1 恋は野の鳥
まだ花があんまり咲いてない原っぱで、友達と蜜探しの準備をする。
みんなで集めた平石を地面に敷いて、鍋型アイロンを置いた。手鍋みたいなアイロンには、真っ赤に熾した石炭が入っている。
アイロンに蜜蜂の巣のかけらを入れて溶かす。
解けた蜂巣を木板に垂らし、さらに蜂蜜を加えた。
ふわっと香る蜂蜜の甘い香り。
「こんなんで本当に来るのか?」
「バカ。蜜蜂はすげえ遠くからでも嗅ぎつけてやってくるんだぜ。まだ花が少ないから、蜜蜂ははらぺこなんだ」
おれの疑問に、年長のやつが笑う。
こいつはおれらよりふたつ年上の十二歳で、薪割り斧も許されている。図体と態度がでかいから、おれは好きじゃない。
おれだってそこまでガキじゃない。
まだ斧は買ってもらってないけど、ナイフは自由に使っていいのに。
木の板から離れて、木陰でみんなで固まった。そしたら年長のやつが言った通り、蜜蜂が一匹やってくる。ぷうんと独特の羽根音を響かせて、くるくる回りながら蜜へ降り立った。
「ほらな」
自慢げに囁いてきやがった。
すぐ蜜蜂がきて嬉しいけど、こいつが自慢げなのは腹が立つ。
蜜蜂は蜜をたらふく食べて、森の奥へと飛んでいった。
「追いかけるぞ、おまえは石、おまえは木板を持ってこい。おまえはナイフ持ってたから、帰りの目印を刻んどけよ」
年長のやつは鍋型アイロンを抱え、当たり前のように命令する。
おれは鹿角柄のナイフを革鞘から抜き、大きな木の幹に矢印を刻んでいった。
迷ったらほんとにバカだもんな。
きらきらと差し込む木漏れ日を潜って、根っこがでこぼこしてる山道を駆けていく。
上がったり下がったり、渓流で回り道をして走る。いちばん年下のやつが、泥に足を突っ込んで立ち往生だ。
蜂を見失う。
「どっちいったんだろう?」
「せっかく蜂蜜きたのにね」
みんな残念がる。
「方向は合ってんだから、大丈夫さ。もう一回、あっためるぞ」
香りで蜜蜂をおびき寄せて、みんなでまた追いかける。
今度は三匹もきた。
息を切らせて追いかけていくと森が開けて、おんぼろ屋敷があった。いつごろ建っていたのか、じいちゃんに聞いても知らないと言うくらい古びたお屋敷だ。
絶対に近づいちゃいけないと注意されている。
近づくと住んでる魔女に、カエルにされるとか、シチューの材料にされるとか。
「あのお屋敷、魔女が住んでるんだって。近づくとカエルにされるんだったら、野良犬を引っ張ってこようか」
「おまえそんなに子供だまし信じてるのかよ」
「でも動物がカエルになるんだったら見たいだろう」
友達と話していると、年長のやつが笑う。
欠けた前歯がよく見えるくらい大笑いした。
「おまえらバカだな」
すぐおれらをバカ扱いしやがる。
憎たらしい。笑ってる口に石を投げ込んでやろうか。
「あの屋敷に住んでるのは、魔女じゃねぇよ。高級娼婦なんだぜ。街から馬車がたまに来るんだ。馬車に乗ってる大金持ちしか相手にしない美女がいるんだぜ」
高級娼婦……って何だろう。
知らないって言うとまたバカ扱いされるから、おれは口を噤んだ。
古い屋敷に近づいていく。
雑草が途切れて、小石がなくなり、柔らかな茂みに変わって、砂利道になった。靴を履かなくたって大丈夫なくらいだ。
脱ぎたいな、新しい靴って小指とかかとが痛い。
靴紐、緩めよう。
「どちらさま?」
女の声が降ってきた。
「うわっ!」
最初に叫んだのは、年長のやつだ。それからみんなも叫んで、森へ逃げる。
おれだけすっ転んだ。
靴紐を踏んずけて、盛大に転んで、両足を砂利に擦る。
「いてて……」
「どこのいたずら小僧かしらね」
おれの目の前にいた女は、とびきりきれいな女だった。
たっぷりした黒髪を、几帳面に結っている。
ドレスは明るい若草色で、見たこと無い艶の生地だった。綿でも羊毛でもない生地で、おれの泥だらけの指で触ったら天罰が下りそうだ。
ロケットペンダントは陶器で、黄薔薇の絵が描いてある。二重になっている金鎖が、日差しを反射してきらきらしていた。
これが魔女なのか。
それとも高級娼婦?
名乗りもしないでずっと黙っていると、視線がおれの膝に向けられた。
きらきらとした新緑の瞳だ。
いろんな葉っぱがたくさん重なって、太陽が深く差し込んでいるみたい。
そうだ、万華鏡だ。友達が持ってる万華鏡を覗いた時と同じ気分になってきた。きれいで、不思議で……二度と同じ模様にならないから少し怖い。
「わたくしはクロエ、この屋敷の主よ」
クロエ。
外国の響きがする。
海を越えた国の血が入っているのか、肌は不思議な黄色だった。でも嫌な黄色じゃない。黄薔薇をミルクに混ぜたら、こんな色になるんじゃないかな。
「さ、おいでなさい、煮沸した水で洗ってあげるわ。ここで破傷風になられると気分が良くないもの」
嫌だと言いづらかった。
クロエって名乗った女主人は、スカートをしゃらしゃら鳴らして裏手に回る。
澄んだ音だ。ペチコートがタフタってやつなのかな。タフタのペチコートは衣擦れがきれいだから、女の子たちは大人になったら絶対に欲しいって言ってる。
たしかにきれいな音だ。
裏庭へと回ると、大きなすももの木が茂っている。日当たりのいいところには菜園、日陰には蜜蜂の巣箱があった。
もしかしてさっき飛んできた蜜蜂は、この女が養蜂してるやつだったのかな。
みんなで蜜蜂の巣を見つけて、秋にたっぷり蜜を貯めた頃に採る計画だったけど、この女の蜜箱からじゃ盗めない。他人の巣箱から盗むなんて、じいちゃんに拳骨される。
裏口から食器洗い室に入る。
食器洗い室は水漆喰が新しいし、鋳物のポンプを備えた水場があった。おんぼろ屋敷だけど、水回りは新しいんだ。
屋根の下に水場があるの、すっげぇ羨ましい。おれんちは斜向かいの井戸まで行かなくちゃけないから。
「座っていなさい」
三脚の小さな椅子を指し示される。踏み台代わりになっているのか、あちこち禿げていた。
腰を下ろしてじっとしていると、奥から水差しを持ってきてくれた。あと清潔そうなタオルも。
「ありがとう、でも自分で出来るよ、こんくらい」
「そう? 痛くてもきちんと洗うのよ」
素っ気なく水差しとタオルを渡してくれる。
遠くから轍の響きが聞こえた。あとは御者が馬を引く掛け声。
「お客さまだわ。泥ひとつなく洗ったら待っていなさい。消毒してあげるから」
クロエはさっと立ち、スカートを鳴らして行ってしまった。
消毒は嫌だ。
洗ったらさっさと逃げよう。
おれは両膝の擦りむいた傷に、ぬるま湯を流す。朱色の傷がじんわり痛むけど、よく洗っておいた。それからタオルで拭けばもう大丈夫。
よし。
食器洗い室を飛び出した。
あの女が魔女なら、薬草を煮る大釜とか、かび臭い本があるはずだ。
魔女の屋敷を探検なんて、友達の誰もやったことがない。あの威張り腐った年長のやつだって、黙るだろう。
足音を立てないように、長くて天井の高い廊下を歩いていく。
優しい音楽が聞こえてくる。
ほんのちょっぴりだけ開いた扉からだ。
誰かいるのかと息を殺して覗いてみれば、そこは職人の工房みたいだった。
使う方法が想像つかない工具ばっかりが、壁に掛けられている。靴工や馬具職人の道具みたいだ。勝手に触ったら、拳骨でぶん殴られる。絶対。
それから金属粉の匂いと、嗅いだことのない油の匂い。べたっとした感じからして動物油っぽいけど、牛でもないし豚でもないし、なんだろ。
作業台の奥に、あの女が佇んでいた。
鳥籠を抱えている。
花の装飾が絡みついた真鍮の鳥籠で、中には小鳥が何羽も入ってる。でも普通の鳥じゃない。親指サイズの小さな小鳥たちで、ぴくりとも動かない。
魔法で小さくして、固めてあるのかな?
女が鳥籠の螺子を捲く。
キリキリと金属的な音がして、ぽろぽろと音が鳴り始めた。小鳥たちが一斉に動き出して、囀っているみたいだ。
その音を奏でながら、女は屋敷の表側へと歩いていく。
こっそり追いかけた。
玄関に近い部屋に入っていく。今度はきちんと扉が閉められて、中は覗けない。
「お待たせいたしました」
「素晴らしい! どの職人にも直せなかったのに」
男の声だ。
はしゃいだ声で、女を褒めている。
「大叔父さまのからくりオルゴールは、細かい上に癖が強いですから。弟子のわたくし以外は手こずるでしょう」
弟子?
じゃあオルゴールを直したのは、あの女?
魔女でも娼婦でもなくて、オルゴール職人だったんだ。
でも女で職人やってるんだったら、もう魔女みたいなもんだよな。
「いやはや、まったくなんとお礼を申し上げていいものやら。これは祖母の輿入れに、祖父が贈ったもので。足腰の悪くなった祖母にとって、もう唯一の楽しみと呼べるものなのですよ。早く帰って祖母に見せたい」
鳥籠を抱えた中年の紳士が、扉から出てきた。何度も何度も礼を述べながら、立派な箱馬車に飛び込む。
街からやってくる金持ちって、オルゴールの修繕を頼みに来てるのか。
そりゃオルゴールなんて高価なもの、金持ちしか持ってないもんな。
窓越しに箱馬車を眺めていると、背後でしゃらしゃらとタフタの衣擦れが聞こえた。
「そんなところにいたの?」
あーあ、見つかった。
緑の万華鏡みたいな瞳に見つめられると、なんだかおれはガキっぽい態度が取れなくなってくる。
「オルゴール職人だったんだ。なんで街じゃなくて、こんな田舎に?」
「都会の空気が濁っているからよ。田舎の空気じゃないと駄目なの」
肺が弱いのかな。
たまに肺が弱いお金持ちが、ここで何週間か休んでいく。すごく肺が弱いと毎年来る。
使い走りするとお小遣いが稼げるんだ。
「さ、消毒するわよ」
おれは引きずられて、両膝に塗布用アルコールを塗られた。
オルゴール職人と会ったのは、じいちゃんにも友達にも言わなかった。
魔女でも娼婦でもなかったぞ。腕利きの職人だっただけ。
そうみんなに言えばよかったけど、じゃあみんなで覗きに行こうって言われる気がして嫌だった。
クロエは、誰にも内緒にしておきたかったんだ。
おれだけの秘密に。