『雨の目覚め2』
ひんやりと冷たい地面に転がり、鼻の奥を湿った土の匂いが支配していました。
眼前にはとどめを刺そうとする鋭い刃の代わりに、鈍い色をした竹の板が突き付けられています。
「これくらいで宜しいか、隊長殿?」
「はい、ありがとうございます……」
ギンシとの手合わせに惨敗し、すっかり気が落ちてしまいました。
すでに昇り始める月明かりに照らされながら、微かに霞む空を仰ぎます。
靄のようにぼやけた向こう側では、橙色に燃えていた空が闇に飲まれ始め、混じり合うことなく、鮮やかなコントラストに染まっていました。濃紺のカーテンには、まばらに星が散らばっています。
カースが空を隠すように、私の前に屈みました。垂れた髪を耳に掛ける仕草は大人びており、同性である私ですらドキッとしてしまいます。
「帰りましょうか」
「はい」
顔を覗きながら姉が妹に接するように告げられ、少しこそばゆくなりました。
宿泊先である診療所へと歩み始めます。森を抜けると、すでに夜の帳が降りていました。
「わぁっ」
目の前に広がる神秘的な光景に驚嘆したのは、私だけではありませんでした。
「これ程美しき景色が拝めるとは……!」
「まるでこのシリウスの町全体が、魔法にかかったみたいね」
建物や道に使われた白石からは、中の明かりが一切漏れていません。だというのに、視界は暗んでないのです。
昼間に見た目映いばかりの白と、海面の澄んだ青に、闇を払うほどきらびやかな光の雨が降っていました。
夜空に浮かぶ星が鏡のように反射しているのです。
風で雲が流れ影が落ちると、星が明滅し、波打っているかのように揺らいで見えます。
「まるで星の海ね……」
その表現が一番しっくりときました。
神々しさすら感じる光景には、ホロウリィの住民が星を神様として信仰するのも納得です。
私達ドロップリア王国の者は、人間が培ってきた歴史を重んじるので、神を信仰したことはないのですが。
「小さき世界に閉じ籠っておれば、決して見られぬ景色なり」
「そうね」
「トール様も見ておられるだろうか」
美しい景色に魅了されながら、私達三人は帰路を歩みました。
☆☆☆
「何をしていたんですか?」
「なにやってたんだ?」
診療所に帰還した私と、出迎えてくれたハヤテの声が重なりました。
「なんでそんなボロボロになってんだよ」
ギョッとしながら問われ、羞恥を隠すように頬を掻きます。
「あ、その……ギンシに手合わせをしてもらっていたんです、けれど……」
「筋は良いが、日々の鍛練を怠っておったようでな」
「うぅ……すみません……」
昔、兄様やフレアと剣を交えていた頃を思えば、どれだけ身体が鈍っているのか嫌というほどわかります。
しょぼくれていると、ハヤテが頭をポンポンと撫でてくれました。
「何がキッカケか知らないけど、戦えるようになったならよかったじゃんか」
ハヤテの表現からは歯痒い思いが滲み出ていました。
「そういえば、どうしてハヤテがいるんですか?」
「どうしてって?」
「フレアが鍛えると言ったからには、明日の夜まで帰って来れないと思っていたんですけれど」
中身がメイジーだとは知っていますが、フレアの記憶が焼き付けられた今、彼女はスパルタ式の教育法も受け継いでいるはずです。
きっと仮眠を取る程度で、寝る間を惜しみながら修行させていると思っていたのですが……
「ああ、途中でフレアが倒れたから連れ帰ってきたんだ」
なんてことはないといった態度で返され、眩暈がしました。
「倒れ、た?」
今朝はすっかり元気そうだったので懸念していませんでした。
けれど記憶が戻った状態でフレアの状況をざっと洗い直せば、不審点が幾つも浮かび上がってきました。
カースはフレアの魔力暴走の原因を、兄様が『封印』した『破壊』の魔法を使ったせいだと分析していました。けれど、実際『破壊』の魔法を有しているのは、氷漬けとなっている本物のフレアです。
魔法を『封印』されていたというのは、偽の記憶が焼き付いているだけなのです。
メイジーの魔法はフレアから受け継いだ『夢現』の魔法と、自身が生まれ持つ『防御』の魔法を宿しています。あくまでフレアの魔法を使えたのは、夢の中で『破壊』の魔法を使える自分を想像していたからに過ぎないのです。
となると、魔法を破ったから倒れたとは考えられず、他に要因がありそうです。
私が倒れた原因に思考を働かせていると、カースが曇った顔でハヤテに向きます。
「また熱が出ているのかしら?」
「いや、しばらく寝かせてたから、もう熱は引いてる」
ふと、ハヤテの雰囲気がいつもと異なることに気付きました。遠くを見つめて物思いに耽ることは多かったのですが、今はフレアのことを口にする度に、どこかやるせなさを感じるのです。
そういえばハヤテが親友や家族だと口にするメイジーは、昔のフレアと今のフレア、どちらのことなのでしょうか?
休養室から覚束無い足取りのフレアが姿を現しました。いつもの赤いローブは脱いでいるようです。
「水……」
まだ寝惚けているのか、私達が視界に入っていないようです。
真っ直ぐに歩けずによろけた身体を、ハヤテが素早く支えました。
「おい、大丈夫かよ」
ボーッとしたままハヤテを見上げたフレアが、左右へ首を振った後に固まりました。どうやらハヤテの腕の中にいると気付いたようです。
フレアはワナワナと震え出しました。ハヤテだけではなく、フレアまで様子がおかしいです。
「フレア、どうしたんだ?」
「いつまで抱きしめてやがるんだテメェ!」
ハヤテの腕から逃れたフレアは、休養室の入り口に立て掛けてあった剣を取り、鞘ごとハヤテの腹部を殴りました。
「うがっ」
奇妙な声を上げてハヤテが床に突っ伏します。
「あらあら、ハヤテはフレアが倒れそうになったのを受け止めただけなのよ?」
「なっ!? わ、わりぃ、昔のことを夢に見て、気が動転しちまってたんだ」
カースにたしなめられ、フレアは申し訳なさそうに頭を下げました。
昔のことという単語を、複雑な気持ちで受け止めます。
メイジーは焼き付いた記憶から自分をフレアだと思い込み、他人の記憶と思いを本物として過ごしています。もしもそれが偽物だったと気づいたら……どうなってしまうのでしょう。
殴られたところを擦りながら、ハヤテが身体を起こしました。ふくれっ面です。
「扱いが酷すぎるんじゃないか?」
不平不満を指摘され、フレアは苦い顔になります。
「悪かったっての……明日こそはみっちり鍛えてやっから、それで勘弁しやがれ」
「約束を違えたら許さないからな」
どうやら仲直りしたようです。別に喧嘩をしていたわけではありませんが。
「それよりハヤテ」
「ん?」
「ひとつ気になってることがあんだけどよぉ……」
フレアがハヤテに何か問い詰めようとしていた時、ドタガタバタン! と騒がしい音が聞こえてきました。
姿が見えない辺り、最後のバタンという音で転けたのかもしれません。
「トール様!」
ギンシは目を閉じたままなので、魔法ではなく気配を察したのかもしれません。慌てた様子で玄関の外へと飛び出しました。
すると、診療所の少し手前にて、蛙のように潰れるトールの姿がありました。
「……めぬ」
腕に力を込め、赤くなった額を上げます。放電した状態で鋭く睨まれ、フレアがたじろぎます。
「な、なんだぁ?」
心当たりはこれっぽっちもないようです。
ギンシの助けを断って起き上がると、トールはズカズカと診療所に入ってきます。
すれ違い様にフレアに呟いた言葉は――
「接吻したからといって、ハヤテは渡さんからな」
私には聞こえませんでした。
☆☆☆
なんとなく居心地が悪く、ぎこちない空気のまま、俺らは迎撃当日を迎えた。
昨日は朝から晩まで、休むこと無くフレアと修行をしていた。足手まといかもしれないが、微々たる戦力にはなるはずだ。
「んじゃ、作戦会議始めっぞー!」
昨日ロビンが持ってきた、より詳細な予知情報を元に、作戦を立てていく。指揮を執るのは隊長であるレインだ。
「まずは彼らの目的をおさらいしましょうか」
俺らの顔を見回すと、レインは小さく息を吸った。
「ハールバルスとフィヨン、未だ真名のわからない二人ですが、ロキとの関係を鑑みるに、スカンディナヴィアの人間であることは間違いないでしょう」
「ああ。師匠はロキと親しく、私をトールの名で呼び始めたのもその二人だ」
「目的は水と氷の魔術が記された、この強欲の魔道書。そして、フィヨンはトールとの再戦を望んでいるはずです」
「質問あんだけど」
一度話を止め、手を上げる。
「強欲の魔道書で氷属性の『封印』を破れるとして、ロキが復活すると何がそんなにまずいんだ?」
確かに禁術管理者は厄介だし、命を狙われたみたいだけど、それだけが理由で『封印』するとは到底考えられない。
「ロキはラグナロクを起こそうとしているのよ」
「ラグナロク?」
「世界の終焉……この世の終わりだ。この世は数百年前に一度終焉を迎えている」
「水が全てを呑み込み、あらゆる生命が奪われ行く様は、阿鼻叫喚の嵐だったと聞いておる」
俺が知らなかっただけで、この世界の歴史としては常識なのかもしれない。鎖国していたはずのトールやギンシですら知っているらしい。
「それは恐らく大和ノ国が島国だったからね」
カースが本を開きながら補足する。
「ホロウリィでは星々が天から降り、ナチュレ国では木々が根こそぎ倒れ、スペルフィルでは魔物が溢れかえり、ドロップリア王国では内乱が勃発、ルクスリアでは爆発が相次いだの。そしてどの国も、大地が震えていたと言われているわ」
「防げなかったのか?」
カースが首を振って否定の意を示す。
「予兆として三度の冬が訪れていたけれど、異常気象という言葉で片付けられてしまったわ」
「三度の冬……数え切れないほどの戦乱を招く、フィンブルの冬ですね……」
確かにこの世の終わりと呼ぶにふさわしい事実だ。話を聞くだけでも恐怖で身がすくむ。
今でも語り継がれているのは、スカンディナヴィアだけは終焉を免れたということだろうか……
「つーわけで、俺らはこの強欲の魔道書を絶対守りきらねぇとな!」
暗い雰囲気を払うように、フレアが大きな声で叫んだ。
「はい」
レインはシリウス周辺を記す地図を広げた。
「出現地点はナチュレ国付近の森、植物が多く、死角も多い場所です」
「師匠に有利、というわけか」
「そうなりますね。ですが」
レインの視線が俺へと向けられた。
森の中を遊び場にしていた俺としては、地の利があると言える。
「森が得意なのは、何も土や木属性の魔法を使う人だけではありませんから」
期待の眼差しに応えられるのか、プレッシャーに押し潰されそうだった。




