3 ある晴れた日に
空は底抜けな青さで、渓流はさらさらと、しだれ柳はさやさやと、ご機嫌な音を立てていた。
おれはしだれ柳の陰で、獲った鱒の腹を裂いた。
使い慣れた鹿角のナイフのおかげで、するするとはらわたが抜ける。
きれいになった鱒をいら草で包んで、靭皮で縛って、痛まないように丁寧に運ぶ。
おんぼろ屋敷に行くのは、なるべく荷馬車が来る日。荷馬車はだいたい十日に一度だけ、食糧と雑貨、それから手紙と洗濯物を運んでくる。
手伝うって言いだせば、クロエは頷いてくれる。
クロエの近くにいられる。
でも今日は荷馬車はいなかった。
昨日来ちゃったのか、それとも明日になったのか。
すももの木を見上げる。
いちごは赤くなっているのに、すももはいつまでたっても緑色だ。まったくいつまで緑のつもりなんだろう。
奥に進むと、オルゴールの響きが聞こえてきた。
クロエだ。
木陰のベンチに腰を下ろして、手の中のオルゴールに耳を澄ませている。
「きれいだ」
思わず漏らした呟きに、クロエの唇が溜息を吐いた。
「そう? 音色は澄んでいるけど、わたくしとしては満足いかない調整だったわ。大叔父さまの作ったメロディはもっと高低差がはっきりして、余韻が豊かだったのに。オリジナルの音がなかなか再現できない」
オルゴールみたいに金属的な声で語った。
きれいだって言いたかったのは、クロエのことなのに。
でもそう言い直すのも恥ずかしい。
「今日は外で修理?」
「家に籠っていると、まだ嫌なにおいがするから。昨日は屋敷中の窓ふきしたのよ。だから匂いが残ってて」
屋敷の窓ガラスを見上げる。
たしかに全部ぴかぴかだ。
あんまりにも透明だから、ものを投げても素通りしそう。小石を投げたくなる。
バカな考えだ。
そんないたずらしたら、きっとクロエは二度と口を利いてくれない。
おれは鱒を台所の涼しいところに置く。
いつも煤っぽい箱型オーブンが、黒鉛を塗られてぴっかぴかに磨き抜かれていた。
「オーブンも大掃除したんだ」
「一か月に一度だけ、御者の奥さんと娘さんたちも来てくれているの。屋敷の掃除にね。昨日は何年かぶりに、絨毯までひっくり返したわ」
なんだ、やっぱりもう荷馬車が来ちゃったんだ。
手伝おうとした荷運びはなくなった。
でも夏の菜園には、雑草が繁りに繁っている。
おれが雑草を眺めていると、クロエは立ち上がって腰を伸ばす。
「御者が草むしりしてくれたんだけど、正面玄関まで。こっちまで手が回らなかったのよ」
「手伝うよ、草むしり。このままじゃ虫が酷いことになるし」
茂らせておくと嫌な虫が増えるし、菜園を荒らすうさぎの隠れ家になる。
おれは丁寧に草むしりしていった。
春にはおとなしかった裏庭の草たちも、夏になれば硬くて横暴になってくる。生意気な草を片っ端から片付けて、堆肥にすき込んでやった。
半分くらい片付いた頃、クロエが生姜水を持ってきてくれた。冷たくてぴりっとした生姜水で、乾いた喉を潤す。
「男手がいると助かるだろ」
「ええ、ありがとう。お礼にいいことを教えてあげるわ」
声を潜めてささやく。
まるでとっておきの秘密を、おれに手渡すようだった。
きれいな指先が、裏庭のすももを差す。
夏の日差しをどれだけ浴びても、いまだに緑色のすももだ。黄色くさえならない。
「あのすもも、熟しても緑なのよ。完熟はまだ少し先だけど、そろそろ食べられるわ」
「ほんと!」
おれは靴を脱いで、木登りをした。緑の梢から、緑の実をもぐ。
皮は固めだけど、たしかに柔らかい。甘く爽やかに熟していた。なんて美味しいんだろう。
乾いた喉にするする入っていく。
「おなかを壊さないなら、好きなだけ食べていいわよ」
「やった! クロエの分も取ってあげる。いくつ?」
「じゃあふたつ、お願いするわ」
おれはすももを取れるだけ取って、地面に降りる。
「そんなに食べきれるの?」
「美味しいから平気。外国のお菓子より好きだ」
「そうなの? うちの蜜蜂を追いかけてきたから、てっきり甘いもの好きだと思ったわ」
「あれは友達に誘われたから。このすももは香りが良くて好きだよ」
ふたりで壁に凭れて、緑のすももを齧る。
おれは種を地べたに吐き出した。
実のでかさのわりに小さい種。
クロエはスカートのポケットから、レースのハンカチーフを出す。口許をそっと隠して、種を吐いた。
足元に種があるのが突然、恥ずかしくなった。靴の裏で踏みつける。
種が見えなくなってほっとした。
「クロエ。もうすぐサーカスがやってくるだろ」
「ええ、賑わしくなるわね」
眩しそうに瞳を細める。
「クロエもサーカスへ行くよね。だってサーカスがくるのは、干し草刈りが終わった時だけだから。あと回転木馬も! ピエロもいるし、影絵芝居もあるんだ! だから……クロエは行かない?」
「わたくしは……」
言いかけた時に、屋敷からオルガンが聞こえてきた。
あの男だ。
あいつが弾いているんだ。
金髪で顔立ちはきれいだけど、鱒の腹みたいに白い膚をしている。はらわたを裂いたら、内臓まで青臭そうな貧相なやつ。
役に立たない癖に、オルガンは弾けるんだ。
「せっかくのお誘いだけど、ごめんなさい。わたくしは騒がしい場所とか人込みは苦手なの。空気も悪くなるでしょう」
クロエの呼吸は健康なのに?
……あいつに気を遣ってるのか?
あの貧相な野郎がサーカスに行けないから、クロエも遊べないんだ。
「菜園の草むしりも助かったわ。お小遣いを弾むから、あなたはサーカスを楽しんできなさい」
いつもの手間賃よりたくさんの銀貨。
ガキ扱いされたくないけど、突っぱねるとますますガキっぽい気がする。
「じゃあクロエに何か買ってくる!」
夏の青空と、村の広場のど真ん中、そこにテントが立つ。
サーカスだ。
干し草刈りや小麦の収穫とか終わって、みんながほっとした頃にサーカスはやってくる。夏のおわりって月が明るくてまだ寒くないから、遠い村から行商や親戚がやってくるんだ。
友達たちと集合する。
「小遣い貯めてきたぞ」
年長のやつは鼻の穴を広げて言う。
こいつは宿屋の跡取りで、逗留客からいつもチップを貰っているらしい。力持ちで手際がいいから、チップも弾んでもらえるとか、本人はいっつも自慢げに嘯いてやがる。
車輪大工の次男はロバで木材を荷運びして駄賃を貰ってるし、ペンキ屋の末っ子は顔料を粉砕して小遣い稼ぎしていた。
おれもクロエの手伝いと小遣いで、お祭りで好き勝手できるだけは貯まった。
「意外に稼いでるな」
年長のやつに、不思議そうに聞かれた。
「おまえ、どうやって稼いでんの? ちっちぇじゃん、おまえんちの鵞鳥小屋」
「卵といっしょに、獲った鱒を売ったり、使い走りしてるんだよ」
「釣り道具持ってないじゃん」
「鱒は手づかみで獲れるんだ。土手に腹ばいになったり、上流に向かって歩いたりして……」
おれが身振り手振りで説明すると、年長のやつはにやにや笑った。すっげぇ嫌な嗤い方だ。
「へー。おまえみたいな鶏糞臭いやつから、鱒を買うのか?」
こいつはおれんちが小さい家禽農家だからって、頭っからバカにしやがって。
「おまえこそ息が臭いのに、宿で働けるのかよ」
「ハァ? おまえなんか髪も爪も臭いじゃん!」
殴り合いになりそうだったけど、友達にふたりがかりで止められる。
年に一回だけのお祭りなのに、ケンカしている暇はない。
「おれ、独りで回るからいい」
みんなにそう言い放って、祭りに飛び込む。
サーカスの日だけは、村は華やかだった。
村の中央にある共同ポンプも、朝露がついた花で飾られている。鋳物の蛇口がある木製ポンプはふだんギィギィとおんぼろ声を鳴らしているのに、サーカスにつられて若返ったみたいだ。
村に一軒だけある食料雑貨屋は、きれいな旗を飾り付けて、普段より花や駄菓子をいっぱい仕入れて店先に並べる。ヌガーにタフィーにチョコレート。歯にねっとりつく菓子だ。
オレンジ売りもやってきている。
「いらっしゃい、いらっしゃい! オレンジだよ! 南からやってきたオレンジだよ!」
目が覚めるくらい明るい色したオレンジとレモンが、木箱に盛られている。
ちっちゃいガキがオレンジを買ってもらったって自慢してるけど、おれはクロエの家で食べたばっかりだった。
滅多にやってこない行商たちも訪れていた。
「さあさ、こいつをご覧あれ! この世にふたつとない木彫りの時計だよ。まさに芸術さ」
行商が胸を張って紹介しているのは、置時計だった。
真鍮の長針と短針が几帳面に動いているけど、あんなのよりクロエのオルゴールの方がもっとすてきだ。
ネックレスやリボンや指ぬきも売られていた。
きらきらぴかぴかしているけど、細かさとか奥行きとかがない。行商たちが鼻高々に見せびらかしている商品は、ニセモノじゃないけどホンモノじゃない。安物だ。
こんなところにクロエにあげられるものなんてない。
クロエは誰も持っていないオルゴールのペンダントを、いつも身に付けている。数えきれないほどのオルゴールだって、おとぎばなしからやってきたみたいに不思議だ。
銀のナイフとフォーク、彫刻されたグラス。
花だって、人形だって、レースのハンカチーフだって、カシミアのショールだって、タフタのペチコートだって、女の子が欲しがるものぜんぶ持っている。
つまんなくなってきた。
あんなに楽しみにしてたのに。
「おーい、回転木馬ができたぞ」
遠くの丘から声が響く。
回転木馬が運ばれて、動けるように組み立てられていた。
五頭の木馬が並ぶ回転木馬。青や赤や金色や、ありえない色に彩色されている。
屋根のてっぺんから鉄の棒が伸びて、縄が垂れて、本物の驢馬に繋がっていた。鈴の飾りがついた驢馬が歩けば、回転木馬も回りだす。
回転木馬のリズムに合わせて、アイスクリーム売りの歌声が聞こえる。
「レーズン入りの下さい。オレンジはちみつソースもかけて」
いちばん贅沢な注文をして、アイスクリームを買う。
「冷えたはちみつがぱりぱりするの美味しよね」
そう言いたいけど、クロエが横にいない。
クロエの台所にはアイスクリーム回しはなかったから、きっとアイスクリームは食べてないんだろう。でも溶けてしまう。夏のアイスなんて、朝方みた夢みたいに残らない。
冷たい夢みたいなアイスクリームを平らげたら、サーカスの呼び込みがはじまった。
おれはサーカスのチケットを買って、前の席に座る。
曲芸はすごかった。
台の上にすげぇ高いはしごを乗せて、その上で難しいポーズをとるんだ。もうこれ以上、大変なポーズできないだろうって思っても、おれの想像なんて簡単に吹き飛ばす。
はしごの上で片腕で逆立ちしたりするんだ。
筋肉がすごい力持ちのおっさんが、華奢な女の子を持ち上げたり、お手玉みたいにジャンプさせたりする。
ずっと心臓がどきどきする。
心臓のどきどきに負けないくらい、力いっぱい拍手する。
でもサーカスを見てるときも、友達と遊んでいるときも、おれはずっとクロエのことを考えていた。
クロエ。
おれが楽しい時に、隣にいてくれればいいのに。
楽しい時だけじゃなくて、普通の時も、働いている時も、夜も、昼も、朝も、ずっと。
あんな男と一緒じゃなくて。