40.変化
高校に入学してから、今までの約半年間の記憶がまっさらになってしまったのがつい二週間ほど前のこと。わたしは結局、九歳の中身のまま通信制の高校に通うことにした。高校に入学するためにしてきた勉強内容も、入学してからしてきた勉強内容も綺麗さっぱり忘れてしまったわけだけど、それでも高校に通う選択をしたのは、忘れてしまったけれど確かに“わたし“が通いたいと思ったであろうから。
クラスメイトは皆、わたしが高校に入ってからの記憶が抜け落ちたことを知ってる。小学生の時の事故のことは知らないみたいだけど。でも、関わってくれる。小学生用の問題集を苦戦しながら解いているとヒントをくれたり、わかりやすく教えてくれたりする。皆からかなり遅れた勉強をしているわたしだけど、不思議と苦痛とは思わなかった。
むしろ、あれほど苦手だった勉強が楽しいと思えるぐらい。“わたし“は確かに、意識のなかった六年間を取り戻すために、必死で勉強したんだろうな。小学生用の問題集をさくさく解いていって、中学生になると問題がややこしかったり、分かりづらくなって、唸っているとクラスメイトがその度に教えてくれる。
わたしは一人っ子だけど、沢山のお姉ちゃんお兄ちゃんが出来たみたいで、嬉しくなる。小学生時代のわたしは、そーちゃんと一緒に登下校していて、女の子の友達がいたことはなかったし。特にわたしのことを気にかけてくれているのは、凛っていう人。病室でわたしを見て泣き崩れた、超絶美人なおねーさんだ。
「ねーねー、凛さん。凛さんは彼氏とかいないの? すっごく美人だから、モテるよね」
何気ない質問に、凛さんは一瞬動揺したように視線を逸らしたけれど、少し寂しそうに笑った。小さく、「忘れたんだものね」と呟いたのが聞こえ、もしかして触れてはいけないことだったかと思ったけれど、すぐに凛さんが何も無かったみたいに笑ってわたしの頬を軽く摘む。
「友達なんだから、さん付けはいらないって言ったでしょう?」
「ひゃって、ほへーはんびゃし」
「ふふ、全然わからない」
「凛さんがほっぺた摘むからでしょー!」
だって、おねーさんだし。と一生懸命口を動かしたのに、凛さんはくすくすと楽しそうに笑いながら摘んでいたわたしの頬を離す。唇を尖らせていじけると、笑いながら「ごめんって」と謝ってくる。こういう、何気ないけど楽しいやり取りがしたくて、わたしは高校に通い続けることを決めたんだ。
十二月が近付き、いよいよ世間はクリスマスムード一色。イルミネーションに、ケーキやらカップル限定のイベントやらなんやら。まぁ、カップル限定のイベントとかは、わたしには関係の無い話だね。周りもクリスマスのムードで、誰々くんに告白するだの、可愛い先輩と付き合うだのと、一々報告を入れてくるのが段々鬱陶しくなってきた。
クリスマスと言えば、わたしの幼馴染みであるそーちゃんは、確かクリスマスイヴが誕生日だったはず。お母さんにそーちゃんのことを聞いたけど、首を横に振り、何も話せないとしか返ってこなかった。丁度クリスマスの時期に、イルミネーションを一緒に見に行った覚えがある。その時だったのかな、病院の中庭にいた時、不意に頭によぎったあのやり取りは。
「六花はさ、鈍感なところをどうにかしたら、今ごろ彼氏いたと思うよ」
「今更ですよ、ねーさん」
「それもそうだね」
「そこで頷くの!?」
昼休み、一緒にお弁当を食べていると凛さんがそんなことを言い出したので、ボケてみたら普通に頷かれて思わず突っ込んでしまった。そこへ、一人の男子が近付いてくる。おー、クリスマスムードに押されて凛さんに告白かな? なんてわくわくしながら待っていたら、目付きの悪い男子はわたしの目をまっすぐ見る。
「六花、話があるんだ」
「ええっと……」
まず自分の名前を教えてくれると助かるんだけど、教えて貰ったところで思い出せるとは思えなかったのでまぁいっかと諦める。親しげにわたしの名前を呼ぶ男子の顔をよく見ると、かすかにだけど……そーちゃんの面影があった。うえ!? まさかの同じ高校だったの?
「えっとぉ、そーちゃん? で、合ってる?」
「合ってるよ。見舞いに行けなくて、ごめん。少し、話に付き合ってくれないか」
「お、おう……。じゃあ、ちょっと行ってきます」
「はいはーい」
ひらひらと適当に手を振り、教室を出て行くわたしとそーちゃんを見送った凛さんの姿が見えなくなり、そーちゃんが空き部屋へ入っていく。相手は一応男子だし、ここは気を付けるべき? ……いざとなったら叫べば誰か来るであろう。考えるのが面倒臭くなったので、考えを放棄したとか、そういうのじゃないよ。
そーちゃんは、わたしの記憶の中よりぐっと大人に近付いていて、目付きの悪さは相変わらずだけど、強面イケメンっていうの? あんな感じでモテそうな雰囲気を感じ取る。空き部屋の机に腰を下ろし少し躊躇ったように、口を開く。
「六花、俺家を出ることにしたんだ。親父も好きにやればいいって言ったし、別のやつが家は継ぐらしいから。ただ、俺はまだ子供で……未熟だ。高校を卒業したら、上京するつもりでいる。大学も決めた。……六花は、これからどうするんだ?」
何がなにやら訳が分からないけれど、とりあえずそーちゃんの中では整理がついているらしい。どうしたいのか、という質問は曖昧で、答えるのに困った。わたしにはまだ夢があるわけじゃない、なりたい職業なんてお花屋さんで止まってるぐらい頭の中までお花が咲いてそうな中身だ。
だから、そーちゃんが何を言いたいのかわからず、察しが悪いやら鈍感やら周りに言われる意味が少し、わかった気がした。わたしは、何がしたいのかな。このままずっと高校生の気分でいられるとは、思ってないけれど。うんうん唸るわたしを見て、そーちゃんが名前を呼ぶ。
「六花。俺、初めて会った時から、ずっと好きなんだ――六花のこと」
――――こういう時、“わたし“だったら、どんな返事をしていた? それだけが頭の中を回り、黙り込んでしまう。告白された衝撃とか、それよりもまず一番先に頭に浮かんだ。ごめんね、そーちゃん。わたしから見てそーちゃんは大切な幼馴染みで、だけどそれ以上でもそれ以下でもなくて。
黙り込んでしまったわたしを見て、そーちゃんが頭をがしがしと乱暴に掻く。それから、悲しそうな、諦めがついたような、複雑な顔で笑う。
「ごめんな、突然。困らせるつもりじゃなかった……忘れてくれ」
踵を返し、そーちゃんは「またな」とも「さよなら」とも言わずに空き部屋から出ていった。引き止めることは出来ず、わたしは黙って去っていく背中を見つめた。そーちゃんとは、それっきり。