セルシスデオの竜
白い砂浜に現れる竜という脅威が、アリアテたちを阻む。
フレ=デリクとリキータは、軍勢のほとんどをリオウに任せ、大剣の騎士ギュスタフと衝突していた。
「この男からは妙な気配がする。仕掛ける隙は与えるな!」
「はい!」
師弟は怒涛の連撃でギュスタフを圧しこんでいたが、とうの騎士はまったく堪える様子がない。武器や鎧を避け、フレ=デリクとリキータの渾身の武脚が顔面をとらえても、ギュスタフは軽く仰け反っただけだった。
「わははっ 蚊がとまったか?」
ギュスタフは水神に蹴散らされる重装兵たちを横目に、ごきりと首を鳴らした。
「化け物には化け物の力で対抗するしかあるまい。アリアテも逃がしてしまったようだしな、時間はかけられん」
発せられた邪悪な気配は、黒ずんで穢れきっていた。思わず飛び退いたフレ=デリクとリキータの前で、ギュスタフは煙を上げながら肥大化していく。
絶望的な影をおとし、その場に金色の亜竜が顕現した。
「亜竜に! まさか、人間が」
リキータが叫ぶと、亜竜は高笑いした。
「はっはっは、愉快だ! あの方にいただいたこの力で、あの方をもしのぎ! このわしが天下を取る日が来るやも知れぬわ!」
亜竜となったギュスタフはゆっくりと背後に向き直り、リオウに向かって大きく口を開いた。
「阿呆めが、仮にも水神と祀られた俺様に炎など」
しかし、ギュスタフが吹きつけたのは灰のような息だった。
リオウはとっさに身を退いたが避けきれず、その巨体の一部に灰が触れた。とたん、鱗から色が失われ、硬くこわばっていった。
「石化!」
リキータが叫ぶ。
ギュスタフは足下の部下になど目もくれず、再びリオウに向かって石化の息を吐いた。動きの鈍ったリオウは、まともに灰をかぶる。何とか首と頭は逃がしたが、もはや身動きすらままならなかった。
「ちい……」
「今は体表だけだが、吸いこめば内臓をも石化する。ちっぽけな人間ども、お前たちではひとたまりもないぞ!」
フレ=デリクは槍を構えて舌打ちした。
「貴様の部下どもで実証済みだ。上官の風上にも置けん下衆が!」
年季のはいった槍を足がかりに、フレ=デリクは人間の力量をこえた跳躍をみせた。鎧に包まれたその健脚から、遠心力をのせた強烈な一撃を放つ。たかが人間とあなどったギュスタフは、鼻面をしたたか打たれ、首が折れる勢いで顎がガクンと下がった。軽く脳震盪をおこし、金の亜竜はたたらを踏む。
「リオウに使った分で息は切れているだろう。リキータ、脚をやれ!」
「はい!」
リキータは亜竜の足下に駆け、アキレス腱に円舞脚を放った。血しぶきが舞い、ギュスタフは片膝をついた。
「ぐわああっ」
「もう一本!」
リキータは腱を狙いに行ったが、ギュスタフは足を退き、頑強なすねでリキータの武脚を受けた。
リキータはうめき、よろけながら後退した。
「深い追いするな、ばか弟子が」
フレ=デリクはリキータが下がりきるまで援護し、傷んだ脚の装甲をにらんだ。あちこちに危なっかしい亀裂が走っている。
「さすがに硬いな。アンバーの入った鎧ではこうも圧し負けるか」
リキータは腫れあがった膝から下を、絶望的な表情で見つめていた。
「療術でも筋や骨の治癒は時間がかかる。いいな、ここまでだ」
「そんな、亜竜ですよ……師匠一人でなんて……」
「足止めくらいはできるさ」
討って出ようとしたフレ=デリクを、後ろから何者かが呼び止めた。
「お待ちを。ここは私の出番ですよ、フレ=デリク」
洞窟の薄暗がりから現れたのは、肩を借りてようやく歩くオルフェスだった。
「オルフェス、お前」
メリウェザーの肩を離れ、オルフェスは黄金の愛刀を抜く。まるで歩く屍のような満身創痍の男は、頼りない足取りで亜竜の足下に出た。
「おや、死にかけの羽虫が何の用かな。アレイ・レイオが仕事をしていれば、竜伐隊は全滅したはず。もはやお前の出る幕などないぞ、オルフェス・ラ・ウィンド!」
ギュスタフはいまだ石化の息が回復していない。だが、重傷のオルフェスを倒すには、足を持ち上げておろすだけで事足りる。
「はっはっは、竜伐隊隊長の最期が、亜竜によってもたらされる死とは皮肉!」
勢いよく踏みつける足から、メリウェザーがオルフェスを助けた。
「では頼みます、メリウェザー」
「行きますよ!」
メリウェザーはオルフェスの足腰を支え、亜竜の頭上に投げ上げた。
ギュスタフがそれを目で追って、いかつい鱗におおわれた顔を振り上げる前に、オルフェスは剣を振りおろした。
「なんっ」
ギュスタフが何か言おうとした時、すでにその鼻面は首元まで切り裂かれ、言葉のかわりに血が散った。声帯を断たれ、ギュスタフは断末魔をあげることもできない。
落ちてきたオルフェスを、メリウェザーは傷だらけの腕でしっかりと受けとめた。
ギュスタフの喉元から漏れ出た石化の息で、ギュスタフの体は金色の光を失い、ひび割れながら硬直していった。やがてできあがった亜竜の石像の前で、オルフェスはぐったりと口を開いた。
「相手が亜竜であれば、竜伐隊の勝利は必至」
亜竜をくだしたオルフェスは、リキータの隣に横たえられた。
フレ=デリクは、ぼろぼろのジョルジェに療術をかけながら、メリウェザーを手招きした。
「ティオ様は」
「シオ様たちがきっと。私たちは、オルフェスを送り届けるため先に出たの。敵の手に亜竜の駒がある以上、絶対に竜伐隊の力が必要になると……」
「使命感だけで傷は治らん。揃いもそろって手がかかる」
フレ=デリクはメリウェザーの主立った傷口に薬草をあて、その上から療術をかけた。
「いっぱしの回復術とまではいかないが、少しはましだろう」
「ええ、充分すぎるわ。ありがとう。ところでリオウは」
二人は、重装兵たちの上にのしかかったまま動けずにいるリオウを見つめた。
「内側は無事のようだ。すぐにもどうこうはしないだろう」
「石化。そんな恐ろしい力を持っていたなんて……」
「石化を解く特効薬は海水です。私が」
リキータはぎっちりと固定した足で立ち上がろうとしたが、フレ=デリクが叱咤する前に、メリウェザーに止められた。
「怪我をしたなら治す体力が必要よ。しっかり休んで」
「う、面目ない……」
竜が相手ではしかたがないことだ。メリウェザーとリキータは、気絶するように眠っているオルフェスを見つめた。
「……僕が療術をかけます。何もしないよりは助けになるでしょう。僕の傷は、安静にしていれば良いだけですから」
「好きにしろ。若造、私と来い」
フレ=デリクは重傷者を残し、怪我の軽いメリウェザーを連れて洞窟を出た。彼らの前方には、別の軍勢が群がっている。
「まさか、見つかったか」
アリアテたちは足止めをくっていた。敵の大将はアイーシャ・リオナ。騎馬近衛兵団の長にして、戦女神と呼ばれる槍の達人だ。
ロードは頭を掻き、シェラはおろおろと軍勢を見回した。
「どうする。完全に囲まれたぜ……リオウの助けも望めねえしな」
「騎馬もいる。この人数を相手してたら、ガヴォのところに行く前にダウンしちゃうよ」
「でも、切り抜けるしか」
アリアテが魔剣イオスの柄に手をかけようとした時、クワトロがやれやれと首を振った。
「僕が行こう」
その申し出に、シェラ以下全員が呆気にとられた。
「まさか。師匠、戦えるんですか?」
「あんた白魔導師なんだろ?」
「クワトロ、囮になるようなことは」
やいやい言う若者たちをなだめて、クワトロは札をシェラに托した。
「君の名を追加しておいた。しっかり女王陛下を守るんだよ」
クワトロはふわりと後ろに下がり、敵の大軍勢に向き直った。
「反逆者クワトロ・エンデ!」
「あれえ、かっこいいねえ、その呼び名」
クワトロは不適に笑み、両腕を広げた。彼の周囲には不自然に風が吹き荒れる。
「何あれ……魔素の、奔流」
シェラは目を見開いた。
(魔法の使用にも耐える義肢……師匠、回復術は使えないのに)
その魔法とは、守り癒す技ではない。
「おいたが過ぎるよ、君たち」
クワトロは詠唱も魔法陣もなしに、衝撃波をまとった黒炎を放った。その規模たるや、軍勢の中央に道を作るにとどまらず、並み居る重装兵や騎馬たちをなぎ倒してしまった。
ぽつりと残ったアイーシャが、愛馬を駆って襲い来る。しかし白馬はクワトロの眼前でその足を止め、怯えるそぶりを見せた。アイーシャは鞍から飛び上がり、槍を振りかざしたが、その刺突はクワトロの黒炎に絡めとられた。
「目を覚ましなよ」
クワトロはアイーシャの顔をしっかり捕まえ、その碧眼をじっと覗きこんだ。クワトロの目が赤く染まった時、アイーシャはがくりと脱力して槍を手放した。
「……もう大丈夫。アリアテ、君の敵はすぐそこだ」
茫然としていたアリアテとシェラは、ロードにうながされてクワトロのそばを通り過ぎた。
「そろそろアバデも限界だろう。札に頼れるのはここまで。僕もすぐに行く」
クワトロはアイーシャを抱え、洞窟のほうへ歩きだした。
(これは【傀儡の毒】。ドーイを逃がした咎で信用を欠いたのか……幸い、術にかけられて日が浅い。正気に戻ればやがて回復するだろう)
傀儡の毒は、冒した者の心を蝕んで破壊し、意のままに操る。かつてザティアレオスⅩ世を生ける屍に変え、王弟ギオを殺した術だ。
「いいように支配されているじゃないか。あとで叱ってやろうかな」
アリアテたちが軍勢を抜けた先で見たものは、巨大な結界だった。近づくにつれ白霧は濃さを増し、向こうの様子もまるでわからない。触れれば弾かれる。途方にくれるアリアテの耳に、駆け寄ってくる足音が聞こえた。剣の柄に手をかけて振り向くと、見えたのは懐かしい顔だった。
「カオル?」
「間に合ってよかった。その結界はイヴの……ラサの力を無理やり引き出して張られたものです」
カオルは結果に両手で触れた。
「メリウェザーさんとフレ=デリクがこちらに向かっています。クワトロ様もじきに……行きますよ、皆さん」
その手は弾かれることなく、結界にはりついた。袖がはじけ飛び、露わになったカオルの腕には、びっしりと白い羽が生えていた。
「イヴ、がんばれ……抑えるんだ……」
語りかけながら、カオルの手は結界を吸収していく。シェラは叫んだ。
「ま、待って。こんな魔素の量、体が耐えられるわけがない!」
「おいカオル、お前!」
「大丈夫、死にはしませんから」
カオルの手足はわなわなと震えている。
やがて、薄らと向こうが見え始めた。連なる檻、そこに捕らえられている六つの人影、白い巨鳥。
「ああ、イヴ」
結界が破れるとともに、カオルは檻に向かって駆け出した。そこに敵の姿はなく、カオルはあっさりとラサの捕らえられた檻に到達する。
「カオル」
「イヴ、遅くなってすまない」
弱々しく応えたラサに、カオルの焼け焦げた手が触れようとした刹那。その手は空をきり、ばたりと牢獄の底辺に落ちて跳ねた。
「カオル……!」
ラサはかすれた声で呼ぶが、カオルは応えない。
「愚かな。ラサは貴様の流す血の穢れで、より消耗するというのに」
切り裂かれた背が血に染まり、カオルは細い息を吐いた。カオルと怯えるラサとを見下して、男は何の感情もない声で言った。
「今ごろ何をしに来た、ザティアレオスの血の者よ」
檻までの、男までの距離はまだ遠い。それでもアリアテたちには男の表情がわかり、男の視線がわかった。心が凍てつくような目だ。
「メンテス・ガヴォ」
アリアテはそう言うのが精一杯だった。
「アリアテ!」
追いついたメリウェザーがアリアテを抱きとめた。気がつかないうちに足が震えて、後ろ向きに倒れかかっていた。
「そろい踏みだな」
フレ=デリクは檻を指した。
「彼の地の賢者ライエル。灯火の地の賢者カストロ。ゲッテルメーデルの賢者アバデ。セスナの賢者エルミナ。吾の地の賢者以外、そこにいる」
「五賢者か……おとぎ話にしか聞いたことがねえ」
「それに海の精霊も、ラサの隣にいるわ」
海の精霊リアは、ラサ以上にぐったりしていた。
「時間がない。行こう」
アリアテはゆっくりと一歩を踏み出した。その前にフリント兄弟が立って歩きだす。
メンテス・ガヴォもまた、アリアテたちに向かって歩きだした。
………………………………………………………………。
彼の地の賢者、ライエル・ヴァン・ベネディクタ・エ・カルティエ。
聡明なる両眼にて世を見渡し、溢れる大海のごとき知識を得続けることを許され、世界の歴史を記し録す。
灯火の地の賢者、カストロ・デル・マーテル・エ・デルテ。
世をその荘厳たる佇まいで支え、生きとし生けるものらを守護し、地を支える両腕にて掲げられぬものはなし。
ゲッテルメーデルの賢者、アバデ・ノビス・ペカトリブス・エ・モルティザムエ。
この白き神使いたる――の化身、大いなる慈悲と友愛の心を以って、大樹を育み、あらゆる封印の要となって契約を果たす責を担う。
セスナの賢者、エルミナ・トゥ・ムリエリブス・エ・オラフルクトゥ。
深海よりふかく、天頂より高い場所に心を持ち、全てのものに等しく死を与える力を授かる。
………………………………………………………………。
メンテスとアリアテは、互いの間合いの外側に留まった。
「ひとつ忠告しておこう」
メンテスは無表情に言った。
「急きたまえ。基盤への道は間もなく開く」
「基盤……それで、お前は何がしたいんだ」
アリアテの問いに、メンテスはゆったりと答えた。
「忌々しい世界を壊すのさ。私と語らいに来たのか?」
アリアテは魔剣イオスの柄に手をかけ、真っ直ぐに構えた。メンテスは応えて優雅に構えたが、その表情は意図しない動きにうろたえているようだった。
「貴様、まだ」
メンテスの隙を見逃さず、アリアテは斬りこんだ。初手から全開で、火炎をまとった剣を振り下ろす。しかしメンテスはくるりと手首を返し、アリアテの足運びを誘導した。
二人の戦いを見守っていたシェラは、ぽつりと呟く。
「……まるで、ダンスを踊ってるみたい」
殺気のないメンテスを相手に、アリアテも戸惑っていた。しかしその剣戟には徐々に荒々しく、暗い殺気がこもっていく。
「たった一人で挑んできた度胸は褒めてやろう」
メンテスの重い一撃がアリアテを封じた。防ぐだけで精一杯のアリアテの横から、ロードが気功をのせた拳を放つ。
「うおらァ!!」
しかし渾身の一撃を、メンテスは片手で受けとめた。ロードを一瞥して、メンテスはアリアテを蹴り飛ばし、剣を振るう。ロードとメンテスの間にメリウェザーが長物で割りこんだ。
「兄さん、立て直して!」
「おう!」
フレ=デリクから托されたジョルジェの棍は、メリウェザーの怪力を先端につたえて鞭のようにしなる。メンテスは弾き飛ばされたが、体勢を立て直し、衝撃波を放った。
「ぐっ」
メリウェザーの足が止まる。2撃、3撃と連なる衝撃波の正体を、シェラが叫んだ。
「魔素を爆発させてるんだ!」
これを聞いて、メリウェザーの後ろからロードが気功砲を放った。
「気功は魔素に影響されねえ、こいつも食らえ! 気流刀・大真空刃!!」
さらに巨大な気功の刃を放つ。メンテスはこれを左腕で受けた。さすがに無傷とはいかないが、骨には達していない。
「バケモンかよ……」
大木の幹すら両断する、全力の攻撃を防がれ、ロードは一瞬気が抜けた。再び襲いくる魔素の爆発からメリウェザーがロードをかばう。
「じゃあ、物理で殴るしかねえな!」
「待って、兄さん!」
ロードは弟の制止を振り切り、メンテスに飛びかかった。
(少しでもこいつの魔力なり体力なりを削って、アリアテに繋げる)
その頭は冷静だった。隙のない構えで懐に飛びこみ、強烈な一撃を放つ。ロードの拳はメンテスの右肩を砕いた。
(手応えはあった……!)
ロードは拳を圧しきると、その場にがくりと膝をついた。
「兄さん!」
メンテスはロードを足蹴にして、仰向いたその喉に剣先を向けた。剣を持ちかえた左手には鉄のような爪がのび、真っ赤に染まっている。ロードは呼吸しているが、動けない。
「やめろ!!」
メリウェザーはひと跳びに駆けつけ、棍を振るった。遠心力と怪力を存分にのせた一撃は、メンテスをロードから引き離した。
「兄さん、しっかり」
動かして良いものか。ロードは鍛え上げた腹をざっくりと裂かれていた。メリウェザーはすがりつくこともできず、震える手で療術をかける。
「おい……敵に、集中……」
「喋らないで!」
気を扱うロードの体質は回復術が通りやすい。療術程度の応急処置でも、傷を塞げるかもしれない。だが、メリウェザーの体力は願うほど残っていなかった。
「う、う……」
歯を食いしばって療術をかけるメリウェザーの手に、やわらかい手が重なる。
「ここは任せて」
「シェラ」
シェラは前線に飛び出して、まずアリアテを回復させ、すぐさまロードのもとに駆けつけた。
「回復術は想いの力……あたしは皆のことが好き。あたしはいま、最強の白魔導師だよ。だからメリウェザーには、メリウェザーのできることを任せる」
シェラが一瞥した先に、メンテスが悠々と立っている。
「……わかった」
メリウェザーは棍を構えた。その隣にアリアテが並ぶ。
駆け出し、メンテスと攻防をくり広げる二人を眺めながら、ロードはため息をついた。
「ざまーねえ……」
「こら。ロードは治ることに集中して」
「ああ、すげえよシェラ。痛みが鈍ってずいぶん楽だ……」
――痛みを取り除く才能だけなら、一番弟子にしてあげてもいいくらい。
クワトロはそう評した。
「大丈夫だよ、ロード。でも血は足りてないから、絶対安静だからね」
檻を確認しに行っていたフレ=デリクは、アリアテたちの援護に向かった。
助けもなく、動けずにいるロードとシェラは、優しく水の膜に包みこまれた。
「え、これって」
シェラは顔を輝かせた。
「エル!」
「遅くなりマシタ」
エルウィンの髪は黒く染まり、その双眸は封印の赤ではなく、深い青をたたえている。
「なんだか雰囲気変わったね」
「シェラも、ずいぶんたくましくなりましたネ」
ひまわりのような笑顔は変わらない。
「ロードを任せマシタ」
エルウィンは、混戦しているアリアテたちのもとへ向かった。
戦いに加わったフレ=デリクは、武脚に槍術をからめた複雑な動きで、メンテスをやや圧倒していた。その鬼気迫る猛攻は、アリアテとメリウェザーまで気圧される勢いだった。
「待ちわびたぞメンテス・ガヴォ! 14年だ。今度こそ王家を守る、業火から存えたこの命の使い時よ!」
フレ=デリクは渾身の一撃をメンテスのあばらに食らわせた。骨を砕き、内臓にまで達した蹴りが、ついにメンテスに血を吐かせた。
だが、とうのメンテスは変わらず無表情だった。剣を捨てた左手が、めり込んだフレ=デリクの脚を掴む。魔獣のように鋭利な爪は、武脚に耐えるフレ=デリクの装甲を砕き、肉に食い込み、骨にまで達した。
「ぐ、うっ」
攻撃の勢いのまま、フレ=デリクは退くことができない。むしろ退かずにそのまま、脚を振り切った。
「フレ=デリク!」
アリアテとメリウェザーは同時に叫んだ。アリアテは魔剣の炎をふるい、メリウェザーは棍を薙いでメンテスに距離をとらせる。フレ=デリクは無惨に潰されかけた脚に療術をかけてしのいだ。
「やはりあの男、ヒトとは思えん」
メンテスはへこんだわき腹を撫で、にやりと笑んだ。
「ここまで傷を負わせるとは、見上げたものだ」
血を吐き捨てた後、メンテスは白く輝く羽を取り出し、口に運んだ。フレ=デリクは忌々しそうに言った。
「ラサの羽か!」
メンテスはこみ上げた血を吐き捨てると、治癒した右肩をまわした。
「さて……時は満ちた。有象無象は消していくか」
「何を……させるか!」
アリアテが飛び出すと、メンテスの動きが硬直した。
「ぐ……目障りな小娘が、貴様が何だというのだ!」
それまで余裕だった顔が鬼の形相に歪んだ。メンテスは動こうとしない体を無理やり動かし、首元に迫っていたアリアテの剣から逃れた。
ひとすじの血が流れる首をおさえて、メンテスはとてつもない冷気を放った。
「うっ」
それ以上進むことも、さがることもできず、アリアテは吹きつける魔素の奔流に耐える。遠くでメリウェザーとフレ=デリクが叫んでいる。
(な、に……)
押し寄せる冷気のなかから、メンテスの声が不気味に響いた。
「最後に【花の守護者】の何たるかを拝ませてやろう」
やっとのことで薄目を開けると、片手を地面と平行に掲げたメンテスの体が禍々しい光を放ち、暗い影に溶けて、紫の巨大な竜となった。紫の竜は、腹の底から凍えそうな冷気をともない、アリアテをじっと見つめた。
「亜竜」
「アリアテ、下がれ!!」
フレ=デリクが叫ぶと同時に、紫の竜は前肢をついて身をかがめた。
「皆、檻のほうへ!」
エルウィンが叫ぶ。アリアテはそちらを振り返ろうとする間に、メリウェザーに抱えられていた。
「エルウィン!」
メリウェザーは渾身の力でアリアテを投げ飛ばし、エルウィンが水魔道で受けとめた。
「メリー!」
アリアテが叫んだ直後、紫の竜は体色と同じ、紫煙を吐いた。紫煙は瞬く間に広がり、アリアテたちを呑みこんだ。肌には焼けつくような痛みが走り、吸いこんだとたん、指輪の魔鉱石が強い光を発した。
「毒霧デス! 早くこちらに!」
エルウィンは魔鉱石アマルヘレネの効力が切れる前に、なんとか仲間を集め、捕虜ごと巨大な水の膜にかくまった。
メリウェザーは紫煙のなかを走ったが、砂に足をとられてよろけた。同時に、アリアテたちのアマルヘレネは一斉に砕け散った。
――一度だけ、致命傷を肩代わりする。
「メリィ!!」
メンテスは追い討ちの毒霧を吐こうとしている。たまらず飛び出そうとしたアリアテを、フレ=デリクが制した。
「彼の行いを無駄にするな!」
「メリィ! メリィ!」
なおも叫ぶアリアテの前で、メリウェザーの脚に紫煙が触れた。
「う、あああ!!」
初めて聞く悲鳴。紫煙に膝下まで被われ、メリウェザーは動かなくなった。
――【花の守護者】の何たるかを拝ませてやろう。
「メリウェザー! 助けに行かなきゃ」
取り乱すシェラに、フレ=デリクは苦々しげに言った。
「あれが【花の守護者】なのであれば、毒を操る真の竜だ。亜竜の比ではない化け物を相手に、無謀な決死隊になることはできない。あの若造を助けるために、お前は他の者にも死ねと言えるか?」
シェラはうなだれ、悔し泣きしながら気絶したロードの回復にあたった。
「毒竜……こんなものが実在するとハ……」
エルウィンは、仁王立ちする紫の竜をにらんだ。紫の竜は動けなくなったメリウェザーを見下ろし、せせら笑った。
「世に定められし理は、何人たりとも枉げる事能わず。私の嫌いな言葉だが、今のお前達にはあつらえ向きだ。竜に敵うものなど……」
「その言葉にならえば、お前が私に勝てる道理はない。メンテス・ガヴォ」
毒霧の晴れた砂浜に、金色の剣をたずさえた騎士が立っていた。オルフェスはメンテスの前に立ち、剣を構える。
「オルフェス! 跳ぶこともできない体で」
フレ=デリクは身を乗り出し、脚の痛みに舌打ちした。
オルフェスは力を振り絞り、砂を蹴った。
「我は竜伐隊士オルフェス・ラ・ウィンド! セヴォーでの雪辱を今ここで果たす!」
高をくくった様子のメンテスだが、オルフェスの剣はしっかりと躱した。巨体に見合わぬ動きでオルフェスをいなして、その背に尾の殴打を食らわせる。
「ぐっ」
砲弾の威力を持った打撃に、オルフェスは倒れ伏した。
「亜竜の亡骸から鍛えた剣か。確かに、使い手によればこの鱗すら切り裂く力はあるだろうが」
メンテスはオルフェスの剣を奪うと、ひと噛みで砕いてしまった。
「亜竜の骨も皮も、所詮は亜竜のもの。真の竜には到底及ばぬ」
「く……」
オルフェスには、砂を握ることしかできなかった。もう一歩も動けないオルフェスに、毒竜は紫煙を吐きかけようとした。
しかしその場から、オルフェスはメリウェザーとともに救出され、水の膜の内側へと運ばれた。
「最強の助っ人をお連れしましたよ」
オルフェスたちを運んだのは、牛ほどの大きさがある獣だった。金色の毛並みは陽光を受けて光り、赤い双眸は優しく細められている。
「申し遅れましたが、シオ様の副官、セリです」
「セリ、お前」
面識のあったフレ=デリクとオルフェスは、変わり果てた姿のセリをじっと見つめた。
エルウィンはその姿に見覚えがあることに気づいた。
(似ている……救うことのできなかった、ザクに)
視線に気づいたセリは、すべてを承知したかのように小さく頷いた。
そして、メリウェザーを抱えおろしたのは、武官長ヴェイサレド・シオだった。彼はシェラにメリウェザーを引き渡すと、アリアテの前に跪いた。
「アリアテ様、よくお聞きください」
ヴェイサレドは、魔剣の炎に焼かれたアリアテの手をそっと握った。
「メンテス・ガヴォを止めることができるのは貴方だけです。どうか、終わらせてやってください。私が彼を弱らせます」
ヴェイサレドの髪色が、赤毛から毒竜と同じ紫に染まっていった。空の色をした目は、特徴的な鴇羽色に変わる。ヴェイサレドはアリアテの質問を許さず、メンテスの前へ進み、怒気をはらんだ声で吼えた。
「お前の天下もここまでだ!」
毒竜をにらむヴェイサレドに、メンテスは紫煙を吹きかけた。
「シオ殿!」
フレ=デリクをはじめ一行は息を呑んだ。ヴェイサレドは紫煙のなかで微動だにしない。
紫煙が晴れると、ヴェイサレドは力強くメンテスを睨んだままだった。メンテスは鱗におおわれていても、顔をしかめたことがわかった。
「そうか、貴様……」
ヴェイサレドは地面と平行に片手を挙げた。
「兄上、目を覚ましてください!」
ヴェイサレドが暗い光に包まれると、メンテスと同じ毒竜がもう一体現れた。