初恋
午前六時十五分。いつもの時間に少し遅れそうになり、速足で公園へと急ぐハジメの横をランナーが息を弾ませながら追い越していく。
間に合うかな。不安になりつつも足を進めていくと、向こうから彼女が近づいてくるのが目に入りハジメの胸は高鳴った。いつものように楓の木の下ですれ違うと、ハジメはできるかぎり爽やかに
「おはようございます」
すると彼女も弾けるような笑顔で
「おはよう」
ハジメが早朝の散歩を始めて二週間余りが経っていた。そもそもは、運動不足解消にとランニングをするつもりだったのだ。ところが、走り出して十分もしないうちにすっかり息が上がってしまい、諦めて帰ろうかと公園をうろうろしているところで彼女に出会い、一目惚れしたのだった。
なんとかお近づきになりたい。
その一心でこうして毎朝早起きをしているのだが、そこには如何ともし難い障害があった。彼女はその小柄な体格には不釣り合いなほど大きな犬を連れていたのだ。警察犬にでもなりそうなのが、あまり好意的とは思えない目付きでこちらを見ている。犬の苦手なハジメは、そんな足元のボディーガードに怯えながらも彼女と少しずつ言葉を交わして、ただの顔見知りからせめて連絡先を教えてもらえるくらいにまで距離を縮めようと日々奮闘していた。現時点では、犬はジャッキーという名前で、もうすぐ五歳になる雄のシェパードであるということ、水遊びが大好きで雨の日の散歩もシャンプーも喜んではしゃぎまわって大変だ、ということなどが主な戦果である。肝心の彼女に関しては名前すら聞き出せていなかった。
今日もあまり進展は見られず諦めてそれじゃ、と手を振って歩き出すと、後ろから
「ワン!」
驚いて振り返ると、何かを咥えたジャッキーが彼女を引っ張ってこちらへやってくる。どうやらハジメがいつの間にか落としていた小銭入れを持ってきてくれたらしい。
「汚れちゃったわね。ごめんなさい」
ジャッキーの涎で湿った小銭入れをハジメに手渡しながら彼女は申し訳なさそうに言った。
「いえ、とんでもない。落としたのは僕ですから」
ジャッキーと目が合った。
こいつ、見かけによらずイイ奴なのかもしれない。
「ジャッキー、ありがとう」
ジャッキーは何でもなさそうにパタパタと軽く尻尾を振る。その姿は、どういたしまして、と言っているようでハジメは可笑しかった。
そうだ、今度ジャッキーに何かおやつでも持ってきてやろう。
こうして、ジャッキーはハジメの初恋の犬になったのだった。