4 あの方の声の優しい響きが
サーカスが撤収した翌日、おれは手ぶらでクロエの屋敷に行くハメになった。
せめて鱒を取ろう。
ズボンをまくり上げて、靴を脱いで、渓流に足を突っ込んだ。滑らないように上流を目指して歩いていく。
音を立てないように、そっと岩の下を指先で探った。
柳の木陰がねらい目だ。
つるりとした感覚が、指先に伝わってくる。
鱒だ。
おれは思いっ切り、鱒の腹を引っ掴んだ。
大きい!
頬が緩むくらい大きいけど、その分、力も強い。
「おらっ、逃げんなっ!」
ぬるっとした鱒が暴れて、川底の陰へ逃げた。
足が滑る。
「うわっ!」
おれは頭から、川底へとひっくり返る。
水の底から見上げた空は、ばかばかしいくらい晴れ渡っていた。
なにもかもべしゃべちゃになったのに、今日は鱒が取れなかった。一匹も。
鱒が見つからない。
もしかしてサーカスや行商が行ったり来たりしたばっかりだから、鱒が奥に引っ込んで警戒している?
おれは諦めて、オルゴール屋敷に行った。
こんなんじゃクロエには会えない。でも服は乾かさないと。
裏庭の日当たりのいいところで、シャツやズボンを干す。ナイフも鞘ごと外して、石の上に置いた。
「くしゅっ」
風に撫でられると、鼻の奥がむずむずする。
森の奥は涼し過ぎる。
ぼんやりしていると、裏口が開いた。クロエだ。
今日のクロエは、白と緑のドレスを着ていた。袖は透けてるし、襟元からレースがケープみたいに広がっている。日に当てずに育てたカリフラワーみたい。
みっともないおれとは、まったく違う。
「ずぶ濡れね。ボイラーにお湯が残ってるから、湯あみしなさい」
「いいよ、座浴槽を出すの大変だろ」
「風邪を引かれると寝覚めが悪いでしょう」
クロエは食器洗い室の奥から、銅の座浴槽を引っ張り出してきた。背もたれが大きなタイプだ。
しゅんしゅんに湧いたケトルからお湯を注ぎ、陶器の水差しから水を足す。
「石鹸も持ってくるから、入ってなさい」
背もたれに凭れ、座浴槽の湯で膝を抱える。冷えていた指先や爪先に、じわりと滲んでくる温度。気持ちいい。
クロエが緑の石鹸と、でっかい海綿を持って戻ってきた。色付き石鹸だ。きれいに染まった石鹸は高いのに。
海綿で泡立てると、山薄荷の香りがしてきた。上等な石鹸を惜しげも無く使っている。
「そんなたくさん使わなくていいよ」
「どうせ夏用の石鹸だもの。使い切りたかったから、気にしないで」
「夏用?」
「山薄荷の石鹸は、暑い時にしか使わないから。いつもはローズマリーの香りなの」
「ふうん」
クロエはほんとうにきれいなものに取り囲まれている。
「鱒が取れなくても、しょげることはないわ」
「……鱒じゃなくて、すてきなものがなかったんだ。お祭りで、クロエにあげられるようなすてきなもの。だってクロエはタフィーだってオレンジだって持ってるし、アイスクリームは持ってこれないし……だから」
脱ぎ散らかしたズボンのポケットに手を突っ込む。
「だから、返す」
おれはお小遣いを突き返した。
クロエは黙ったまま、少し首を傾げる。
可愛げのないことをしても、クロエは怒ったり嘆いたり窘めたりしない。
「いいのよ。持っていてちょうだい。もしかしたら誰かにプレゼントしたくなる素敵なものと、いつか巡り合えるかもしれないでしょう」
「……クロエの持ち物より、すてきなものは無いよ」
「それは分からないわ」
山薄荷の香りの中、クロエは慰めてくれた。
湯気に優しい響きが混ざる。
おれが黙っているうちに、足し湯を持ってきてくれた。あとタオルと大きな紳士物のシャツ。
あの男のシャツだ。
気分良くないけど、仕方ないか。
湯で流して肌を拭いていると、さっぱりする。あったかい湯とふわふわの泡で、疲れや嫌な気分まで洗い流されたみたいだ。貸してもらったシャツからは、洗濯屋の匂いがする。都会の石鹸と糊の匂い。
「残り湯を捨てたら、座浴槽は洗って干してくれる?」
「うん」
シャツ一枚で座浴槽を片付ける。
クロエの石鹸を使ったからなのか、手や肌がお金持ちのひとみたいになった。かさかさしてない。
「さ、すももを食べましょう。やっと熟したのよ、とても甘いわ」
柔らかな枝を撓らせて、大きな実をもぐ。
緑のままで皮も硬いけど、ほんとうに甘くなっていた。
おれはサーカスより、この古ぼけた屋敷の方がいい。
アイスクリームより、この裏庭のすももの方がいい。
「クロエ。おれ、クロエが好きだよ」
「ありがとう。年下の男の子に言われるのは、なかなか嬉しいものね」
嬉しいんだ。
おれもクロエが好きで、クロエもおれが好きなんだ。
シャツの裾を握る。
今、借りている紳士物のシャツはぶかぶかだった。あんな肝臓まで白そうな貧弱野郎でも、おれより背が高いし、肩が広いし、腕は長いんだ。
早く大きくなりたい。
そう思って、すももを齧った。
すももが熟したのは一瞬だった。
秋の気配がちょっとだけしかしてないのに、もう実は結ばれなくなった。
「旬の短いすももだな」
おれがいくら文句を投げつけようが、すすもは平然と梢をさやさや揺らしている。果樹に恥ずかしがるとか悲しむとか無いもんな。悪口ぶつけても素通りするだけ。
とぼとぼ歩いていると、車宿りの前で赤い箱馬車が止まっていた。やたら凝った装飾の扉には、良く変わらない動物の絵が描かれている。家紋ってやつだ。
若い御者は赤いお着せを脱いで、馬のひづめの裏側を確認していた。尖った小石や腐った草が入り込んでないか、馬が心地よく歩けるか指と目で確かめ、小石を裏掘り爪で取っている。
御者が待ってるんだったら、すぐ終わる修理なのかな。
玄関から執事っぽいおっさんが出てきた。
「あと一時間くらいで修理が終わるそうだ」
「そうですか。しかしこのお屋敷は、エールかビールのひとつも出すお女中はいないんですかね。馬の水飲み場でいいと思ってるとしたら、まったく癇に障る」
御者は忌々しそうに呻いた。
森の奥は涼しいんだけど、都会から来た御者は暑さが籠っているんだろう。
おれは急いで裏口に回り込んで、台所へ飛び込んだ。陶器のマグジョッキを探して、茶布巾できっちり磨く。古樽からエールを満たした。泡の少なく黒っぽい焙煎エールは、荷馬車の老御者用だけどいいだろう。
運搬人へのねぎらいだ。
そうだ。きちんと手を洗ってからじゃないと。爪に垢や鶏糞が入ってたらだめだ。シャツのボタンも全部しめて、靴紐も結んで。髪の毛もだ。
五本櫛で梳いてから、マグジョッキを抱えて持っていく。
御者がおれに気づく。
ちょっと緊張するけど、クロエが意地悪って思われるのは嫌だ。
「お、お疲れさまです。エールはいかがですか?」
丁寧な言葉遣いと一緒に、焙煎エールを差し入れた。
「おう、坊主。気が利くな」
「おかわりはいかがですか?」
「いや、ごっそさん」
一礼してから、マグジョッキを片付ける。
これでクロエが意地悪だって思われないぞ。クロエを悪く言うなんてダメだ。誰だって絶対にダメだ。
台所を片付けてから、おれは裏口の草むしりに取り掛かった。
馬車が遠ざかる音がして、クロエがやってきた。
今日のドレスは蜥蜴っぽい緑色で、金糸ラインが袖と裾に刺繍されていた。ドレスはよく分からないけど、なんとなく秋っぽい緑だ。それにペンダントの金鎖が目立ってきれい。
「勝手なことしたけど、さっき御者のにいちゃんに、焙煎エールを差し入れたよ」
「ああ、そうね。お飲み物を出す方が礼儀正しいわね」
口ではそう言いつつも、緑の瞳は無関心だった。
「クロエ。こういう大きなお屋敷に、使用人がいないの変だよ。エール出さないと、意地悪って思われちゃうだろ」
「そうね。でも他人が増えると、空気が濁って嫌なのよ」
クロエはどうでもいいような口ぶりだった。
どうでもよくないのに。
魔女だとか娼婦だとか、意地悪い女主人とか、そんなこと思われるのは嫌だ。
「おれが雇われてやってもいいよ」
「あなたは家族と家業があるでしょう」
家族なんてじいちゃんだけだし、家業なんて鵞鳥とか鶏とかの世話ばっかりだ。
小魚と卵の殻を潰して餌を作ったり、小屋を掃いて鶏糞を集めたり、みみずを集めたり。頑張っても、みんなには鶏糞臭いって言われるし。
そんな仕事より、クロエの役に立ちたい。
クロエ以外はどうでもいい。クロエに会う以外の時間なんて、人生のオマケだ。ちっとも大切じゃない。
「でもやっぱりおっきなお屋敷なのに、女中がいないのおかしいよ」
村で女中働き出来そうな女の子を思いつく。
だけどクロエをおれだけの秘密にしたかった。村のやつらなんかに紹介したくない。
「クロエが女中を雇うの嫌だったら、もっとさ、小さい屋敷を借りるとか」
「この屋敷のオルゴールたちを置いていけないし、修復するためのアトリエが必要でしょう」
「うん……」
「なにより大叔父さまから受け継いだ技術とお屋敷は、守らなくちゃいけないの」
あの男も?
あのろくすっぽ役に立たない男も、受け継いだの?
遺産を残してくれた大叔父の忘れ形見だから、たった独りで介護しているのか。
「さ、お菓子をいただきましょう。果物も」
すももの木陰を通って、裏口に回る。
「……クロエ。すもも、終わっちゃったね。すっげぇ美味しかったのに」
「旬が短いのだけが難点なのよ」
「……うん。美味しかった。歯触りも、香りも、好き。すっげぇ好きなんだ。だから、あのさ、クロエ」
「なに?」
おれは自分のシャツをぎゅっと握って、口を開く。
「来年も食べていい?」
「ええ、そうね。来年も食べてちょうだい」
約束してくれる声の優しさに、嬉しさで背骨が震えてくる。
来年もクロエの屋敷に来てもいいんだ。
おれは嬉しくて、頬が緩んできた。