2 花から花へ
森は迷い路だけど、蜜蜂を追いかけた時におれは目印係だった。どこに刻みつけたかは、まだ忘れていない。
目立つ木の幹に、ナイフで引っ掻いた矢印を辿っていく。
誰も来れないように、ナイフのひっかき傷をでたらめに増やして、おれだけしか行けないようにした。クロエに会うのは、おれだけでいい。
クロエはおれだけの秘密なんだ。
頻繁に行くとうちの鵞鳥や鶏の世話ができないし、みんなにバレそうだったから、おれは魚獲りするふりをして、一週間に一度くらいだけ屋敷に行く。
裏庭に入り込んでも、クロエは怒ったりしなかった。
新緑の瞳はいつだって風のない森みたいで、おれを視界の端っこに掴むだけだった。
だけど今日は売りものがある。
「クロエ。鱒が獲れたんだ。あと鶏のたまごも! 買ってくれる?」
「鶏を育てているの?」
「うん、うち家禽農家なんだ。ほんとは鵞鳥だけど、あいつらは卵孵すの下手じゃん。すげぇ下手。だから卵を孵すのうまい鶏も飼ってるんだ。鶏のたまごは、おれが売っていいってじいちゃんに許してもらったんだ」
「買ってあげたいけど、わたくしは料理できないわ」
「女なのに?」
おれが叫ぶと、緑の瞳はちょっとだけ鋭くて暗くなった。
うるさかったのかな。
「クロエ。鱒とたまごを買ってくれるなら、塩焼きと目玉焼きを作ってやってもいい」
「じゃあお願いしようかしらね。使いたいハーブがあるなら、どれか摘みましょうか?」
裏庭には蜜蜂の巣箱と、小さな菜園があった。パセリ、セージ、ローズマリー、タイム、おれが知ってるハーブはそれだけだけど、他にもいろんな薬草が茂っている。あといちごも。
「いちごも食べる?」
「うん!」
もしクロエが魔女だったら、きっと良い魔女だ。
「じゃあいちごとパセリを摘んで。おれは塩を砕くから」
塩砕きはわりと好きだ。オートミール用の綿棒で、固まった塩をごりごりと砕く感触は楽しい。
鱒を内臓はもう取ってあるから、塩を馴染ませてフライパンで焼く。
クロエがきれいなお皿を出してくれた。それと銀のナイフとフォークも。
いちばんいいお客さまに出す食器だ。大人になった気分だ。
塩焼きと目玉焼きを乗せる。
うまくできた。
鱒は塩が馴染んでいるし、目玉焼きは端っこがカリカリ焦げて美味しい。
「クロエ、美味しい?」
「ええ、とても。新鮮な食材は久しぶりね」
「おれも鱒は久しぶりなんだ。最近はえんどうばっかり。鵞鳥や鶏にやるえんどうは、うちの畑が育ててるから。あと大麦も。だからうちいつも朝ごはんは大麦ビスケットなんだ。ラードがたっぷり入ったやつ」
クロエは黙って、おれの話に耳を傾けてくれた。
「毎年、隣の家の屠殺を手伝うからさ、その時にラードを分けてもらえるんだ。今年はおれが豚を屠殺したいな。じいちゃんはもうちょっと大きくならないと、危ないって言うけどさ」
皿をきれいにして、いちごを食べながら気持ち良く喋っていると、外から砂利を跳ねる音が聞こえた。
あれは車輪が砂利を飛ばす音。
「またお客さんかな」
クロエの屋敷には、たまに立派な箱馬車でお客が来て、オルゴールを預けたり、受け取ってたりした。
壮麗な馬車を想像したけど、今日は違う。
やってきたのは、大きな荷馬車だ。御しているのは背の曲がった髭の老人で、牽いているのはぶち模様の農耕馬だった。
「行商?」
でも行商って縄張りがある。
まったく知らない行商がやってくるなんてあるのか?
「行商じゃなくて、わたくしが街から食料雑貨を運んでもらっているの」
「村にも食糧雑貨屋があるよ」
「わたくしの欲しいものは無いわ」
村の食料雑貨屋は、いろんなものがあるのに。
鉄鍋やキャラコ布だって何種類もあるし、重曹や酒石英もある。砂糖だって、黒砂糖だけじゃなくて白砂糖だって揃っている。便箋とインクまで置いてあるんだ。
荷馬車は裏口に回ってきた。
「お疲れさま」
クロエは陶器のビアジョッキを差し出す。エールの匂いだ。
年寄りの御者が黙り込んだまま、髭も濡らす勢いでエールを飲み干した。礼も言わずジョッキを返した。
クロエに平べったいブリキ箱を渡す。それから荷馬車から、木箱や紙箱がたくさん下ろされていった。
籠には山盛りのオレンジとレモン。すげぇ、こんなたくさんのオレンジ、初めて見た。
籐の大籠もある。何が入ってるんだろ?
「そっちはリネン類よ。洗濯屋に運んでもらっているの。入れ替えてくるわ」
年寄り御者がおれに見向きもせず、黙々と積み荷を降ろしていく。地下室への扉を開けて、ワインって印刷された木箱を下ろしていった。
クロエが籐の大籠を持ってきた。それと何通かの封筒を渡す。
御者は封筒を受け取って一礼し、荷馬車は行ってしまった。
「クロエ。バターを渡さなくていいのか?」
「バター?」
「雑貨屋への支払い、バターやチーズじゃないの?」
行商や雑貨屋への支払いって、バターかチーズ、あと梳いた羊毛とか編んだレースなのに。
「田舎ではバターで支払うの?」
「だって女がお金を持つと、ロクなことないだろ。だから女が買い物する時は、自分の作ったバターとかチーズで物々交換ってのが常識じゃん」
「……あらそう」
クロエは素っ気なく呟いて、おれに背を向けてしまう。
目の前には山ほどの食材と雑貨。
「なあ、クロエ。おれも手伝うよ」
「ありがとう。じゃあ瓶詰めを棚に運んでちょうだい」
腕まくりして荷運びを手伝う。
瓶詰めはいろんな種類があった。
都会のラベルって、かっこいいよな。多色刷りで鮮やかだ。
それに文字がはっきり読める。田舎の印刷って、傷んだ植字でも使う上にインクが悪いから、文字がぼやけて読みにくいんだ。
黒オリーブ、ケッパー入りアンチョビ、桃のピクルス、エルダーの花入り白ワインビネガー、あんずのピュレ、マーマレード、ブランデー漬けの洋梨や、葡萄のケチャップ。
ひとつひとつ手に取って文字を読む。
村の食料雑貨屋にはない食べ物ばかりだ。
この緑のリキュールは何だろう。すごく凝った手書きのラベルだから、おれには読めなかった。頭文字はAだからアンゼリカのリキュールなのかな?
「そのお酒は匂いがついたら取れないわよ」
クロエはチーズやハムを戸付の棚にしまっていた。
もしかしてクロエは、保存食ばっかりなのかな。
いいな。都会のラベルがついたジャムやピクルスは美味しそうだ。あと毎日、違ったものが食べられるなんて、夢みたいだ。
木箱にはOILって印刷されて、瓶が六本も入ってる。
真新しいラベルには、帆船の絵が刷られていた。かっこいい絵柄だけど、なんの油だろう。
「それは機械油ね。作業室に持っていくわ」
「おれが運ぶよ」
「わたくしが運ぶわ。作業室には立ち入り禁止よ、誰であっても」
「入らないから、絶対。聖書に誓ってもいい」
真剣に約束する。
大工やペンキ屋の作業場に勝手に入ったら、拳骨どころじゃない。どんなバカだって、他人の作業場でいたずらなんかしない。
クロエは微かに吐息を漏らして、頷いた。他の小物を抱えて、表の方へ行く。
ついてきていいってことだ。
おれは重い木箱を抱えていく。
「クロエ。機械に使う油って、亜麻仁油じゃないの?」
おれやじいちゃんが作業に使うのは、亜麻仁油だ。家具や斧に塗ったり、塗料に混ぜたりする。
でも帆船の絵なら、亜麻から絞った油じゃない。
「鯨の油よ。ラベルに捕鯨船が刷られているでしょう」
「くじら! 機械の油って、くじらを使うの?」
「ええ、時計やオルゴールには鯨がいちばんだわ」
作業室の手前まで、おれが油を運ぶ。扉の向こうからは、クロエの細腕で運ばれていった。
くじらの油か。
安い蝋燭の原料だけど、機械油にもなるんだ。
クロエが作業室から出てきた時には、大きな木箱じゃなくて小さな紙箱を抱えていた。
きれいな金文字が印刷された箱だ。凝った文字で読めないけど、いろんな花がいっぱい描かれていた。すみれとか薔薇とか、あとカモミール。
「外国のお菓子よ。わたくしには甘すぎたけど、あなたは好きかしら」
「たぶん」
クロエは少し首を傾げた。
おれがあんまり嬉しそうじゃなかったから、不思議だったのかも。
ガキって甘いものに大喜びするもんだし。
「オレンジの方が好きなら、オレンジもあげるわ」
「ありがと」
近くでオルゴールの音がした。
ポロロン……って一節だけ奏でて、止まる。
「すぐ近くで聞こえた」
「今の音は、わたくしのペンダントよ。これはオルゴールなの」
黄薔薇が描かれた陶器のペンダントだ。
ロケットになっていると思ったけど、蓋がぱちんと開けば、中身は小さな小さな真鍮の機械。
オルゴールだ。
「すっげ! こんな小さいオルゴールあるんだ!」
「あなた、もしかしてオルゴールが見たかったの?」
「……え? うん」
「その両手をずっとおなかにくっつけているなら、オルゴールを見せてあげるわ」
「作業室に入っていいの?」
「いいえ、オルゴールの保管庫よ。大叔父さまの遺作があるの」
何も触るなと釘を刺され、おれは作業室の隣の部屋へ入れてもらえた。
窓のない小部屋は、両側の壁ぜんぶが棚だった。
棚にはお姫さまが持っていそうな小さな瓶とか小箱とか、懐中時計、あと鳥の剥製も並んでいる。ボトルシップも。
たったひとつだけでも行商の目玉になるのが、これでもかってほど揃っていた。
街にある骨董屋って、こんな感じなのかな。
「あ、短銃がある!」
額縁に短銃が飾られていた。朱色に塗られて、黄金で模様が描かれていて、絹の房飾りがついている。
「海賊の船長が使ってる短銃だろ! かっこいい」
「あれもオルゴールよ」
「へえ!」
額縁ごと棚から下ろして見せてくれた。
銃身を開けば、真鍮のシリンダーが入っていた。
「大叔父さまはオルゴールを、からくり仕掛けと組み合わせたり、意外な小物に封じ込めたりするのがお好きだったのよ。付けボクロケースや、気付け薬入れ、嗅ぎ煙草入れ。この香水瓶も、小さなオルゴールが仕込まれているの」
風景画が描かれている小瓶だった。
「この表面を開くと……」
「オルゴールだ!」
「香水も入れられるのよ。一回分だけ、この首のところに」
手のひらサイズの小さなオルゴール。
「さ、こっちはビスクドールオルゴールよ」
先に進めば、高そうな人形が並んでいた。
着飾った貴族の人形、それから花売り娘に、刃物研ぎ師、猛獣使い。いろんなビスクドールが硝子ケースでじっとしている。
「大叔父さまはビスクドールを買い集めて、オルゴールを仕込んでいたの。これはオルガンを弾くオルゴール人形よ」
クロエが螺子を回せば、人形の腕が動いた。ほんとにオルガンの鍵盤を押している。流れてくる音は、オルゴールだ。
人形に興味ない。
でも微笑んでいるクロエの横顔や、次から次へと説明してくれる声は、好きだった。
「これは衣装棚に見えるでしょう」
飴色の木材で造られた衣装棚にしか見えなかったから、おれは頷いた。
クロエが両開きの扉を開けば、太い真鍮のシリンダーがあった。おれの胴回りより太いかも。
それにシリンダーの後ろに、ベルとか太鼓とかカスタネットとかもついている。
「オーケストラオルゴールよ。奥にはオルガンも仕込まれていて、五種類の音を奏でるの」
説明しながら足取り軽く、隣の書き物机へと進む。
まるで花から花へ飛ぶ蝶々だ。
「こっちの書き物机もオルゴールになっているの。シリンダーを僅かに動かすだけで別の音楽が流れるの。たったひとつのシリンダーに、十二曲も入れた大叔父さまの超絶技巧よ」
こんなに楽しそうなクロエは初めてだった。
女の子みたいに笑っていた。
もしかして大人じゃなくて、髪を結いあげて大人のふりをしてるだけなのかな?
「クロエっていくつ? 18歳?」
途端、緑の瞳が見開かれた。
ぎょっとしてる。まるで毛虫でも突き付けられた顔だ。
「まさかわたくしが18歳に見えるの?」
「だって女の人がいちばん美人の時って18歳だって、じいちゃん言ってたから」
「ああ、そういう理屈。でも十代で職人は難しいわね」
それもそうか。クロエは一人前のオルゴール職人だもんな。
「じゃあ21歳?」
「……そうね」
じゃあおれが成人するころには、おばさんかな。
でもクロエは美人だ。
村にいる女の子どころか、療養にくる令嬢や、サーカスの花形や、町から届くポスターの中にいる女よりずっと美人だ。
廊下から足音がした。
硬くて重い足音。
おれとクロエ以外、他に誰かいるのか?
まさか泥棒?
クロエが駆けた。
ペチコートが覗くくらいスカートを翻して、小部屋から飛び出す。
こんな急いでいるクロエ、初めてだ。いつだってタフタのペチコートが囁くような優しい衣擦れを奏でて、裾を乱さずに歩いているのに。
おれも慌ててついていく。
廊下には、ほっそりしたやつが立っていた。
一瞬、男か女か分からなかった。
金細工みたいな髪に、一度も太陽を知らないくらい真っ白い膚。教会にある大理石の天使像みたいな顔してて、蹴り飛ばしたら折れそうな身体をしている。
キャラコのズボンを履いているから、男なんだろう。
なんだか今にも消えてしまいそうな雰囲気だった。泥棒じゃない。
「出歩いたりしてどうしたの? すぐ車椅子を持ってくるわ」
クロエがこんなに甘い声で喋るの、初めて聞いた。
耳の奥がくすぐったくなるような甘い声。
男は首を横に振る。
うんざりするくらいゆっくり杖をつきながら、ぎこちない足取りで廊下を歩いていく。
日当たりのよい居間のソファに、男が腰かけた。そのまま目を瞑る。
クロエは手近にあったカシミアショールを、そっとかける。
おれは喋っちゃいけない気がして、しばらく廊下に立ったままだった。
しばらくしてクロエがやっと動いた。居間から廊下に出て、片手でそっと扉を閉める。ほんとうにそっとだ。蝶番の軋みひとつないくらい。
「今日はありがとう」
小声で微笑む。
いつもは嬉しい微笑みだけど、今は胸がざわざわする。
「あいつ、クロエの兄弟?」
問いに対して、クロエは首を横に振った。
「いえ、姉弟みたいに育ったけど、彼は大叔父さまの忘れ形見なの」
「え? 大叔父さんのこどもだったら、もっとおっさんじゃないの? 実はすごいおっさんなの?」
「彼はわたくしより年下よ。そういうこともあるの」
「ふぅん……」
大叔父のこどもって、従弟でもないし、叔父でもないし、なんだろう。とにかくクロエの親戚だって分かった。
ちっとも似てないけど。
クロエはいつだって新緑みたいだけど、あの男はひょろっこくて幽霊っぽい。
「あいつと結婚するの?」
「まさか。姉弟みたいなものよ」
「旦那でもないやつを、クロエがひとりで世話してるの? 大変じゃない?」
「大変だけど嫌ではないわ。さ、手間賃をあげるわ。もう帰りなさい」
銀貨を握らされ、おれは屋敷を後にする。
都会の汚れた空気がダメって言ってたけど、クロエの呼吸はすごく健康だ。急勾配の階段を上り下りしても、空気が乾いた日にも、息を切らせていない。
ほんとに肺が悪かったら、吸引器を持ってるはずだ。肺の悪い金持ちは、いつだって呼吸器を手の届く距離に置く。
もしかしてあの男の静養で、辺鄙な田舎に押し込められているのかな。
大金持ちの客が絶えないなら、クロエは腕利きの職人だ。
そんな職人が、あいつのせいで田舎暮らしって理不尽だ。
貰った花柄の紙箱。
入っていた菓子は、トフィーだった。
口に入れた途端にいろんな花の匂いがして、噛むたびに濃い甘さが広がる。甘くて甘くて、歯茎どころか脳みそが溶けるくらい甘い。
……それなのに、あの男とクロエがふたりで屋敷にいると思うと、喉の奥が苦くてたまらなかった。