番外編「忠犬の瞳に映る冷たい月」
◇ノア視点
重厚なマホガニーの机の上に、何十枚もの書類が積み上げられている。
羽ペンが羊皮紙を走る擦過音だけが、静寂に包まれた執務室に規則正しく響いている。
私は部屋の隅にある革張りの長椅子に深く腰掛け、ただその音を聞きながら、机に向かう彼の姿を見つめ続けている。
窓から差し込む午後の光が、ヴィンセントのプラチナブロンドの髪を照らし、まるで細い銀糸の束のように輝かせている。
伏せられた長いまつ毛の奥にある青い瞳は、文字の羅列を冷徹に追跡し、国の行く末を左右する重要な決断を次々と下している。
彼が書類に署名をするたび、その洗練された指先の動きに見惚れてしまう。
王太子である私が処理すべき案件の多くを、今では彼が実質的に掌握し、采配を振るっている。
周囲の貴族たちは、私が公爵家の長男に実権を奪われていると影で囁いているらしい。
彼らは何もわかっていない。
私が自ら彼にすべてを委ね、この手綱を握らせているという事実を。
彼と出会う前の私の人生は、ただ単調で、色が抜け落ちたような世界であった。
王太子として生まれ、完璧なαとしての資質を当然のように備えていた。
学業、剣術、魔力の扱い、そのすべてにおいて誰にも後れを取ることはなく、周囲の称賛を一身に浴びていた。
しかし、心が満たされることは一度もなかった。
私に群がる者たちは皆、私の地位や力に惹かれているだけで、私という個の存在など見てはいなかった。
α特有の支配欲や闘争本能すらも、私にとってはひどく退屈なものに過ぎなかった。
何を手に入れても、心を揺さぶられることはない。
このまま、感情の波を知らぬまま、ただの完璧な王としての役割を演じ終えるのだと思っていた。
あの入学式の日、大講堂で彼を見つけるまでは。
数百人という生徒がひしめく中で、なぜか彼だけが私の視界に鮮烈に焼き付いた。
気配を消し、誰の目にも留まらないように最後列の柱の影に隠れていた一人の少年。
彼の身体からは、β特有の平坦で無臭に近い気配しか発せられていなかった。
しかし、私の本能だけが、その偽りの気配の奥底に隠された真実を嗅ぎ取っていた。
分厚い氷の下に閉じ込められた、甘く狂おしいほどの熱。
それは、私という存在の深い部分に空いていた穴を、暴力的なまでに満たしていく香りであった。
彼を視界に捉えた瞬間、私の世界は初めて強烈な色彩を帯びた。
彼を手に入れたい。
彼に触れたい。
彼のすべてを暴き出し、私だけのものにしたい。
これまで眠っていた本能が一気に目を覚まし、理性の堤防を簡単に食い破った。
しかし、彼は私を激しく拒絶した。
私が近づけば近づくほど、彼は氷のように冷たい視線で私を突き放した。
彼にとって、私は運命の相手ではなく、ただの脅威でしかなかったのだろう。
彼が他の者と親しげに話す姿を見た時、私の内側で何かがどす黒く濁り、暴走を始めた。
嫉妬というありふれた感情では到底説明のつかない、内臓を素手で掻き回されるような焦燥と怒り。
彼が私の手の届かない場所へ行ってしまうのではないかという恐怖が、私を完全に狂わせた。
夜会の場で彼が私を決定的に拒絶しようとした時、私はついに彼を力で奪い去った。
彼を王宮の最深部に閉じ込め、彼の匂いのついた布をかき集め、異常な巣を作り上げた。
Ωがαを求めて行う本能の行動を、αである私が無様に行っていた。
彼がいなければ息すらできないほど、私は彼に依存しきっていたのである。
巣の中で彼を組み敷いた時、私は彼が恐怖に泣き叫び、私に服従することを期待していた。
力でねじ伏せれば、彼を永遠に手元に置いておけると思っていた。
だが、彼は恐怖に屈することはなかった。
私の狂気を真っ向から受け止め、逆にそれを利用して私を支配してみせたのだ。
「私をこの檻から出しなさい」
冷え切った青い瞳で私を見下ろし、そう命じた彼の姿は、私にとっての救済そのものであった。
彼は私を見捨てず、私の狂気すらも手綱で縛り付けてくれるというのだ。
私がひざまずき、彼の足元にひれ伏した瞬間、私の魂は真の意味で安息を得た。
彼に支配されることの快感は、私がこれまで得てきたどんな勝利よりも甘美であった。
◆ ◆ ◆
「殿下。そろそろ休憩にしませんか」
静かな声が、私を過去の回想から引き戻す。
ヴィンセントが羽ペンを置き、凝り固まった肩を軽く回している。
私はすぐに立ち上がり、彼の背後に回る。
彼の肩に両手を置き、ゆっくりと揉みほぐしていく。
「お疲れ様。無理をしてはだめだ」
彼の耳元で囁くと、ヴィンセントは気持ちよさそうに目を閉じ、私の手に身を委ねる。
首元の襟がわずかに開き、白い肌が覗いている。
そこには、私が刻んだ番の印がくっきりと残っている。
その印を見るたびに、彼が私のものであるという事実が実感として胸を満たす。
私は彼に支配されているが、同時に彼を永遠に繋ぎ止めることに成功したのである。
私は彼の首筋に顔を寄せ、その甘い香りを深く肺に吸い込む。
「君の匂いは、いつでも私を狂わせる」
「あなたは、本当に私に甘えるのが上手になりましたね」
ヴィンセントは振り返ることなく、少しだけ皮肉めいた声で言う。
「君が私を甘やかしてくれるからだ。君が望むなら、私はどんな姿にでもなる」
彼の頬に唇を落とし、そのまま背中から彼を抱きしめる。
ヴィンセントは私の腕に自分の手を重ね、静かに息を吐き出す。
この冷たく美しい月のような彼を、私は永遠に守り抜く。
彼のためならば、この世界を焼き尽くすことすら容易い。
私の玉座は、彼の足元にこそ存在するのだから。




