『雨の悪夢3』
「な……に…………こ、れ……」
ヌルリとした感触と、全身に浴びた赤い鮮血の熱は、私を正気に戻すには十分でした。
「いっ、いやあああぁぁっ!!」
身体に纏っていた炎が消沈し、自分の犯した罪の大きさに戦慄きます。
肌が削れそうな程に強く立てられた爪は、自分を守るように身体を抱き締めています。
ガクンと膝を折って絶叫する自分の姿は、目も当てられないほど痛ましいです。
けれどそんな私とは対照的に、ロキは不快なほど愉しげです。
「家族と殺し合うことを拒んだ彼女が自らに焼き付けたのは、二人兄妹という偽りの記憶だ。彼女は自分の手を汚したくなかったのさ」
ゴミを見るような非情な瞳でメイジーを見下し、息も絶え絶えな様子をせせら笑います。
ペンキの缶をひっくり返したように、ドクドクと止めどなく血液が溢れ、メイジーの視線はここではないどこか遠くを捉えています。
心が消え行く虚ろな瞳と不意に伸ばされた腕は、何を求めているのでしょうか。
「さあ、お兄様。邪魔者はいなくなりましたよ」
無邪気にフレアへ寄り添うアッシュには悪意など欠片もなく、フレアへの狂愛と異様なほどの執着しかありません。
「にぃ……さ……っ」
力が抜け、伸ばしていた腕が地面に落ちました。
兄を呼ぶ声。それが、メイジーの最後の言葉……
「可哀相に。よりにもよって十三番目の魔女に目をつけられてしまったのが運の尽きだったな」
無情に告げると、ロキはフェンリルから降り、フサフサとした毛を撫でました。
「さ、フェンリル。食べていいよ」
グルルと嬉しそうに喉を鳴らし、フェンリルがのしのしとメイジーへと近寄っていきます。
ところが、すんでのところで動きを止め、ガゥ! と吠えました。
「…………てやる」
「お兄様?」
むせ返るような熱気が辺りに充満し、息苦しさに目の前がチカチカとします。
「家族が奪われるこんなクソッタレな世界、俺が――全部ぶっ壊してやるっ!!」
地獄の釜が開いたかのように、炎が地面から噴出しました。うねりながら土や鉄を呑み込み、マグマと化しています。
家族の『未来』を奪われたことに憤怒し、周囲を『破壊』する地獄の業火。人を攻撃する意思は無いようですが、このままでは闘技場にいる騎士団はもちろん、町の住人まで『破壊』による崩落に巻き込まれてしまいそうです。
ロキは虚を突かれたらしく、ポカンと口を開けていました。
「……面白い」
口元を緩め、悪魔のように嗤います。
「君は人でありながら、我らと同じ世界の崩壊……ラグナロクを望むということか……」
「世界の崩壊だぁっ!? 別に俺は、自分の家族さえ生きていれば、そんなもんどうだってよかったんだよっ!」
崩壊の予兆として、地響きが始まりました。ゴゴゴゴと、地面を突き上げるような重音です。
「両親が殺されて、俺の家族はもうこいつらとアイツしかいねぇっつぅのに、お前は!」
アッシュを介して私を操り、メイジーを殺したのですから、怒りを買うのは当然です。
「でもてめぇだけじゃねぇ……二人に呪いをかけた十三番目の魔女、アイツを捨てた両親、あの人をアイツから奪った詩人、俺を騎士団に迎えてくれた恩義のある団長でさえ! 今は憎くてしかたないっ……!」
世界のありとあらゆる事柄に理由を付け、不幸を憎まずにはいられないのでしょう。
今まで抑圧されていた、苦汁を嘗める想いが爆発したようです。
「元に戻らないなら、いっそ全部! 壊れちまっ――」
「お兄様っ!?」
突如声が途絶えた理由を、当時の私はすぐに気づくことができませんでした。
全身が凍り付いたかのように、動くことが出来なかったからです。
――いえ、全身が動かせないように身体の表面を凍らされていたのです。
「民を護る意志が欠けた人間、ましてやラグナロクを起こそうとする人間を放ってはおけない」
凛とした態度でそう呟いたのは、ドロップリア騎士団団長のフリーズ兄様でした。
「だん、ちょ……」
パキパキと音を立て、フレアの身体が徐々に凍り付いていきます。
「頭を冷やせ阿呆」
フレアをバッサリと切り捨て、兄様はロキと向かい合います。
フレアの発動していた破壊の魔法を捩じ伏せ、氷塊へと変えてしまいました。
「随分と捜したぞ、ロキ・テュール・エッダ」
「やあ、久しぶりだな。ようやくあの日誘拐した二人を取り戻しに来るとは、やはり君は劣化品のようだ」
「劣化品、か……」
兄様が氷塊に触れると、フレアの周囲のみを残し、氷は粉々に砕けてしまいました。
「貴様が言うのならば、本物はさぞかし優秀な魔法使いなんだろうな」
「本物は、彼のように世界の全てを巻き込める」
彼というのは、フレアのことのようです。
今は兄様により、存在そのものを『封印』されてしまっています。
「所詮君は鏡。ただの写し身だ」
「ならば貴様に通用するか試してやろうか」
一触即発。どちらが斬りかかってもおかしくない張り詰めた空気が、一瞬で緩みました。
ふわりと、橙色の光が降ってきたのです。
光というより、淡い色をした火の粉の方が正しいかもしれません。
「この炎は……」
アッシュには心当たりがあるようでした。両の手の平をくっつけて受け皿にし、炎を優しく受け止めます。
炎はほんのりと熱を持っていながら、触れると雪のように溶けて消えてしまいました。
「お兄様がお母様から受け継いだ魔法なのに、どうして……?」
「僕が兄さんから受け継いだからだよ」
声がした方を振り返ると、メイジーが息を吹き返していました。
「貴方は、私の魔法で…………」
私は浴びた熱と、貫いた音を、何度も鮮明に思い返し、打ち震えていました。
火の粉がメイジーの身体に集まり、みるみるうちに傷口を修復していきます。
胸に開いた穴はもちろん、失った血液や破れた服も元通りです。
むくりと上半身を起こし、両手で土埃を払います。
「夢に見たことを現実にする、『夢現』の魔法。この禁術があるから、夢が見られる限り僕は死なない。兄さんは忘れてしまったけれどね……」
メイジーは既に言葉を交わせなくなったフレアを切なそうに見上げ、視線をロキと兄様に移しました。
「貴様は何者だ?」
兄様の凍てつく瞳は、まるで魔物と対峙した時のようです。既に剣も抜いています。
「……ノイバラ・メイジーライディング」
半歩近付かれ、剣を握る力が強まります。
「お兄さんには昔の名前、ノイバラ・アウロラターリアの方が聞き覚えがあるかもね」
魔法と名前が特徴的だったので、すぐに元になった童話が思い当たりました。
魔女にかけられた呪い、野茨の鎧と鞭、そしてオーロラとターリアという別名……彼女はいばら姫ということになります。
名前を聞いた兄様はメイジーへの敵意を消しました。
「あの時の片割れか!」
二人は昔、どこかで会ったことがあるらしく、メイジーの成長ぶりに驚いているようです。
「話をする暇があるなら、早く兄様を解放なさい!」
ご立腹な様子のアッシュは、曲刀で兄様に斬りかかりますが、その胴体に茨が巻き付きました。
「ごめんねアッシュ。今、兄さんを自由にするわけにはいかないんだ」
既にフレアは感情に任せて魔法を発動していました。冷静さを欠いたまま『封印』を解いても、すぐに魔法は暴発することでしょう。
フレアの魔法を無効化する術があれば良いのですが……
「私に一方的に攻撃されていたあなたに、一体何が出来るの?」
「出来るよ」
メイジーは赤い頭巾を目深に被ります。
「アッシュ、君を眠らせるくらいなら」
魔法を発動させるため、一時の眠りにつこうとしていたのでしょう。目を閉じようとしていましたが、慌ててその場から飛び退きました。
たった今までメイジーが立っていた場所で、ガチンと歯と歯がぶつかる音がしました。
「なるほど。まだ君は魔法をコントロール出来ていないということか」
フェンリルはロキのメイジーを食べるという命令に従い、噛み付きます。
メイジーは避けきったと思ったようですが、歯が噛み合わさった衝撃で、涎が飛沫となってかかったようです。
顔をしかめ、集中力が乱れていることに気付きます。
ロキは何か思い付いたらしく、白く緩やかな服の懐に手を入れました。
「……騎士団長、一つ賭けをしないか?」
「貴様の策略には乗らん」
「賭けに乗ってくれるなら、我を『封印』しても構わない」
思わぬ提案に、兄様は眉をひそめます。
禁術管理者の中でも、ロキは殺人や破滅をもたらす邪神として知られています。
自ら咎人として捕まるというのは好機であり、これから先は起こり得ないであろう気紛れでもありました。
「…………賭けの内容は?」
苦悩の末、兄様は策に乗ることに決めたようです。
ロキの目がキラリと光りました。
「メイジーに偽りの記憶を焼き付け、フレアとして生きさせる」
「僕が、兄さんとして……?」
巻き込まれるとは夢にも思っていなかったようです。
「もし『夢現』の魔法をコントロール出来るようになるか、フレアの魔法を抑える術を見つける。どちらかの方法で無事に目覚めさせられれば、ラグナロクを引き起こすのはやめよう」
「……『夢現』は元々フレアの魔法。記憶があれば使いこなすのは容易ではないか?」
「そう。それではハンデが過ぎる」
アッシュを拘束する茨をナイフで切り裂き、ぐいっと肩を抱きました。ロキの方が身長が低いので、アッシュの体勢は斜めっています。
「アッシュや他の禁術管理者が我らの『封印』を解除すればこちらの勝ちだ。ただし……メイジーに魔法を『封印』した記憶を焼き付け、家族に関する記憶は焼き尽くしてもらう」
「魔法を使えない記憶を与え、フレアの存在を忘れさせた状態で、フレアを救う術を探し出せばこちらの勝利か」
「ああ。おもしろいだろう?」
無茶苦茶なルールが提示されていますが、言質を取られた以上、断ることは許されません。
「……いいよ」
答えたのは兄様ではなく、当事者であるメイジーでした。
「でも一つ条件を出させて」
「条件?」
メイジーは目を細めると、私をすっと指差しました。
「お姉さんの中から、今日の記憶を消して」
「え……」
「記憶を忘れたとしても感情は残るから、もう戦えないかもしれない……でも、その分僕が傍で守るから……!」
人殺しをした記憶を消し、私を守ろうとする優しさに、胸がじんわりと熱を持ちました。
「わかった」
メイジーの条件に応えたのは兄様でした。
私の頭に触れ、記憶の『封印』をされると、私はそのまま意識を失いました。
暗闇に揺蕩う中、微かに声が聞こえました。
「家族ってことは、あの子……ハヤテやリーフェルさんのことも忘れちゃうんだね……」
「忘れてもらわなければ困る」
メイジーの不安や哀しみを煽るように、ロキは言葉を続けました。
「彼らは君らと同じく、世界の命運を握る小人なのだから……」




