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Rees beruto 終章  作者: 天秤屋
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黄昏の子

 世の孕む深き闇、非存在がアリアテの前に立ちはだかる。

 ヴェイサレドたちを見送ったアリアテの前に、白い魔道服をはためかせる人物が現れた。

「【黄昏の子】を追いかけるんだろう?」

「クワトロ! 今までどこに……」

「僕はあまり、干渉するわけにいかないからね」

 クワトロはのびをして、胸元から取り出した木札を割った。

「【黄昏の子】は【基盤】のもとに向かった。基板とは契約であり記録であり預言であるもの。人智の及ばぬ神の領域。ただ、ヒト族の王ザティアレオス家の血を継ぐ者だけがその領域に達し、基板を書き換えることができる……

 きょとんとしないで。要は、基板を好きにできれば、世界(カレスターテ)を好きなように牛耳ることができるっていう話だよ」

「待って、なぜそんなこと……クワトロ、あなたは」

「説明するより見たほうが早い。それに、黄昏の子が基板に干渉するには座ティアレオス王家の血が必要だ……君が追ってくればそれでよし。来なければ、唯一生かしておいた王家の者を使おうとするだろう」

「……ティオ!」

「末の弟だけ生かされていたのはそのためだよ。シオの働きで洗脳は免れたが、力尽くで言うことを聞かせるのは容易いだろう。それで城にも守りを置いたんだけど、第零のおかげで壊滅状態らしいし……向こうにはメシュタポもいる」

 五賢者はいまだに【黄昏の子】の封印を保っているが、均衡は針の上の水盆に同じ。

「これが運命だと言えばそれまでだけれど、君が行くしかない」

 アリアテは険しい顔で頷いた。すると、クワトロは涼しい顔で言った。

「それじゃあ、僕たちは正門から入ろう」

 クワトロの体を黒い光が包む。リオウが潮騒の洞窟で言った、「この男は人間じゃない」という言葉がアリアテの脳裡をよぎった。


「……クワトロ様」

 ひとり、目を覚ましたオルフェスだけが、遠く顕現した細身の美しい黒龍

の姿を懐かしそうに見つめた――ように見えた。その目は、魔素の濁流にさらされて失われた。オルフェスを守り切れなかったことは、クワトロの心に棘として残っている。


 砂の上に義手と義足が落ちる。

 黒龍の失われた半身は、木札から溢れる蔦や花が補った。半身植物の黒龍は、自らの尾を咥えて円をつくった。貝殻の内側のように美しい光沢をもった扉が現れ、水面のように揺らぐ空間への道が開かれる。

「……アリアテ、気をつけて行っておいで」

「ありがとう、クワトロ。みんな、行ってくる」

 アリアテは檻の前に集まっている仲間たちを見つめてから、異空間へと入っていった。クワトロが尾を放すと扉はかき消え、後にはたたずむ黒龍が残った。クワトロは檻のほうへゆっくりと歩を進めた。

(いつまでもこんな成りでいるのは不本意だけど、アバデに余裕はなさそうだ)


 檻の前に集っていた者は次々に意識を失ってしまった。ほとんど無傷だったヴェイサレドとセリすら、昏倒して目を覚まさない。意識があるのはシェラと、疲労した五賢者たちだけだった。

 毒霧は晴れ、ヴェイサレドのもたらした花守の涙によって解毒もできたが、セルシスデオにはどす黒い瘴気が淀んでいる。シェラは薄い回復術の膜を拡げて、皆を包みこんだ。

 五賢者のなかで最も体力を残している灯の地の賢者カストロが、シェラの魔力を補う。

「……我々は老いた。力は衰退してゆくが、守るべきものは増えた」

 瘴気は徐々に濃度を増して、空には雪雲の下に暗い渦が巻く。

「何が起きてるの……」

 不安に駆られるシェラの上に、黒龍の影が落ちた。

「頑張ってるね、さすがは僕の弟子」

 片方しかない翼を拡げて、黒龍はシェラの結界に覆いかぶさった。

「師匠……?」

 シェラは美しくも恐ろしげな黒龍を仰ぎ、安堵して目を細めた。

「リオウが、人間じゃないっ言ったのは……」

 黒鉄の鱗を輝かせる竜は、神話にその名を遺すのみ。クワトロは赤い眼を細め、邪悪な瘴気を一心に浴びる。

「師匠、体が」

「自分の役目に集中しなさい。僕はこれでも黒龍さまだよ? 魔界の魔素に比べればこんなもの」

 ふふん、と鼻で笑いながら、クワトロは焦げつく翼の先端を隠した。半身の植物は、外側から枯れはじめている。

 ライエルとエルミナを介抱していたアバデが顔を上げた。

「クワトロ殿。まだこの爺にも、あなたをヒトの姿に封ずる力は残っておりますぞ」

「回復術の使えない魔導師に戻るより、この方が役に立てると思うよ。アバデは、しっかりと黄昏の子を抑えておいで」

 クワトロのやせ我慢に心を痛めながら、年老いた賢者は手を胸にあてて深く敬礼した。

 アバデは白き司の元老院に身を置きながら、ゲッテルメーデルの賢者でもある。その役目はすべての封印・契約の要。世の呪文が結ぶそうした約束ごとは、アバデを介している。ゆえに、五賢者全員で封印に関わっているとはいえ、その要であるアバデの重要度ははかり知れない。

「アバデ、この瘴気、生命の樹が」

 ラサが片言で告げると、アバデの表情が曇った。

「すでに海を渡り、墓碑に届いておるか……もしやセルシスデオを舞台としたのもそのため」

 アバデはクワトロを振り仰いだ。

「クワトロ殿。我が要の大役を今こそ若き賢者に引き継ぎ、わしはエルミナに代わって生命の樹を守りにゆきまする」

「リキータにはまだ教えるべきことがあるだろう」

「それはここにいるライエルやカストロ、エルミナからも学べること。しかし大役を担うには急なことゆえ、しばらくはシオ殿のお手を借りましょう。ラサよ、わしを墓碑へ運んでくださらんか」

「わかった。これで竜の子、起こして」

 ラサは輝く白い羽をくちばしで抜きとり、アバデに授けた。ラサの羽を抱かせると、ヴェイサレドはうなりながら目を覚ました。

「アバデ殿、これは……」

「セルシスデオの地は黄昏の子の瘴気に呑まれた。今は生命の樹が急じゃ。わしはエルミナに代わり墓碑に向かおうと思うておる。シオ殿、どうか若人の助けになってやってくださらんか」

 ヴェイサレドは逡巡したが、黒龍の姿で自分たちを守っているクワトロと、精いっぱいの回復術をかけ続けているシェラとを見て、重くうなずいた。

「リキータは私がしっかりと預かります」

「よう言うてくださいましたな」

「アバデ殿……」

「兄弟が元通りになって、爺は安心しましたわい。アリアテ陛下のこともお頼みしましたぞ。では」

 アバデの体から放たれた一条の光は、洞窟のほうへまっすぐに飛んでいった。ラサは老爺をその背に乗せ、瘴気のただ中へ飛び立った。白い鳥は光の尾を引き、三度はばたく頃には見えなくなっていた。

「師匠、あたしたちどうなっちゃうの……みんな、助かる? 師匠?」

 とうとう、シェラの声はクワトロに届かなくなった。外の闇が深くなっていく。胸が凍ったような心地で、シェラは隣のカストロを見つめた。

「諦めるな。アリアテ陛下がこの闇を討ち払ってじきに戻られる」

 シェラの支えにヴェイサレドも加わる。

「誇れシェラ、君の力はクワトロも認めるところだ。君なら仲間を守れる」

 シェラは気を失った皆の顔を順に見た。メリウェザー、ロード、エルウィン、フレ=デリク。

(カレン……あたしに、力を)

 ――アマルドでかけてもらった言葉を、あたしは何ひとつ忘れない。ここで何もかもを壊させたりしない、絶対に守ってみせる。

 祈り願うたびにシェラの力は高まっていき、支えているはずのカストロやヴェイサレド、結界の外で盾に徹したクワトロまでもが優しいぬくもりに包まれた。

 ――回復術は、想いの力。

「……アリアテが世界を治してくれるまで、あたし、頑張れるよ。みんなのことは任せて。だから世界をお願いね」



………………………………………………………………。

 水が落ちるような、遡るような、不思議な光景のなかを進むと、花崗岩の柱と祭壇が見えてきた。そこに、淡い金髪の少年が佇んでいる。

「【黄昏の子】……」

「黄昏を統べる(アルビドロ)、かわたれ時の子……世界に忘殺された者。神の成れの果て」

 アルビドロは祭壇に腰かけ、基盤を戴く台座に手をかけて言った。

「私はカレスターテ創世のおり、拡散した神の力が集結し、魔素が形を成したもの。星を生むために散った神と等しい力を持つ、存在するはずのない存在。

 カレスターテの統治者(アルストラ)たる白龍は、世界の均衡をおびやかす私が『存在すること』を赦さなかったが、滅ぼすことかなわず、やむなくラティオセルムの地に封じた。今も私の肉体と呼ぶべき器は、ラティオセルムに眠っている」

 アルビドロは、子供の姿しかとれないほど消耗した思念体の手を見つめた。

「カレスターテの生きとし生けるものは、例外なくこの私の枯れぬ生命力をむさぼっているのだ。であるから私は逆に、世界の命を食らうことを思いついた」

「世界の命を食らう……まさか、砂漠化は……疫は……!」

 身を乗り出したアリアテを、アルビドロは片手で制した。見えない壁におおわれたように、アリアテはいっさいの動きを止められた。

「18年前、花の守護者の契約が未完成となり、またとない好機が訪れたのだ。私は4年かけて竜の心に根を張った。その力と大臣の権力とで五賢者の封印をねじ曲げることは、あっけないほど容易だった。

 試しにラティオセルムから命の循環を逆流させ、すべて私に還元させた。私を食らって(ながら)える世界(カレスターテ)を、逆に私が食らい尽くして悪い道理もなかろう?」

 アリアテは言葉を発すこともできず、もがいた。

「ザティアレオスの血の者。私は長い時間をかけてあらゆる本を読んだ。ギドロイの戦記、モルドロの古文書、セピヴィアの魔道書、ラティオセルムの神話、そしてサルベジアの海蛇(ラ・ヴァイエ)に眠る古の記録。その中で最も美しかったのは白紙の本だ。世界も、白紙であった頃は美しかった」

 アルビドロは基盤に手を添え、目を閉じた。

「この石版ひとつに、世界の命運が左右される。識っているか、基盤を書き換えることができるのはザティアレオスの血の者だけだが……」

 小さな手の下で、基盤には深い亀裂が走った。

「破壊することは私にもできる」

「やめろ」

 アリアテは裂けそうに痛む喉から無理にも声を絞り出した。

「礼を言おうアリアテ姫。基盤への道を開けるのはザティアレオスの血の者だけ。黒龍も見誤ったな。私をここに案内してくれたのは君だ」

「やめろ!」

 叫ぶアリアテの前で、基盤は砕け散った。



………………………………………………………………。

 カレスターテは一年を締めくくる祭日【虚空の夕暮れ】を明日に控えていた。



 ゲッテルメーデルの市場は賑わいをみせていた。世界の命運を賭けた戦いなど知る由もなく、人々は大通りを往来する。

「やれやれ、どうにかこの大きな飾りも運び終えた」

 男は新年を迎えるための飾りをととのえ、東の空を眺めた。昼の月が白くのぼっている。


「向こうに雪雲が見える、今夜あたり降るだろう」

 埋葬が済んだばかりの墓にもたれ、セスナの墓守は痛む関節をさすった。


「よう、休憩にしようや」

 灯火の地で、大工の棟梁が声を張り上げた。材木を組んだ祭事のやぐらは、あらかた完成している。

「そろそろ飯でも食って、午後から仕上げにかかるぞ」

 男達は近くの店になだれこんだが、今日ばかりは酒はお預けだ。

「良い祭にしよう」

 店主と歓談する彼らもまた、灯火の地の賢者が遠くセルシスデオで窮地に陥っていようとは、夢にも思っていない。


 ログーシェでは、サシャーレがロバに屋台を牽かせていた。

「サシャーレ、次はどこに行くんだ」

 顔なじみに声をかけられ、サシャーレはそうだなあ、と思案顔をした。

「昔の仲間がゴドバルガにいるんだ。港街で商売でもするかな」

「そうか、何でも疫が出たっていうから気をつけてな」

「ああ。お前さんも元気でな」

 サシャーレは不毛の砂漠へ旅立った。



………………………………………………………………。

 雷烙大帝アシュケ・ノーレは船室で休んでいた。

 ゴドバルガ港街の賑わいは、幽霊船にまで届いている。

 甲板長のゼピェは、今日もラマンダ族に伝わる薬草茶をアシュケに運んだ。

「ゼピェ、皆が浮き足立っているな」

「すっかりお祭り気分で弛みきってますよ。まあ、兵士やってた頃から、俺たち王弟派のモンは変わりませんけどね」

「はは、そうだな。ずいぶん救われているよ。今日はまた昔のことをよく思い出すんだ……もうすぐ、懐かしい人たちに会えるような気がする」



………………………………………………………………。

 白き司には静寂が満ちていた。人の気配がもつ温もりはなく、ただしんしんと冷えこんでいる。

 脅威の去った城に、元老院議員をはじめ、官吏たちは徐々に戻っていた。彼らは瓦礫をどかし、荒された書類をまとめ、何事もなく明日の祭日を迎えられるよう片づけに励んでいる。

 エメットの騎士団は、人の動きを整理し、地下牢の守りを堅固にし、大掃除の指揮を執って活躍していた。さりげなく、城下町の警備も固めている。

 リクリルは、大広間で倒れているシーナと第八(アハト)の見張りを引き受けた。

 ゼイーダはティオのもとに留まり、時間が止まったような第九(ノイン)を監視していた。ティオはヴェイグの毛並みにもたれ、魔剣ベルリオの操る植物でメシュタポの体を支えていた。

「ティオ様、お寒くありませんか」

「大丈夫です。ヴェイグはあたたかいし、ゼイーダがついていてくれて、こころづよいです」

 ティオは笑顔を見せながら、ずっとメシュタポの軍服の裾を握っていた。メシュタポは熱と痛みに苛まれながら、何でもない顔をして笑った。

「これから忙しくなるぞ。ティオよ、姉ちゃんに会った時のあいさつを考えておきな」

「そう、そうですね……はやくお会いしたい、姉さま……」

 その時、下から突き上げる衝撃があり、白き司はぐらぐらと左右に揺さぶられた。

「何だ、地震か!?」

 ゼイーダは水の膜を張ってティオたちを守った。建物は倒壊する様子はないが、小さく揺れ続けている。

 ティオはメシュタポの体に揺れが伝わらないよう、蔦でそっと持ち上げた。

 ヴェイグは低くうなり、何かに警戒している。ゼイーダのこめかみを冷や汗が流れ落ちた。

(おかしい。ラティオセルムのような火山もない、海底の断層もサルベジア大陸の下には存在しないのに……震源はどこだ)

 揺れも、小さくはなったが自然現象にしては異様に長い。

「何が起きているんだ……」



………………………………………………………………。

 世界に衝撃が走った。


 サルベジアの人々は慣れない大地の揺れに慌てふためき、祭日を祝うための飾りがあちこちで落ちて割れた。

「世界の終わりだ!」

 興奮気味に若者が叫ぶと、屋台の女将が悲鳴をあげた。混乱と恐怖は伝染する。街じゅうが騒ぎになる頃には、大陸じゅうに狼狽がひろがっていた。

「最近は変なことが起こりすぎているよ」

「これも大災害の予兆にちがいない」

「海はだめだ! レピオレン湖が干上がる前に、隣のラティオセルムに逃げよう!」

「でも、ラティオセルムには疫が……死の砂漠が拡がってるっていうし」

「港から、サルベジアにも疫は広がってるそうだ。ゴドバルガは近いうちに閉鎖される」

「フィールト港に人がなだれ込んでるみたいだ」

「ラティオセルムは獣族が牛耳ってるんだぞ、ヒト族なんか後回しにされるに決まってる」

「荒野の魔物はどうするんだ」

「どこに逃げればいいの」

 人々は慌てふためき、逃げ惑う。すでにザティアレオス王家への忠誠も、白き司の政府(コーカ)への信頼も薄れた人々は、頼るべき藁をもとめて右往左往する。

 中には、悲観にくれて暴徒と化す者まで現れ始めた。

「落ちつくんだ! 地割れが起きたわけでもない、崩れそうな建物からは距離をとれ。皆を広間に集合させよ!」

 城下町ではエメットの部下たちが民の沈静に出向き、方々の町では、遠征に出ていた兵団が指揮をとることでどうにか均衡を保っていた。

「海守りの救援に出向いたはずが、国民全体の救護になるとはな」

「亜竜がいなかっただけ運が良かったさ」

 ヒトの無力を嘆く前に、兵士たちは各々の役目を全うすべく働いた。老人や子供の避難を助け、店や個人の備蓄を寄付してくれるよう募り、方々から寝具などをかき集めて避難所の設営につとめた。

「怪我人はいないか。手当する、救護のラージに運んでくれ」

 兵士には療術の心得がある者も多く、厳しい訓練の賜物で不測の事態にも強い。亜竜襲来の誤報のために地方へ散っていた国軍の活躍によって、民の不安は不穏なさざ波程度までに抑えられた。



 一方で、ラティオセルムの町々でも避難活動が進んでいた。

「妙な話だよ。役所の頭目が獣族のおかげで、血を見るような事件も多いが……これまで何度も地震やら大風やらから守られてきたのも事実だ」

 獣はヒトよりも自然界の変化に察しが良い。ほとんどの官吏が獣族であるラティオセルムの各町では、大きな揺れがくる前から避難の指示が出ていた。

 火山地帯であるラティオセルムの民は地震には慣れており、従順な羊のように列をなして避難所となる役所へ向かう。

「しかし今度の揺れは妙だよ。噴火があったわけでもないのに」

「おかあさん、まだゆれてるよ」

 娘の手を引きながら、女性は暗い空を仰いだ。

「何が起きようとしてるんだろうね……」



………………………………………………………………。

 世界が苦しみに身じろぎするような揺れは、アリアテのいる空間にも伝わってきた。

「現状の私にできるのはここまでだ。封印が解かれるまで、君たちには猶予をあげよう」

 アルビドロの体は光の粒子となって崩れていった。

「私はこの思念体を消すだけで良いが、君はどうやってこの空間から出る? 頼みの黒龍は手が離せないらしいが」

 不適な笑みを残し、アルビドロは消えた。アリアテはようやく動けるようになり、基板に駆け寄った。白い石版は小さなかけらに砕け、つなぎ合わせようとしても欠け落ちてしまう。

「……クワトロ、私は」

 呼びかけても応える声はない。

「ここまで生かされてきたのに、私は何も」

 自責の念に圧しつぶされそうになったアリアテの肩に、温かい手が触れた。振り返ると、そこには懐かしい顔が待っていた。

「父さま、母さま……姉さま」

 3人の姿は光となって、アリアテを包んだ。



………………………………………………………………。

 存在すべからぬ存在、アルビドロを、白龍は【非存在】と呼んだ。黄昏の子は生じた時から世界の異物。しかし非存在なくして、現在の世界(カレスターテ)は保てない。

「白龍も愚かなこと、この非存在たる私を、世界の循環の一部として封じようなどと……永遠に終わらぬ搾取か、滅びか、私は迷わず滅びを選ぶ」

 アルビドロは二脚の十字に掘られた池に漂いながら、その口許に笑みを浮かべた。



………………………………………………………………。

 クワトロは半身の植物を限界まで拡げ、シェラたちを砂浜に留めていた。

「何が起きてるの!?」

 身震いするような地震の後、セルシスデオの地に渦巻く瘴気はさらに濃度を増して、砂浜のなかほどにすべてを吸い寄せようとしていた。瘴気の濁流にさらされ、黒龍の翼は折れ、手足の鱗は剥がれ飛んだ。

(ああ、この半身で存えた体をこれほど憎く思うとは)

 ヒトの子らを逃がしてやることも、守りぬくことも難しい。

「師匠、どうなってるのか見えないよ! 返事して!」

 叫ぶシェラの隣で、ばたりとヴェイサレドが倒れた。

「シオ様!?」

「瘴気が、濃い……わしも長くは保たん……わしの魔力を、そなたに」

 カストロはシェラの背に手を置き、持てる魔力のすべてを托して、ヴェイサレドと同じように倒れ伏した。

「みんな」

 メリウェザーとロード、フレ=デリクとオルフェスは重傷を負っている。エルウィンは髪の色も薄れ、魔力も薄れ、指先が冷たくなってきている。ヴェイサレドとセリ、メンテス、カストロは、五賢者ライエル、エルミナと同じく昏倒している。海の精霊リアは存在がおぼろげになり、今にも消えそうになっている。

 回復術の膜の外で皆を守っているクワトロの姿は、黒い瘴気に呑まれて見えない。

「……アリアテ」

 シェラはすがるように呼び、回復術の膜を見上げた。

(回復術は瘴気を通さない。みんなを守れる……)

 外がどうなっているのかはわからないが、いま、そばにある命は守ることができる。

 シェラは皆の様子を見回し、小さな悲鳴をあげた。メリウェザーの足が石のようにひび割れはじめていた。メリウェザーだけではない。ロードの腕にも、紫の変色とひび割れがはびこっている。

「疫」

 短く言って、シェラはおののいた。

 ――疫は、症状でいえば進行すると皮膚が紫に変色し、ひび割れた大地のようになって崩れていく不治の病。

 そうロードに教えてもらった。

 ――私はロワンジェルスで疫の患者を見てきたが、発症から死亡までの時間はかなり個体差がある。年齢や体格などはあまり関係がないようだった。

 そうカレンは言っていた。

 ――つまり、罹ったら治らないんだ。死んじゃうんだね。

 そう、あたしは言った。

 シェラはゴドバルガでのやりとりを思い出し、胸元にしまった白い羽を片手で取り出して、口に咥えた。ラサの力を借りて回復の力を底上げすると、ひび割れがふさがり、紫の皮膚変色がひいた。

(組織が壊れるのが異常に早いけど、疫は怪我や病気と同じ。そして瘴気と似ているんだ。回復術で退けられる……もっと、大きな力をぶつければ)

 クワトロのもとで学んだ知識を総動員して、シェラはひとつの結論に至った。

「あたしの大事な人たちを死なせはしない!」

(カレン、あたしに力を)

 シェラは意を決して呪文を唱えた。

「ラ・ティルト。願わくは白き翼へと我を抱きたまえ。天のあまねく頂より、恩恵を彼の者らへ与えたまえ。青の静謐に我を迎え、金の詩を歌わせたまえ。瑞々しくその者らに降り注ぎたまえ。ロブリオラ・シュリテ」

 どす黒い天を仰ぐシェラに、ひとすじの光が差した。シェラは、持てる魔力と生命力のすべてを回復魔法に注いだ。ふわりと体が浮き上がるような心地がして、シェラは白い光に包まれていく。

「ありがとう、みんな……ごめんなさい」

 光の向こうに、懐かしい幻を見た。

(カレン……どこにいるの、会いたい)

 まばゆい光が結界から弾けて、セルシスデオを満たしていた邪悪な瘴気を消し飛ばした。

 踏みとどまったクワトロは、不自然なまでに晴ればれとした空のもと、瘴気の渦巻いていた中心を見やった。地の底まで続いているような、恐ろしい大穴が口を開けている。

「……アリアテが基板に触れた、のか」

 体を起こしたクワトロは、懐かしい違和感に顔をしかめた。

「なんだ、これは」

 失われたはずの右腕に、枯れた植物が絡みついていた。右足はしっかりと砂浜を踏み、爪痕を刻んでいる。喜べはしなかった。嫌な予感がして、クワトロは足下の弟子に顔を近づけた。

「……シェラ」

 髪が真っ白に飛んで、うな垂れたシェラの体を鼻先でそっと小突く。細長い指で小さな体を抱き上げると、シェラはわずかに微笑んでいた。

「ばかなことを」

 クワトロはそっと砂のうえにシェラの体を戻した。

 ロードはうなりながら目を覚ました。起き上がろうともがいている弟の手をとって引き起こしてやる。

「体の傷が嘘みたいになくなってる……ガイ、お前はどうした?」

「……足が動かないんだ」

 茫然とするメリウェザーの足を確かめて、ロードは首をひねった。

「見た目にゃキレイなもんだが……なあ、シェラ」

 ロードは視線の先で横たわるシェラに言葉をなくした。

「シェラ!」

 メリウェザーはロードの手をはなれ、砂に突っ伏しながら這い寄ろうともがいた。風にふかれるシェラの白い髪は、まるで無機物のように見えた。

「シェラ、シェラ」

 メリウェザーの悲痛な声に、ヴェイサレドとカストロも目を覚ました。近くにいた彼らはシェラの容態を確認して、ロードのように言葉を失った。

 次々と死にかけていた者たちが目を覚ます。

 ライエルとエルミナは、海の精霊リアを結界に保護し、かつての海岸線までつき添っていった。

 メンテスとエルウィン、セリの意識は回復しないが、ただ眠っているように見える。

 オルフェスはひとしきり悶え苦しみ、その目から義眼がこぼれ落ちた。

「う、眩しい……」

 14年ぶりの光に、オルフェスは戸惑いを隠せない。

「待て、小娘か!? 何をした!」

 失血が多く気を失っていたフレ=デリクは、意識を取り戻すとシェラに駆け寄った。

「ばかな……!」

「仲間の命どころか、世界まで救って」

 クワトロはカストロとヴェイサレドの手をかりてヒトの姿に戻ると、冷たくなったシェラの体を抱き上げた。

「皆を悲しませて、不詳の弟子だよ」

「……アリアテ様になんと言えばいい、シェラ」

 シェラの前髪を撫でるフレ=デリクの仮面が落ちた。そこに焼かれた皮膚はなく、帽子の下から美しい黒髪がこぼれた。

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