー布で濾す。オレンジ果汁と混ぜて、最後に緑のリキュールを一滴。
エードグラスにそそぐ。
「ほんとうは一時間くらい馴染ませると香りが落ち着くけど、暖かい方がいいでしょう」
「ありがとう」
「棚のお菓子は食べていいわよ」
クロエはそう言いながら、もう一杯、オレンジエードをそそぐ。
お盆に乗せていってしまった。
あの男に持ってくんだ。
おれは不思議な香りのオレンジエードを飲み干す。
慣れないけど嫌じゃない。善い魔女の作る魔法の薬みたいだ。
棚からお菓子を引っ張り出して食べたけど、クロエがいないと味気ないな。
天窓から微かに差し込んでくる。
雲が薄らいで途切れてきた。晴れてきたっていうには暗いけど、このくらいなら足元まできちんと見えるだろう。
帰るって、クロエに伝えなくちゃ。
おれは廊下を歩いていく。
屋敷の表廊下は、細かな模様の壁紙が張られていた。でも黄ばんだりしている。貼り足せばいいのに。
きょろきょろしていると、オルゴールの音がした。
子守唄のメロディだ。
クロエかな。
メロディが響いているのは、褐色の扉からだ。周りに額縁のような飾りがついている立派な扉。
扉は少しだけ開いて、そこからメロディが零れていた。
羊歯模様の壁紙と、白い暖炉を備えた寝室だった。天蓋のついた寝台があって、そこには金髪の男が眠っている。目を瞑っていると、よけいに大理石像みたいだ。
傍らには、クロエが立っている。
「……結局、わたくしはオルゴールしか愛せないのかしらね」
クロエの手には、紡錘刃が握られていた。
木工職人が持っていそうな刃。
その刃が眠っている男に向けられた。
おれは息を呑み、扉に凭れてしまった。
軋む蝶番。
ほんとうに僅かな軋みだったのに、クロエは野兎みたいに気づいた。黒い目がおれに向けられる。
黒?
いつも新緑に輝いていた瞳なのに、どうしてか黒くみえた。なんだか怖い。
「おれ、帰る」
そのまま屋敷を飛び出した。
クロエはあの男が邪魔なんだろうか。
見た目はきれいだけど、介助されないと何もできない男。
あれがいなかったら、クロエはもっとオルゴールに触れられるのに。
幸せになれるのに。
冬に入れば毎日のように雪が降るから、じいちゃんからいろいろ教わる。
ヒッコリーの皮から作る椅子の背もたれや、ヒッコリーの枝から作るホウキ、隣にじいちゃんがいなくても一通りできるようになりたい。
たくさん飯を食って、たくさん働いて、豚の屠殺や薪割りができるようにならなくちゃいけない。納屋の修繕だって、馬車だって御せるようにならないと。
冬が半分終わるころ、薪割りを独りでさせてもらえるようになった。自分用の薪割り斧も買ってもらえる約束もした。斧が持てれば半分は大人だ。
雪はときどき、視界ぜんぶ真っ白になるくらい降った。
夜に晴れて、月が雪景色に差し込むと青白く輝いていた。
あの金髪の男と同じ、温かみの無い青白さ。
クロエの屋敷に誰も訪れないうちに、あいつはひっそりと死ねばいい。
こめかみが痛くなるほど強く願う。
雪解けが訪れた暖かな陽気、おれはぬかるみを駆けて、オルゴールの屋敷に赴いた。
屋敷の敷地に入れば、オルゴールの音が鼓膜に届いた。金属の櫛が弾けて、音が風に散っていく。
応接間の出窓からだ。
おれは壁の隙間に爪先入れて、大きな硝子窓越しに室内を覗く。薄暗い応接間で、金髪の男はソファに腰かけている。
生きてた。
生きているんだ。
あんな役立たずは、雪解けみたいになればいいのに。
何をしてるのか暗いから手元まではよく見えないけど、読書しているみたいだった。
ときどきページを捲る仕草。
ふと、指が止まった。
目も閉じている。
いびきもなく、こくりこくりと眠りに沈んでいた。狐を追い払えなくなった雄鶏のように、卵を産まなくなった牝鶏のように、隅でひっそりとしている。
「………」
おれは窓枠から降りて、裏手に回る。
寒さの底から暖かくなると、年寄りは死にやすい。たぶん病弱な人間だってそうだろう。
いつも帯びてるナイフに触れる。鹿角の柄におれの体温が移って、ちいさな動物が息を潜めているみたいだった。
いつだって研いで切れるようにしてある。
うさきだって、鱒だって、なんだって。
入口の泥落としで靴裏の泥をこそぎ落として、屋敷にそっと入った。
足跡をつけないように、物音ひとつさせないように、歩いていく。呼吸も抑えて。
不思議な感覚だ。
いつもナイフがおれの一部みたいなのに、今日はおれがナイフの一部みたいだ。
台所を抜けて、廊下に行く。応接間までもう少し。
あと五歩。
あと三歩。
あとたった半歩のところで、しゃらしゃらとしたタフタの音色が聞こえてきた。
クロエだ。
苔緑色のベルベットドレスに、遠い国から運ばれてきたカシミアショール。陶器のロケットペンダントが揺れている。硝子越しの冬の日差しでも、金鎖はきらきらと光を振り撒いていた。
「こんなぬかるみの森を来たの?」
緑の瞳にも問いかけにも、驚きが含まれていた。
「靴の泥は落としたみたいね」
「うん。クロエ、おれ、えっと、自分用の薪割り斧を持たせてもらえるんだ。雑貨屋に注文したから、春一番で届く」
「あらそう」
自分だけの斧が手に入る。
それなのにクロエの反応は素っ気なかった。
みんなに認められたんだから、もっと褒めてくれていいのに。
クロエと話していると、たまに森と会話しているみたいな気分になる。独り言じゃないけど、返事は木霊めいていた。
「斧が届いたら、クロエが薪割りしたい時、手伝えるよ」
「うちは石炭だけで大丈夫よ」
「でも燻製とか作る時にいるだろ?」
「ハムやベーコンを注文しているから、わざわざ家で仕込まないわ。でもあなたの力が有り余っているなら、また石炭運びを手伝ってくれる? 台所と寝室まで」
「うん!」
クロエの役に立てる。
それが何より嬉しい。
もっと力を付けて、豚を屠殺できるようになって、石炭運びより役に立とう。いつか、必ず。
また春が来て、クロエは若返ったみたいに若草色のドレスに戻った。
夏は薄荷みたいな淡い緑。
秋は蜥蜴みたいな濃い緑。
冬は苔みたいに柔らかそうな深い緑。
それからまた春。
風のように季節が巡って、緑のすももを何度も齧った。
おれの背や手足が伸びてきて、薪割りが楽にできるようになっても、クロエは出会ったときのまま、露をいっぱいに含んだ新緑みたいだった。
もしかしておれが21歳になるまで、クロエも21歳でいてくれるんだろうか。
クロエが魔女だとしたら、善い魔女だ。
21歳より先に踏み出さず待っていてくれる、そんな気がした。