十、蚊
私を覚醒させたのは不愉快な音だった。
耳障りなプゥ~ンという羽音は、眠っている人間にも危機感を覚えさせるらしい。
蚊だ。
蚊が部屋にいる。
私は音の発生源を探して部屋の中を見回した。
そこでふと、おかしな事に気が付く。
今は三月。まだ蚊が発生するには早いはずだ。
しかし羽音がすることは事実。
部屋の明かりをつけ、蚊の居場所を探そうとした。
ところが、その姿はどこにも見当たらない。
諦めて明かりを消して布団へ潜り込むが、やはりまだ羽音がする。
じっと闇を見つめていると、そこへぽーっと浮かびあがる白い虫の姿があった。
私は狙いを定めてその虫を叩き潰そうとした。
しかし私の手は空を切り、パチンと空気を叩き潰しただけだった。
何度やっても蚊を叩くことができず、電気をつけると見失う。
何度同じことを繰り返しただろう。
叩けないなら追い出してしまえばいい。そう思い立って窓を開けた。
春と呼ぶにはまだ早いこの時期。
夜中の風は非常に冷たかった。
部屋が冷めきる前に蚊を外に追い出さなければ。
私は躍起になって蚊を窓の外の方へ追いやった。
格闘すること五分。
外へ消えていく蚊の姿を見届けて、ようやく眠れると安堵した。
その直後だった。
目の前の壁をすり抜けて蚊が家の中へ入り込んできたのだ。
電気をつけると消えたり、触ろうとしても触れなかったりするところを見るに、どうやらこの蚊は幽霊らしい。
虫の幽霊というのは珍妙だが叩こうにも叩けないのも頷ける。
羽音は耳障りだが、幽霊なら刺しはしないだろう。
観念した私はそのまま眠りについた。
翌朝、枕元で季節外れの蚊が一匹死んでいるのを見つけた。




