番外編 過去とユインと雷と
時系列としては、ユインをエミス村に預ける前の頃です。
ユインは今日も今日とて天使である。
いや、むしろこの世界にありとある天使の像なんかはユインをモチーフにしたとしか思えないので、天使という例えではユインの可愛さを例えきれていないかもしれない。
ということは、何だ?
「ユインは天使よりも上の存在、つまり、神だというのか……!?」
と、俺が真面目に考察していれば、ミゼットが全てを諦めきったような顔でハァとため息をつく。
「エル様は、今日も今日とて重症ですね」
「ん? 今の言葉のどこがだ? まぁ、ユインの為なら重症でも別に構わない——というか、重症どんとこい! な気分だけどな」
「そういうところですよ……」
ミゼットがまたため息をつくものだから、幸せが逃げるぞ、と言えば睨まれた。
俺のせいってか? ……うん、まぁ俺のせいだろうな。
「でも、エル様って昔からこんな風でしたっけ」
「ん?」
ふと言われた言葉に首をかしげる。
ミゼットは視線を左上に上げて、昔は違いましたよね、と繰り返した。
「昔って言うほど、俺は歳とってないぞ」
「まぁ、そうですけれど。いえ、でもほんの数年前の時点では、ここまでではなかったように記憶しているのですが」
「んー……? そうだったか?」
「ええ。いつからそこまで重症になったんです?」
言われてみて、俺も過去を振り返ってみる。
ユインを初めて見たとき。
うん、普通に一目惚れして。
ユインが初めて俺を呼んだとき。
普通に喜んで。
ユインが俺に初めて……。
「ああ!」
「いきなり何です?」
「いやミゼット、お前が言いたいことが分かった。あの時のことか」
「……はい?」
「確かになー、言われてみればあの時までは俺、普通だったもんな」
「いえ、幾分かましだったかもしれませんが、普通とは一言も」
「俺としたことが日々のユインの可愛さに気を取られて、今までを思い返さないでいるとは……!」
くそう、シスコン兄としては恥ずかしいばかりだ。
俺はキュッと拳を握りしめた。
「そう、あれは三年と二ヶ月ほど前の話……」
「えっここで回想始めるんですか!?」
ミゼットの焦ったような声がしたが、聞こえなかったことにした。
その年は、やたらと雷の日が多かった。
その日も朝から雨が降っていて、昼頃に雷が鳴り出した。
ユインとミゼットと俺は、窓に雨が当たる音を聞きながら、部屋の中にいた。
雷の音に、ユインの耳がピクンと跳ねる。
少し前は雷が鳴るだけで泣いていたけれど、ちょっとずつ克服しているらしい。可愛いなぁ。
なんて、そんなことを思っている余裕は……その時の俺にはなかった。
「どうするんだよ、これ……」
手元にあったのは、こっそり持ち出してきたこの屋敷の財政に関する資料だった。
ようやく字が読めるようになってきて、初めて見た時には絶望した。
別に経済だのをちゃんと学んだことはなかったが、それでも分かる程度にひどい。
税率が最低で五割、高いところじゃ八割五分ってどういうことだよ……!?
普通に考えて、これで領内の人々がやっていけるはずがない。
しかも、肝心の領主は不在だ。
それでもなんとかなっているのは、今の領主代理の手腕によるものが大きそうだ。
いい人材がいないこともない……のか?
いや、だけど一番上が腐ってちゃどうしようもないよな。
人材もどんどん他領に流れているようだし。
「どうしたらいい……!?」
思わず頭を抱える。と、後ろからぽんぽんと肩を叩かれた。
振り返れば、ユインがじっと俺を見上げていた。
「ん……? ユイン、どうかしたのか?」
「おにぃた、ガラガラやー?」
「え?」
今となっては本当に恥ずべきことなのだが、この頃の俺はユインを見ているのは好きだったのだが、会話はちょっと苦手だった。
解読がなかなか難しかったのと、色々と焦っていたのと。
うん、過去に戻れるなら、もちろん全力で殴って「そこ代われ!」って言ってやるのだが、それはさておき。
「ガラガラ? やーって……?」
「ユイン様は、エル様が雷がお嫌なのかと聞いているのでは?」
「……あ、なるほど!」
雷というとゴロゴロのイメージだったが、まぁ異世界だ、そのくらいの擬音の変化はあってしかるべきだった。
「いやっていうか、まぁ、嫌いだな」
「とーなの?」
「へぇ、意外です」
「前に色々あったからな……」
一度、夏に停電になった時に、冷蔵庫の中身が全部死滅したことがあるのだ。
アイスを買い込んでいたものだから、ドロドロデロデロになった冷凍庫の惨状は未だに忘れられないくらいにはトラウマだ。
あれ、掃除めちゃくちゃ大変だったんだよ……。
「おにぃた、ガラガラこあい?」
「こあ……いや、怖くはないよ、別に」
「ほんと?」
「本当、本当。えっと、うん、ユインが一緒にいるからね」
「ほんと!」
その場しのぎの冗談に、嬉しそうにえへへと笑うユインをぎゅっと抱きしめる。
高い声でキャッキャという様は、それはもう可愛らしい。
しかし、和みながらも頭の隅では領内のことを考えていた。
俺には味方が、仲間がいなさすぎる。
さて、どうやったら作れるものか……。
だから、その後のユインの言葉も話半分に聞いていた。
「ならね、ならね、もしガラガラなったらね、ユインはおにぃたといっしょにいてあげゆ! こあくないよに!」
「ああうん、ありがとう」
……大事なことなのでもう一回言っておくが、この時の俺には何らかの処罰が下されるべきだと思う。切に。
それから数日後のこと。
その日はあの会話をしてから初めて、雷が鳴っていた。
と言っても、とうに暗くなった夜のことだったし、俺はユインとの会話をすっかり忘れていたので、子供らしく寝るところだった。
のだが。
寝られなかったのは、廊下からパタパタ、パタパタと足音が聞こえてきたからだ。
侵入者? 最初はそう思ったが、それにしては足音が軽すぎる。
どんなにひそめたって、武器を持った男のものなら、もっと重いはずだ。
まさか、と思った。
信じてないが、異世界だから、もしかすると……。
幽霊?
想像して体がビクゥッと跳ねた。
えっ、いるのか幽霊。そういえば、ミゼットがそんな話を……いや、ないない。
ないない、ないはず……だよな?
俺のそんな思いをよそに、足音は何かを探すようにパタパタ、パタパタと彷徨い歩いている。
俺は息をひそめて、足音が去るのを待っていた。
なのに、足音はむしろ、明確な意思を持って俺の部屋に近づき始めた。
パタパタ、パタパタ。
来るな、来るなと思っているのに——とうとう足音は俺の部屋の前で止まり、あろうことか、ドアをノックした。
コンコン。
返事はしない。というより、出来そうもなかった。
扉がギィと音を立てて開く。
油をちゃんと挿しておけよとそんなどうでもいいことを考えて現実逃避する。
扉が完全に開かれて、そこにいたのは、真っ白な服を着た、髪の長い女——
「おにぃた?」
などではなく、ユインだった。
「ユイン? ユインか? なんでここに……」
「おにぃた!」
バッと飛びかかってくるのに、思わずうわっと悲鳴が出た。
こっちはさっきまで幽霊かと思ってビクビクしてた身なんだ、驚かせないでほしい。
何か声をかけようとして……俺は、ユインの体が震えていることに気がついた。
考えてみれば当然だった。
もうすでに明かりも消された暗い廊下を、ほんの三歳ばかりの子供が、雷の鳴る中、一人で歩いてきたのだ。怖くないはずがない。
ユイン、大丈夫か、そう聞こうとした。
が、その前に俺にしがみついていたユインがバッと顔を上げた。
「おにぃた、だいじょぶ!?」
「だいじょ……え?」
「こあくない!?」
いやいや、怖いのはむしろユインだろうと思ったのだが。
現に体はいまだ震えっぱなしだし、声だって……。
「おにぃた、だいじょぶだかあね! ユインがいるから、こあくないよ!」
「別に、怖くは……あ」
そこでようやく、前の会話を思い出した。
そうか。そういうことか。
俺の冗談を信じて、ユインはわざわざ怖いのを我慢してまで、俺のところまで来てくれたのか。
なんて、なんてもう……!
「ありがとうな、ユイン」
「ん! あのね、おにぃたがこあいときはユインがいてあげるかあね!」
「……うん」
俺はその時。決意を新たにした。
ニッコリと笑っているその顔。
震えはもう止まっていた。
守りたい、この子を守りたいと、改めて思う。
仲間がいない? 味方がいない?
いや、最高の味方はすでにここにいるじゃないか。
「ユイン……お兄ちゃんはユインのこと大好きだけど、ユインは?」
「ユインもだいしゅき! えへへ!」
「そっか」
俺は、雷の鳴る中、その音からユインを守るようにギュッと抱きしめた。
「へぇ、なるほど、そんなことが……」
「ミゼットは知らなかったのか?」
「知りませんよ。業務時間外じゃないですか」
このマニュマル人間め……!
言っとくけど、その労働基準決めたの俺だからな!?
本来なら、ずっと業務時間だからな!?
俺が内心そんなことを思っているのを知ってか知らずか、けれど、とミゼットは続けた。
「けれど、これでようやく理由が分かりました」
「えーっと何の?」
「エル様が、雷が鳴るたびに満面の笑みになる理由ですよ」
「……ああ」
まぁ、仕方ないだろ。
ユインはずっと約束を守って、雷の日には俺のもとに駆けつけてくれるんだから。
健気すぎて、可愛すぎるだろうが。
今日も外を見れば、真っ黒な雲が広がっている。
雷は鳴り出さないだろうか。
そうしたら、あの軽やかな足音が、扉を開けて飛び込んでくるのに——あ。
「ミゼット、今、雷の音しなかったか?」
「え?」
「さっき……、ほらまた!」
「ああ、本当ですね」
俺は廊下からの音に耳をすませた。
もうすぐ聞こえてくるはずだ。
雷に混じって、パタパタという音が。
顔が綻んでいくのを、俺は感じていた。




