所有について
人間というのは本能的に、所有している存在と所有していない存在とを分ける。それは仮にこの世において、現実的に存在しているか怪しいものであっても同様である。人は勝手に感覚的に所有を選別するのである。特に所有物においてわかりやすいのは物理的存在である。なぜなら視覚的に判断できるからである。もしかすると借り物である可能性もあるが基本的に客観的には持っているように見える人の所有物であると判断される。それは人間がその都度個人の置かれた背景を考慮することが殆ど無いからである。
私たちが所有物を判断したがる原因は主に自己の価値を推し量るためというのと、社会的秩序のために他人の所有物と己の所有物とをより分けねばならないからである。
自己の価値を判断すると言うのはつまり客観的に他人と比較することにことであり、そのときの価値とは相対的価値である。しかしながら人間というのは個人的価値も持ち合わせており、この個人的価値のほうは基本的に当てはめる対象が少ない。なぜならより多くの人間社会における環境、特に人々とが交流するような場面において相対的価値のほうが重要だからである。そういった場面では個人的価値は意味を持たぬものとされ故に人は個人的価値をすり減らしていかざる負えない。そうして個人的価値はどんどん無くなってゆく。個人的価値がより増える環境というのは孤独である。孤独に近ければ近いほどに増えていく。客観では孤独でなくとも個人的価値が顕著に多い人物というのは例外なく孤独を抱えているのである。
自己の相対的価値というのも、最終的には個人的価値とその基準に通すことによって善し悪しや許容範囲外かそうでないのかを決定するのであるが、少なくとも一度比較したという点では相対的であると言える。比較から検討されたのが相対的価値であり、一度も比較する必要がないものが個人的価値である。
人間という存在は相対的価値を求めなければ気がすまないのは本能的な不安を感じるからである。これは社会的な生活によって豊かになった代償であり呪いであり、集団になるという事によって生じた恵みと獲得した社会性によって文明を築き上げ、生き残ってきた人間という生物の特性である。集団社会というのは複雑に構築されており、その中では集団の利益のみを受けようとものも点在し、人間の集団はそういったものを溢れさせないために、そのような個人に対してサンクションを与える。そうして人々はサンクションを恐れるようになり、最終的には本能に刷り込まれた。しかしその本能は人間にとって耐えきれぬ重荷なのである。
サンクションを恐れる本能を背負うと自己を他人に誇示する機会を失うことがあるのだが、自己を他人に誇示する行為もまた本能である。人間には誇示するという行為が必要なのであり、そしてそれは快感なのでである。相対的価値を求めるが故の不安とは本質的には、サンクションによって抑えられたせいで自分は他人へ己の誇示ができていないのではという不安なのである。
サンクションを恐れすぎるということ、誇示しないということは社会的な利益を得ていないということを他人へ示すことである。しかし、人が人を評価するのは、その人がどれだけ利益を自己へ持っていけるかというものでも評価するのであり、その場合他人からの評価を失う。また自己の得ている利益を表現しすぎるとサンクションの被害に遭うのである。
結局、本能的には他者の評価対し期待し、そして恐れている。評価されたい願望はサンクションという背景を持って、その存在が不安を呼び起こし働かせるのである。
人間の所有感というのは不思議なものである。生まれながらに所有しているような、自己にとってあまりに自然に当然のように所有しているものほど所有しているということに気が付かないのである。それは物理的な所有物でも、自己の能力でも同様であり、所有物すべてにおいて普遍的である。人は手に入れたと思うものに対しては関心を寄せるが、当然のように所有しているものには関心を持たない。それどころかある意味所有していないものであると決定づけてしまう事がある。
体の何処かがない人物は体の何処がないのかをよく熟知していても、体の何処かがないというの状態の所有には気が付かない。それは体に欠損がない人物には知りえない状態を所有していることであり、存在しないという状態がが存在するという状態を引き起こす事がある。そしてその状態を所有しているというのは人間の盲点である。
音楽の才能を持つものが音楽の才能を求めていて、結果的に努力によって才能の無さをまかない音楽家になったと勘違いしていることがよくある。音楽の才能がなければ音楽家になどなれぬというのに音楽家はそれを認めようとはしないのである。あくまで後天的に身に着けた能力であると断言するのである。しかし実際は後天的に才能に気がついたに過ぎない。
ほとんど誰であろうと何かしらの才能を持って生まれるのだが、その才能を持って生まれなかった人間の感覚がわからないために、勝手に自分にはその才能がないと言い始める。そしてそれは才能という名の所有物に限らず、ありとあらゆる所有物に文句を垂れる。最もわかりやすい物理的所有物に対しても潜在的に当然過ぎたり、盲目的だったりすると所有していないものとしてしまうこともある。物理的存在であれば、思い返して、存在の確証を得ることもできるが、そうでないものは難しい。能力や知識のような日物理的存在の所有物は完全には不可能であると言って良い。
わかりにくい存在を所有物であるかどうか確かめることはさほど重要ではない。最も重要なのは非所有であると決めつけないことである。たとえ明らかであると思われてもその中には本来わかるはずのないものも含まれているのである。才能のように、他者との比較によって決定されるようなものでも、その他者の感覚は絶対に知りえないのであり、認識することは不可能である。本能としての比較的判断に踊らされてはいけない。すべて幻影なのである。こういった概念は不確定なのが自然なのであり、明確であることは不自然なのである。
あまりに多くの人たちが現実的には不明確であるはずの概念をあたかも明確なものであると勘違いしている。そういった不明確であるはずの事物というのは日常生活においてもあらゆるところに点在し、そのことについて明確であることが当然であるかのように取り扱われている。そして人は他人にも明確さを求め、それは実現不可能であり、結局は暗闇に彷徨うのである。