『風の旅立ち4』
ついに旅立ちの日がやってきた。
フレアは荷物を取りに行くため、一度宿に戻ったようだ。
「さて、と」
十何年も過ごしてきた家だ。一生帰って来れないわけではないが、別れは惜しい。
想い出に浸るため、部屋を一つ一つ回ってみることにした。
まずは昨日俺が寝ていたリーフェルの部屋だ。
ライラックの甘く柔らかな香りが広がっている。
編み物に凝っていたため、部屋の至るところにレースの飾りを付けていた。
女の子らしいファンシーな印象だ。
ふと、花言葉に関する本が目につき、いつの間にか手を伸ばしていた。
栞が挟まれたページを開くと、リーフェルの名前であるライラックについて書かれていた。
ナチュレ国の命名は花の名前を入れるのが特徴だったっけ。
「……そういえば、リーフェルはソナーレのことをリラって呼んでたな」
リラはライラックの別名だと書かれていた。
「お揃いってなーんか気に食わないな」
俺もリーフェルとお揃いのマフラーは着けているが、やはり呼名となると特別感が増す気がして気に入らない。
「今度会ったら当て付けにリラって呼んでやろうかな……」
ちょっとくらい意地悪してもいいと思うんだよな。リーフェルと最後に一緒だったのはアイツだし。
マフラーにそっと触れ、物思いに耽る。
「次、行くか」
隣は俺の部屋だ。ドアを開けると、レインと目が合った。
「あ」
レインは床に落ちていた布の鎧に手を伸ばし、そのままの姿勢で固まっていた。
鎧を着ていないということは、ようするに下着姿ということで――
「きゃっ!?」
すぐに胸元を手にした布の鎧で隠す。
俺はといえば、咄嗟に後ろを向いて声を大にして謝罪の言葉を叫んでいた。
「ごめん! 見てない――わけではないけど! 本当に悪いと思ってる!!」
水色の水玉模様が頭から離れない。いや、なんかイメージ通りではあるけれど!
いや、イメージ通りってなんだよ!
確かに水玉模様って雨っぽくてレインにぴったりなデザインで――て、だからそれは考えちゃダメで!
「何事?」
俺の叫び声を聞き付けたのか、トールがソナーレの部屋から顔を覗かせていた。
ソナーレの部屋はリーフェルの向かい側であり、微妙にレインが見える位置だった。
「いやっ、そのっ、ええっとっ」
どうにか隠そうと激しく動揺している俺に対し、トールは開け放たれたドアの向こうを平然と見ていた。
「…………着痩せ、か」
どこの部位についての感想か一発でわかってしまったが、耳を塞いで聞かなかった振りをする。
まぁ、確かにレインって思ったよりあるんだよな……む……
「いい加減にしてくださいっ!!」
破廉恥な思考がその一言で一掃される。
ドアを閉めた後、向こう側から悶え転がる声と音が聞こえた。
見なかったことにした方がお互いのためだな。うん。
「トール、ちょうど良かった。少し入ってもいいか?」
「了承」
ソナーレの部屋には机の上に山積みとなった楽譜と、様々な楽器が置かれていた。
ベッドにも楽器は散らばっており、半分ほどのスペースしか空いていない。
ソナーレがわざわざ宿屋に泊まった理由が明らかになった気がした。
「あれ? 寝巻きも和服なのか?」
「浴衣、だ」
浴衣は二つのパーツで構成された袴と違い、一枚の布を身体に巻いただけのような簡素な作りだった。
薄い生地の浴衣という服は通気性が良さそうだ。羽織袴と違って柄が無いため、なんとなく質素な感じがする。
羽織袴はシワになら無いよう、壁に掛けてあった。
「うわっ」
窓から風が舞い込み、一枚の楽譜が手の中に降ってくる。
「……あれ? これって」
曲名は『フロックス』。端には俺への宛名書きと、ライラックの絵があった。
「それ、ソナーレがお前のために書いた曲じゃねぇか?」
フレアは帰ってきて早々に荷物を下ろした。のびのびと大きくあくびをし、俺の手から楽譜を引ったくる。
「あ、おい!」
「ふぅん……こんくれぇなら、俺でもできっかな……」
楽器を物色していたようだが、どうやら望みの品は無さそうだ。
「こっちにはあったような気がすんだよなぁ」
不意にメイジーの部屋へとフレアが足を踏み入れた。
メイジーの部屋は基本的に殺風景だ。最低限の家具と、大事にしていた宝物入れが机に乗っている程度なのだ。
この部屋はあくまで宿泊用。近くに自分の家があったんだから当然のことだ。
フレアは躊躇なく宝物入れを開き、ハーモニカを取り出した。
「んじゃ、いっちょやってみっかぁ!」
「お前、勝手にメイジーの持ち物漁ってたのかよ……」
「こんなもんあったら中身が気になるだろ?」
まぁ、宝物とはいえ中身はオモチャばかりだからいいか?
いや、親友の持ち物を荒らされるのは良くないんだが、なんとなく……今なら許せる気がしていた。
それに俺はソナーレの残した曲が気になっていた。曲名の『フロックス』はメイジーが俺にピッタリだと言った花だからだ。
フレアはハーモニカに口をつけると、慣れた様子で吹き始めた。
懐かしくも物悲しい旋律。それは初めて聴いた曲ではなかった。
「これ……もしかして……」
ポロリと、涙が零れた。
ローブのフードと、いつも見ていた赤い頭巾が重なる。
おそらく音楽として成立させるために編曲が施されているが、曲調自体は全く変わってない。
間違いなくリーフェルの踊りを見るために、メイジーが適当に吹いていた音と同じだ。
「フレアが演奏してるの、初めて見ました」
レインが俺と並ぶようにして立っていた。
ゆっくりゆっくりと迫る音の波が、俺らのことを飲み込んでいく。
瞬きの合間に、部屋の景色は昔へと遡っていた。
視界に映るのはリーフェルが踊る姿と、メイジーとソナーレが演奏する姿だ。
ゆったりと、物腰柔らかい動き。踊り慣れているため、静かで落ち着いている。
全身を使って俺らを楽しませようと舞い踊り、それに応えるようにメイジーが懸命にハーモニカを奏でる。
ソナーレはそんなメイジーの演奏をより良く演出するため、竪琴でメロディを安定させていた。
夢のような光景が目の前に広がり、すっかり惚けていた。
「……そういえば、昨日はルピナスデーでしたね」
レインが呟き、部屋に飾られたカレンダーを見る。
カレンダーは、数年前から変わっていない。リーフェルを見送ったあの日で止まったままだ。
「俺の中の時間、まだ止まったままなんだ……」
今ならソナーレが俺を心配し、様子を見に来ていたのだとわかる。
一体、俺は何年の間、この狭い世界に閉じ籠っていたんだろう。
演奏という名の夢の時間は、慈愛のような切ない音と共に終わりを告げた。
「待って!!」
幼き日のメイジーの手を思わず掴んだが、すぐにその姿が幻であり、フレアだったことに気付く。
フレアはやんわりとその手をほどくが、表情は混迷そのものだった。
きっと今の俺の顔は相当ひどいのだろう。
涙は前が見えないくらい止めどなく流れ続けている。
人混みの中、繋いでいた手が離された子供のような気分だった。
トールが俺の情けない顔をハンカチで拭いてくれた。
「ソナーレのヤツ、ルピナスデーにプレゼントするっつって張り切ってやがってさ」
「ソナーレが……?」
「結局、本人の前で演奏すんのははばかれたらしーけどよ」
フレアの乾いた笑みは、リーフェルの死後に俺とソナーレの間に作られた、大きな溝を表していた。
せっかく家族になってくれると言い出してくれていたのに、俺は過去の中で生きて、その手を払いのけてしまったから……
「ソナーレ…………」
今さら後悔しても遅いとは思う。
失った時間は決して取り戻せない。
ふと、楽譜端に描かれたライラックを思い出す。
ライラックの花言葉、それは――
「まだ間に合うかもしれない!」
「あっ! おいっ!?」
フレアの手から楽譜を奪い、靴も履かずに、急いで宿屋へ向けて走り出す。
ところが、望みの相手は家の前に立っていた。
「元気そうじゃねぇか、ハヤテ。あんま走ると転ぶぞ?」
茶化すような口調はいつもと変わらないはずなのに、ソナーレは浮かない顔をしていた。肩にはナップサックが下げられている。
「……また、旅に出るのか?」
「お前さんの様子も見たし、子守りはフレア達に任せようかと思ってね」
「そんな顔して、一体どこに行くんってんだよっ!!」
「言う必要はないだろう?」
即答され、喉から出かかった言葉を飲み込む。
「お前さんには俺が居なくとも大丈夫だ」
「違っ!!」
拳を強く握り締め、声を張り上げるつもりが、嗚咽のせいで声が弱々しくなってしまう。
「ちがっ、た……っ!」
楽譜をソナーレに見えるように突き出す。
袖で涙を拭い、大きく息を吸い込む。
「俺! なんにも知らなかったんだ! お前がリーフェルとの約束を今でも守ってるなんて、俺のために、二人との思い出を大切にしてくれてたなんて!」
興奮しているせいで、喉が、胸が熱い。
でもそんなこと、今はどうだっていい!
「俺のことを心配してくれてたなんて、知らなかったっ!!」
今は少しでも俺のこの想いを、懺悔をソナーレに伝えたい。
「名前の横に、わざわざライラックの花を描いてくれただろ?」
ライラックの花言葉は友情と思い出。つまりこの楽譜が、大切な人に贈り物を送るルピナスデーのために作られたということは……
「お前は友達だと思ってくれてたのに、気付かなくてくてごめん」
ソナーレは胸を押さえながら俯いた。
「……お前さんは友達じゃない」
自分の想いを、願いを抑え込み、絞り出すように続ける。
「渡せていないものを、プレゼントとは呼ばんさ」
苦し気な声に胸が痛む。こんな風にしてしまったのは俺だ。
だから俺は、ソナーレを苦しめた罪を償う。
「ああ。もう友達じゃない」
フワリと、風が周囲で渦巻いていた。
まるで包み込むように、俺らを中心にして吹いている。
「リラは俺の家族だ」
自分が出来る最大限の笑顔を、ソナーレに向けた。
世界が潤んで不明瞭になる中、風は何かをさらっていくかのように空へと吹き抜けた。涙も吹き飛んでいく。
俺らは同時に空を見上げた。
「俺は、リラを許すから……リラも、俺を許してくれないか……?」
雲一つない、水にも似た澄んだ青の空。
俺らの罪を雪ぐかのようだ。
ソナーレは何も言わず、腰の留め金から竪琴を外し、弦を鳴らし始める。
演奏するのはソナーレが俺に作ってくれた『フロックス』だ。
わだかまりが消え、晴々とした表情で演奏している。同じ曲のはずなのに、不思議と爽やかな気分だ。
隣に座り、風に揺られながら耳を澄ませる。
「なぁ、ハヤテ。フロックスってどんな花か知ってるか?」
「知ってるも何も、そこに咲いてるけど」
近くに咲き誇るフロックスを指差す。
「ああやって小さい花が集っている様子を見ながら、リーフェルはなんて言ったと思う?」
「さあ? リーフェルのことだから、夢見がちなことだとは思うけど」
「ハハハハッ! 違いない!」
久しぶりにソナーレが声を出して笑い、驚いて振り返る。
「リーフェルは、あの小さな花一つ一つが希望で、幾つも集まってるから、『あなたの望みを受けます』なんて花言葉になったんじゃない? って言ったのさ」
「一つ一つが希望か……」
「そう。お前さんにお似合いだとよ」
あなたの望みを受けますってのは言い換えるとすれば、あなたの望みを叶えます……
希望が集まり望みを叶えるのなら、確かに俺の魔法の本質に近いのかもしれない。
「メイジーも俺のことをフロックスみたいって言ったんだよな……」
短剣を使い、フロックスの花を一輪摘む。
マジマジと見つめていると、ソナーレが隣で座り込んだ。
「メイジーならフロックの複数系……造語かもしれないな……」
「フロック?」
「思いがけない幸運。それが積み重なるってことさ」
どちらの解釈にせよ、俺にとっては嬉しくてたまらなかった。『フロックス』は、俺のために三人が贈ってくれたプレゼントなのだから。
その時、俺にしては珍しく閃いたことがあった。
「リラ」
「なんだ?」
リーフェルと同じ呼び方でも、ソナーレは……リラは特に何も言わなかった。
きっとリラは、本来琴座のことだと思う。でもリラはホロウリィの出身を隠すためじゃなく、友情のためにその名を隠したんだろうな。
本当に大事な友人以外には呼ばれたくなくて……気持ちはよくわかるけれど、俺はむしろ三人からの贈り物を普段から使いたい。
だから俺はこの瞬間決めた。
「俺が育ったのはこのナチュレ国なんだから、ハヤテって名乗るのはやめる」
今の俺にとって、風の加護を元にリーフェルが付けてくれた『ハヤテ』の名前と同じくらい、この名前が愛おしくて仕方がない。
だから俺は、新たな名前でこの地を旅立つ。
「ハヤテ・フロックス。これからはそう名乗るよ」