虚空の夕暮れ
そして世界は、夕暮れを迎える。
遥か彼方で夕陽が沈む。
アリアテは頬を紅に染め、気がつくと砂浜に立っていた。
「みんな!」
砂の上に座りこんでいるロード達のもとへ、もつれる足を急かして駆け寄る。
「みんな、私……シェラ?」
アリアテは、さらに深い絶望へと叩き落とされることになった。
「シェラ、どうして」
「俺たちを命懸けで助けたんだ」
「黄昏の子の瘴気まで退けて、サルベジア大陸も、世界も救った」
クワトロは、白魔導師たちが運んできた白木の板にシェラを寝かせた。メリウェザーはシェラの手を握って離さなかった。
「オルフェスには失われた目を、私には炎に焼かれる前の体を……この子にもらったものは計り知れない」
フレ=デリクの衣装をまとった美しい女性が、アリアテの前に膝をついた。
「お戻りをお待ちしておりました、アリアテ陛下」
アリアテはシェラの亡骸から、傷を癒された仲間達に視線をうつした。がくりと、少女は砂に膝をつく。
「アリアテ陛下」
「私、シェラが、こんなに頑張ってくれたのに……」
情けなく、悔しく、悲しく、アリアテはわけがわからないまま涙を流した。
「止められなかった。基板を、守れなかった」
震えるアリアテの肩を、ロードが支えた。
「お前はよくやったよ。ここまでよく戦い抜いた」
泣きじゃくるアリアテの頭を、エルウィンが撫でた。
「泣いていいですよ、アリアテ。でも、自分を責めないでくださいネ」
ほとんど白くなった髪、小傷だらけの指先が痛々しいが、ひまわりのような笑顔は変わらない。
おそるおそるシェラに近寄り、アリアテは膝をついて敬礼した。
「……シェラ、ごめん……皆を守ってくれて、ありがとう……」
頼りない背中を、メリウェザーが抱きしめた。
「アリアテ、無事でよかった」
「メリー、私……」
「いいの、もう。でも、一緒に泣いてもいいかな」
ひとしきり涙を流した後、アリアテはヴェイサレドに連れられ、リアのもとへ向かった。リアの傍には五賢者カストロ、ライエル、エルミナがひかえ、ラサも巨大な翼をたたんで寄り添っていた。彼らの視線の先、沖合には、白く巨大な背中が漂っている。その姿は千年を生きた白鯨であった。
「アバデ、生命の樹、守った」
「あれがアバデ……私たちを術で守ってくれた賢者」
いずれは、城で元老院議員としてまみえるだろうと思っていた。波に漂うアバデの体を包むように、リアは両手を掲げた。彼が踏みしめる黒い砂から、潮の香る水が湧き出る。
リアが沖へと歩んでいくにつれ、海は満ちてゆき、やがて精霊の姿は見えなくなった。碧い海原を涼やかな風が渡っていく。
茫然と海を眺めるアリアテに、ラサと五賢者たちが跪いた。
「世界の王よ。海は戻りました。あなたは玉座において世界をお導きください」
「でも、基板は……」
若き五賢者ライエルが顔を上げた。
「ザティアレオス王家の血を継ぐあなたであれば、新たな基板を築くこともできましょう。原初の基板を築いたのはあなたの祖。その法を、我らは探究する所存」
次いでカストロが頷いた。
「黄昏の子の封印も揺るぎありませぬ。あなたはまず、世を治められよ。皆が黄昏の子のもたらした影に怯え、寄る辺を求めて嘆いております」
アリアテは不安を拭えないまま、しかし決意して頷いた。
クワトロたちがシェラを囲み、セリが白木の板を運んだ。五賢者たちはそれぞれの任地へと戻っていった。フレ=デリクはオルフェスとメリウェザー、エルウィンをともない、洞窟で休ませていたジョルジェとリキータを白き司へ連れていった。ヴェイサレドはメンテスを背負ってそれに続く。
ラサが海の上を飛び去ると、その場にはロードとアリアテだけが残った。
「いねえなあ」
「どこに行っちゃったんだろう……」
ロードはアリアテに付き合って、姿を消したドーイと、リオウを探していた。
「ドーイには、ちゃんとお礼も言ってないのに」
シェラと同じように失ってしまったのだろうか。不安に駆られるアリアテの肩に、また誰かの手が触れた。
「……クオーレ?」
振り返る前につぶやいて、アリアテは後ろを向いた。西日を背に、見知らぬ青年が立っていた。
「やあ、アリアテ。約束を果たしてくれてありがとう」
クオーレは微笑み、海を眺めた。
「苦しい時にそばに居られなくてすまなかった……これからは、リアとともに君を見守っているよ」
「クオーレ!」
抱きつくと、クオーレの体はしっかりと触れることができた。
「歴代の王のなかでも、私に抱きついたのは君が初めてだ」
クオーレはアリアテの華奢な体を抱き返し、頭をぐしゃぐしゃに撫でた。クオーレの背格好は、思い出にある父ギオや兄アシュケに似通っている。
「本当によく頑張ったね、アリアテ」
「クオーレ、シェラが」
子供のように泣きじゃくるアリアテの背中を、クオーレは優しくたたいた。その手は、母カルラや姉オルガのぬくもりに似ていた。
「シェラのことは残念だ。でも、命をかけて仲間を守りとおしたんだ。誇ってあげよう……この戦いで失われた魂は、ちゃんと私が受けとめて、新しい命として海へ還してあげるから」
クオーレが言うと、ぽつぽつと銀色の雨が降り始めた。
「アリアテ、残酷だけれど、君にはやるべきことが残っている。砕かれた基盤を再生すること、そして、死の砂漠を生命豊かな大地へ戻すこと。疫も、海が戻ったことで治まるものではない。君たちが乗り越えなければならない試練だ」
「……私、やれるかな」
「大丈夫。君には私もリアも、すてきな仲間たちもみんなついている。さあ、白き司にお戻り。弟が君を待っているよ」
「クオーレ」
気がつくと、アリアテはひとりで砂浜に佇んでいた。
「もう日が暮れちまうな。俺たちも戻ろうぜ、アリアテ」
「……うん」
ロードに呼ばれて、アリアテはきらめく海を背に砂浜を駆け出した。
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白き司では、人々が忙しなくあちらこちらへと動き回っている。
いまだ傷ついた者や疲労した者が簡易の療養所に運ばれたあと、ヴェイサレドはぐったりとうな垂れているセリの頭を膝に乗せた。
「セリ、これから忙しくなるぞ。復興には軍部の力が要る」
「申し訳ありません、シオ様。休ませてください……」
獣の顔でもよくわかる、セリは苦笑を浮かべた。
「ならん。大臣も文官長も不在のいま、武官長としての私を支えるのはお前の責務だ」
「私などいなくとも、あなたは大丈夫です……」
「何を言う、己をみくびるな、セリ……許さんぞ、セリ……セリ!」
閉じたまぶたが開くことはなく、セリは全身の力を抜いた。
「セリ!」
金の毛並みを揺さぶるヴェイサレドに、覇気の無い声がかかった。
「私にお手伝いできるかも知れません、シオ様」
膝をついて敬礼するのは、傷ついた姿のシーナだった。
「お前は」
「救っていただき、目は覚めました。今の私はグラトリエの錬成術を継ぐいち文官……我が母の罪はすべて、私が贖います。第八」
「はい、シーナ様」
呼ばれて、物陰から人形のような男が姿を現した。宮廷魔道師第八は、部下をともなってセリを連れ去ろうとする。ヴェイサレドは焦って抵抗した。
「待て、まだ信用はできん」
「ええ、それは覚悟のうえです。一緒においでください。エルウィン様も力をお貸しいただけると、先にお待ちです」
ヴェイサレドは訝しむ気持ちをわだかまらせたまま、シーナたちについていった。
ティオの部屋には緊迫が走っていた。
「だめだ、抑えられない!」
「ゼイーダ」
突如として、第九が封印を破ろうと動きはじめた。ゼイーダは魔力を注いで封印を保とうとしたが、第九のほうが上手だった。ぎこちなく腕が動き、僧杖を床に叩きつける。衝撃波とともに、ゼイーダは吹き飛ばされ、第九はぐるぐると上半身を回した。
「あー、何だこれ。ガチガチだな」
ひとしきり準備運動をしている第九を前に、ゼイーダは何か言おうとして口を開けたまま固まっている。ヴェイグは唸るのをやめた。
「は? ティオ様!? と、シオ殿の使い魔? 何でこんなところに……」
「戻った……? 何も、覚えていないのですか」
まだ警戒をとかないままゼイーダが問うと、第九はしばらく考えこむような仕草を見せてから、首を振った。
「あーダメだ。二日酔いよりひどい記憶喪失だ」
第九はしゃがみ、足下でうなっているメシュタポの背中に触れた。
「丑寅虚空酉不動戌亥阿弥陀」
「う、ご、あ、あ」
メシュタポは潰れたカエルのような声を上げ、その体は不自然に膨らんではへこみをくり返した。
「な、なにを」
慌てるゼイーダを、とうのメシュタポが起き上がって制した。
「治った……ったく、僧術ってのは白魔道と違って荒っぽくて嫌いだぜ」
「弱音吐くなよ。ギドロイも白魔道より僧術の国だったろ? さてと」
第九は立ち上がり、階段に向かった。
「信用回復にゃ実績作りが一番だよな。それじゃおじさん、下手伝ってくるわ」
ひらひらと手を振りながら第九は階下におりていった。その背中を見送りながら、ゼイーダは床にへたりこんだ。
「何はともあれ……味方にすれば頼もしい人ですね……」
「決着がついたってことなら、そろそろお客さんが来るぜ」
メシュタポはひょいとティオを抱え上げた。
「ヴェイグ、お前はヴェイサレドのとこに帰って休め」
「む、かたじけない……」
アムテグロークは闇にとけて消えた。
初めて足を踏み入れた白き司は、あちこちがぼろぼろに崩れ、あちこちで大量の官吏たちが動き回っていた。
「飛燕を飛ばせ! 式典に間に合わせなければ」
忙しそうな獣族の隣を過ぎて、アリアテはクワトロに連れられ、玉座の間に入った。そこにも戦闘の傷跡が刻まれている。
「若草色の布はいただけないな。王弟一族の赤にしよう」
クワトロは近くにいた文官をつかまえて命じた。
「アリアテ、何をぼけっとしてるの」
「まだ実感がわかない……」
玉座の前でうろうろしているアリアテを、扉のほうから呼ぶ声があった。
「おう、久しぶりだなおてんば姫。ほれ、ティオだぜ」
猫の子のように連れられてきたティオは、床におろされると、頼りなくアリアテに駆け寄った。
「姉さま……!」
白い肌、折れそうな手足の弟を、アリアテは陶器のように受けとめた。
「……ティオ、私の弟」
すがりついてくる少年の髪に、赤ん坊だった頃の面影を見た。
「……あの頃は私も小さくて、こうして抱かせてもらえなかった」
「姉さま」
ティオはそれきり、アリアテから離れなくなってしまった。
「そうだ、ティオ。海の精霊にもらった、すばらしい贈り物があるんだ」
アリアテはクレオの家に取りに戻った、海の雫をティオに差し出した。
「飲んでごらん。ティオの病気を治してしまう魔法の薬だよ」
ティオは疑いもなく青い雫を飲みほし、ねむたげに目をこすった。
「姉さま……」
ことん、と頭が肩に落ちる。アリアテは眠ってしまった弟をメシュタポに預けた。
「疲れているみたいだ。たぶん、薬で眠くなったわけじゃないと思う」
「気を張ってたんだぜ、ずっと」
2日つづく祭日と、王位継承式典の段取りとで、白き司には夜半を過ぎても明かりが灯っていた。
「しばらく、執務はリキータとシーナが手伝ってくれるから、頭に全部つめこまなくてもいいよ」
熱を出しそうなアリアテから、クワトロが本を取り上げた。
「お騒がせの大臣どのも、傷じたいは浅い。目を覚ませば君の手助けくらいできるだろう。しばらく【花の守護者】としての責務は負えないだろうけど」
ちょっと叱ってやらないとね、とクワトロは珍しく笑みを浮かべた。
「こんなに大変な時に、私なんかの即位式典をやる余裕があるんだろうか」
「こういう時だからこそ、形式張った儀式が必要なんだよ」
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翌日の早朝、アリアテはフリント兄弟とエルウィンとともに、シェラの棺を囲んでいた。
「そうか、カレンはルワーンだったのか……」
「まるで別人デシタ。あたかも、メンテス・ガヴォがそうであったように」
「カレンも……というか、カレンが、別の人格だったってことか」
「ガヴォとは逆ね。カレンという性格の持ち主は、紛れもなく頼れる仲間だったわ……シェラも、そんなカレンのことを」
メリウェザーは目元をおさえながら棺の小窓を開け、小さな悲鳴をあげた。
「どうした」
ロードが弟の後ろから覗きこむと、そこには白百合が溢れていた。
「お、おいおい……花を入れすぎだろ、これじゃシェラが……」
言葉をつまらせ、ロードはエルウィンに目配せした。ふたりでそっと棺の蓋を開けると、果たして、そこにシェラの体はなかった。
「どういうこと……」
「クワトロを呼んでくる!」
アリアテがクワトロをともなって戻ると、メリウェザーがくいぎみに問うた。
「シェラはどんな術を使ったの。体は消えてしまったの?」
「白魔道で術者の体が消えるなんてことはない。消された、あるいは盗まれたか」
クワトロは違和感に気づき、棺の手触りを確かめ、燭台を近づけた。
「これは……似ているけど、こちらで用意したものではないな」
「棺ごと、盗まれた」
愕然とくり返したアリアテは、怒りよりも戸惑いの気持ちが大きかった。
「どうして……まさか、リオウ?」
その場に、シェラの体が消えたことを嘆く声は起きなかった。みな一様に期待しているのだ。
――万が一にも、シェラが甦る可能性があるというなら、賭けでもいい。
「期待しているところ悪いけど、遺体が弄ばれない保障もない。シェラのことは諜報部に一任して、必ず見つけ出す」
「頼んだ、クワトロ」
ひとつの大きなわだかまりを残して、東の空は明けていった。