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オルゴールの箱庭  作者: 猫目石琥珀
チューン・シート
4/6

4 あの方の声の優しい響きが



 サーカスが撤収した翌日、おれは手ぶらでクロエの屋敷に行くハメになった。

 せめて鱒を取ろう。

 ズボンをまくり上げて、靴を脱いで、渓流に足を突っ込んだ。滑らないように上流を目指して歩いていく。

 音を立てないように、そっと岩の下を指先で探った。

 柳の木陰がねらい目だ。

 つるりとした感覚が、指先に伝わってくる。

 鱒だ。

 おれは思いっ切り、鱒の腹を引っ掴んだ。

 大きい!

 頬が緩むくらい大きいけど、その分、力も強い。

「おらっ、逃げんなっ!」

 ぬるっとした鱒が暴れて、川底の陰へ逃げた。

 足が滑る。

「うわっ!」

 おれは頭から、川底へとひっくり返る。 

 水の底から見上げた空は、ばかばかしいくらい晴れ渡っていた。




 なにもかもべしゃべちゃになったのに、今日は鱒が取れなかった。一匹も。

 鱒が見つからない。

 もしかしてサーカスや行商が行ったり来たりしたばっかりだから、鱒が奥に引っ込んで警戒している?

 おれは諦めて、オルゴール屋敷に行った。

 こんなんじゃクロエには会えない。でも服は乾かさないと。

 裏庭の日当たりのいいところで、シャツやズボンを干す。ナイフも鞘ごと外して、石の上に置いた。

「くしゅっ」

 風に撫でられると、鼻の奥がむずむずする。

 森の奥は涼し過ぎる。

 ぼんやりしていると、裏口が開いた。クロエだ。

 今日のクロエは、白と緑のドレスを着ていた。袖は透けてるし、襟元からレースがケープみたいに広がっている。日に当てずに育てたカリフラワーみたい。

 みっともないおれとは、まったく違う。

「ずぶ濡れね。ボイラーにお湯が残ってるから、湯あみしなさい」

「いいよ、座浴槽を出すの大変だろ」

「風邪を引かれると寝覚めが悪いでしょう」 

 クロエは食器洗い室の奥から、銅の座浴槽を引っ張り出してきた。背もたれが大きなタイプだ。

 しゅんしゅんに湧いたケトルからお湯を注ぎ、陶器の水差しから水を足す。

「石鹸も持ってくるから、入ってなさい」

 背もたれに凭れ、座浴槽の湯で膝を抱える。冷えていた指先や爪先に、じわりと滲んでくる温度。気持ちいい。

 クロエが緑の石鹸と、でっかい海綿を持って戻ってきた。色付き石鹸だ。きれいに染まった石鹸は高いのに。

 海綿で泡立てると、山薄荷の香りがしてきた。上等な石鹸を惜しげも無く使っている。

「そんなたくさん使わなくていいよ」

「どうせ夏用の石鹸だもの。使い切りたかったから、気にしないで」

「夏用?」

「山薄荷の石鹸は、暑い時にしか使わないから。いつもはローズマリーの香りなの」

「ふうん」

 クロエはほんとうにきれいなものに取り囲まれている。

「鱒が取れなくても、しょげることはないわ」

「……鱒じゃなくて、すてきなものがなかったんだ。お祭りで、クロエにあげられるようなすてきなもの。だってクロエはタフィーだってオレンジだって持ってるし、アイスクリームは持ってこれないし……だから」

 脱ぎ散らかしたズボンのポケットに手を突っ込む。

「だから、返す」

 おれはお小遣いを突き返した。

 クロエは黙ったまま、少し首を傾げる。

 可愛げのないことをしても、クロエは怒ったり嘆いたり窘めたりしない。

「いいのよ。持っていてちょうだい。もしかしたら誰かにプレゼントしたくなる素敵なものと、いつか巡り合えるかもしれないでしょう」

「……クロエの持ち物より、すてきなものは無いよ」

「それは分からないわ」

 山薄荷の香りの中、クロエは慰めてくれた。

 湯気に優しい響きが混ざる。

 おれが黙っているうちに、足し湯を持ってきてくれた。あとタオルと大きな紳士物のシャツ。

 あの男のシャツだ。

 気分良くないけど、仕方ないか。

 湯で流して肌を拭いていると、さっぱりする。あったかい湯とふわふわの泡で、疲れや嫌な気分まで洗い流されたみたいだ。貸してもらったシャツからは、洗濯屋の匂いがする。都会の石鹸と糊の匂い。

「残り湯を捨てたら、座浴槽は洗って干してくれる?」

「うん」

 シャツ一枚で座浴槽を片付ける。

 クロエの石鹸を使ったからなのか、手や肌がお金持ちのひとみたいになった。かさかさしてない。

「さ、すももを食べましょう。やっと熟したのよ、とても甘いわ」

 柔らかな枝を撓らせて、大きな実をもぐ。

 緑のままで皮も硬いけど、ほんとうに甘くなっていた。

 おれはサーカスより、この古ぼけた屋敷の方がいい。

 アイスクリームより、この裏庭のすももの方がいい。

「クロエ。おれ、クロエが好きだよ」

「ありがとう。年下の男の子に言われるのは、なかなか嬉しいものね」

 嬉しいんだ。

 おれもクロエが好きで、クロエもおれが好きなんだ。

 シャツの裾を握る。

 今、借りている紳士物のシャツはぶかぶかだった。あんな肝臓まで白そうな貧弱野郎でも、おれより背が高いし、肩が広いし、腕は長いんだ。

 早く大きくなりたい。

 そう思って、すももを齧った。

  





 すももが熟したのは一瞬だった。

 秋の気配がちょっとだけしかしてないのに、もう実は結ばれなくなった。

「旬の短いすももだな」

 おれがいくら文句を投げつけようが、すすもは平然と梢をさやさや揺らしている。果樹に恥ずかしがるとか悲しむとか無いもんな。悪口ぶつけても素通りするだけ。

 とぼとぼ歩いていると、車宿りの前で赤い箱馬車が止まっていた。やたら凝った装飾の扉には、良く変わらない動物の絵が描かれている。家紋ってやつだ。

 若い御者は赤いお着せを脱いで、馬のひづめの裏側を確認していた。尖った小石や腐った草が入り込んでないか、馬が心地よく歩けるか指と目で確かめ、小石を裏掘り爪で取っている。

 御者が待ってるんだったら、すぐ終わる修理なのかな。

 玄関から執事っぽいおっさんが出てきた。

「あと一時間くらいで修理が終わるそうだ」

「そうですか。しかしこのお屋敷は、エールかビールのひとつも出すお女中はいないんですかね。馬の水飲み場でいいと思ってるとしたら、まったく癇に障る」

 御者は忌々しそうに呻いた。

 森の奥は涼しいんだけど、都会から来た御者は暑さが籠っているんだろう。

 おれは急いで裏口に回り込んで、台所へ飛び込んだ。陶器のマグジョッキを探して、茶布巾できっちり磨く。古樽からエールを満たした。泡の少なく黒っぽい焙煎エールは、荷馬車の老御者用だけどいいだろう。

 運搬人へのねぎらいだ。

 そうだ。きちんと手を洗ってからじゃないと。爪に垢や鶏糞が入ってたらだめだ。シャツのボタンも全部しめて、靴紐も結んで。髪の毛もだ。

 五本櫛で梳いてから、マグジョッキを抱えて持っていく。

 御者がおれに気づく。

 ちょっと緊張するけど、クロエが意地悪って思われるのは嫌だ。 

「お、お疲れさまです。エールはいかがですか?」

 丁寧な言葉遣いと一緒に、焙煎エールを差し入れた。

「おう、坊主。気が利くな」

「おかわりはいかがですか?」

「いや、ごっそさん」

 一礼してから、マグジョッキを片付ける。

 これでクロエが意地悪だって思われないぞ。クロエを悪く言うなんてダメだ。誰だって絶対にダメだ。

 台所を片付けてから、おれは裏口の草むしりに取り掛かった。

 馬車が遠ざかる音がして、クロエがやってきた。

 今日のドレスは蜥蜴っぽい緑色で、金糸ラインが袖と裾に刺繍されていた。ドレスはよく分からないけど、なんとなく秋っぽい緑だ。それにペンダントの金鎖が目立ってきれい。

「勝手なことしたけど、さっき御者のにいちゃんに、焙煎エールを差し入れたよ」

「ああ、そうね。お飲み物を出す方が礼儀正しいわね」

 口ではそう言いつつも、緑の瞳は無関心だった。

「クロエ。こういう大きなお屋敷に、使用人がいないの変だよ。エール出さないと、意地悪って思われちゃうだろ」

「そうね。でも他人が増えると、空気が濁って嫌なのよ」

 クロエはどうでもいいような口ぶりだった。

 どうでもよくないのに。

 魔女だとか娼婦だとか、意地悪い女主人とか、そんなこと思われるのは嫌だ。

「おれが雇われてやってもいいよ」

「あなたは家族と家業があるでしょう」

 家族なんてじいちゃんだけだし、家業なんて鵞鳥とか鶏とかの世話ばっかりだ。

 小魚と卵の殻を潰して餌を作ったり、小屋を掃いて鶏糞を集めたり、みみずを集めたり。頑張っても、みんなには鶏糞臭いって言われるし。

 そんな仕事より、クロエの役に立ちたい。

 クロエ以外はどうでもいい。クロエに会う以外の時間なんて、人生のオマケだ。ちっとも大切じゃない。

「でもやっぱりおっきなお屋敷なのに、女中がいないのおかしいよ」

 村で女中働き出来そうな女の子を思いつく。

 だけどクロエをおれだけの秘密にしたかった。村のやつらなんかに紹介したくない。

「クロエが女中を雇うの嫌だったら、もっとさ、小さい屋敷を借りるとか」

「この屋敷のオルゴールたちを置いていけないし、修復するためのアトリエが必要でしょう」

「うん……」

「なにより大叔父さまから受け継いだ技術とお屋敷は、守らなくちゃいけないの」

 あの男も? 

 あのろくすっぽ役に立たない男も、受け継いだの?

 遺産を残してくれた大叔父の忘れ形見だから、たった独りで介護しているのか。

「さ、お菓子をいただきましょう。果物も」

 すももの木陰を通って、裏口に回る。 

「……クロエ。すもも、終わっちゃったね。すっげぇ美味しかったのに」

「旬が短いのだけが難点なのよ」

「……うん。美味しかった。歯触りも、香りも、好き。すっげぇ好きなんだ。だから、あのさ、クロエ」

「なに?」

 おれは自分のシャツをぎゅっと握って、口を開く。

「来年も食べていい?」

「ええ、そうね。来年も食べてちょうだい」

 約束してくれる声の優しさに、嬉しさで背骨が震えてくる。

 来年もクロエの屋敷に来てもいいんだ。 

 おれは嬉しくて、頬が緩んできた。


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