超絶技巧
あれから食事は鶏のささみとスープのみ。
私はダンスを踊ったり舞台に立ち続けるための体力が必要なので、ある程度はタンパク質をとっていたが、それこそ海の魔女ナジャリア役を演じるポートナム・ターナーなんかはほとんど具の入っていないスープしか口にしていなかった。
リエーレ王子役のセドリックも少しでもイメージを近づけるために純白の髪をブロンドに染めた。
使用人兼村人役、アンサンブルのエリカも髪を短く切った。
ランドル役のリビウスも増量し、長かった髪の毛を切り染めた。
婚約者アイナ役のメリダ・クイーンは髪を染めバレエの特訓を始めた。
気が付けばみな大なり小なり役作りをしており、私のダイエットもそこまで苦痛には感じなかった。
そして、稽古を繰り返せば繰り返すほどみんなキャラクターに近づいていく。
「最初の人魚の国のシーン。舞台上を海にすることになったわ」
「え?海?」
「舞台の上に結界を張って水を入れる。あなた達には魔法薬で人魚になってもらうわ」
後日魔法薬を渡すから各自慣らしておくように。
そんな大掛かりな魔法をどうやって。
そう思った瞬間アクアの顔が浮かんだ。きっと彼ならこの無茶ぶりにも対応できるだろう。
「仮の衣装用意できたから持ってきたぜー」
休憩時間にアルバートがメアリと共に大量の衣装を持ってきた。
本来衣装はセドリックの担当だが、セドリックは劇であまり時間がないため可能な限りアルバートが変わってくれている。
「あれ?私の分は無いんですか?」
私のものとみられる衣装が見当たらなかったため、私は衣装監督のメアリに尋ねた。
酷いくまに真っ青な顔色をした彼女は申し訳なさそうにまだできてないと言う。
相当なハードスケジュールなのだろう。本番までは残すところ4週間ほど。どこの担当も今は1番忙しい時期だ。
そもそもアイデアが湧かないという彼女は稽古を一通り見学して行ったが、それでもいいものは思い浮かばなかったらしい。
レッスン後レヴィからの直接レッスンを受け、それが終わると私は1人で音楽室に向かった。
折角だからと私が舞台の上でヴァイオリンを弾くシーンが追加されることになったのだ。まだ曲は上がってきていないが、指がなまらないようにするため軽く何曲か弾きに来た。
音楽室に入ると、そこには既に先客がおり、その人はピアノにもたれて眠っていた。
床にはたくさんの手書きの楽譜が散乱している。
中には破り捨てられたものやぐちゃぐちゃに丸められたものもあり、どのような状況かは考えなくともわかる。
「ん?エマか……」
目を覚ました先客はまだ眠たそうに目をこすっている。きっと睡眠時間が足りていないのだろう。
メアリと同じく目には酷いくまがあるし、少しではあるが肌も荒れている。
「おはようルーカス。ラストの曲まだ行き詰ってるの?」
劇中で使用する楽曲はほぼすべて完成しており、今はオーディションで選ばれた演奏者たちが日々練習に励んでいて、たまに彼らがレッスン場にやってきて一緒に練習することもある。
しかし、ラストシーンの曲だけはどうしても納得がいかないようで、まだ演奏者たちにも楽譜は降りてきていなかった。
今回の劇では中盤から主人公が声を出せなくなるので、彼女の心情の表現は私の動きと音楽にかかっている。ラストシーンでは主人公の心情が大きく移り変わる。それを表現するのは並大抵な事ではない。
寝ている間に撮った彼の写真をしっかりソフィアに送信していると、ルーカスが尋ねてきた。
「お前は何しに来たんだ?稽古で忙しいって聞いたが」
「私がヴァイオリンを弾くシーンが追加になったでしょ?まだどんな曲かは出来てないけど、なまらないように演奏の練習くらいはしておこうと思って」
寝てたのにごめんねと言うと、彼は「どうせ弾くなら俺の知らない曲を弾いてくれ」と言ってきた。ここのところずっと音楽室にいていいアイデアが浮かばないらしい。
演奏の前に開けるのは若干嫌だったが、この部屋の換気が全くされていないことに気づいて、私は窓を開けた。入って来る風が心地よい。もう風はすっかり秋の涼しい風に変わっている。
何を弾こうか。ちょうどいい曲がないかと探していた時。
そう言えば、あの曲まだ弾けるかな。
私は特に何も考えず、軽い気持ちでヴァイオリンを構えた。
24の奇想曲 作品1 第24番イ短調
イタリアのニコロ・パガニーニが作曲した無伴奏ヴァイオリンのための作品。
ちなみに奇想曲というのは特定の形式に縛られることのない気まぐれな性格を表す楽曲のことだ。
彼は幼いころからヴァイオリンの超絶技巧の奏者として有名で、その腕前は『悪魔に魂を売り渡してその演奏術を得た』と言われるほど。
そんな彼の書く作品だから、当然この曲も超絶技巧を求められる高難易度の楽曲。
まぁ私もイキりたい年頃だったし、当時はコンクールで弾いてやると死ぬ気で練習していた。もちろん音楽的にも充実していていい曲なのだけど。
特にこの24番は有名で、その後多くの作曲家がこの作品の主題をモチーフにした楽曲を残していた。
24番は16小節からなる主題と超絶技巧を駆使した11の変奏にフィナーレがついている。
第1変奏ではアルペジオ、第2変奏は半音階風、第3変奏は重音、第4演奏は高音域での半音階。
これだけでも普通に難しいが、第9変奏には彼が始めたとされる左手のピチカートが用いられている。本来左手は弦を抑えるために使う。それでピチカートするなんてそれだけでも難しいのに、彼はその上で右手の弓での奏法を織り交ぜながら高速で演奏するという超絶技巧を要求している。
正直ここが出来るようになるまでどれだけ練習したかなんて思い出したくもない。
これが出来れば指はなまっていないと自信を持って言える。
しかし、「弾けないかも」なんて言う心配は杞憂に終わった。やはり体に染みついている動きは簡単には忘れないらしい。
私の演奏を見ているルーカスは目をまん丸にしてこちらを見つめている。
分かる。意味わかんないよね。私もそうだったよ。
窓から吹き抜ける風が心地よい。
最大の壁を乗り越えると、その後は繊細で美しい第10変奏、重音と上昇アルペジオが力強い印象を与える第11変奏を迎え、フィナーレでは幅広い音域のとても華やかなアルペジオと共に終曲する。
「……ふぅ」
弾けた。
そう安堵の声を漏らすと、パチパチを拍手が聞こえる。
ルーカスだろうと思ったが、彼一人にしてはなんだか拍手の数が多い。
見ると、いつのまにか開いていた窓に集まっていた劇の関係者が溢れんばかりの拍手をしている。
「今のなに!?」
「もしかして最後に弾く曲ってこれ?」
「どうやって弾いてたんだ?」
詰め寄って来る彼らに押しつぶされそうになり、一旦ヴァイオリンを下ろそうとした瞬間。
「痛ったー----!!!」
経験のない激痛が指先を駆け巡った。




