恋月夜
そこは春のわらびに似た街灯がにょっきり立つ場所だった。
蛍光灯が照らす夜道は白い。ぼんやりと静かなその光の下、花屋の若者は自転車をとばす。今日は隣町の恋人に会う約束なのだ。それなら持って行けと店じまいの時におやじさんがわけてくれた二本のユリが、楽しそうに前かごで踊っている。
「今夜は暗いな」
若者がアカシアの街路樹の前を通りかかるとそんな声が聞こえた。
気のせいかと思ったがそうじゃない。周囲を見渡しても誰もいないのに、声ははっきりと聞こえる。
「君に言っているんだ。今夜は暗いよ、せっかくの新月なのに」
「新月なら暗くて当然じゃないの?」
おそるおそる答えた若者に、今度はちょっと怒った声がする。
「新月は絶世の美女なんだぞ。優しくて素敵な人なのに、それを君らは知らないんだ。彼女は恥ずかしがりだからいつも出てこない。昔からずっと。皆それに慣れてしまった」
「慣れたならもうそれでいいじゃないか」
「ところが今度は満月のばあさんがへそを曲げてもう夜空には行かないと言いだしたんだ。彼女は新月をとても可愛がっているから、新月を無視して平気でいる奴らなんか照らしたくないってね。十六夜のじいさんはばあさんの言いなりだから、こちらももう出る気はないそうだ」
「満月がないのは寂しいね」
「そうだろう」
やっと事の重大さがわかったか、と満足げに声は付け足す。
「三日月だって、新月が出ないなら僕も出ないと言っている。まあ、これは子どもの言うことだからあてにならないけど」
「三日月もなくちゃ困るよ。僕の恋人が大好きなんだ」
「そうさ。夜空の舞台に月たちは順番に出てくるんだ。昔からずっとそう決まっている。なのに君らは新月が出てこないことにまったく気づかない。彼女は傷ついてますます出て来られない。なのに君らは彼女を呼ぶかわりにこんなものを作ってうす寒い夜の寂しさをごまかしている」
アカシアの葉が揺れ、蛍光灯の傘を叩いた。
「このままじゃ月たちは皆仕事をやめてしまう。そしたら世界の終わりだ、君がどうにかしたまえ」
若者は驚いて訊き返す。
「なぜ僕が?」
「このいまいましいにせの光を放つおばけわらびをつくったのは君らだろう。これを壊せば、暗い夜道に怯えた君らを見かねて優しい新月は顔をだしてくれるはずだ」
アカシアがさらさら揺れた。その葉影は蛍光灯に照らされて、かごのユリの白い花弁へつぶつぶとこぼれる。若者は三日月を眺める時の恋人の嬉しそうな横顔を思った。
「ちがうよ、僕にはなにもできないし、蛍光灯を壊しても何にもならない」
なんて無責任なんだと声は怒る。それをなだめて若者は言う。
「それより君が彼女に好きだと言えばいいんだ」
「なんだって!?」
今度は声が驚いて訊き返す。
「君は新月が好きだから心配で、彼女に出てきてほしいんだろう。それを素直に言えばいい」
アカシアがぶるりと震える。
「そんなことできない」
「できるよ、きっと」
「あの人と俺じゃつりあわない」
「つりあわなくてもいいのさ。好きって気持ちはそれだけでいいんだ。相手を思うことが大事で、その気持ちがうれしいんだよ」
若者はユリを一本、アカシアの枝にかけてやる。アカシアはおずおずと枝を伸ばし、ユリを空に捧げた。静かな夜空が一瞬だけユリと同じまっしろな光に包まれる。
若者が力をこめてペダルを踏みだす。世にも珍しい明るく輝く新月の晩を早く恋人と一緒に過ごしたいと思って。
去りゆく背中にアカシアが恥ずかしそうに揺れる音が聞こえ、若者は微笑む。降りそそぐ光は夜道を照らし、隣町へと急ぐ若者を見守っていた。