『雷の偽悪1』
地平線の彼方を一望できるほどに、どこまでもどこまでも続く海原を、幼い子供のように夢見ていた。
……のだが、海底洞窟までの道中でその景色を拝むことは叶わなかった。
レイニィデーを出てすぐに国境を越え、その後は坂を下り、崖下らしき場所をひたすら歩いていた。
「ほら、あの洞窟がピスケスだよ」
目的地であるピスケスの入り口は岩場に穴を穿ち、金属の扉で蓋をしたような簡易的なものだった。門番は居らず、随分と無用心だ。
「これが……」
扉には二匹の魚が巴形に描かれ、その上にマークが刻まれている。
フォルがこてんと首を傾げた。
「あれ? かんぬきが外れてる」
言われてみれば、扉の中央には持ち手の長めな取っ手が二つあり、扉の脇に横木らしきものが転がっている。
「誰か入ったのかな?」
立ち入り禁止とはなっていないため、俺らの他にもこのダンジョンの噂を聞き付けた人がいたのかもしれない。
「まさか本当に常闇の魔女がいるんでしょうか?」
「少なくとも扉の隙間から溢れる魔力は尋常じゃねぇなぁ……」
「え、魔女っ!? 見たい!」
こっそりと中を覗こうとするフォルだが、ひょいっとトールに持ち上げられてしまう。
「案内、終了。同行、不可」
「ちぇ」
フォルは悔しげに口を尖らせた。
「んで? どうすんだぁ隊長?」
「え? えとっ」
オロオロするレインをよそに、トールはフレアと自身を指差した。
「偵察、即帰還」
「へっ?」
「そーだな、レインとハヤテはちょっと待ってろ。俺ら二人で少しだけ様子見てくっからよぉ」
「二人だけで大丈夫なのか?」
杞憂かもしれないが、それでも胸騒ぎがする。
「心配ねぇよ! ……二人っきりで話したいこともあるしな」
ヘラヘラと笑い飛ばすフレアだが、少しだけ顔に影が落ちたように見えた。
一体フレアは何と呟いたんだろう?
「でもさ、迷ったらどうすんだよ」
ポスンと頭に手を乗せられる。
「ハヤテ……守る、ため、だ……」
「本当に危ねぇとこ連れてったら、足手まといにしかならねぇからな」
二人の言葉は俺とレインが戦力にならないことを言い訳にしているようにも聞こえた。
「大丈夫、だ」
不思議と、手の温もりが俺の中に溶け込むかのように、安心感を与えてくれた。
フレアはマッチでカンテラに火を灯す。柔らかな色は心を温かく照らしてくれる。
トールは羽織袴を翻し、フレアと共にピスケスの中へと入っていく。
背中が闇に消えてしまうが、俺はそれでも扉の奥まで続く闇を見つめていた。
唐突に、ツンツンと服を引っ張られる。
「ハヤテはトールのことをどう思いますか?」
深刻そうな表情を浮かべるレイン。
フレアはレインと俺に話をさせるため、トールを引き離すのが目的だったのか。
「どうって……仲間、だけど……」
たったそれだけを口にしただけで、頭が割れそうなほどに痛い。
「ソナーレさんから聞いたんです。リーフェルさんが最後に訪れた国のこと」
「最後に?」
俺がリラから聞いていたのは、旅の途中でリーフェルが死んでしまったということだけ。
どこで死んだのか、何があったのかは決して教えてくれなかった。
「リーフェルさんは大和ノ国で亡くなったそうです」
大和ノ国、つまりはトールやギンシ達の国ということ。
鎖国してはいたものの、親書などを持っていれば特例で出入りできたはずだ。
「ハヤテも、不思議に思ったことがあるんじゃないですか?」
答えは全て繋がっているのに、俺は目を背けている。
「……わかってる。トールは俺やリーフェルと関係があるってことくらい」
けれど沸き上がる感情と共に心の奥底に封じていた。
俺は今さら大和ノ国に帰るつもりなんてさらさら無い。
俺にとってはグリーングラスが故郷なのだから。
「ハヤ」
――いやあああぁぁぁっ!!
深淵に木霊した耳を打つような悲鳴に、俺はレインと目を合わせた。
「レイン、行くぞ!」
「はいっ!」
海底洞窟に足を踏み入れた途端、冷気が全身に纏わりつき、ジメジメとした湿気が士気を下げるのを感じた。
足が重くなり、まるで地面に引きずり込まれそうだと錯覚する。
カンテラはフレアとトールが使っているが、暗闇に目が慣れるまでさほど時間はかからなかった。
でこぼことした道に足を取られそうになるが、慎重かつ早足で進んでいく。
進むにつれ天井は高く広がるものの、道幅は人が並んで通れるくらいには開けてきている。
「ハヤテっ!」
レインに呼ばれて躓いた刹那、髪を撫でるかのように何かが通過した。
顔を前に戻すと、少し先で淡い灯りが揺れた。同時に鼻をつく悪臭が漂い、顔をしかめる。
「フレア! トール!」
駆け寄った先で待っていたのは、無傷な姿のトールとフレア、そして――
「あの……どちら様ですか……?」
フレアの腰にガッシリとしがみつく、妖艶な雰囲気の女性だった。
「治療、不要か?」
「……っ!?」
トールが近寄ると、女性が涙目で後ずさった。
心配しての行動なんだろうが、気が動転しているところに無表情で近付かれれば、恐怖心を煽ってもおかしくないだろう。
「何があったんだ?」
「悲鳴を聞き付けて来たらマーマンに襲われてたこの人を見つけたんだけどよぉ」
「接触。刹那、木端微塵」
フレアの背に隠れている姿からは想像も出来なかった。
「木端微塵っつーか、正確には腐敗しちまったんだ。跡形もねぇくらいにな」
変色し、崩れた肉片の横には、血痕の付いた弓矢が転がっていた。
「さっき飛んできたのはこれか」
悪臭と襲撃の原因が分かり、安堵の息を洩らす。
ようやく落ち着きを取り戻したのだろう。フレアにくっついていた女性は服の泥を叩き落とし、腕を組んで立ち上がった。
「たっ、助けてくれて感謝するわ!」
刺々しい態度に眉をひそめると、再度女性の姿を一瞥した。
先が折れた帽子を被っている。羽織っている黒いマントの中はフリルの付いたエプロンドレスを着ていた。
背中まで流れる艶やかな髪が、一房胸にかかり、女性的魅力を主張する。
彼女の容姿を一言で纏めるならば、御伽噺に出てくる魔女そのものだ。
「あなたが常闇の魔女ですか?」
おそるおそる尋ねるレインに対し、女性は豊満な胸を張った。
「ええ! そうよ!」
胸元が涼しい作りになっているため、目のやり場に困る。
「私こそが世界一魔法知識を誇る天才、常闇の魔女こと、カース・ルナ・トリートリックよ!」
凛とした態度で高らかに叫んだからだろう。複数の足音が近付いてくる。
「あんま騒ぐんじゃねぇよ」
めんどくさそうにぼやき、フレアが前へ出た。手には今朝届けられた短槍を握っている。
何かが煌めいた瞬間、フレアが槍を振った。
槍で打ち落とされた矢が地面に転がる。
「こりゃ牽制なんて甘っちょろいもんじゃねぇな」
以前トールに向けられたものよりも、どす黒い怨嗟に色付いた殺気が肌を刺す。
「…………あっ」
腰が抜けてしまったのだろう。レインがへなへなとへたり込んでしまう。
その顔は蒼白く、身体は不安や恐怖で震えきっている。
「ちっ、来やがったな」
舌打ちを済ませ、再度短槍を構えるフレアと、背中の留め金から戦鎚を外すトール。
俺も念のために腰元から短剣を抜いた。
目を凝らして視認できる影は三体。
どれも立派なヒレを付け、二足で大地を踏みしめ、手には武器を携えている。
シルエットからでも異形であることがわかる。
尾ビレが威嚇するかのようにバシンと音を立てて地を叩く。
三体の武器はそれぞれ剣、槍、弓矢のようだ。
「ハヤテ」
敵に聞こえないようにフレアが小声で呼び止める。
「俺とトールの二人で暴れっから、てめぇはレインと魔女を守ることだけに集中しろ」
あくまで補助を求めるフレアに対し、俺は落胆した。
「……風よ」
「んなっ!?」
「我の音を攫い、疾風の如き速さを与えよ」
風を纏い、加護として無音と高速の効果を付与する。
「二対三を黙って見てられるわけ――」
勢い良くマーマンの方へと駆け出すと、リーチの一番長い槍の穂先を向けられる――が、俺は怯むことなく一直線に進んだ。
「ないだろ!」
軽快に地を跳ねると、勢い良く横の壁面を蹴った。
ふわりと羽根のように浮いた身体は前衛のマーマンを越える。
俺の身軽さは予想していなかったのだろう。マーマンの反応が遅れた隙に後衛である弓持ちへと迫る。
弓を構えようと矢を携えたようだが、すでに手の届く距離まで踏み込んでいた。
足で弓矢ごと腕を蹴り上げる。
俺の脚力ではさすがに弓を放すまではいかないようだが、姿勢が崩れれば射ることは困難だ。
弓矢は手放し、俺の頭上で両手を組むのが視界に入る。
降り下ろされる前に素早く下がり、身を少し屈めた。
組んだ拳が、地面を穿つ。
マーマンは筋力もそれなりにあるらしく、トールの持つ鎚で殴ったかのように、小さなクレーターが出来上がっている。
腕を下ろしたことで胴体は僅かに無防備な部分がある。
――その一瞬の隙を狙う。
フォルはマーマンが全身を硬い鱗で覆っていると言ったが真実は異なる。
マーマンに鱗が生えているのは身体の背面や腕、足など。腹部や胸部は柔らかな肉のままなのだ。
水掻きが付いた手を踏みつけ、短剣をマーマンの胸部に突き刺す。
痛みに悶え苦しむ姿に目もくれず、力任せに深々とねじ込む。
骨の折れる音、荒げる呼吸、滴り落ちる鮮血。
「あ、ああ…………」
身震いするほどの興奮が沸き上がると同時に、殺してでも生きようとする自身の愚かしさに蝕まれる。
心を支配するのは低俗で薄汚い、穢れきった欲望のみ。
これは他者を蹴飛ばしてでも生きるという、覚悟無き人間が越えてはいけない一線なのだ。
「あは」
命を奪うことに抵抗があるのか、俺の意識は本能と言う名の獣に侵食されていた。
無意識に零れたのはこの場にそぐわぬ快楽の笑みだ。
意識はズブズブと引きずられるかのように、闇に呑み込まれていく。
短剣を引き抜くとマーマンは脱力し、その場で崩れ落ちた。
さっきまで殺意に満ち溢れていた目は、すでに白色に濁っている。
その光景に胸が抉られた。
視界に靄がかかり、まるで白昼夢に迷い込んだようだ。
『――ハヤテ』
耳元で囁くように、懐かしの声が聞こえた。
「メイ、ジー……?」
血に塗れた醜態をさらしたくないのに、身体が言うことを聞いてくれない。
『大丈夫。落ち着いて』
親友の声のおかげで、俺は理性を取り戻した。
『生命はやがて旅を終える。それが遅いか早いかの差だよ』
「でも、おれは……」
『今はわからなくてもいい。いつかわかるはずだから』
メイジーは、いつも優しい。
それに俺と同い年のくせに達観していて、妙に聡かった。
『辛いなら、耳を塞ぎ、目を閉じて?』
「そんなことできるわけ……」
『ほら、見えないし聞こえない』
メイジーは甘い甘い毒を吐く。
『君はなんにも悪くない』
俺の弱き心を眠らせるように、甘い毒が巡っている。
『……だから、戦わなくてもよかったんだ』
やけに現実的な一言が、俺を現実へと追い出した。
ずっと渦巻いていた死の獣が眠り、感情はすっかり冷めていた。
「よぉーっし! よくやったじゃねぇかハヤテ!」
他の二体も倒したのだろう。皆が回りに集まっていた。
だが、レインは戦いたままカースにしがみついている。
何も見ないように、ぎゅっと目を瞑って。
「んじゃ、さっさと進んじまうかぁ!」
「同意」
平然と進む二人の背を前に、カースはポツリと呟いた。
「あの二人は、私と同じ匂いがするわね」
その言葉は波乱の幕開けを意味しているようだった。




