【巻三五諸葛亮】知其乖剌多
「どれだけ郭沖のこの記述が
デタラメなのかがわかろうってもんだね!」
郭沖五事曰:魏明帝自征蜀,幸長安,遣宣王督張郃諸軍,雍、涼勁卒三十餘萬,潛軍密進,規向劍閣。亮時在祁山,旌旗利器,守在險要,十二更下,在者八萬。時魏軍始陳,幡兵適交,參佐咸以賊眾彊盛,非力不制,宜權停下兵一月,以并聲勢。亮曰:「吾統武行師,以大信為本,得原失信,古人所惜;去者束裝以待期,妻子鶴望而計日,雖臨征難,義所不廢。」皆催遣令去。於是去者感悅,願留一戰,住者憤踊,思致死命。相謂曰:「諸葛公之恩,死猶不報也。」臨戰之日,莫不拔刃爭先,以一當十,殺張郃,卻宣王,一戰大剋,此信之由也。
難曰:臣松之案:
亮前出祁山,魏明帝身至長安耳,此年不復自來。且亮大軍在關、隴,魏人何由得越亮徑向劍閣?亮既在戰場,本無久住之規,而方休兵還蜀,皆非經通之言。孫盛、習鑿齒搜求異同,罔有所遺,而並不載沖言,知其乖剌多矣。
(漢籍電子文献資料庫三國志 925頁 ちくま5-138 罵詈雑言)
○解説
郭沖の諸葛亮擁護、五つ目は第四回北伐の所に附せられています。魏将張郃を討ち取った回ですね。郭沖さんはこの回の魏側が明帝も出征してきて、合計三十万の軍で諸葛亮軍八万にあたるも大敗した、と書きます。
ほんにさぁ、裴松之先生げんなりなのです。
いや以前の北伐に明帝も参加したよ、けど第四回には参加してません! それに魏軍と諸葛亮が直接対決したって書かれてるけど、諸葛亮はもっと奥深くに陣取ってたし、直接戦ったなんてことはないよ! この辺に関しては孫盛も習鑿歯もきっちり調べて遺漏がないように努めてるのに、郭沖の書いてるこの話は全く載せようとしてません! どれだけ郭沖のこの記述がデタラメなのかがわかろうってもんだね!




