28.変貌
逃げ出さないように男の人に囲まれながら歩く途中、玄関前で見かけた田中、の表札にまさかと思いつつも考えを振り払う。ありふれた苗字だ、違う人に決まっている。そんなわたしの考えを見抜いたみたいに、出迎えてくれた相手は――困ったように笑う、イツキ先輩だった。
顔から血の気が引くのがわかった。雨に濡れたわけでもないのに、冷たくなった指先を温めるようにぎゅっと手のひらを握る。握りしめた手はかすかに震えているのが伝わる。聞きたいことはたくさんあるのに、喉につっかえて出てこない。
「ごめんね、うちの奴らちょっと乱暴だったでしょ。傷はつけるなって言っておいたから、大丈夫とは思ったんだけど」
なんてことないように、イツキ先輩が言う。高校に入学して早々に初めて学校をサボった日、確かにヤクザのお父さんの家に暮らしていることは聞いていた。でも、こういうことをするとは全然思っていなかった。
何で、どうして……今までのは全部、うそだった? あの人懐こい笑顔も、キザったらしく笑わせてくれたのも、すべて――。洪水のように考えが止めどなくあふれて、上手くまとまらない。
ごくり、唾を飲み込む。隣では真理夏が、泣き崩れて嗚咽をもらしているのがわかっていたけど、わたしも突然色んな情報を与えられてそれどころしゃない。泣き崩れている真理夏が嗚咽混じりに許しを請う。
「おねがっ、お願い! 家族は関係ないでしょう!」
「それ言うなら、六花ちゃんこそ関係ないよね。巻き込んだのはあなただ」
「……っ、それ、は」
「真理夏は悪くない! イツキ先輩が、脅したんじゃないんですか? わたしを連れてくるときみたいに。目的は何ですか」
庇うように真理夏の前に立ち、手を広げイツキ先輩を睨みつける。わたしの言葉に後ろに控えていた男の人が、怒鳴り声をあげる。反射的に肩が小さく跳ねたけど、ぐっと唇を噛み締めて恐怖を紛らわす。
強く噛みすぎたのか、口の中に鉄の味が広がるけど、おかげで出かけた涙が引っ込む。ここで泣いたら、ダメだ。恐怖に負けた気になってしまう。イツキ先輩の目をまっすぐ見ると、困ったように笑うだけ。
自分よりガタイのいい男に堂々と命令している姿は、学校で見るのとはまったく違っていてゾッとする。真理夏が強引に立たされ、引きずられるように別の部屋へ連れていかれようとするので、止めようとしたらイツキ先輩に手首を掴まれ反対の部屋に連れていかれる。
その場で踏ん張って抵抗しても、体つきが全然違うから強引に引っ張られると、前のめりに転びそうになる。初めて学校をサボったときみたいな、優しい手の引き方じゃない。それが、余計にいつもと違うのを際立たせていて悲しくなる。
連れてこられた部屋は、簡素な部屋。ベッドと座椅子、テレビと小さな冷蔵庫。床に置かれた小さめのテーブル。壁にはシンプルな時計が掛けてあって、窓はあるけどカーテンがない。部屋が暗く感じると思ったら、雨戸が閉められているから外からの光がないんだ。
部屋の奥には、扉があってまだまだ何かありそうな感じだったけど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。なぜ、わたしがこの部屋に連れてこられたかーーその理由を考えなくては。思考を巡らせていると、さらりと言われる。
「今日から、ここで暮らしてもらうね」
「――ぇ。何、言ってるん……ですか。い、いい加減にしてください! こんなの、こんなの犯罪ですよ!」
「バレたら、の話でしょ。大丈夫、六花ちゃんは何も心配しなくてもいいよ。目車のやつとも、関わる必要ない。そうだ、もう奪わせたりしない……」
どうしてここでそーちゃんの名前が出てくるのか気になったけど、温度を感じさせない目で、ぶつぶつと呟きながら部屋を出て行こうとするのを引き留める。イツキ先輩は、相変わらずガラスみたいな冷たい目で、わたしを見つめる。目を正面から見ると一瞬だけ、迷うように揺れた気がしたけど、すぐに元に戻る。
「何を、するつもりなんですか」
わたしの問いかけに、にっこりと仮面みたいに笑う。すっと手が伸びてくる。思わず目をつむると、伸びてきた手が壊れ物でも扱うように頬に優しく触れた。そおっと目を開けると、泣きそうな顔で見つめてくるイツキ先輩。
何で……そんな顔をするんですか。目の前で壊れた宝物を見る子供のような目で、見ないでほしい。よくわからないのに、こっちまでつらくなってくる。悲しそうな目のまま、口を開く。
「安心して、ずっと閉じ込めておくつもりはないよ。――必要なら、繋ぐけど。優しい優しい六花ちゃんなら、脅しで充分でしょ? 自分のせいで周りの人が傷付くなんて、耐えられないよね?」
脅しているはずなのに、口に出してるイツキ先輩のほうが怖がっているような……そんな目。幼い子供を見ている気分になって、つい手が伸びてしまう。気が付くと、イツキ先輩の頬に触れていた。
本当は頭を撫でたかったんだけど、背伸びしても背が低いわたしでは頬に触れるのが限界だった。イツキ先輩の背が高いのが悪い。伸ばした足がぷるぷると震えて、これ以上は無理ッスと伝えてくる。
ハッと我に返ってすぐに手を離す。……しまった! わたしは一体何を――。頬に触れた瞬間、ふわりと体が浮遊感に襲われたかと思うとお姫さま抱っこをされていた。え? え? パニックになっている間にベッドに優しく押し倒される。ギシリ、軋む音が聞こえた。