39.記憶
誰かの、声が聞こえる。泣きながら必死に名前を呼んでいて、反応したいのに瞼が重く、口を開くことが出来ない。泣かないで、お願い。わたしは大丈夫だよ、×を助けたことで、×が泣いてたらわたしが悲しい。だってわたし達、友達でしょう? ――――あれ? ×って、誰のことだっけ。
「……全ては夢オチなのだった」
「んなわけないでしょ! あぁ、もう! 心配ばかりかけてこのバカ娘!」
「んん? わたしの知ってるおかーさんより、だいぶお年を召して……」
「怒るわよ」
「ごめんなさい。で、ここどこ? 真っ白しろすけなここは、病院と推測する」
「はぁ、全く……。そうよ、凝りもせずに二回も……心臓止まったかと思ったわ、お母さん」
先生を呼びに行ってくる、と言っておかーさんは部屋を出て行った。その顔には疲れが見え、わたしの知っているおかーさんよりだいぶ年が上な気がするのは気のせいか。それにしても、さっき言っていた二回、って何のことだろう? 健康第一なわたしは今まで生きてきた中で入院をした記憶はないというのに。
あれー、おかしいねぇ。おかーさん、とうとうボケた? 本人を前にして言ったらお説教一時間コースだね。扉が開いたから、てっきりおかーさんが先生を連れてきたのかと思って視線を向けると、立っていたのは超絶美人な制服姿のおねーさんだった。その人は、起き上がっているわたしを見るなりその場で泣き崩れた。
大泣きしながら「良かった」とか、「ごめん」とか何とか言っていたけれど、意味がわからずわたしはポカーンと口を開けて固まる。でも、よくよく見るとおねーさんに見覚えがあるような、ないような……? 頭に浮かんだ顔が、すぐに消えて忘れてしまう。名前、名前、名前……ダメだ。どうしてもわからない。
おいおい泣くおねーさんを見て、知り合いだったかなぁと必死に思い出そうとするわたしだったけど、多分これ無理なやつ、と早々に諦める。はっ、もしくはただの部屋を間違えてたパターンなのでは……? んんん、それにしては確かにわたしの目を見てから泣き崩れたからなぁ。
そうこうしているうちにおかーさんが先生を連れて戻ってきた。入り口で泣き崩れていたおねーさんはよろけながら何とか立ち上がり、外の廊下へ出ていった。……な、何だったんだ? 呆然とおねーさんを見送ったあと、優しそうなおじいちゃん先生が部屋に入ってきて、一つ一つ質問してきた。
名前とか、年とか、誕生日とか……あとは、何で入院してるのか、とか。わたしが話すことを、先生は一つずつ丁寧に紙に書いていく。わたしが年を答えた時に、おかーさんがビックリしたような顔で見てくるからわたしもビックリした。よく分からないまま、質問に一通り答え終わる。先生は、さっきまでの笑顔を消して真剣な顔で口を開く。
「いいかい、杠六花さん。君はね、高校の屋上で、友達を助けて転落したんだよ。頭を打ったんだろうね、記憶が飛んでしまったんだと思う。君は、つい一週間前まで、十六歳の高校生として生活していた。その半年ほど前まで、六年間意識がなかったんだ」
――――えっ?
呆けた状態のわたしを見ても、先生はどこまでも淡々とわたしに言い聞かせる。これがまだ、優しくて笑顔で話されたら、嘘なのかなとか思えたんだと思う。でも、冷静に話す先生を見て、本当のことなんだと、嫌でも理解した。それでも、叫ばずにはいられなかった。
「嘘! そんなの、そんなの全部嘘だもん! わたしは九歳で、小学四年で、だから、違うんだもん!」
そう泣きながら叫んで、わたしは病室から飛び出した。おかーさんがわたしの名前を呼んでいたのが聞こえたけれど、振り返らなかった。走って走って、苦しくて息を切らしてようやく立ち止まる。息を吸うと、体の中が痛い。学校のマラソン大会を思い出す。つい最近の出来事のはずなのに、遠い昔の記憶のような気がして、怖くなった。
違う、違うもん。皆で嘘をついているんだ。わたしのこと、からかって笑ってるんだ。十六歳なはず、ないよ。だってわたしの頭の中に、高校生活を送った記憶はないから。先生は、頭を打ったから記憶がなくなったって言っていた。そんなことない、わたしは九歳だ。
病院のガラス窓に映る自分の体を見ても、とても十六歳には見えない。でも、顔はどこか大人びて見えて、自分なのに自分じゃないような……変な気持ちになる。ガラス窓の前でしかめ面の自分の顔をぺたぺた触ってみるけど、やっぱり何か違う。
一旦、落ち着いて覚えてることを整理してみよう。病院の中のベンチに腰掛け、一つずつ思い出していく。年は九歳、小学四年。ここまでは大丈夫。入院した理由は、幼馴染みの男の子が車に轢かれそうになっているのを見て、咄嗟に突き飛ばした。代わりに事故にあって、入院した。
わたしの記憶の中では、そういう理由で入院していたと思っていた。そう言えば、わたしが突き飛ばした幼馴染みの男の子の名前……何だっけ? そーちゃんそーちゃんと呼んでいたのは、覚えている。でも、そこから先が思い出せない。顔もあやふや。
……どんどん、自分の記憶が頼りなくなっていく。怖い、わたしは、どこまで忘れてしまったんだろう。ベンチの上で膝を抱えて顔を埋める。しばらくの間そうしてて、どうしようもないから病室へ戻ることにした。お母さんに、いつまでも心配かけてちゃダメだし。
病室の扉を開けると、泣き腫らした顔のお母さんと目が合う。無言で扉を閉めて、ベッドへ座る。お母さんは何も言わずに、安心した顔で椅子に腰掛ける。ベッドに腰掛けながら、足をぶらぶらさせていると、わたしの通っていた高校のクラスメイトだというお兄さんお姉さんが数人部屋を訪れた。
「杠は高校でも明るくて、友達も多かったんだぜ」
「そうそう! 勉強も熱心だったし、友達想いだからねー」
「……そうですか」
高校生の人達の話すわたしは、知らない自分を聞いているようで、あまり楽しくなかった。明らかにむくれているわたし相手に、クラスメイトの人達は気を使って早々に話を切り上げて帰って行った。
お母さんは心配そうにしていたけれど、わたしが一人にしてと言ったら不安そうな顔で帰って行った。一人になって、病室のベッドに仰向けに寝転ぶ。ごろごろしても目が冴えて中々眠れず、気が付いたら寝ていた。
朝起きると、夜中のうちに降ったのか、雪が積もっていた。どうりで寒いわけだ。もこもこの上着を羽織って、早速外へ出て白い息を吐き出す。ざくざくと雪を踏み固める感触が楽しい。病院の中庭には、同じように上着を羽織って雪遊びをしている子達がいた。
『ホワイトクリスマスだよー!』
『今日はイヴだぞ』
突然頭に流れたやり取りに、動きを止める。今の……すごく、懐かしい。わたしの隣で苦笑いしている男の子はーーそーちゃんだ。ようやく思い出せた幼馴染みの顔は、目付きが悪いけど優しくわたしを見ていた。